第38話:「すずめ公爵:2」
第38話:「すずめ公爵:2」
フェヒター準男爵。
その名前に、ルーシェはまるで心当たりがなかったが、どうやらエドゥアルドもシャルロッテも、ゲオルクでさえ知っているような様子だった。
それに、少しおかしな呼び方だとも思う。
[男爵]という貴族の位は知っているものの、そこに[準]という言葉がつくのは聞いたことがない。
「ルーシェ。お前は、馬車の中で待っていろ。話は、僕とシャーリーで済ませてくる」
不思議そうな顔をしているルーシェに向かってエドゥアルドはそう命じると、座席の下に収納されていた、鞘に納められた護身用のサーベルを自身のベルトに装着し、シャルロッテが開いた扉から馬車を降りていく。
そしてすぐにパタン、と扉は閉じられてしまった。
お前は、馬車の中で待っていろ。
そう命じられはしたものの、ルーシェはとてもじっとしてはいられない。
馬車の中をきょろきょろと見回した後、ルーシェはシャルロッテがゲオルクと話すのに使っていたのぞき窓の存在を思い出し、急いで席を立って、リボンは胸に抱きかかえるようにしたまま窓から外をのぞき見た。
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まずルーシェの目に見えたのは、ゲオルクがいつも馬車を御する時に被っている帽子のつばだった。
そして、その帽子のつばの向こう側では、数人の男たちが馬車の進路を遮るようにたむろしている。
その男たちに、ルーシェはなんだかなじみがあるような気がした。
もちろん、会ったことなど1度もなかったが、その男たちには、スラム街でルーシェがよく見かけていたごろつきたちと同じ、粗暴で退廃的な雰囲気をまとっている。
ただ、スラム街のごろつきたちと違って、その男たちは身なりが良い。
まるで借りてきた衣装のように似合っていなかったが、誰もが破れやほつれのない衣服を身につけ、マントと帽子まで身に着けている。
斜にかまえたような立ち姿は明らかに品が悪かったが、腰にサーベルまで吊っているのは、さながら貴族の末席に連なる者のようだった。
ただ、その中に1人だけ、本物の貴族のような雰囲気の人物がいた。
他のごろつきたちの姿勢が悪く、その人物の姿勢が真っすぐ堂々とのびているということもあり、頭一つ分背が高く見える。
赤毛のマッシュボブに、やせ型の顔立ちに、ギラギラと内心で意志を燃やしているかのような鋭い印象の双眸。
ごろつきたちのものよりさらに上等な衣服を身に着けており、豪華な装飾品の類まで身に着けている。
赤毛の男性は、馬車から降りてきたエドゥアルドがシャルロッテを従えて近づいてくると、ニヤリ、と不遜な笑みを浮かべた。
「いよぅ! すずめ公爵様のぉっ、お出ましだぞっ! 」
そして、赤毛の男性がおどけたような口調でそう言うと、ごろつきたちは一斉に、見せつけるように腹を抱えて笑い出した。
まるで、最初からそうするように打ち合わせでもしていたかのようだ。
ルーシェは、直感的に、あのやせ型の長身の男性こそがフェヒター準男爵と呼ばれている人物なのだろうと思った。
彼らは十分に特徴的な集団ではあったが、その中でも赤毛の男性は特に目立っているし、あの集団の中で、固有名詞で呼ばれるような者は、赤毛の男性以外にはないだろう。
フェヒターの一団は、まるで、エドゥアルドたちを嘲笑するように笑っている。
だが、馬たちの間からちらりと見えたエドゥアルドとシャルロッテの横顔は、何事もないように涼しそうなものだった。
フェヒターという人物については知っている様子だったから、こういったことが以前にも、それも何度もあって、慣れているのか。
それとも、本心からなんとも思っていないのか。
「やァ、フェヒター準男爵。相変わらず元気そうでなによりだ」
フェヒターたちから数メートル、ちょうどサーベルを抜いて切りかかっても1度の踏み込みでは刃が届かない、相手から攻撃されても応戦できる距離を保って立ち止まったエドゥアルドは、一見すると気さくそうな笑顔でフェヒターに話しかける。
「ところで、[準男爵]? [公爵]への挨拶がまだのようだが」
すると、フェヒターは一瞬驚いたように目を見開き、「これは、これは、ご無礼を」と、慌てた風をよそおい、慇懃無礼な身振りでかしこまってみせる。
「いやはや、公爵殿下がこのような白昼、護衛の兵士も連れずにメイドを連れているものですから、気づくのが遅れてしまいましたよ! 」
「メイドのスカートに隠れる、すずめ公爵! 」
その時、ごろつきの1人がわざとらしい口調で叫んだ。
すると、フェヒターたちはまた、こらえきれない、とでも言いたそうな演技で笑い始める。
「10秒ほどいただけますでしょうか? 全員に[お休み]いただくことも可能ですが? 」
「いや、いい」
笑っているごろつきたちを静かに見すえながらシャルロッテがそうエドゥアルドに確認するが、エドゥアルドは小さく首を振っただけだった。
笑い声にかき消されてしまったので、ルーシェにはその仕草だけしか見えず、ルーシェは(公爵さまたちは、なんとおっしゃっているのだろう? )とのぞき窓にかじりつくようになる。
「フェヒター[準男爵]! 」
やがて、エドゥアルドは1歩前に出ると、笑い声に負けない声で怒鳴った。
大きな声だった。
周囲の建物の壁に声が反響し、様子をうかがうためにのぞき窓にかじりつくようになっていたルーシェが、思わず顔をしかめながら両手で耳をふさいだほどだった。
そのあまりの声量に気圧されたのか、フェヒターたちは笑うのをやめ、驚いたような視線をエドゥアルドへと向けている。
辺りは、一気に静かになった。
エドゥアルドの怒鳴り声で周囲にいた人々はみな(なにごとか? )と固唾を飲んでこちらを注視し、耳をすませているし、小鳥たちや野良犬などは驚いて逃げ散ってしまったのだろう。
「フェヒター[準男爵]。もう一度言うが……、[公爵]への[挨拶]は、まだなのか? 」
それから、静寂の中で、エドゥアルドは[]の部分を強調しながら、にこやかな作り笑いを浮かべながらフェヒターたちに命じた。
「僕は、ノルトハーフェン公爵。この国の主だ」
エドゥアルドの言葉に、ごろつきたちは戸惑い、フェヒターは苦々しそうな表情を浮かべている前で、エドゥアルドはただ1人、相対しながら言う。
「僕がここに使用人たちだけで、護衛も連れずにいるのは、僕がこの国の主で、貴様のようにぞろぞろと何人もごろつきをつき従わせて見栄を張る必要はないからだ。……なぜなら、ここにいる全員が、僕の臣下。……フェヒター、貴様もその1人に過ぎないからだ」
その言葉に、フェヒターはいよいよ、表情を険しくする。
今にも、サーベルを抜き、エドゥアルドに斬りかかりたいというのを、なんとかこらえているような顔だ。
そんなフェヒターに向かって、エドゥアルドは1歩も引かず、譲歩もせず、命じる。
「どうした? フェヒター。早くひざまずいて、臣下としての礼を示せ。それでも、貴様は帝国貴族の一員なのか? 」
エドゥアルドの毅然とした、恐れ知らずの無謀とも思える態度に、ごろつきたちは気圧されたような顔で、(どうすりゃいいんだ? )と互いの顔を見合わせ、ちら、ちら、と、彼らのリーダーであるらしいフェヒターの方を見やっている。
フェヒターは、怒りに震えていた。
その顔は彼の髪のように赤くなり、歯ぎしりの音が聞こえてきそうなくらい、きつく奥歯を噛みしめている。
だが、結局は、フェヒターはエドゥアルドになにもしなかった。
貴族社会の中に厳然と存在する[階級]に対する分別が働いたのか、それとも、周囲から事の成り行きを見守るいくつもの視線があることを自覚したのか。
「……いくぞ」
フェヒターは荒々しくごろつきたちにそう命じると、大股で馬車とすれ違うように歩き去って行った。




