第60話:「密会:3」
第60話:「密会:3」
重苦しい沈黙を破って先に動いたのは、エーアリヒの方だった。
彼はじっと、冷酷な視線でルーシェのことを見つめていたが、ふと、ルーシェの首にあるペンダントのことに気がつき、そっとそれに触れてルーシェの胸元から引き出して、いぶかしむような顔で観察する。
それから、エーアリヒは少し驚いたような表情を見せた後、ルーシェのことを真っ直ぐに見つめた。
なんだか、雰囲気が変わった。
ルーシェはそのエーアリヒの変化を敏感に感じ取りつつ、なんだか、少しだけほっとしたような気分になった。
自分が、追い詰められているという事実は変わらない。
だが、エーアリヒから自身へと向けられていた冷酷な殺意が、少しだけ緩んだような感じがしたのだ。
「……これは、スラム街出身の、見習いメイドが持っていて良い代物ではないな。……盗みでもしたのかな? 」
「ルーは、そんなことしませんっ」
ルーシェは思わず、エーアリヒを睨み返していた。
エーアリヒから向けられていた殺意が緩んだということもあったが、泥棒をしたなどと疑われたのがなによりも心外なことだった。
スラム街にはそういったことをする人々は大勢いたが、ルーシェは貧しいなりにも清く正しく生きてきたつもりだし、エドゥアルドたちから信頼されて雇われた以上、彼らを裏切るようなこと、がっかりさせるようなことは絶対にしたくない。
「では……、公爵殿下から、賜ったのか」
ルーシェの方へと視線は向けず、ルーシェの大切なペンダントを凝視したままのエーアリヒに向かって、ルーシェははっきりと首を左右に振って見せる。
「いいえ。……それは、お母さまの、形見です」
母の、形見。
そのルーシェの言葉を聞いた瞬間、エーアリヒは自身の眉を、本当に小さく、ピクリと動かした。
その瞬間にエーアリヒがなにを考えていたのかは、ルーシェにはわからない。
ルーシェの話を嘘だと思ったのか、それとも、ルーシェのペンダントになにか心当たりがあるのか。
なんにせよ、エーアリヒがどう思おうが、ルーシェには関係のないことだった。
このペンダントはルーシェにとって大切な宝物で、家族や自分の命と同じくらいの価値がある、世界でたったひとつ、ルーシェに母親の記憶を思い起こさせてくれるものなのだ。
エーアリヒがどんな難癖をつけてこようと、ルーシェは1歩も引かないつもりだった。
エーアリヒは、ルーシェの返答を聞いて、しばらくの間無言だった。
ただ、彼は、ペンダントの裏の、おそらくはなにかの紋章か、名前が刻まれていたのだがすっかり削り落とされてしまっている、荒々しい処理がそのままにされている面をじっと見つめていた。
「ルーシェ。君の、お母様の名前は? 」
やがて、エーアリヒは絞り出すような声でそう問いかけた。
ルーシェには、それが不思議でたまらなかった。
ついさっきまで濃厚に向けられていた殺意の気配が、完全に消えてしまったのだ。
それに、ルーシェのような、どこの誰ともわからないようなスラム街で育った少女の母親を、一国の政治を任されるような身分のある貴族が気にすることが、ルーシェには理解できなかった。
「えっと……、わたしのお母さまの名前は、ウェンディ、です」
戸惑いつつも、ルーシェはそう答えていた。
エーアリヒの問いかけが、真剣そのものであると思えたからだった。
ルーシェの母は、スラム街で、たった1人でルーシェを育ててくれた。
1日の多くの時間を仕事に費やし、なんとかルーシェを食べさせてくれていた。
子供心に、ウェンディがどんな仕事をしていたのかはルーシェも知っていた。
いわゆる水商売というやつで、ウェンディは毎日夜遅くに帰って来たし、たまに、顔に痣のようなものを作って帰ってくることもあった。
ルーシェたちの生活は苦しかった。
母は毎日懸命に働いたが、それでも親子2人で暮らしていくのに収入は十分ではなく、物心ついたころからルーシェも自分にできることをやって、お小遣い程度だがなんとか稼がなければならなかったほどだ。
それでも、ルーシェは母に感謝している。
ウェンディはどんなに辛いことがあってもルーシェに八つ当たりしたりせず、ずっと大切にしてくれていたし、ルーシェはウェンディのことが大好きだった。
毎日、満腹と言えないまでも食べさせてくれたし、ウェンディが生きていたころには、ちゃんと屋根も壁もある家に住んでいたのだ。
だから、いつも母を呼ぶときは、ルーシェなりに敬意をこめて[さま]をつけている。
他に敬意を込める呼び方を、ルーシェは知らないのだ。
だが、ある日、ウェンディは亡くなった。
毎日毎日、働き続けて衰弱し、人波の暮らしをしている人ならなんでもないような軽い病気をこじらせて死んでしまった。
ウェンディは最後までルーシェのことを心配してくれていた。
驚いたことに、わずかな収入の中から、ルーシェの将来のために、と、住んでいた家の床下に貯金までしてくれていたのだ。
もっとも、その貯金はすぐになくなってしまった。
やれ、[病気の治療費]だの、[病気で仕事に出られなかった分の違約金]だの、[葬式代]など、ルーシェにとっては顔もよくわからないような[母親の知り合いたち]が何人もやってきて、半ば無理やり貯金を持って行ってしまったからだ。
今となっては、我ながら[バカだった]と思うものの、たとえ当時の自分が[母親の知り合いたち]の正体を見破れたとしても、年端もいかない小娘にいったいなにができただろうかとも思う。
今だって、当時からすれば思いもよらないほど良い待遇を受けているが、ルーシェが無力であるのはさほど変わっていないのだ。
「そうか。……ウェンディ、というのか」
いろいろと昔のことを思い出して沈んだような気持になっているルーシェに、ペンダントをじっと見つめ続けていたエーアリヒはやがて、そう言いながら小さくうなずいてみせた。
それからエーアリヒはルーシェにペンダントを返すと、なんだか複雑そうな顔でルーシェのことを見ながら、優しい声で言う。
「いろいろと引き留めて、悪かったね。……どうやら、私も少し疲れていて、少し意地悪になっていた様だ。さぁ、ルーシェ。君は仕事に戻りなさい。公爵殿下が、きっとお困りだよ」
その言葉に、ルーシェはきょとんとして、何度も瞬きをくり返す。
ついさっきまでのエーアリヒの優しい声は、その裏に明確な悪意を感じたのだが、今の声は本当に優しい、気遣うようなものに思えたからだ。
「やれやれ。私も、それほどの年ではないと思っていたが、若くもないのだなぁ。……公爵殿下に、少し早めに帰してもらえるようにお願い申し上げてみよう」
エーアリヒの突然の変化に、状況の理解に頭が追いつかず動けずにいるルーシェとは対照的に、エーアリヒはそんなことを言いつつ、すでにその場から立ち去り始めている。
やがて、エーアリヒの背中が十分に小さくなって、廊下の薄暗がりの向こうにぼんやりとしか見えなくなると、ルーシェはへなへなとその場にへたり込んでしまった。
怖かったことやら、拍子抜けしてしまったことやらで、身体に力が入らなくなってしまったのだ。




