第36話:「青いリボン」
本作の主人公、ルーシェのイメージイラストを描かせていただきました!
https://www.pixiv.net/artworks/93684141
にてご覧いただけます。
どうぞ、これからも本作と熊吉をよろしくお願いいたします!
第36話:「青いリボン」
ルーシェが選び、エドゥアルドが買いつけたのは、青い色のリボンだった。
濃い青い色のリボンだったが、その色合いは鮮やかで、それがルーシェにはとても魅力的に思えたのだ。
店員たちはかしこまった様子で、素早く、丁寧に包装をすると、シャルロッテにリボンを手渡した。
それで、エドゥアルドの[寄り道]は終わりであるらしかった。
エドゥアルドは、未だに緊張で身体を固くしているルーシェと、すべてを心得ている様子で平然としているシャルロッテに「行くぞ」と短く声をかけると、恭しく頭を垂れて見送る店員たちに背を向けた。
全員で馬車に乗り込むと、エドゥアルドはゲオルクに合図をし、馬車はまたゆっくりと走り出した。
そこでようやく、ルーシェは、ほっとしたように大きく息を吐きだした。
すべてが、生まれて初めての経験だった。
ノルトハーフェンの街には賑やかな場所があり、そこでは様々な珍しいもの、素晴らしいものが売られている、ということは知ってはいたものの、スラム街に暮らしているような浮浪者が近寄れるような場所ではなかったし、ルーシェには無縁の場所だった。
だが、そんな場所に、ルーシェは足を踏み入れた。
しかも、店の中にまで入り、そこで、聞きしに勝るほど数々の商品を目にすることになった。
それどころか、エドゥアルドの命令で、その中から1つ、自分がいいと思ったものを選ぶことになったのだ。
それだけでも、ルーシェにとっては大きな、一生モノの出来事だ。
緊張して、しかたがなかった。
ルーシェにとっては馬車に乗るという経験もほとんどないことではあったのだが、その馬車がゆっくりと走り出し、シュペルリング・ヴィラに向かい始めると、(ああ、やった帰れる! )と、安心したような、嬉しい気持ちになる。
(帰ったら、カイとオスカーに報告しないと! )
それからルーシェは、にへら、とその表情を緩ませる。
スラム街からずっと一緒に暮らして来た2匹の動物たち、ルーシェに唯一残っている家族と呼べる存在。
彼らは人間の言語など理解できはしないのだが、それでもルーシェは、今日あった出来事を一晩中でも語り明かしたい気分だった。
「ほら。受け取れ」
そんなルーシェの目の前に、帰りの予定などをシャルロッテと打ち合わせし終わったエドゥアルドが、買ったばかりの青いリボンが入った包みを突然、差し出して来た。
「ふぇっひゃぃっ!!? 」
今日体験した出来事の思い出に浸っていたルーシェは、そのエドゥアルドの突然の行動に急に現実に引き戻され、ビクッと身体を震わせながら双眸を大きく見開き、エドゥアルドの方を見つめ返す。
エドゥアルドは、確かに今、リボンをルーシェに「受け取れ」といった。
それはいったい、どういう意味なのか。
ルーシェは理解できずにきょとんとしていたが、やがて、今日の出来事を思い起こし、(ああ! )と気づいた。
お店の人は、エドゥアルドに直接、リボンを手渡さず、シャルロッテに預けていた。
エドゥアルドは高貴な貴族なのだから、たとえリボンのような軽いものでも、シャルロッテのようなメイドが代わりに持つのが普通だからだ。
つまり、エドゥアルドは、懐中時計と同じように、ルーシェにそれを「預ける」と言っているのに違いない。
(あれ? でも、なんで? )
ルーシェは状況を自分なりに理解したものの、だが、すぐに違和感を覚える。
だって、リボンはシャルロッテが持っていたはずなのだ。
そうであるのだから、わざわざエドゥアルドがそれをシャルロッテから受け取って、ルーシェに預け直すのはおかしい。
シャルロッテにずっと持ってもらっていればいいだけのことなのだ。
「早く受け取れ」
エドゥアルドは、きょとんとしたまま目をぱちくりさせているルーシェに、少しだけいらだったように言った。
「これは、お前にやる。だから、さっさと受け取ってくれ」
「……。ふぁい? 」
エドゥアルドの言葉に、ルーシェは呆けたような声を漏らす。
エドゥアルドの言葉は聞こえていた。
だが、ルーシェには飲み込めない。
これは、お前にやる。
それはつまり、リボンは、ルーシェのものになるということなのか。
エドゥアルドはわざわざ寄り道をして、ルーシェのために、このリボンを買ってくれたということなのだろうか。
状況から言えばそうとしか言えないのだが、しかし、ルーシェの先入観が、その結論を受け入れることを拒絶する。
だって、こんなこと、ありえない。
自分はスラム街で育った下賤な取るに足らないような存在で、家名さえ知れず、父親が誰なのかもわからない人間なのだ。
そんな自分が、エドゥアルドから、公爵からプレゼントを受け取る。
あの、濃く、鮮やかな青い色をした、美しいリボンを。
そんなこと、あり得るはずがない!
「まったく。……鈍臭い奴だ」
ルーシェが呆然としていると、エドゥアルドはリボンを差し出したままでいることに飽きたのか、そう面倒くさそうに呟くと、手をのばしてルーシェの膝の上に無理やりリボンを置いた。
「あっ……」
ルーシェは、そのリボンが自分のものになるということ、エドゥアルドから、公爵からプレゼントをもらったという現実を、それで受け入れざるを得なくなり、愕然として思わずそう声を漏らしていた。
それから、かろうじて問いかける。
「ど……、どうして、で、ございますか? 」
自分は卑賎な身の上で、取るに足らない存在で。
失敗ばかりして、迷惑をかけて。
館を追い出されるくらいだと思っていたのに、許されて。
そんな自分が、こんな、素敵なプレゼントをもらえるはずがない。
ルーシェはそう思っていたし、そう思いたかった。
そうでなければ、自分が信じてきたこれまでのすべてが、自分という存在に与えたルーシェなりの定義が、壊れてしまうからだ。
もし、そうなったら、ルーシェは、自分はどんなふうに生きて行けばいいのか、もう、わからなくなってしまう。
自分は卑賎な存在なのだから、どんなに辛い目に遭っても、しかたのないことだ。
そうやって、自分の目の前に次々と現れる辛い現実を、諦めと共に受け入れてきた、自分自身を納得させ、[しかたがない]と、絶望の中で生き続けるために必要だった言い変えが、できなくなってしまう。
「まだわからないのか。なら、はっきり言おう。……それは、お前のために買ったものだ」
だが、エドゥアルドは、ルーシェの方に視線を向けず、窓の外の景色に視線を向けながら、不器用に言うのだ。
「お前は、正直言って未熟だし、確かに、どこの誰ともわからないような人間だ。
だけど、そんな境遇にお前を置いたのは、僕たち貴族の責任だ。
僕には、まだ公爵としての実権はない。僕の手では、お前たちのような人々を、救ってやることはできない。
だが、そんな自分を、僕は不甲斐ないと思う。
だからせめて、最初の一歩として、お前だけでも救いたいと思う。
そして、いつか、僕がこの国の実権を取り戻したら、お前だけじゃなく、他の人々も救いたい。
僕は、いつか、この国を統治して、そういう政治をする。
そのリボンは、その……、お前への約束のつもり、だ」
それは、あまりにも若く、真っすぐな言葉だった。
だが、それだけに、ルーシェの心にも、真っすぐに届いた。
スラム街では、今も大勢の人々が貧困の中に暮らしている。
数えきれない人々が、自分は誰、とも理解できないまま、消えて行く。
エドゥアルドは、そんな自分たちにも目を向けようとしてくれている。
それだけではない。
ルーシェに、お前は「ここにいていいのだ」、そう言っている。
自分は、ここにいていい。
自分自身を卑賎な存在として蔑み、希望などないと諦観し、なにがあっても自分が悪いのだと抱え込み、ビクビク怯えて生きる。
そんな生き方を、しなくともいい。
エドゥアルドは、ルーシェにそう言っている。
それを理解した時、ルーシェは、自身の膝の上に置かれたリボンを両手でつかみ、きつく胸の中にかき抱いて、声も出せないまま、泣いた。




