第74話:「訓練:1」
第74話:「訓練:1」
「歩兵の訓練に参加したい? 」
兵士たちへルーシェがアイントプフの差し入れを始めてから、しばらく経ったころ。
ノルトハーフェン公国の摂政、エーアリヒ準伯爵から派遣されて来た警護部隊の隊長であるペーター・ツー・フレッサー大尉は、唐突に自分を呼び出したエドゥアルドからそんなことを言われて、困惑したような声をあげた。
酒好きなようで、見るたびに赤ら顔をしているペーターだったが、この時ばかりは一気に酔いが消し飛んだようだった。
それから、彼はすぐに「ああ! 」となにかに気がついたようにうなずく。
「なるほど、公爵殿下は、我らの訓練を閲兵なさりたいと。そういうことでございますな」
「違う。僕は、貴殿らの訓練を見たいわけではない」
ごく常識的な判断を下したペーターに、エドゥアルドははっきりと首を左右に振って見せる。
「僕は、貴殿らの一員として訓練に参加したいのだ。……ただの、一兵卒として」
その言葉に、ペーターは戸惑い、困ったような顔をしながら額に浮かんできた汗をぬぐい、エドゥアルドのおつきとして側に控えていたシャルロッテは眉をひそめ、ルーシェは(そもそも、公爵さまが訓練に参加してなにがいけないのでしょうか? )と、見当はずれなことを疑問に思っていた。
エドゥアルドは、返答に窮しているペーターに向かって、言葉を続ける。
真剣な表情と口調だった。
「僕は、この国の領主として、公爵として生まれた。
僕自身、その地位にふさわしい見識を得ようと、努力をしているつもりだ。
だが、僕には、決定的に足りていないものがある。
それは、実践的な知識や、経験だ。
僕は、本から得られる知識はよく知っているつもりだ。
だが、理論と実際とでは、異なることが多いということも聞いている。
僕はまだ若く、実際の統治は摂政のエーアリヒに行わせているが、いつかは僕自身の手でこの国を治め、皇帝陛下にお仕えするつもりだ。
だが、いざ、僕自身の手で国を動かすようになった時に、形だけで実体のない知識だけでは、なにもすることができないだろう。
だから、僕はこの際、知りたいと思っている。
貴殿ら、僕が将来指揮することになる兵士たちが、どのように考え、どのように動くのかを。
僕自身に、実体のある経験として、貴殿ら戦士のことを教えて欲しいのだ」
本から学ぶことのできる知識だけではなく、現実の兵士たちの姿を知りたい。
そのために、一兵卒として訓練に参加したい。
エドゥアルドは、本気でそう言っているようだった。
これは、かなり異例のことだった。
スラム育ちのルーシェからすればよくわからないことなのだが、貴族のようなやんごとなき人物が、一兵卒として、兵士たちの中に混じって訓練をするなどというのは、普通はあり得ない。
タウゼント帝国における貴族というのは、旧来からの封建制の雰囲気がまだ色濃く残っている。
それぞれの貴族が領地を持つと同時にその領地の経済力や人口にふさわしい規模の軍隊を組織し、所有して、その軍事力を皇帝のために捧げなければならない。
その義務を負う一方で、貴族たちが組織する軍隊の兵権そのものはそれぞれの貴族たちが有するところであり、兵士たちは皇帝ではなく、直接的にはその所属する部隊の所有者である貴族たちに忠誠を誓う。
貴族たちは、それぞれが独自の兵権を有していて、それは、たとえ皇帝その人であっても、正当な理由なしに剥奪することは許されない。
だが、貴族たちが独自の兵権を有し、それぞれで軍隊を保有していると言っても、やることと言えば配下の部隊の各指揮官に命令を下し、統率をすることくらいだ。
兵士たちの中に混じってなにかをするということはあり得ないし、貴族のような高貴な存在が、兵士のように、泥と汗にまみれるようなことは、貴族たちの中では忌避される。
貴族がするべきではない、下賤な行いであると思われているのだ。
ましてや、エドゥアルドはタウゼント帝国の中でも5本の指に入る大貴族、公爵なのだ。
被選帝侯として、皇帝として選出され、皇位につく可能性すらあるのが、エドゥアルドだ。
そんなエドゥアルドが、自ら進んで、貴族たちの間では[下賤なこと]である兵士のまねごとをしたいなどと言う。
非常識なことであり、また、前例のないことだった。
ペーターは、そのふくよかな顔に、色濃く困惑の色を浮かべていた。
兵士のことを知るために、兵卒に混じって訓練に参加したいと言われても、公爵ほどの人物を本当に兵卒のようにあつかうことなどできないし、かといって、エドゥアルドの真剣な申し出を断ることもしづらい。
15歳にもならない若造に過ぎないエドゥアルドだったが、彼は間違いなく、ペーターにとっては使えるべき主人であるのだ。
「公爵殿下。そのような前例のないこと、本当によろしいのですか? 」
ペーターが返答を言えずにいるのを見かねたのか、シャルロッテがエドゥアルドにそれとなく指摘する。
「兵卒に混じって、と申しましても、皆、殿下のことを存じ上げております。いかに殿下がそれを望まれても、殿下を兵卒として接するのは、難しいでしょう。ここは、フレッサー大尉がさきにおっしゃっておりましたが、隊の訓練を殿下が閲兵するということでもよろしいのではないでしょうか? 」
「いや。僕は、兵卒というものを知りたいのだ」
しかし、エドゥアルドは頑なだった。
「僕がこの国を治め始めれば、兵士たちはみな、僕の号令で戦地へと、死地へと赴くことになる。……僕は、僕が死地へと向かわせることになるかもしれない者たちのことを、頭ではなく、僕自身の五感で知っておきたい」
そのエドゥアルドの言葉に、シャルロッテは言葉に詰まって困ったような顔をし、ルーシェは無邪気に尊敬するような視線を向ける。
(わたしたち下々のことにまで関心を持ってくださる、さっすが公爵さま! )
などとルーシェは思っていた。
「……わかりました。そこまで、おっしゃるのであれば」
やがて、ペーターも覚悟を定めたようだった。
彼はまじめそうな表情を作り、そう言いながら、エドゥアルドに向かって恭しく頭を垂れた。




