第88話:「フェヒター」
第88話:「フェヒター」
エーアリヒは、忙しい人物だった。
ノルトハーフェン公国という一国の政務を摂政として執らなければならない上に、その裏で、公爵位の簒奪という陰謀を推し進めなければならない。
陰謀の中枢にいるフェヒター準男爵、執事のコンラートを集めた密談は、ヴィルヘルムの紹介とその役割を告げると、解散となった。
エーアリヒには、進めなければならない仕事がいくつもあったからだ。
どこの誰ともわからない、エーアリヒがどこかから連れてきたヴィルヘルムという人物をエドゥアルドの新たな監視役として、そして簒奪を目論む側の次の一手からエドゥアルドの目を逸らす囮役として利用する。
その作戦をフェヒター準男爵は喜び、納得はしたものの、しかし、密談を終えて部屋を出て歩くうちに、どうしても[手ぬるい]と思う気持ちが強くなっていった。
それも、狩りはじめの儀の後辺りから、フェヒターから見れば過度に慎重になっているように思える。
フェヒターは、自身が公爵の血筋を引く者だという、エーアリヒが描いただけなのかもしれない筋書きを、本心から信じ切っている。
そんなフェヒターからすると、本来であればノルトハーフェン公爵位とは自分のものであり、それを、エドゥアルドという未熟な小僧が所有しているということは、どうしても我慢のならないことだった。
(摂政殿は、慎重に過ぎる。……だが、まぁ、いいさ)
外に出たフェヒター準男爵はそこで立ち止まると、漆喰で白亜に塗り固められた公爵の城館、ヴァイスシュネーを見上げ、ニヤリと不敵な笑みを浮かべて見せる。
「オレのこの手で、あの小僧を始末してやればいいだけのことなのだからな」
そして、フェヒターは思わず声に出してそう呟いていた。
フェヒターにとって、物事は単純だった。
すべて、エドゥアルドという小僧が公爵位に居座っているのがいけないのだ。
あの小僧を倒しさえすれば、自分は、欲しかったもの、欲しいものをすべて手にすることができる。
フェヒターはそんな風に思いながら、公爵位の簒奪に執念を燃やしている。
フェヒターの生い立ちは、恵まれたものではなかった。
妾の子であるという理由で最初に生まれた実子であるにもかかわらず公爵位を継ぐことを許されず、ただ、準男爵という位と、いくらかの領地を与えられていただけのフェヒターの父親は無気力な人間だった。
毎日酒におぼれ、自身が継いでいたかもしれないだった公爵位を他人が有していることをまるで気にも留めた様子がなかった。
フェヒターの父親が関心を持ったのは、美酒、そして自身が安楽に過ごすことだけだった。
父親は、自身の領地の管理運営にも関心がなかったし、フェヒターにも関心がなかった。
美酒を手にするために領地から得られる収入の多くをつぎ込み、時には領地を切り売りして散財した。
母親はいたし、フェヒターのことを彼女なりに愛してくれてはいたが、下級貴族出身で大きな後ろ盾のない母親の立場は平民同然のもので、美酒にしか興味を示さない父親との夫婦仲も疎遠なもので、フェヒターにとって家族との楽しい思い出などないに等しい。
フェヒターは準男爵という、貴族の末席に連なる者として生を受けたが、その生い立ちは惨めなものだった。
父親からは愛されず、母親はフェヒターを愛してくれてはいたものの不遇で、フェヒターは鬱屈した日々を送った。
父親は日々の楽しみのために散財を続けた。
それは、フェヒターが成人して、準男爵の位と領地を引き継ぐころには、準男爵という名前だけが残り、継ぐべき領地はなにも残らないのではないかと、そうフェヒターの幼心に思わせるだけの浪費だった。
父親はフェヒターよりも酒を愛した。
酒のためにはいくらでも散財したが、フェヒターや、その母親のためにはなにもしようとはしなかった。
なぜ、自分はこのような目に遭うのか。
下級とはいえ貴族であるはずなのに、平民同然の、いや、それ以下の貧しい暮らしを送らなければならないのか。
その答えを、フェヒターはエドゥアルドへと求めた。
自身の父親が継いでいたかもしれない公爵位を、フェヒターのモノであったかもしれない公爵位を、ただ正妻の系統に生まれたからという理由だけで、なんの苦労もなく継承したエドゥアルドのことを、フェヒターは憎んだ。
エドゥアルドのことを憎み、いつか報復し、そしてその手から公爵位を奪い去ることを妄想し、フェヒターは自身の不遇をなぐさめた。
それは、虚しいことでもあった。
父親の浪費によってフェヒターは爵位を継いだとしてもなんの実力も持たないという状態になりつつあり、どれほど努力しても、エドゥアルドから公爵位を奪うことはできないだろうと思えたからだ。
だが、エーアリヒの出現により、フェヒターの人生は変わった。
エーアリヒはフェヒターを利用してノルトハーフェン公国をわがものにしようと目論み、フェヒターはその陰謀に乗ることで、自身の妄想を現実のものとしようと試みた。
フェヒターにとって、エーアリヒは恩人であり、救世主だった。
だが、本来であれば、フェヒターこそがこの国の正当な領主のはずなのだ。
いくらエーアリヒが恩人とはいえ、フェヒターは、その方針にすべて従うつもりはなかったし、エーアリヒのやり方は迂遠に過ぎるとしか思えない。
フェヒターは、エーアリヒの手助けにすがらず、自身の力でエドゥアルドから公爵位を奪い取りたかった。
「フェヒター様。例の者が、いつもの場所で待っております」
野心をその双眸に燃え滾らせているフェヒターに、彼がエーアリヒたちと密談する間外で待っていたごろつきたちの1人が近づいてきて、そう耳打ちをした。
そこには、数人のごろつきたちがたむろしていた。
便利な男たちだ。
金で雇われたかりそめの従者たちでしかなかったが、彼らはフェヒターのことを表面的には尊重してくれ、その指示に従い働く。
公爵位を簒奪するための貴重な手駒であるだけでなく、フェヒターの自尊心を満足させてくれる者たちでもあった。
「わかった。……すぐに行くとしよう」
ごろつきの報告を受け、再びニヤリと不敵な笑みを浮かべたフェヒターはそう言ってうなずくと、マントをひるがえし、ごろつきたちを引き連れてヴァイスシュネーを後にした。




