第75話:「訓練:2」
第75話:「訓練:2」
シュペルリング・ヴィラを警護する兵士たちの訓練が行われたのは、それから数日後のことだった。
寒さを防ぐために厚手のコートに身を包んだ兵士たちはシュペルリング・ヴィラの敷地内に部隊の総員で集合し、実弾の装填こそしていないもののマスケット銃をかつぎ、銃剣や弾薬などを規定の場所に定められた量を携行し、背中に背嚢を背負っている。
冬の寒い朝の空に、ノルトハーフェン公爵家の紋章であり、ノルトハーフェン公国の国章でもある舵輪が描かれた中隊旗がかかげられていた。
「総員、気をつけィ! 」
整然と、中隊を構成する8個小隊の兵士たちが整列している前で、若手の士官であるミヒャエル・フォン・オルドナンツが声を張り上げると、兵士たちは一斉に姿勢を正した。
その中には、エドゥアルドの姿もある。
「一兵卒として」という彼の言葉通り、エドゥアルドは今、兵卒たちとまったく同じ格好をして、まっとく同じ装備をし、大きな背嚢を背負っている。
他の兵士たちと違っているところは、エドゥアルドが若すぎるということだけだった。
エドゥアルドの存在に内心で戸惑い、居心地悪そうにしながらも兵士たちが規律を保って姿勢を正していると、彼らの前に1人の士官が進み出てくる。
茶色の短髪に茶色の瞳、口ひげを持ち、背の高いのっぽな印象のある中尉だった。
彼の名は、アーベル・ツー・フルトといい、エドゥアルドの警護を務める部隊の副隊長だった。
「これより、実戦形式の臨時演習を開始する! 」
兵士たちの注目を集めながら、びしっ、と背筋を伸ばして気をつけをしたアーベルは、そう言って声を張り上げる。
「急遽実施することとなった訓練であるため、この場で予定を伝える! まず! 我が隊は行軍訓練を実施し、この近辺の地形把握を兼ねて行軍、しかる後、中隊を2つに分け、行軍縦隊からの戦闘展開、模擬戦闘を実施する! 以上! 」
アーベルはそう言うと、それから、「質問は!? 」と言って兵士たちの姿を見渡す。
誰からも質問はあがらなかった。
アーベルは兵士たちに向かって敬礼をすると、彼の用事は済んだのかミヒャエルの隣にまで下がる。
それと入れ代わりに、ペーターが、そのふくよかな身体を兵士たちの前にあらわした。
「兵士諸君! 任務のかたわら、急遽決まった演習に、戸惑った者もいるだろう! だが、我ら兵士は、急な事態の変化にも対応できねばならないということは、諸君も知っているはずだ! 」
ペーターはそう言うと、姿勢を正したまま静まり返っている兵士たちを見渡し、一瞬、その隊列の中にいるエドゥアルドのところで視線を止める。
「また、今日は、普段は見慣れないお人が訓練に参加する! ……しかし、見慣れないからと言って、邪険にしたり、なにより、お客様として、特別扱いしたりすることのないよう、厳しく言っておく! 一兵卒として、朋輩として接するように! これは本人のたっての願いである! 」
兵士たちは相変わらず沈黙を保っていたが、そのペーターの言葉に内心では動揺を強くした様子だった。
そんな兵士たちの中で、エドゥアルドは姿勢を正したまま立っていて、微動もしない。
兵士たちが戸惑うのは予想済みのことだったし、エドゥアルドは今さら、今日の訓練に参加しないなどと言い始めるつもりはなかった。
「それ以外のことは、日ごろの訓練と何ら変わらない! 諸君らのこれまでの研鑽の成果を十分に発揮することを願う! 」
ペーターはそう言って締めくくり、それから、演習開始の号令を発した。
楽器のドラムを携えた兵士が、ベルトで身体から吊り下げたドラムを一定のリズムで叩き始める。
すると、兵士たちはそのリズムに合わせて行動を開始し、やがて、行軍縦隊を構成して、集結した場所から移動を開始する。
演習は、かなり本格的なものだった。
兵士たちが携行する弾薬は実弾ではなく演習弾ではあったものの、それ以外はすべて実線と同じであり、隊列の後方には軍馬に引かれた弾薬補給用の馬車まで用意されてつき従っている。
行軍縦隊を作った兵士たちは、ドラムの音に合わせ、歩調をそろえて行軍し始める。
かかげられた中隊旗も、兵士たちの背中も、少しずつ小さく、遠ざかっていく。
その中には、エドゥアルドの姿もある。
ルーシェは、去って行く兵士たちの背中を、シュペルリング・ヴィラから見送った。
ルーシェはエドゥアルドに仕えるメイドだったが、兵士たちの演習に関してはメイドが出しゃばるような余地はなにもないから、ついて行くわけにもいかない。
ただ、ルーシェは、ドラムの音に歩調を合わせて行進していく兵士たちのことを、興味深そうに見送っていた。
エドゥアルドが参加しているということもあったが、ドラムの音に合わせて整然と隊列を組みながら行進していく兵士たちの姿は、ルーシェの目には「なんだか楽しそう」に見えたのだ。
兵士たちにとってはそんなことはまったくないはずだったが、スラム育ちで世間知らずなところのあるルーシェには、ドラムの音に合わせて行進するなんて、きっと楽しいに違いないと思える。
「さ、ルーシェ。サンドイッチを作るのを手伝っておくれ。行軍訓練が終わったらきっとみんな休憩をとるはずだから、その時に公爵様や兵隊さんたちに差し入れてあげましょう」
窓から、小さくなっていく兵士たちの背中を見送っていたルーシェに、メイド長のマーリアそう言った。
「あっ、はいっ、わかりました! メイド長さまっ」
声をかけられたルーシェは、少し慌てて、小走りになってマーリアが待っている厨房へと向かう。
ルーシェたちはこれから、訓練を行う兵士たちのために大量のサンドイッチを作ることになっている。
これは、ルーシェが始めた、アイントプフを兵士たちに差し入れることの延長線上にあることだったが、[一兵卒として]訓練に参加するエドゥアルドのために、「僕は今、公爵ではなく兵卒なのだ」と言って断られないように昼食を準備する、メイドたちの作戦でもある。
サンドイッチは比較的作るのが簡単な料理とはいえ、兵士たちは百数十人もいるのだから大仕事だった。
すでに厨房には焼かれたパンが大量に準備してあったが、それらを食べやすいようにスライスしてバターやマスタードをぬり、具を挟んでいく作業が残っている。
兵士たちが休憩に入る昼食までに準備を終えなければいけないのだから、ルーシェとマーリアはこれから休む暇もないほど忙しくなるだろう。
(……ところで、シャーリーお姉さまは、どちらに行かれたんでしょうか? )
しかし、少しでも人出が欲しいはずの厨房には、なぜか、シャルロッテの姿がなかった。
ルーシェはふと、そのことに気がついて疑問をいだいたが、すぐにその疑問は忘れることにする。
「さ! 切って、切って、切りまくらなくちゃね! ルーシェは、切ったパンにバターとマスタードをぬっておくれ? 兵隊さんのためもあるけど、公爵殿下に味気ないのが行かないように、たっぷり、ケチケチしないでぬるんだよ? 」
「はい! メイド長さま! 」
これから、嵐のような忙しさになるのだから、別のことを考えている余裕などなかった。




