第85話:「処分」
第85話:「処分」
暗殺者のナイフには、やはり、毒がぬられていた。
毒を受けると徐々に全身がマヒし、やがて心臓までもが停止する猛毒で、エドゥアルドをかばってナイフを受けたミヒャエル少尉は、かなり危険な状態だった。
彼が受けた傷が深かったことが、かえって良い方向に働いた。
傷口からあふれ出した大量の血液が毒を洗い流し、結果として毒の効果を薄め、ミヒャエル少尉の命を救ったのだ。
マーリアの懸命な応急処置も大きかった。
マーリアはミヒャエルの全身に毒が回らぬよう、腕をきつく縛って血流を遮りつつ、大量の水でミヒャエルの傷口を洗い流し、それから本格的な止血に入った。
マーリアの行った止血は、丁寧で慎重なものだった。
毒を洗い流し終えた後は、止血をしつつも少しずつ血を流すことでミヒャエルの腕が壊死することを防ぎ、傷口を素早く縫合して、完全に止血することに成功した。
その間に、ゲオルクが馬車を走らせ、シュペルリング・ヴィラから最寄りの大きな街であるポリティークシュタットまで外傷の治療を得意とする医師と毒などの薬物に詳しい医師を呼び寄せ、シュペルリング・ヴィラまで連れて来てミヒャエルの治療をさせた。
ミヒャエルは毒の影響で意識が混濁し、高熱を発して一時は生死の境をさまよったが、適切な応急処置と専門の意志の診療によって辛うじて持ち直し、一命をとりとめた。
医師の診察によると、傷口が深く骨にまで達していたため、場合によっては左腕に後遺症が残るかもしれないということだったが、それも回復する可能性があり、うまくすれば何事もなかったかのように暮らせるようになるだろう、ということだった。
エドゥアルドの命を救った恩人が、一命をとりとめ、回復する見込みがある。
そのことに、エドゥアルドはもちろん、シュペルリング・ヴィラの全員がほっと安堵した。
そして、緊急の課題が片づくと、当然、この暗殺未遂事件は大問題へと発展した。
暗殺者が自ら[始末]をつけたことで、エドゥアルドを暗殺するように命じた者が誰か、その背後関係などを追及する術は失われてしまったが、エドゥアルドを警護するために派遣されてきたはずの護衛の兵士たちの中に暗殺者がまぎれていたという事実は動かしがたい。
直接的には、兵士たちを統率しているペーターに責任がある。
そして、警護の兵士たちを選び、エドゥアルドのもとへと派遣したエーアリヒ準伯爵にも、責任は及ぶはずだった。
ペーターはエドゥアルドに今回の事態を招いたことを陳謝し、辞表を提出し、責任の所在を明らかとするために自身を罰するようにエドゥアルドに申し出た。
エーアリヒもまた、兵士たちの中に暗殺者が紛れ込んでいたことに気づかなかったことを自身の罪とし、処罰されることをエドゥアルドに申し出た。
しかし、エドゥアルドは、ペーターはもちろん、エーアリヒのことも、処罰しなかった。
残された私物などから暗殺者の身辺をシャルロッテに調査させてみたものの、ペーターにもエーアリヒにもつながる証拠をなにも発見することができなかったからだ。
暗殺者に、エーアリヒを害するように命じた命令書でもあれば、エドゥアルドは厳正に処罰を下すことができただろう。
だが、暗殺者の身辺からはそれらしきものはなにも発見することができなかった。
つまり、暗殺者が、エドゥアルドへの個人的な恨みなどにより、突発的に犯行に及んだかもしれないという見方ができるのだ。
ペーターにもエーアリヒにも、そのような人物をエドゥアルドに近づけたという、監督者としての責任があるのは明らかだったが、具体的に暗殺を命じたとか、それを支援し、補助したという証拠がなにもない以上、それ以上の罪を問うことはできない。
加えて、ペーターについては、副隊長のアーベル中尉、そして数日間寝込んだあとようやく意識を回復したミヒャエル少尉、それから中隊に所属する兵士たちの連名で、処分を軽くするようにという嘆願がよせられた。
いつも飲酒していて赤ら顔であることが多く、ふとっちょのペーターだったが、彼は意外にも部下からは慕われているようだった。
エーアリヒについては、これまでと変わらない。
公国の摂政として不足なく任務をこなしている以上、具体的な証拠もないまま、彼を暗殺未遂の罪に連坐させて処罰することはできなかった。
ちなみに、シャルロッテと戦い、結果としてシャルロッテがエドゥアルドの身を守ることを阻害した大柄な体格の兵士だったが、彼は調査の結果暗殺者とはなんのかかわりもなかったということが判明したため、なんの責任も問われずにこれまで通りの任務についている。
エドゥアルドは結局、ペーターについては3日間の謹慎処分と数か月の減俸、エーアリヒには譴責処分という、きわめて軽い処罰を課しただけにとどめるしかなかった。
エドゥアルドは、いらだたしかった。
短期間の間に、2回。
エドゥアルドは暗殺の危機に遭遇し、紙一重で生き残った。
ノルトハーフェン公国の中で渦巻く、公爵位を巡る陰謀。
それは間違いなくそこに存在し、そして、その首謀者もエドゥアルドからすれば明白なのに、その腫瘍の患部を切除することができない。
エドゥアルドは、このノルトハーフェン公国を治めるべき統治者で、公爵である。
その地位は、ヘルデン大陸の中央部にあり、大国としての権威と実力とを備えているタウゼント帝国の皇帝になってもおかしくない、被選帝侯の1つ。
本来、エドゥアルドが頭を下げ、その意向にへりくだって従わなければならないのは、タウゼント帝国の皇帝その人だけであるはずなのだ。
それなのに、エドゥアルドは、そこにいるとわかっていて、誰とさえ明白な簒奪者を、罰することさえ自由にはできない。
それでも、1歩、前進したこともあった。
兵士たちからエドゥアルドへ向けられる視線が、以前とは少し違ったものとなり始めているのだ。
兵士たちはそれぞれの立場をよく理解し、エドゥアルドを公爵として敬ってきていた。
だが、それはあくまでエドゥアルドが公爵であるからであって、エドゥアルド自身ことを尊敬していたわけではない。
エドゥアルドの公爵という[称号]を尊重していただけだった。
それは、どこかよそよそしい、形だけの敬意だった。
だが、この暗殺未遂事件の結果、兵士たちはエドゥアルドを公爵という称号ではなく、1人の存在として意識し、見るようになってきていた。
それはまだ、エドゥアルド個人に対する尊敬や、敬愛と言えるような視線ではない。
将来、自分たちのことを統率し、一国の統治者として君臨するようになるかもしれないエドゥアルドのことを値踏みし、その力量を見定めようとするようなものだった。
エドゥアルドは、できれば兵士たちから、この国の人々全員から信頼され、心から尊敬されるような君主となりたいと願っている。
そのために、自分にできそうなことは何でもやるつもりだ。
その、人々から信頼される存在への道のりはまだ、遠い。
それでも、兵士たちはエドゥアルドのことを、自身からは遠い存在である[公爵]としてではなく、自身に関わるかもしれない[エドゥアルド]として見るようになった。
しかし、エドゥアルドは、兵士たちから向けられる値踏みするような視線を感じながらも、確かな手ごたえを感じていた。
道のりは遠くとも、エドゥアルドは確かに、そこへ至るためのスタートラインに立ったのだ。




