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第7話:「猫と犬と少女と高価なペンダント:3」

第7話:「猫と犬と少女と高価なペンダント:3」


 弱り切った少女は、シャルロッテがしゃがみこんで髪をかきわけ、その顔をのぞきこんでも身じろぎさえしなかった。


 シャルロッテが目の前にやって来たことに気がついていないのか。

 気がついていても、身動きができないほどに衰弱しているのか。

 それとも、なにが起こったとしても、どうでもいいとでも考えているのか。


 両目を固く閉じ、浅い呼吸だけをくり返している少女からは判然とはしなかったものの、シャルロッテはその少女が、筆舌に尽くしがたい辛い目に遭ったのだということだけは理解できた。


 少女が身に着けている衣服は、スラム街に暮らす人々が身に着けている衣服のどんなものよりも状態が悪かった。

 乱暴に引き裂かれたような箇所がいくつもあり、布は引きのばされたように緩んでヨレヨレで、汚れが目立つ。


 最初からそういう状態の衣服をゴミ捨て場から拾って少女が来ていた、という可能性もあったが、おそらくはそうではない。

 服の破れ目からのぞいた少女の肌には、青あざなど、暴行を受けた形跡が見られたからだ。


 それは、争った痕跡こんせきだった。


「……」


 シャルロッテは、無言のまま唇を引き結び、剣呑に双眸そうぼうを細めた。


 争った、といっても、発育の悪いやせっぽちの少女の相手が誰であったかはわからないが、それが一方的なものであったことは容易に想像がつく。


 スラム街は、弱者が集まる場所だった。

 富も、地位もなく、身よりもない者たちが、不衛生で雑多な街並みの中にひしめきながら暮らしている。

 そこに暮らす人々は、富も、地位も持った人々に虐げられ、搾取さくしゅされる存在だ。


 ここは、産業化によって発展を遂げている公国の、その負の部分の掃きだめだ。

 だが、その掃きだめに生きる弱者の間にも、その中でさらに弱い者から奪い取るという、救いのない構造が生まれている。


 少女は、抵抗する術もなく、蹂躙じゅうりんされた。

 それは、シャルロッテの、少女たちへの同情心をかき立てるのに十分な事実だった。


 だが、シャルロッテには、この、どこの誰とも知れない少女を助けてよいのか、わからなかった。


 この奇妙な家族、少女と、犬と、猫。

 この一家が、公爵家を脅かす敵、シャルロッテの敵に関係しているとは思わない。


 だが、公爵家に絶対の忠誠を誓っていると信じられる者でもない人間を公爵家の内側へと受け入れてしまえば、それは、謀略のタネともなり得るのだ。


 助けたことで恩義を感じ、懸命に公爵家のために尽くしてくれるかもしれない。

 その一方で、シャルロッテたちの敵に取り込まれ、表面的には親交をよそおいつつも、裏切りを働くかもしれない。


 人間というのは、欲深い生き物だ。

 一生遊んで暮らせるほどの大金を握らされ、地位も約束された時に、命の恩人を裏切らずにいられるのか。


 普通は、そんなことはない、そう言い切れるだろう。

 だが、シャルロッテたちは、そう思いつつも、疑わなければならない世界で生きている。


 それは、帝国の貴族が一千年もの長きにわたってくり返してきた、その華美な生活の裏に隠された暗部だった。


 シャルロッテが、自身の良心と、理性との間で葛藤をしている時、足元でコトリ、と音がした。

 見下ろすと、いつの間にか猫がシャルロッテの近くにまでやってきていて、できるだけ姿勢をただして座っている。


 そして、その猫の前には、今しがたそこに猫が置いたのか、1つのペンダントがあった。


 それは、この場にまったく似つかわしくないものだった。

 シャルロッテは最初、日が暮れかけの薄暗いせいで、見間違えたのかと思ったほどだ。


 そのペンダントは、金でできていた。

 公爵家に仕えるメイドとしての教養を叩きこまれているシャルロッテには、金と他の金属とを見分けるくらいは造作もないことだ。


 それも、どうやら金メッキなどではなく、ちゃんと厚みと重みのある、金のかたまりであるようだった。


 思わずシャルロッテが手に取って見ると、そのペンダントは小さなものであるのにしっかりと重みがある。

 加えて、名のある職人によって磨かれたはずの、大きな、美しいエメラルドまで埋め込まれている。


 こんなものを持っているのは、名のある貴族か、大地主か、産業化のなかで一山当てた成金たちしかいない。


 そうであるのなら、どこかにその持ち主を示すための名前か、紋章が刻まれているはずだった。

 そう思いつつシャルロッテがペンダントを裏返してみると、しかし、そこには期待していたものはすでになかった。


 おそらくは、そこには紋章か、このペンダントの所有者の名前が刻まれていたはずだった。

 だが、それらはどういうわけか、切れ味の鈍いナイフかなにかで乱暴に削り取られ、後から誰かが判別できないようにされている。


 かろうじて読めるのは、そこに元々あったものを削り取った後に、誰かが新しく刻み込んだ文字だけ。


「……るー? ……ルー、シェ……? 」


 それは、誰かの名前のようだった。


 シャルロッテがいぶかしみながら、その、下手な素人が刻み込んだ文字を読んだ時、彼女の足元で、もぞもぞとなにかが動く気配がした。


 シャルロッテが視線を下へと向けると、そこには、力のない手をシャルロッテへとのばす、少女の姿があった。


 少女が意識を取り戻したのかと一瞬思ったのだが、そうではなさそうだ。

 少女はその双眸そうぼうを開き、シャルロッテを見上げながら手をのばしてはいるが、その視線はシャルロッテを見てはいない。


 本来であれば美しく思えたはずの少女の碧眼へきがんは、曇っていて焦点が合わず、虚ろで、本来であれば見えるはずのものはなにも見えてはいないようだ。


 少女が見ているのは、シャルロッテ以外の誰か。


幻だ。


「……か……ぁ……ま……」


 少女は乾いた唇を動かし、かすかに声を出すと、力尽きたようにシャルロッテへとのばしていた手を地面に落とし、再び双眸そうぼうを閉じる。


 死んだわけではない。

 一瞬だけ覚醒かくせいし、幻を見た少女が、また元に戻っただけのことだ。


 だが、シャルロッテは、もう星がよく見え始めている空を見上げて、憮然ぶぜんとした表情で嘆息していた。


 1匹の猫と、1匹の犬が、すがるように、懇願するような視線で、じっと、シャルロッテを見つめている。

 まるで、その、スラム街にはまったく似つかわしくない高価なペンダントを差し出す代わりに、少女を助けてくれと、そう訴えてしているようだ。


 その視線に、シャルロッテの心は、グサグサと串刺しにされてしまっている。


 そしてなにより、少女の虚ろな瞳。

 その、一瞬だけ目にした幻覚に助けを求めた少女の瞳を目にした瞬間、シャルロッテの理性は完全に力を失ってしまっていた。


「……メイド長様に、怒られるでしょうね……」


 シャルロッテはそう呟きながらもう一度嘆息したが、しかし、彼女の決心はもう、変わらない。


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