第61話:「馬車:1」
第61話:「馬車:1」
「まったく。……悪運の強い小僧だ」
ガラガラと、車輪の回る音を響かせながら走っていく馬車の車内で、少し酒に酔ったフェヒター準男爵がふてぶてしく呟いた。
「狼は元々フェイントだったからいいものの、まさか、あの銃器職人がしくじるとは……。あの、ブルンネンとかいう猟師が余計なことをしなければ、うまくいったものを」
フェヒターは、今日の狩りはじめの儀で起こった出来事の結果が望んだとおりに行かなかったことを嘆いているようだったが、その表情からは、なんの後悔も反省も見られず、そして、本気で残念がっているような様子もなかった。
こんなことは、まだまだ序の口。
これから、いくらでも手の打ちようがある。
そんな風に考えている様子だった。
フェヒター準男爵の前の席に向かい合って座っているエーアリヒ準伯爵は、フェヒターの独り言に反応を見せない。
ただ、エーアリヒは空中をじっと見つめ、そこにあるものではなく、なにか別のことに思いをはせているようだった。
「それで、摂政殿。……次は、どのようにしかけるので? 」
いい加減、1人だけでしゃべっていることに飽きたのだろう。
フェヒターは唐突に前かがみになってエーアリヒへと顔を近づけると、相手の考えを探るような視線を向けた。
そこは、シュペルリング・ヴィラから、ポリティークシュタットへと向かう馬車の車内だった。
ルーシェの前で言っていた通り、エーアリヒは祝宴に戻るとタイミングを見てエドゥアルドに帰宅することを申し出て、祝宴を抜け出して来たのだ。
車窓からはよく見えなかったが、エーアリヒの馬車の後には、同じように祝宴を切り上げて自らの館へと戻る馬車の姿が何台もあった。
元々祝宴は適当なところで切り上げ、客人はみなそれぞれの館や家にその日の内に帰る予定となっていたが、エーアリヒが抜け出した後、客人たちは次々と、まるで競うように帰りの馬車に乗り込んだ。
公爵という地位にあるものの、なんの実権も持たない[若造]に過ぎないエドゥアルドのところに長くいてそのご機嫌取りをするより、さっさと帰宅して休みたいというのが皆の本音だった。
エーアリヒの馬車は、公爵用の馬車ほどではないが一国政治を担う重要な地位にいる者が乗る馬車として、十分に豪華で立派なものだ。
車内はランプの光で明るく照らし出された車内は、ワニスで木目が残るように丁寧に塗装された木材と、落ち着いた色調の赤色に染められた絹でおおわれたシート、長時間乗車しても身体が痛くならないクッションの効いた座席で作られており、金や銀による装飾こそ少ないものの手間と費用のかかっているものとなっている。
座り心地の良い座席に浅く腰かけながら物思いにふけっている様子のエーアリヒは、フェヒターの問いかけにはすぐには答えない。
「摂政殿? 」
どうにも、祝宴を途中で抜け出し、戻ってきてからのエーアリヒの様子はおかしい。
フェヒターはそのことをいぶかしみつつ、自身がエーアリヒに無視されているように感じて少しいらだちながら、重ねてエーアリヒへと声をかけた。
「フェヒター準男爵。そう、焦るな」
ようやくフェヒターへと視線を向けたエーアリヒは、そうたしなめるように言った。
「エドゥアルドは、若い。まだまだ、いくらでも理由をつけて、実権を握らせずにおくことは簡単だ。……つまり、いくらでも[その機会]はあるということだ」
「ですが、摂政殿。あまりまごついていると、あの小僧も反撃してきますぞ」
エーアリヒは落ち着き払っていたし、フェヒターもその言うところはもっともだ、とは思うものの、どうしても不安に思わずにはいられないようだった。
「少なくとも、あの小僧は、我々がオズヴァルトと手を組んでいることには感づいている。……証拠をつかまれるようなことはないとは思うが、落ち着いてはいられませんぞ」
フェヒターは、遠慮することなく堂々と陰謀についての談義をしている。
馬車の中にはフェヒターとエーアリヒの2人だけだったし、御者も、その隣に腰かけているエーアリヒの執事であるコンラートもすべて、陰謀について知っている共犯たちだ。
ここでどんな話をしても、その内容が漏れることはないだろう。
夜の闇に包まれた帰路を走る馬車は、密談には格好の場所なのだ。
「そう、急くな。……ことは、これまでどおり、じっくり、着実に進める」
フェヒターは少し焦ったようになっていたが、エーアリヒはのらりくらりといった感じで、ことを急ぐつもりはない様子だった。
エーアリヒの言い分にやや不服そうにするフェヒターに、エーアリヒは「それより」と前置きをして、やや強調するように言う。
「フェヒター準男爵。貴殿は、今少し素行を改めよ。……今も貴殿の振る舞いは、将来、公爵位を継ぐ者としてふさわしいモノとは言えん。大勢ごろつきを従わせていても、恐れさせることができるのは平民だけだ。……貴族社会の中で威を示すのには、ふさわしいものではない」
そのエーアリヒからの苦言に、フェヒターは面白くなさそうな表情を見せ、姿勢を崩して壁によりかかるようにしてその視線を車窓の外の暗闇へと向ける。
いくら着飾らせてはいてもフェヒターがいつもつき従わせている取り巻きたちはごろつきとほとんど変わらなかったし、以前、シュペルリング・ヴィラを訪れた際に見せた醜態が例としてあるように、フェヒターの普段の素行はかなり悪いものだった。
華美に着飾って見せてはいるものの、実際には、その費用はフェヒターが自分だけで出しているわけではない。
準男爵はれっきとした貴族には違いなかったが、その領地から得られる収入だけでは到底できないような散財をフェヒターはくり返している。
そんなことができるのは、エーアリヒが陰でフェヒターを支援しているからだ。
それは、エーアリヒが、自身がかかえる、ある[弱点]を克服し、エドゥアルドを排除したのちに公国の権力を自身の掌中へと納めるために、必要不可欠なことだった。




