第31話:「視察:3」
第31話:「視察:3」
やがて馬車はノルトハーフェンの市街地へと入り、車窓に建物が見えるようになってくると、ルーシェはガタガタと小刻みに震えながら、「いよいよ捨てられてしまう」という恐怖におののいていた。
ルーシェの額には冷や汗が浮かび、その顔色もどんどん、青ざめていく。
「お前、大丈夫なのか? 」
今までルーシェのことなど気にしていない、という様子だったエドゥアルドも、さすがにルーシェの状態が気になったようだった。
「ルーシェ。ずいぶん顔色が悪いし、震えているようですが、気分でも悪いのですか? 」
続いて、エドゥアルドと同じようにルーシェの方を見ないようにしていたシャルロッテが、心配そうにルーシェにたずねてくる。
2人とも、ルーシェのことを気遣ってくれている。
目の前で、心配そうな視線を向けてくるエドゥアルドとシャルロッテの様子を目にしても、ルーシェはまだ、自身がこれから捨てられるのだという想像を信じきっていた。
ルーシェの呼吸が浅く、荒くなる。
彼女が暮らしていたスラム街が、近くなってきているためだ。
そのルーシェの様子を見て、いよいよ心配になったのか、エドゥアルドが天井から吊り下げられているひもを引っ張ってベルを鳴らし、御者のゲオルクに馬車を一度止めるように合図を出す。
だが、馬車が停止した場所が、悪かった。
ちょうど、ノルトハーフェンのスラム街の入り口に当たるような場所だったのだ。
とうとう、捨てられる。
ルーシェはこらえきれなくなって、声をあげて泣き始めてしまった。
「お、おいっ、なんで泣くんだっ!? 」
「ルーシェっ!? どうしたのですかっ!? どこか痛むのですかっ!? 」
そのルーシェの様子を見て、エドゥアルドもシャルロッテも驚く。
そんな2人に向かって、ルーシェは必死に、そしてようやく、自身の思いを叫ぶ。
「おねがいでございますっ! ルーを、ルーを、捨てないでくださいっ! 」
もう、失敗などしないから。
一生懸命、働くから。
だから、どうか、自分をスラム街に置き去りにしないで欲しい。
館でこのまま働かせて欲しい。
ルーシェの心の底からの叫びを聞いた時、エドゥアルドもシャルロッテも、きょとんとしたような顔をしていた。
それから、エドゥアルドは憮然とした表情を作り、「まったく、おっちょこちょいな奴だ」と呟くと、自身の懐からハンカチを取り出す。
そして、エドゥアルドは泣きじゃくっているルーシェに向かってそのハンカチを差し出し、優しい手つきでその涙をぬぐった。
「こっ、こうしゃくさまっ……? 」
そのエドゥアルドの行動に、ルーシェは戸惑い、そして、泣き止む。
ただ、ハンカチで涙をぬぐっただけ。
それだけのことなのだが、たったそれだけのことで、ルーシェは、自身が抱いていた恐れがすべて思い過ごしだったのではないかと、そう気づくことができたのだ。
ルーシェが泣き止んだのを確認すると、エドゥアルドはハンカチをしまい、再び車窓の外へ視線を向ける。
それからエドゥアルドは、ルーシェへ視線を向けないまま、だが、はっきりとした口調で言った。
「安心しろ。僕は、お前をここに、捨てに来たわけじゃない」
ルーシェは、そのエドゥアルドの言葉を確かに聞いた。
それでも、まだ[信じられない]というふうな表情のまま、戸惑って、きょとんとした顔でエドゥアルドを見つめ返している。
「フン」
エドゥアルドは、ルーシェに見つめられていることを自覚したが、未だにエドゥアルドのことを疑っているらしいルーシェの思い込みの強さを鼻で笑うと、再びひもを引っ張ってベルを鳴らし、ゲオルクに馬車を出発させた。
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再び走り出した馬車は、ほどなくして目的地へと到着した。
そこは、ノルトハーフェンの一画を占める、巨大な工場だ。
大型帆船が直接接岸できる埠頭に面した交通の便の良い土地に大きな敷地を持って建てられた工場で、レンガ造りの近代的な建物がいくつも建ち並んでいる。
海に面した部分には、工場で使われる原材料や、生産された商品などを収納しておくための倉庫がいくつも建ち並び、その奥の側には、巨大な煙突から煤煙を盛んに吐き出している製鉄工場、製鉄工場で生産された鉄を、大砲や小銃などに作り変える武器工場の施設があり、工場の主要部分を形成している。
敷地内にはレールも敷かれており、製鉄の原材料や、重い大砲の砲身、いくつも束ねられた小銃などを運ぶためのトロッコが何台も動いている。
そこには工場労働者向けの居住・宿泊設備や、労働者関係の設備もあり、敷地の余った部分にぎゅうぎゅうに詰め込まれるように建っていた。
敷地は背の高い柵で囲われており、ルーシェたちを乗せた馬車がくぐった正面のメインゲートには、鉄製のアーチがかけられ、[ヘルシャフト銃火器工業]という看板が高々とかかげられている。
メインゲートをくぐった馬車は工場の事務所などがある建物の前のロータリーにやって来ると、正面玄関の前にピタリと停車した。
すると、シャルロッテがすべてを心得ているかのような自然な動きで扉を開き、先に馬車から降りていく。
「ルーシェ。お前は、馬車で待っていろ」
シャルロッテに続いて立ちあがったエドゥアルドは馬車を降りるために扉から半分身体を出したが、「言い忘れていたことがあった」という顔で馬車の中を振り向くと、そうルーシェに命令した。
どうやら、エドゥアルドの視察にルーシェが同行するように命じられたのは、視察の最中にルーシェになにかを手伝わせたりするためではないようだ。
「あのっ、公爵さま……」
ルーシェは、馬車を降りようとしているエドゥアルドを不安そうに見つめる。
どうやら、自分は捨てられるわけではないらしい。
ルーシェはやっとそう理解したものの、やはり、心の中では不安や猜疑心を忘れることができずにいた。
エドゥアルドはルーシェを捨てるためにここまで連れて来たのではないと明言してくれたが、それでも、スラム街での生活の中でルーシェに染みついてしまった、自分をとるに足らない存在だと卑屈に思う気持ちが、ルーシェを不安にさせている。
ルーシェが、置いていかれることに心細さを感じているらしいと察したエドゥアルドは、しばしなにかを思案すると、すぐに懐から懐中時計を取り出し、ルーシェに「預かっておいてくれ」と言いながら手渡した。
それは、精巧な機械式の懐中時計で、本物の金を使った装飾を施された、公爵という地位にふさわしい豪華な懐中時計だった。
ルーシェは、自身が手にできるはずのないような高価な品物を預けられたことには、少しも感想を抱かなかった。
だが、ルーシェはエドゥアルドの顔を見返しながら何度かまばたきをした後、大切そうにその懐中時計を自身の手で押し包み、この世に2つとない宝物のようにその胸に抱きしめる。
その懐中時計に残っていたエドゥアルドの体温や、そのにおいが、ルーシェの不安を打ち消していく。
エドゥアルドがルーシェに懐中時計を預ける。
その行為は、ルーシェにとって、エドゥアルドが自分は必ずここに戻って来ると、すなわち、[ルーシェを迎えに来る]という約束をしてくれたのと同じことだった。
「なにかあったら、ゲオルクに言うといい」
ようやく安心した表情を見せたルーシェに小さく微笑むと、エドゥアルドはそう言い残し、そして、真剣な険しい表情を作ると、馬車を降り、工場の敷地へと降り立った。




