第30話:「視察:2」
第30話:「視察:2」
明日、公爵が向かう視察に、ルーシェも一緒に同行するように。
いつもの様子に戻ったように、もう怒っていない風に見えるシャルロッテから、エドゥアルドからのその指示を聞いた時、ルーシェは嬉しかった。
大きな失敗をしてしまった自分を、エドゥアルドもシャルロッテもまだ見捨てることなく、新しい仕事をくれた。
自分はまだこの場所にいてもいいのだと、そう思えたからだ。
だが、翌日になって、エドゥアルドが視察に向かうのがノルトハーフェンにある武器工場だと知った時、ルーシェは絶望した。
ノルトハーフェンは、ノルトハーフェン公国の経済の中心地であり、タウゼント帝国においてもっとも重要な港湾都市であったが、ルーシェにとっては自身が暮らしていたスラム街がその記憶のすべてだった。
ルーシェは、偶然、スラム街で拾われた。
もう2度と、あんな場所に戻りたいと思わないような場所から、救われた。
しかし、エドゥアルドはこれからルーシェをともない、あのスラム街が存在するノルトハーフェンへと向かうのだという。
(すっ……、捨てられるっ!!? )
ルーシェは、直感的に、自身の運命をそのように想像した。
視察に同行せよと言われた時は、まだ自分に仕事をさせてもらえるのだと思ったが、実際には違っていた。
ルーシェは、エドゥアルドにも、シャルロッテにも、すっかり愛想をつかされ、このシュペルリング・ヴィラから追い出されるのだ。
それ以外には、考えられない。
自分のような半人前のメイドを、わざわざ公爵自身の所用に同行させ、ノルトハーフェンに連れて行く理由など、ルーシェには他に思いつかない。
ルーシェはノルトハーフェンまで連れて行かれた後、そこで馬車から放り出され、そのまま置いていかれる。
きっと、そうであるに違いない。
だが、ルーシェはそのことを、シャルロッテにはもちろん、エドゥアルドにも確かめることはできなかった。
なぜなら、事実をたずね、そして、それが自身の想像通りであったらと思うと、あまりにも恐ろしくて、それを聞く勇気がまったく湧いてこなかったのだ。
ゲオルクが、4頭だての公爵用の上等な馬車を用立て、シュペルリング・ヴィラの正面玄関に乗りつけてエドゥアルドたちを迎えに来た時、エドゥアルドもシャルロッテも、一見すると平静そのものだった。
ゲオルクも、いつもの穏やかで優しい表情を浮かべていたし、なにも悪いことは起こらなさそうに思えた。
だが、ルーシェは怖くてたまらない。
自分はスラム街でその日暮らしをしていた、名も知れぬような存在であり、そんなルーシェを元の場所に捨てに行くとしても、エドゥアルドもシャルロッテも、ゲオルクも、なんとも思わないだろうと、ルーシェにはそう思えたからだ。
それでも、ルーシェは、シャルロッテにうながされるままに馬車に乗り込んだ。
できることなら、今すぐ引き返して、自身の部屋に戻って閉じこもっていたい。
カイとオスカーを抱きしめて、その感触と体温を感じていたい。
そして、自分を「捨てないでっ! 」と、エドゥアルドやシャルロッテに叫びたい。
だが、ルーシェには、そんなことはできない。
少なくとも、ルーシェはそう考えている。
自分は、取るに足らない存在だ。
スラム街で暮らすうちに自然に身についたその認識が、ルーシェにとって大きな壁として、無意識の内に立ちはだかっている。
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エドゥアルドの視察に同行する人物が全員乗り込むと、馬車はゲオルクの操縦でゆっくりと走り出した。
シュペルリング・ヴィラは主要な街道からやや外れた、脇にそれた場所にあるため、馬車はしばらくの間は路盤を締め固めただけのような、土がむき出しになった道を走らなければならない。
ルーシェとしては、馬車がなるべくゆっくり走ってくれるように祈りたい気分で、馬車がゆっくり走っていることが嬉しかったのだが、やがて石畳で舗装された主要な街道に入ると、馬車は無情にも徐々に速度をあげていった。
公爵用の馬車は、やはり造りが上等で、乗り心地が良かった。
車輪から伝わってくる振動を吸収するための構造がしっかり備えつけられているうえに、乗客たちを乗せる客室も防音がうまくできており、速度が出ていても快適に乗っていることができる。
4頭の馬に力強く引かれた馬車の車窓からは、景色が流れるように前から後ろへと過ぎ去っていく。
もし、これがノルトハーフェン行きの馬車ではなかったら、ルーシェは年相応の子供のように、馬車の快適さに感心し、流れていく景色に無邪気にはしゃぐことができただろう。
だが、ルーシェは、進行方向の逆向きに作られている座席に、シャルロッテと並んで腰かけながら、身じろぎ一つできずに緊張して固まったまま、ひたすら、自身がスラム街に捨てられるのではないかという恐怖に耐えていた。
ルーシェの正面側、進行方向の向きに作られた座席に腰かけているエドゥアルドは、ルーシェのことなどなにも気にしていない風に、車窓の景色に意識を向けている。
それは、一見すると、昨晩のルーシェの失態をなにも気にしてはいないという、公爵の意識のあらわれに見える。
しかし、ルーシェには、「お前のことなんか、なんとも思っていない」、つまり、「お前はいつ捨ててもいい存在だ」と、そんなふうにエドゥアルドに思われているとしか見えない。
加えて、エドゥアルドと同じように、なにごともなかったかのようにルーシェの隣で背筋をのばして座っているシャルロッテも、その様子は[ルーシェへの無関心]をあらわしているように思えた。
ルーシェにとってシャルロッテは自身をスラム街で発見し救助してくれた恩人であり、メイドの先輩であり、内心では姉のような存在だと思ってさえいたが、今のシャルロッテの姿は、ルーシェには「もう捨てるのだから、自分には関係ありません」と言われているように感じられてしまう。
馬車は、街道を順調に駆け抜けていく。
だが、その旅路は、ルーシェにとってひたすらに辛く、苦しいものだった。




