第76話:「行軍」
第76話:「行軍」
シュペルリング・ヴィラを出発した隊列は、ドラムの音に歩調を合わせながら、行軍縦隊がやっと通れるほどの広さしかない道を進んでいく。
道にはあまり通る者がいないらしく、先日の雪が降り積もったまま、ほとんどそのまま残っている。
その雪を兵士たちはブーツで踏み分け、踏み固めながら、黙々と行進していく。
そこは、[狩りはじめの儀]の際にも通った道だった。
普段は、集落と森から薪を得る木こりたちのキャンプとを結ぶ用途に用いられる道は、シュペルリング・ヴィラの裏庭ともいえる森を突っ切るように伸びている。
今日、実施している演習の計画では、部隊は森の中の道を数時間行軍することになっている。
森を通り抜け、その先で別の道に合流して大きく迂回し、森を別の場所から突っ切るようにして、出発地点であるシュペルリング・ヴィラの近くにまで帰還する。
その後は、シュペルリング・ヴィラの近くの平原、普段は農民たちの農地だが、今は雪が積もっているために休耕となっている場所を使い、隊列の敵前での展開と射撃位置までの前進、演習弾を用いた射撃訓練、そして敵の戦列を打ち崩し、追撃して戦果を拡張するための追撃までの一連の行動を、部隊を2手に分けて模擬戦形式で行うことになっている。
エドゥアルドは、知識としては彼ら、戦列歩兵の戦い方は知っていた。
だが、実践してみるのはこれが初めてのことで、兵士たちが実際に戦場でどのように動くのかを知る、貴重な機会だと思っている。
若く、まだ背ののびきっていないエドゥアルドは、ドラムの音に合わせて行進を続ける兵士たちの中に混じって、その歩く速度になんとかついて行っている。
エドゥアルドが混ざっているのは隊列の中ほどで、雪は前を歩く兵士たちがほとんど踏み固めてくれるから歩きやすいはずだったが、やはり他の兵士たちと比べれば歩幅が小さく、少し大股に、なるべく急いで足を前に出すことを心がけなければ置いていかれそうになる。
この部隊の隊長であるものの、太っていて、よく飲酒をしているために赤ら顔でいることの多いペーターはさぞかし辛いだろうかと言えば、そうでもない。
エドゥアルドの参加する訓練ということで、ペーターは飲酒こそしていなかったが、彼は軍馬にまたがっており、自身の足では歩いていなかったからだ。
ズルい、と見ることもできるが、ペーターは部隊長でありそれなりの階級を持つ士官であるために、乗馬することが認められている。
これは部隊の他の士官も同様で、アーベルも、ミヒャエルもそれぞれ乗馬して訓練に参加している。
馬上にあることは士官にとっての特権であり、また、兵士たちに威厳を示し規律を保つためにも必要とされることで、エドゥアルドは士官たちが乗馬していることにどうこう言うつもりはない。
エドゥアルドは黙々と、他の兵士たちに合わせて歩き続ける。
ここでエドゥアルドが、自身が公爵であることをいいことに、行軍する速度を自分に合わせろとは、口が裂けても言えないことだった。
そもそも、一兵卒として訓練に参加したいと言い出したのはエドゥアルドだったし、兵士たちがどんな速度で行軍するかは明確に定めてあって、エドゥアルド個人の都合に合わせて変更するわけにはいかない。
ドラムを身体の前にぶら下げている軍楽隊が一定のリズムでドラムを叩き続けているのは、すべて、兵士たちに定められた行軍速度で行進させるためだった。
兵士たちには歩く歩幅の大きさをある大きさにそろえることなどが訓練で仕込まれており、ドラムのリズムに合わせて決められた歩幅で前に進むことで、取り決められている行軍速度を維持するのだ。
人には、それぞれに適した、歩く速さというものがある。
背の高さや、足の長さなど、それぞれの身体的な特徴を考慮に入れれば、歩きやすい速度が変わってくるのは当然のことだ。
そして、その歩きやすい速度で歩いた方が、負担も少なく、疲労せずに遠くまで歩いていくことができる。
しかし、それを知りながらも軍隊が歩調を合わせて行軍し、決められた速度で進軍するようにされているのは、軍隊が集団で戦ってこそ、初めてその威力を発揮できるものであるからだった。
もし、個人の事情に合わせて自由なペースで歩くことを許せば、どうなるか。
速い者は速く、遅い者は遅く歩くだろう。
そうなると、必然的に戦場への到着はバラバラとなってしまう。
その差は、行軍する距離が長くなればなるほど、広がっていく。
敵からすれば、格好の標的だった。
相手はこちらの全軍が集結して臨戦態勢を整える前に攻撃を開始し、各個撃破を狙い、そしてこちらはそれになす術もなく敗れる他はないだろう。
それに、兵士たちの歩く速度が一定であることは、指揮官が作戦を立てる上でも大前提となる、基本的な事柄だった。
兵士たちがどのくらいの速度で移動し、いつ、戦場に到着するかを予想することができなければ、どんな指揮官も作戦など立てようがなくなってしまう。
部隊が戦場に到着するのは、なるべく同時である方がいいし、決められた速度で行軍できなければ作戦も立てることができない。
そのために、兵士たちの歩く速度は厳格に定められている。
といっても、その[厳格さ]は、タウゼント帝国の国内においては、諸侯が所有する軍隊それぞれで決められている。
速い歩調もあれば遅い歩調もあるが、ノルトハーフェン公国の歩調は平均よりも少し速いといった程度だ。
まだ背ののびきっていないエドゥアルドでも、なんとかついて行くことのできる速度だった。
これでは、皇帝の名の下にタウゼント帝国の諸侯を招集し、強力な帝国軍を編成したとしても、行軍する速度の違いによって戦場へ諸侯の各部隊が到着するタイミングがズレてしまうことになる。
それでは、戦場に効率よく兵力を集中し、効果的に戦うことが難しくなる。
もちろん、帝国ではその問題点を認識してはいるものの、兵権はあくまで諸侯のものであり、たとえ皇帝であろうとも口出しすることははばかられるために、未だに統一されていなかった。
何度か歩調の統一が試みられはしたものの、その度に貴族たちからの[越権行為だ]という反発に遭って挫折しているという経緯がある。
(もし、僕が皇帝になったら……)
若いエドゥアルドは、部隊の行軍について行きながら、そんなことを空想していた。
未だ、エドゥアルドは自身が正当な所有者であるはずのノルトハーフェン公国の一国でさえ掌握できてはいない。
そんな自分が帝国全体でのことに思いを巡らせていることは滑稽だとエドゥアルド自身思ったが、それでも、帝国の旧態依然とした部分はあまりにも目に余る。
それは、ノルトハーフェン公国もそうだった。
実権なき公爵であるエドゥアルドには、今のところどうすることもできはしなかったが、ノルトハーフェン公国にも改めなければならないことは数多く見受けられる。
(まずは、この者たちを、僕の味方につける。……そして、この国の正当な主として、僕の望む国づくりをする)
エドゥアルドは少し息を荒くしながら、自身の望みを思い出し、他の兵士たちの歩く速度に必死についていった。




