第29話:「視察:1」
第29話:「視察:1」
初めての給仕の仕事だったのに、せっかくの食後のコーヒーを盛大にぶちまけるという大失態を犯してしまったルーシェは、動揺し、怯えきった表情で、シャルロッテ、そしてエドゥアルドに謝罪をしようとしたが、シャルロッテに強い口調で「戻りなさい」と言われると、言葉を失い、まなじりに涙を浮かべながら退出していった。
きっと、ルーシェは今晩ずっと、泣き明かすことになるだろう。
とんでもない失敗をしてしまったという後悔と、自分たちがこれからどうなるのかという不安にさいなまれながら、眠れない夜を過ごすことになるのに違いなかった。
シャルロッテは、そんなルーシェを、不憫だと思った。
同時に、ルーシェにエドゥアルドの給仕を任せるのは、まだ早かったと、(ルーシェなら大丈夫)とした自分の判断を後悔してもいた。
ルーシェのことを、シャルロッテは単純な後輩としてだけではなく、妹のように思い始めている。
ルーシェは貧相な見た目で、礼儀作法などはまるで心得がなかったが、素直でのみ込みが速かったし、なにかにつけてシャルロッテのことを「お姉さま」と呼んで慕ってくれている。
兄弟、姉妹のいないシャルロッテにとって、ルーシェとの日々は楽しく、新鮮なものだった。
だから、早く一人前のメイドにしてやりたいと、焦ってしまった。
いくらのみ込みが速いとはいっても、ルーシェはしばらく前まではスラム街でなんとか生きていた少女なのだ。
いきなり、エドゥアルドへの給仕は、早かった。
もっと、練習をさせるべきだったのだ。
「大変、申し訳ございません。公爵殿下」
シャルロッテはルーシェが退出するのを見届けた後、エドゥアルドの方へと向きなおると、そう言って深々と頭を下げた。
「いや。いいんだ。……僕は、気にしていない」
エドゥアルドはそんなシャルロッテにそう言いつつ、テーブルクロスの無事だった部分に肘を置いて頬杖をつきながら、行儀悪くくわえたままのフォークを上下にピコピコと動かす。
「しかし、殿下。それでは、あの子が一人前になれません」
「わかってる。僕にだって、それくらいはわかってるんだ。……けど、アイツ、ずいぶん怖がっていた」
シャルロッテとしても、ルーシェを別に怖がらせたいわけではないのだが、失敗をしたり、責めを負わなければならないようなことをしてしまったりした時は、きちんとしかる必要があると思っている。
しかるべき時にしからなければ、そのままどんどん、なあなあに、物事が曖昧になって行って、結局ルーシェは一人前のメイドにはなれないだろうからだ。
少なくとも、シャルロッテはそう信じている。
エドゥアルドも、そのことは理解しているようだったが、それを理解したうえで、止めずにはいられない事情があった様子だった。
「実はな、シャーリー。こんなことがあったんだ」
そしてエドゥアルドは、少しバツが悪そうに、夕食の前に森であった出来事を話し始める。
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(少し、アイツを怖がらせ過ぎてしまったかもしれない)
エドゥアルドに、ただ「夕食ですよ」と呼びに来ただけのルーシェに向かって、思い切りナイフを投げてしまった。
咄嗟に、新しく公爵家で働くようになったメイドの少女だと気づいて狙いを外すことはできたが、それでも、自身のすぐ近くをめがけて飛んでくるナイフは、ルーシェにとっては怖かっただろう。
エドゥアルドが気にしているのは、そのことだった。
正直、「静かに近づいて来たアイツが悪い」と言いたいところではあるのだが、訓練に熱中するあまり周囲にまったく気を配れていなかった自分も至らぬ点があったと思うし、やはりあれは自分に落ち度があると、エドゥアルドはそう認めている。
なにより、物事を公平に見ず、自分が高位の貴族であることをかさにきて、なんでもかんでも相手が悪いとするのは、みっともないことだと思っている。
だから、エドゥアルドは内心、ルーシェには引け目があった。
ただ仕事をしていただけなのに、外れたとはいえ、いきなり鋭いナイフを投げつけられては、取り乱すし、怯えもするだろう。
この食卓でコーヒーを盛大にぶちまけたのも、もしかすると、エドゥアルドにナイフを投げられたことで、まだ怯えているのかもしれない。
それが真実かどうかはわからなかったが、少なくとも、エドゥアルドはそう思えた。
怯えていたから、ルーシェがあんな失敗をすることになったのだ。
エドゥアルドは、自身のうかつさが原因でそうなったと思っている。
だから、ルーシェのことをかばわずにはいられなかった。
それに、なにより、あの、怯えきったルーシェの表情。
それを見ると、エドゥアルドはなぜか、落ち着いていられなかったのだ。
「なるほど。……そのようなことがあったのですか」
エドゥアルドからなにがあったのか聞かされたシャルロッテは、そう言って、納得したようにうなずいた。
「だから、僕は今回のことを、気にしないことにする。……悪いが、お前も、アイツのことをあまり怒らないでやってくれないか? 」
「それは、異論はございませんが……。しかし、あの子はきっと、今、すごく怖がっているはずです。こんな失敗をしてしまって、お館を追い出されるのではないぁと。あの子には……、もう、ここ以外には行く場所がないようですから」
シャルロッテはエドゥアルドの要請を受け入れてくれる様子だったが、困ったような様子でもあった。
今頃、自室ですすり泣いているルーシェを立ち直らせるのは、簡単なことではないだろうからだ。
「ふむ。そうだな……」
今回の出来事について責任の一端を感じているエドゥアルドも、たっぷりとコーヒーがしみ込んだケーキを食べながら、真剣にルーシェをどうするかを考え込む。
ルーシェたちを館から追い出すつもりなど、エドゥアルドにもシャルロッテにもまったくなかったが、しかし、ルーシェ自身はそう思ってはいないだろう。
エドゥアルドに無礼を働き、シャルロッテまでも怒らせてしまった。
きっと、このまま館を追い出されるのに違いないと、そう思っているはずだ。
ルーシェの不安を解消してやり、そして、エドゥアルドのことを怖がらずに働けるようにするためには、どうするのが良いのか。
エドゥアルドは、ケーキの甘さとコーヒーの香りと苦さのハーモニーが思った以上にあとを引く、偶然出来上がった極上のデザートを咀嚼しながら考えを巡らせ、あることを思いつく。
「なぁ、シャーリー。明日のノルトハーフェンの視察に、アイツも同行させられないか? 」
唐突なその提案に、シャルロッテはけげんそうに首をかしげる。
「明日の視察に、ですか? オズヴァルト殿の武器工場の? 」
「そうだ。……外に出れば、きっと、いい気分転換にもなるだろう」
「それは、そうでしょうが……。ですが、かえって、あの子は恐縮してしまうのではないでしょうか? ずいぶん長い間、馬車に殿下と一緒に乗ることにもなるでしょうし」
「む……。確かに」
シャルロッテの指摘に、エドゥアルドはまたしばらく考え込む。
だが、それ以上に良い考えは、なにも思い浮かんでこなかった。
「まぁ……、このままにしておくわけにもいかないし、他に方法も思いつかないからな……。シャーリー、あとでルーシェに伝えておいてくれ」
「承知いたしました」
結局、エドゥアルドは、明日に予定している視察にルーシェを同行させることに決めた。




