第84話:「始末」
第84話:「始末」
エドゥアルドの振るったサーベルの刃が暗殺者の肉体を切り裂き、鮮血があふれだすのと、(こうなることが、暗殺者の狙いだったのだ)とエドゥアルドが気づいたのは、同時だった。
暗殺者は、自身の得物であるナイフを腰だめに、両手でしっかりと保持しながらエドゥアルドに向かって突進してきた。
それは、ナイフの切っ先をエドゥアルドの身体に確実に、しかも深く突き刺すための行動だったが、同時に、エドゥアルド自身の手によって暗殺者に[始末]をつけさせるための行動だったのだ。
サーベルは、扱いやすいようになるべく軽量に作られた武器だった。
鋼鉄製であるからにはそれ相応の重さはあるのだが、それでも、相手を叩くよりは、切ることの方を得意としている。
つまり、腰だめでしっかりと握られた暗殺者のナイフをエドゥアルドがかわすには、暗殺者を斬り捨てる他はなかったということだ。
両手でしっかりと握られたナイフを、軽いサーベルを打ちつけただけでは打ち払うことは難しかったし、なにより、腰だめにかまえられたナイフをサーベルで叩くためには、どうしてもその切っ先が暗殺者の身体に当たってしまう。
エドゥアルドには、身体をかわす、という手段もあったはずだった。
だが、それもできなかった。
なぜなら、周囲に集まって来た兵士たちによって自由に身動きをする余地は少なく、素早く身をかわすような空間がなかったし、もしそんなことをすればエドゥアルドの背後にいる兵士が犠牲となってしまう。
エドゥアルドのそばには、シャルロッテがいた。
彼女はエドゥアルドにとって信頼のおける人物であり、シャルロッテ自身も、エドゥアルドを必ず守るのだと固く決意している。
だから、なにもしなくとも、エドゥアルドは死なずに済んだかもしれない。
エドゥアルドがなにもしなくとも、シャルロッテが身をていしてエドゥアルドをかばい、暗殺者の刃をその身体で受け止めたはずだからだ。
だが、エドゥアルドには、そんな選択をすることはできなかった。
自分の身を守り、シャルロッテを守り、他の兵士たちの身を守るためには、エドゥアルドは暗殺者を一刀の下に斬り捨てる他はなかったのだ。
逃げることも、自身で命を絶つこともできない。
そんな状況に追い込まれた暗殺者は、秘密を守るために、エドゥアルドに自身を[始末]させたのだ。
エドゥアルドをかばって前に飛び出そうとするシャルロッテを左手で抑えつつ、エドゥアルドが利き手である右手で振るった刃は、暗殺者の首筋を正確に切り裂いていた。
ミヒャエルの手入れが行き届いていたサーベルはその鋭い切れ味を発揮し、エドゥアルドの手にほとんど抵抗感を与えないまま、暗殺者の頸動脈を切断した。
暗殺者の首筋から、鮮血がほとばしった。
一瞬で大量の血液を失った暗殺者はほぼ即死に近い状態で、ただ、エドゥアルドに向かって突進してきた勢いのまま、身体から力を失いつつエドゥアルドにもたれかかる。
そして暗殺者は、自身の鮮血でエドゥアルドの雪と泥にまみれた衣服をぬらしながら、ズルズルと地面に倒れ伏していった。
辺りに、濃い血の臭いが立ち込める。
白い雪を自身の血で赤く染めながら横たわった暗殺者の身体はわずかに痙攣をくりかえし、あふれ出た血液からは、その暗殺者が先ほどまで確かに生きていたのだということを知らしめるように湯気が立ち上った。
エドゥアルドも、シャルロッテも、その場にいた兵士たちも、目の前で起こった出来事に半ば呆然自失としてしまって、身じろぎもせずに暗殺者の死体を見つめている。
エドゥアルドは、ひどく後悔していた。
他に、とるべき手段などなかった。
エドゥアルドにはシャルロッテを犠牲にするという考えなどまるでなかったし、自身の身も、シャルロッテや他の兵士たちも守るためには、エドゥアルドは暗殺者を屠る他はなかった。
だが、エドゥアルドはまたしても、公爵位を巡る簒奪の陰謀へとつながる証拠を失ってしまったのだ。
しかも、今度は自分自身の手によってだった。
「公爵さまぁっ! こうしゃくさまーぁっ!! 」
きつく唇を引き結び、鮮血にぬれたままのサーベルの柄をきつく握りしめていたエドゥアルドだったが、その、ルーシェの呼びかける声で我に返った。
声のした方を見ると、そこには、血相を変え、双眸に涙を浮かべながら全力疾走してくるルーシェの姿があった。
遠目にも異変が起こったことに気づき、慌てて駆けよってきたようだった。
ルーシェにやや遅れてゲオルクが、さらに遅れてマーリアが、こちらに駆けよって来るのが見える。
兵士たちはまだ呆然自失としたようになっていたが、アイントプフの差し入れのおかげでルーシェのことはみなよく知っていて、ルーシェのあまりにも必死な様子もあって、エドゥアルドとの間に自然と道を開けてくれた。
「こっ、公爵さまっ! ご無事ですかっ!? お怪我はありませんかっ!? ……っ!!? 」
兵士たちが作ってくれた道を駆け抜け、エドゥアルドに取りすがったルーシェは錯乱したように問いかけ、それから、エドゥアルドの衣服に染みた暗殺者の鮮血に気づいて絶句し、恐怖に双眸を見開いた。
「大丈夫だ。……僕は、大丈夫だ。これは、僕の血じゃない」
目の前の惨状に恐怖し、震えながら泣き出してしまったルーシェに、エドゥアルドはそう教えてやりながら、自分のことより今はもっと心配するべき相手がいることを思い出していた。
「公爵様! ご無事ですかっ!? 」
「こっ、公爵様っ、おっ、おっ、おっ、お怪我はっ!? 」
年齢のせいか息を切らしながら駆けつけてきたゲオルクとマーリアに、ルーシェと同じように「僕は大丈夫だ。この血は、僕のものではない」と教えたエドゥアルドは、「僕より、彼を救ってくれ! 」と叫んだ。
エドゥアルドの視線の先には、膝をついて、暗殺者のナイフによって切り裂かれた左腕を右手で押さえたまま動かないミヒャエルの姿がある。
マーリアは、ゼェ、ハァ、と荒い呼吸をくり返しながらもミヒャエルへととりついて、すぐさまその傷の様子を確認した。
マーリアは公爵家に仕えるメイド長であり、今は人手不足のために主に厨房を預かってはいたが、実を言うと、その本職は産婆だった。
エドゥアルドが生まれた時に彼を取り上げたのも、マーリアだ。
だから、彼女にはある程度の医療の心得もあった。
ミヒャエルの傷の具合を確かめたマーリアは、すぐにその傷が深いものだと気づき、荒い呼吸を整え終えないまま叫ぶ。
「ルーシェ! す、すぐに走って行って、てっ、手当の道具を! 場所は、厨房の戸棚の中! 」
「……はっ! はいっ、メイド長さまっ! 」
マーリアの言葉に、ルーシェは弾かれたように駆け出して行った。
※作者より一言
史記の刺客列伝はやはりいつ読んでも面白いです




