第73話:「アイントプフ:4」
第73話:「アイントプフ:4」
冬の寒空の下で、シュペルリング・ヴィラの警備についている兵士たちと、ルーシェが楽しそうにしているのが見える。
今日は、雲のない日で、とりわけ冷え込みは厳しい。
だが、屋外にいるにもかかわらず、兵士たちもルーシェもその寒さをものともせず、口から白い息を吐きながら楽しそうにおしゃべりをしている。
暖かなアイントプフのおかげだった。
寒さで冷え切った体に、暖かなアイントプフは染み渡るようで、そして、その味も抜群。
それを差し入れに来てくれるルーシェも、犬のカイも愛想よく受け答えし、差し入れが始まってからまだ1週間も経っていないのに、兵士たちはそれが楽しみで仕方ないという様子だ。
エドゥアルドは、ルーシェに頼んで分けてもらったアイントプフの入ったカップを片手に、自室の窓からルーシェたちの姿を見おろしていた。
部屋の中は、静かだった。
カチ、カチ、と、備えつけられた背の高い古時計が時を刻む音以外は、エドゥアルド自身の呼吸の音くらいしか聞こえない。
部屋の中にはエドゥアルドしかいないのだから、当然だ。
エドゥアルドは、窓からルーシェたちの姿を眺めながらスープを口にし、憮然とした表情を見せる。
アイントプフの味に文句があるわけではなかった。
出汁の効いたアイントプは、その料理に対する一般的なイメージである[ありふれた素朴な料理]というものからかけ離れた味のクオリティで、美食に慣れた貴族たちにふるまっても喜ばれるだろうと思えるほどの品だ。
エドゥアルドがやや不機嫌そうな様子であるのには、そのアイントプフのために、自身のために用意されていた、それもエドゥアルドが一番好みとしていて、食べるのを楽しみにしていた特上のソーセージが惜しげもなく使われてしまっていて、エドゥアルドが食べる分があまり残っていないという理由がある。
だが、それはたいした理由ではない。
エドゥアルドが不機嫌でいるのは、ルーシェが楽しそうに兵士たちと会話をしていることだった。
あの兵士たちは、エドゥアルドにとっては敵だった。
自身の地位を狙い、命さえも奪おうとしている敵の手によって送り込まれて来た兵士たちによって、エドゥアルドの日々の生活は制限下に置かれ、一時も気の抜けないような状況となっている。
その敵と、ルーシェは楽しそうにおしゃべりをしている。
一見すると能天気にも思えるその様子が、エドゥアルドにはなんだか気に食わない。
もちろん、ルーシェの行動が、寒い思いをしている兵士たちのためにというだけではなく、エドゥアルドのためでもあるということは理解している。
心づくしの差し入れをすることで、公爵家が兵士たちを大切に考えているということを知ってもらうことで、兵士たちのエドゥアルドに対する印象を良くし、その忠誠心を喚起しようというのが、ルーシェの作戦なのだ。
ルーシェがそこまではっきりと自分の行動を理解しているとは思えなかったが、少なくとも、エドゥアルドはそのようにルーシェの行動を定義している。
すべて、エドゥアルドのため。
それを理解しつつも、エドゥアルドはルーシェに恨めしそうな視線を向けてしまう。
ルーシェはよく頑張ってくれているし、楽しそうにしているのはいいことだ。
だが、兵士たちとルーシェが楽しそうにしているのに対し、エドゥアルドはたった1人きりで、静かな部屋にいる。
エドゥアルドにとっては、1人でいることは当たり前のことだった。
この、シュペルリング・ヴィラにはエドゥアルドの信頼する人々がいるが、エドゥアルドと同じ立場にいる人間は誰もいない。
エドゥアルドと肩を並べ、対等に、気ままにおしゃべりをできる相手がいないのだ。
ルーシェは、エドゥアルドとは比較にならないほど、凄惨な境遇に育ってきた。
それに対して、エドゥアルドは生まれた瞬間から公爵となることが決まっていて、対等な友人などというものを持ったことがない。
兵士たちは、陰謀という理由以外でも、エドゥアルドが[公爵である]ということで、一線を引いて接してくる。
それに対して、ルーシェに対しては、なんの壁も作らず、気ままにおしゃべりを楽しんでいる。
エドゥアルドは、その光景を見ていると、自分の孤独さを改めて思い知らされるような気分になる。
ルーシェとカイにも、不満がないわけではない。
[お前は僕のメイドで、臣下なのだから、そんなところにいないで僕の近くにいて、僕の話を聞け]などと思ったりしないでもない。
今、カイが兵士にして見せている芸だって、実はエドゥアルドがこっそり仕込んでいるもので、[僕以外に気安くホイホイ披露するな]と思ったりしないでもない。
エドゥアルドは小さくため息をつき、やるせない気持ちを切り替える。
(相手のことを知る、か……)
エドゥアルドはアイントプフを一口スプーンですくって食べながら、ルーシェが兵士たちへの差し入れを始めようと言い出した時に言っていたことを思い出していた。
兵士たちはエドゥアルドのことをあまり知らない。
だが、それは自分も同じで、エドゥアルドは兵士たちのことについてほとんど知らない。
ルーシェとしては、兵士たちにエドゥアルドを良く思ってもらうことで裏切りを思いとどまってもらうということだったのだろうが、エドゥアルドからすれば、差し入れをするだけでは難しいだろうと思っている。
兵士たちの様子を見るに、差し入れには喜んでくれている様子だったし、エドゥアルドについて少しは良い印象を持ってくれているのかもしれなかったが、しかし、それだけでは兵士たちはエドゥアルドについて[知った]ことにはならないだろう。
エドゥアルドがどんな考え方をしていて、これからどんな風にこの国を導こうとしているのか。
差し入れでエドゥアルドの寛容さや優しさといった人間としての美徳は示せるかもしれないが、一国の指導者として大切なことはそういった美徳だけではない。
人々の暮らしを守り、豊かにするためになにをしようとしているのか。
国を運営していく力量を、エドゥアルドが有しているのかどうか。
特に、兵士たちはなにかあれば命を危険にさらさなければならない人々だ。
エドゥアルドが、自分たちの命運を預けるのに足る人物だと兵士たちが思うようにならなければ、兵士たちはエーアリヒよりもエドゥアルドを選んではくれないだろう。
優しいだけでは、国家のリーダーは務まらない。
個人の好悪だけでは、決められないことなのだ。
エドゥアルドは、兵士たちに自分に良い印象を持ってもらうだけでなく、自分のことを知ってもらう必要があると思った。
そして同時に、自分自身も、兵士たちのことを知る必要があるとも思った。
エドゥアルドは、貴族として人々にひざまずかれながら、孤独に生きてきた。
人々はみな、エドゥアルドに心の底を打ち明けることなく、一線を引いて接し、エドゥアルドもまたそれを越えがたい壁として受け入れてきた。
エドゥアルドは自分なりに勉強もしてきたし、鍛錬も怠ってはいない。
だが、自分が統治することになる人々がどんなことを考え、求めているのかを知らなければ、どんな知識も役立てる方法はないだろう。
エドゥアルドの視線の先で、兵士たちに差し入れを終えたルーシェが、カイをともなって歩き去って行く。
その背中を見つめながら、エドゥアルドは、あんな風に素直な頑張り方もあるのだと思った。
体当たりで、とにかく真っすぐ、純粋に。
自分にできることをやる。
今までのエドゥアルドのやり方では、きっと、ダメだろう。
エドゥアルドはこれまでも公爵にふさわしい人間となるために研鑽を積んできたつもりだったが、それはあくまでエドゥアルド自身の能力を向上させるためのものでしかない。
公爵は、少なくとも数百万の人々を導く存在だ。
エドゥアルド1人がどれほど優れていようと、エドゥアルドを理解し、誠実に仕えてくれる者がいなければ一国の統治などおぼつかない。
そして、エドゥアルド自身も、自身が指揮をすることになる人々のことを知らなければ、円滑に物事を進めることなどできないだろう。
(僕に、できること、か……)
エドゥアルドは、食べ終わったアイントプフのカップをテーブルの上に置きながら、真剣な表情でそう考えていた。




