第69話:「できること:2」
第69話:「できること:2」
冬の、染みるような寒さは、ルーシェはよく知っている。
母であるウェンディを失って最初に迎えた冬は、それこそ、寒さで死にかけたのだ。
幼いルーシェに、現実は容赦がなかった。
ルーシェは母が残してくれたわずかな財産もだまし取られ、住んでいた家(掘っ立て小屋のようなものだが、屋根も壁もあった)を追い出された。
行く当てもなく、どうすることもできずに絶望していたルーシェがその冬を越して、どうにかスラム街で生き抜くことができたのは、ルーシェにとっての大切な家族、カイ、オスカーの2匹と出会うことができたからだ。
最初に出会ったのは、オスカーだった。
スラム街の路地でうずくまっていたルーシェのことを見つけたオスカーは、どういうわけかルーシェに興味を持ち、出所は不明だがどこかからか食べられるものを持ってきてくれた。
それがどこにあったものなのか。
ゴミ捨て場にあったのか、それとも、誰かから盗んできたものなのか。
ルーシェは、それがパンだったのか、それ以外のなにかだったのかも覚えてはいないし、味も記憶していない(どうせ酷い味だったろうから忘れたのかもしれない)が、ただ、その食べ物を貪るように食べたことだけはしっかりと思い出すことができる。
その後、ルーシェはスラム街でどうにか食べ物を見つける方法を、オスカーから教わった。
カイとは、その後に出会った。
今の大きくて頼りがいがあるカイからは想像もつかないことだったが、当時のカイはまだ子犬と呼べるくらいで、弱々しくスラム街の路地裏で寒さに震えていた。
そのカイの姿には、ルーシェは不思議と親近感を持った。
そして、どうしても放っておくことができないと、持っていたなけなしの食べ物を分け与え、以来、カイとも一緒に暮らすようになった。
すべて、寒い、寒い、スラム街での冬の出来事だ。
雪のちらつく中、定時の見回りを震えながら行っている兵士たちの姿は、ルーシェにその辛かった記憶を呼び起こしていた。
(なにか、して差し上げられないでしょうか……)
ルーシェは、建物の影へと消えて行く兵士たちの後姿をカーテンの隙間から見送りながら、そう思っていた。
彼らは、エドゥアルドを監視するためにエーアリヒが送り込んできた者たちだ。
だからエドゥアルドにとって、そしてルーシェにとっても、敵であり、警戒しなければならない人々のはずだった。
だが、ルーシェは兵士たちとすれ違い、挨拶し、言葉を交わすうちに、彼らが[悪人ではない]ということを知っている。
兵士たちの中には間違いなく、裏切り者たちが潜んでいる。
だが、それは全員ではない。
兵士たちの中には、真面目にエドゥアルドを守るために動いている者も、少ないかもしれないが存在しているはずだった。
(もし……、兵隊さんたちを、味方にできたら……)
ルーシェはカーテンを閉じ、ベッドに戻りながら、そんなことを考えていた。
エドゥアルドの致命的な弱点は、実権がないこと。
それは、言い換えれば、[エドゥアルドの言うことに従う人間が少ない]ということだった。
エドゥアルドは名目上の公爵であるから、人々はその命令には恭しく従って見せる。
だが、実際に実権を持つ相手と、エドゥアルドの双方から別々の命令や指示を受け取れば、その多くは実権を持つ側に従うだろう。
名誉は、素晴らしいものだ。
人々から敬意を集めるような行いをした者は、その寿命をまっとうした後も人々の間で語り継がれ、歴史に名を刻み、人々の記憶の中で生き続ける。
ずっと後世までその行いを称えられ、人々に慕われ、尊敬される。
だが、それほどの名誉を実際に手にできる者は、ほんの一握り。
そして、自分自身が生きていくためには、名誉ではなく、実利。
たとえば、領地とか、金銭とか、そういうものの方が必要になって来る。
誰だって、他人より、自分がかわいい。
自分や、その家族、友人の方が、なにも知らない赤の他人よりも大切だ。
そして、その大切なものを守り、楽な暮らしをさせるためには、名よりも実を取るのは、多くの人々にとって当然のことだった。
名だけあっても、どうにもならない。
今のエドゥアルドがそのいい例だ。
スラム街で暮らして来たルーシェは、そのことがよく理解できた。
自分自身、ウェンディを失って、いかに母親に守られていたのか、そしてどれほど人は他人に対して冷淡で、ずる賢くなれるかを思い知らされた。
そしてなにより、名誉や誇りだけがあっても、飢え死にするだけだということを思い知らされている。
今だって、ルーシェがエドゥアルドたちのために一生懸命に働き、エドゥアルドに迫る危機に悩んでいるのは、ルーシェにとってエドゥアルドたちがルーシェたちを人並みに、公平に扱ってくれているからというだけではなく、ルーシェたちに衣食住を与えてくれているからだ。
ルーシェは、自分に生きる場所を与えてくれた人のために、役に立ちたいのだ。
他の誰でもなく、エドゥアルドや、シャルロッテ、マーリア、ゲオルクたちが、この冷酷で容赦のない世界の中に、ルーシェが存在しても良い場所を作ってくれたのだ。
よく知らない誰かと、エドゥアルドたちであったら、ルーシェは迷いなくエドゥアルドたちの側につく。
そして、命がけになるだろう。
この世界で、ルーシェに手を差し伸べてくれたのは、他の誰でもない。
エドゥアルドたちなのだから。
兵士たちの中に潜む裏切り者だって、きっと、公爵という高位の貴族であっても、よく知らない相手でしかないエドゥアルドよりも、自分の大切なもの、自分自身や家族のために裏切っているのだ。
エドゥアルドのことをよく知らない、自分にとっては関係のない相手だと思っているから、簡単に裏切ることができる。
(兵隊さんたちに、知ってもらうことができれば……)
ルーシェは、うとうととまどろみながら、漠然とそんな考えを抱いていた。
他人だから、関係のない相手だから、それよりもずっと大切なもののために簡単に裏切ることができる。
しかし、関係のない他人ではなくなったら、どうだろうか?
兵士たちに、エドゥアルドがどんな人間なのか、知ってもらう。
そして、ルーシェにとって大切な居場所であるこの場所を、奪わないで欲しいと知ってもらう。
そうすることができれば、もしかしたら……。
ルーシェは、そんなことを思いながら、眠りについた。




