第34話:「寄り道:1」
第34話:「寄り道:1」
馬車で待っていろ。
エドゥアルドからそう命じられたルーシェだったが、ルーシェが待っていなければならない時間は、自分で想像したのよりもずっと長かった。
だが、ルーシェは、待っていることができた。
同じように待機を命じられ退屈していたゲオルクとおしゃべりして時間を過ごすことができたというのもあったが、なにより、エドゥアルドがルーシェに預けていった懐中時計の存在が大きかった。
懐中時計は、ルーシェにとっては、自分がこのまま置き去りにされないという[約束]そのものだった。
ゼンマイを巻いて動かす仕組みの機械式時計は静かに時間を刻み続け、ルーシェは、嬉しそうに、興味深そうに、その懐中時計を見つめ続けていた。
朝早くに館を出てから、何時間も経って、正午近くになったころ。
ようやく、エドゥアルドとシャルロッテは戻って来た。
「公爵さま。せっかくですので、お食事などいかがでしょうか? 料理人に腕によりをかけさせますが」
「いや。そこまで迷惑をかけるつもりはない。……丁寧な案内、感謝する」
もうすぐ昼食時だから、とオズヴァルトはエドゥアルドを引き留めようとしていたが、エドゥアルドはそれを断り、シャルロッテが開いた扉からさっさと馬車へと乗り込んでくる。
「おかえりなさいませ、公爵殿下」
ようやく戻って来たエドゥアルドをルーシェは笑顔で出迎えたが、エドゥアルドはなんだか不機嫌そうな様子で、「ん」と不愛想に返事をしただけだった。
ルーシェは一瞬、やはりエドゥアルドは自分に怒っているのではないかと不安になったが、すぐにそんなことはないと思い直す。
エドゥアルドの不機嫌さは明らかにルーシェ以外のなにかに向けられたものであり、冷静さを取り戻したルーシェにはそれがちゃんと判断できる。
やがて、周囲の安全確認を終えたシャルロッテが馬車に乗り込み、扉が閉められると、エドゥアルドはひもを引いてベルを鳴らし、馬車を出発させた。
馬車は多くの労働者たちと蒸気機関の喧騒で満たされた活気あるヘルシャフト銃火器工場を出発し、ゆっくりとした速度でノルトハーフェンの街並みの中を歩き始めた。
ルーシェは車窓から見える景色にようやく興味を向けられるようになっていたが、そこに映る景色は、知らない街のようだった。
通りは石畳できちっと舗装され、左右に立ち並ぶ建物は石造りだったりレンガ造りで整然と石やレンガを積み上げて作られており、窓も、ガラスがすべて整えられていて、窓枠のペンキもはげたりしていない。
ところどころには、ノルトハーフェン公国、そしてノルトハーフェン公爵家の紋章である[舵輪]や、タウゼント帝国の紋章である[黒豹]が描かれた旗がかかげられ、ベランダには観葉植物が植えられた植木鉢の姿も見ることができる。
通りを行く人々はみな身なりがきれいで、生活に余裕がありそうな人ばかりだった。
ルーシェたちが暮らしていたスラムとは、まるで違う。
ルーシェにとって見覚えがなくて、当然のことだった。
(どうして、同じ街なのに、こんなに違うんだろう……)
ルーシェは、ぼろきれのような衣服を身にまとい、みな生活に余裕がなく、暗く沈んだ表情を浮かべているスラムの人々と、車窓から見える、明るい表情で活気ある人々とを比較しながら、ぼんやりとそんな疑問をいだいていた。
「公爵殿下。今のお時間は、どのくらいでしょうか? 」
ルーシェが車窓の景色に意識を向けていると、シャルロッテがエドゥアルドに向かってそうたずねていた。
ルーシェと同じように車窓の景色に視線を向けていた、しかし、実際にはそこに見える景色になどなんの興味もなく考えごとをしていたエドゥアルドは懐中時計を見るために自身の懐に手をのばし、そこで、目当てのものをルーシェに預けていたことを思い出した。
「ルーシェ」
「……あっ、はいっ、公爵さま! 」
「時計。そろそろ、返してくれ」
エドゥアルドに話しかけられたルーシェは慌てて視線を馬車の中に戻し、それからそう命じられると、「はい、公爵さま! 」と答えながら、大切に預かっていた懐中時計をエドゥアルドへと両手で差し出した。
差し出された懐中時計を目にして、しかし、エドゥアルドはけげんそうな顔をする。
なぜなら、その懐中時計は、エドゥアルドとシャルロッテを待っている間ずっとルーシェの両手の中にあった様子だったからだ。
(まさか、ずっと両手で握っていたのか……? )
わざわざそこまで大切にしなくともいいのに、とエドゥアルドは思う。
確かに、懐中時計は高価なものだったが、しょせんはモノに過ぎない。
多少壊れたとしても、修理するか新しいものを買えばいいだけであり、それにそもそも、ずっと両手で持っていなければならないほど、壊れやすいものでもない。
それなのに、わざわざずっと、両手でルーシェは懐中時計を守っていた。
そのことにエドゥアルドは内心で少し呆れる気持ちだったのだが、嬉しそうにエドゥアルドに向かって懐中時計を差し出しているルーシェの様子を見て、少し自分が思っていることとは違うと気がついた。
ルーシェは、エドゥアルドから物を預かり、大切に両手で守り、そして、無事にエドゥアルドに返却できることをとても嬉しそうにしている。
自分がどんな形であれエドゥアルドの役に立てたこと、そして、エドゥアルドがきちんと預けた懐中時計を受け取りに戻ってきたことが、嬉しくてたまらない。
そんな様子だ。
ルーシェは、愚かだからずっと両手で懐中時計を守っていたのではない。
それを、本当に大切なものだと思ったから、両手で守り続けたのだ。
(そう言えば、シャーリーが、コイツには身寄りがないと言っていたな)
エドゥアルドはルーシェから懐中時計を受けとり、シャルロッテに「今、11時47分だ」と答えながら、ルーシェがスラム街出身であることを改めて思い起こしていた。
エドゥアルドに対し、失敗したと感じた時の、ルーシェの過剰とも思える反応。
怖れ。
それはきっと、ルーシェにはどこにも行き場所がなく、ようやく見つけた居場所であるシュペルリング・ヴィラを絶対に追い出されたくないという気持ち。
そして、スラム街での惨めで、希望のない暮らしの中で身についてしまった、[自分は取るに足らない、いつでも使い捨てにされるような存在だ]という先入観によるものなのだろう。
エドゥアルドは、ルーシェにそこまで興味や関心は持っていない。
シャルロッテやマーリアの推薦があったから館に雇い入れることに許可を出したが、別にいてもいなくとも変わらないと思っている。
だが、館で雇うことになった以上は、あまり卑屈に考えられるのは嫌だったし、不必要に怯えさせたままでいさせるのは、エドゥアルドの本望ではない。
それに、考えてみれば、ルーシェもまた、このノルトハーフェン公国の国民だ。
つまり、エドゥアルドが、本来であればその権力を用い、守らなければならない相手なのだ。
ルーシェの境遇は、陰惨なものだ。
そして、ルーシェと同じように、スラム街で食うや食わずの生活をしている人々が、大勢いる。
そのすべてを、統治者としてエドゥアルドが救済することは、できない。
なぜなら、エドゥアルドにはなんの実権もないからだ。
だが、ただ1人、ルーシェだけは、今のエドゥアルドでもなんとかできるかもしれない。
なんの因果か、ルーシェは今、エドゥアルドに仕えるメイドなのだ。
そして、そのルーシェに対して、エドゥアルドがするべきこととは、なんだろうか。
衣食住は、すでに与えている。
そうであるなら、今のルーシェに必要なのは、もっと、別のことなのだろう。
そう考えたエドゥアルドは、シャルロッテから昼食にサンドイッチを用意してあること、帰り道でどこか適当な場所を見つけて食事にしようという提案を聞き、「それでいい」と返答した後、「その前に、少し、寄り道したいのだが」ときり出した。




