第87話:「次の一手:2」
第87話:「次の一手:2」
エーアリヒの言う、次の一手とは。
エーアリヒの言葉にフェヒターは居住まいを正して身を乗り出し、コンラートは執事としてすました態度をとりつつも、耳をそばだてる。
どうやら、エーアリヒの言う次の一手は、コンラートでさえ初耳である様子だった。
「入りなさい」
2人からの注目を集めたエーアリヒだったが、彼は言葉少なに、部屋の外に向かってそう穏やかな声で言う。
すると、ほどなくして、廊下ではなく、エーアリヒの執務室へとつながる扉が開き、1人の男性が姿をあらわした。
オールバックにした濃い茶色の髪に、灰色の瞳。
その口元には柔和な笑みが浮かんでいるが、底知れない、不気味な印象もある。
ハンサムな優男だった。
「エーアリヒ閣下以外には、お初にお目にかかります」
先に部屋にいた3人の人間たちからの視線を集めたその優男は、柔和な笑みを浮かべたまま、優雅で芝居がかった仕草で一礼をして見せた。
「私はヴィルヘルム・プロフェートと申します。以後、お見知りおきを」
そんな優男、ヴィルヘルムのことを、フェヒターもコンラートも怪訝そうな視線で見ている。
この場に呼び出されたということは、エーアリヒはノルトハーフェン公爵位を簒奪するための次なる一手のためにこのヴィルヘルムという男を役立てるつもりでいるということだったが、いったいどんな風に役立てるのか、少しも見当がつかなかった。
というのも、この、ヴィルヘルムという優男は、まったく無名の人物だったからだ。
タウゼント帝国の貴族に多い、フォン、や、ツー、といった文言が入らないためにヴィルヘルムはおそらくは平民だ。
だから、フェヒターもコンラートも、ヴィルヘルムの出自について予想すら立てることができなかったし、どんな能力を備えた人物なのかも想像がつかなかった。
「旦那様。失礼ではございますが、この者、いかように用立てるおつもりで? 」
一礼を終え、柔和な笑みを浮かべたままたたずんでいるヴィルヘルムと、彼を部屋に呼び込んだまま沈黙しているエーアリヒとの間で視線を行ったり来たりさせていたコンラートが、少ししてからたずねにくそうにエーアリヒに問いかける。
「この者を、エドゥアルド殿下の家庭教師としてつける」
エーアリヒはそう言ってコンラートの質問に答えたが、その答えを聞いたコンラートもフェヒターも、怪訝そうな顔をするだけだった。
エドゥアルドの家庭教師にするということは伝わってはいたものの、そんなことをしてどうするのか、どんな益があるのか、それがつかみかねたからだ。
そもそも、エーアリヒを中心とする策謀の存在に気がついているエドゥアルドが、エーアリヒの息のかかっている人物を受け入れるとも、到底思えない。
なにしろ、エドゥアルドはすでに、2度も暗殺の危機を乗り越えた後なのだ。
当然、より警戒を強めているだろうし、これまでもエドゥアルドは家庭教師などをつけることなく独学を貫いてきているのだから、今さらヴィルヘルムを家庭教師として受け入れるとは想像しづらい。
しかも、ヴィルヘルムは素性のわからない、コンラートやフェヒターにさえ得体の知れない人物なのだ。
エーアリヒの摂政という公的な立場を利用して無理やりねじ込むことは可能かもしれなかったが、エドゥアルドはヴィルヘルムのことを警戒し、決して気を許すことはないだろう。
「むろん、家庭教師なのだから、この者には、エドゥアルド殿下の教育を行ってもらう」
しかし、エーアリヒはついさっき述べたことを、言葉を変えてくり返しただけだった。
フェヒターはもちろん、コンラートでさえ、エーアリヒの考えを理解しかね、2人は必死に想像を巡らせる。
「ああ、なるほど。……あの小僧めの監視と、目くらまし、でございますな? 」
やがて、コンラートはエーアリヒの考えを自分なりに解釈して理解し、そう、納得したような声を発しながらうなずいた。
「監視は、わかるが。……目くらまし? 」
「それは、こういうことでございます」
やはり意味がわからない、と言いたげに怪訝そうにしているフェヒターに、コンラートは少し得意そうに説明する。
「エドゥアルド、あの小僧めは今、こちらの動きを強く警戒していることでございましょう。そこへ、あからさまにこちらの息のかかった者が新たに送り込まれてくれば、小僧めはどう思うか。この者の存在を強く警戒し、意識し、それ以外のことには思いもよらぬ、そういう状態となるでしょう」
「なるほど、そういうことか! 」
コンラートの説明を理解したフェヒターは、ニヤリと不敵に笑みを浮かべ、自身の膝を嬉しそうに手の平で叩いた。
「小僧がこの者に気をとられている間に、さらなる策をしかけようと。この者を囮とするわけですな? さっすが、摂政殿。お考えが深い! 」
エーアリヒは無言のまま、静かにコーヒーを口にしていただけだった。
だが、その沈黙は、コンラートとフェヒターの考えを肯定しているものであると、2人はそう思えた。
やがて、エーアリヒは飲み終わって空になったカップをソーサーの上に置くと、ヴィルヘルム、次いでコンラート、そしてフェヒターへと順番に視線を送り、落ち着いた口調で告げる。
「今後も、ことは慎重に、じっくりと進める。細かな指示はまた伝える。……が、フェヒター準男爵。くれぐれも、軽挙は起こさぬように」
「フン。……わかっておりますとも、摂政殿」
エーアリヒの言葉に、ヴィルヘルムもコンラートも恭しく一礼したが、名指しで念を押されたフェヒターだけはやや不服そうに顔をしかめ、肩をすくめてみせた。
※作者捕捉
熊吉調べだと、[フォン]や[ツー]は、「~の」といった意味で、これが入っていると[~の○○]といった感じの名前になるそうです(大体、~家の○○、というニュアンスになるようです)。
フォン、は、比較的古くから貴族であった者、あるいはその末裔、ツーは、比較的新しくに貴族となった者、あるいはその末裔に多いとのことで、作中においては、古くからの貴族・タウゼント帝国の皇帝直参の諸侯とその末裔にはフォンが多く、新参(といっても、タウゼント帝国の歴史は長いので仕え始めてから数百年以上とかそういう家もザラという設定ですが)の貴族や各諸侯が召し抱えている陪臣などにはツーが多い、というような使い分けをしています。




