第26話:「エドゥアルド:4」
第26話:「エドゥアルド:4」
「それで? お前、名前は、なんていったっけ? 」
「……ぇっ!? ぁ、えっ……? 」
ルーシェの顔についていた落ち葉や土をはらいのけ終わった後、腕組みをしたエドゥアルドにそう問われて、ルーシェは戸惑ってしまう。
自分が想像していた状況と、今の状況はあまりにもかけ離れ過ぎていて、理解が追いつかない。
「えっと……、ルーは、いえ、わたしの名前は、ルーシェ、といいます……」
やがてルーシェは、しりすぼみになりながらも、なんとかエドゥアルドの問いかけに答えることができた。
「あー……、そうだったな。うん。ルーシェ。ルーシェだ」
ルーシェの返答を聞くと、エドゥアルドはやや憮然とした表情を作り、右手で自身のブロンドの髪をかいた。
どうやら、本当にルーシェのことを覚えていなかった様子だ。
「確か、シャーリーの下についてメイド見習いをやっているんだったな……。それで、ルーシェ。お前は、どうしてここに来たんだ? もう日も暮れて来たし、不慣れなお前だけだと、森は迷いやすいぞ? 」
「えっ? あっ、はいっ。その、メイド長さまが、もうすぐ夕食の準備ができるから、公爵さまを呼んで来いと……」
「そうか。もうずいぶん、日が落ちるのが早くなったが、もうそんな時間だったのか」
エドゥアルドに問われて、ルーシェがようやく本来の用件を口にすると、エドゥアルドは周囲を見渡してからうなずいた。
「わかった。もう館に戻ることにする。けど、夕食は湯浴みをしてからにしたいな」
それからエドゥアルドはそう言うと、脱いで適当に枝に引っかけてあった上着を手に取り、乱雑に肩にかつぎあげる。
「悪いけど、身体についている落ち葉とか土とかは、自分ではらってくれよ」
そして、エドゥアルドはルーシェとすれ違いざまにそう言うと、館のある方へ向かってスタスタと歩いて行ってしまった。
その様子を、ルーシェは呆然としたまま見送る。
まだ、なにが起こったのか、よく理解できていない。
どうしてエドゥアルドがルーシェに怒らなかったのか、ルーシェには不思議でならなかった。
エドゥアルドのような貴族が、地位も、名誉も、富も持っているような人間が、ルーシェのような存在をこんなふうに扱うなんて、ルーシェの常識からすればありえないことなのだ。
怒鳴られたり、叩かれたりしなくて、よかった。
ルーシェはそう思ってほっとしていたものの、同時に、たまらなく不安な気持ちになって来る。
だって、こんなことは、おかしいのだ。
自分はエドゥアルドに、公爵という地位にある高貴な存在にこの上ない無礼を働いたはずなのに、それを不問にされたどころか、気遣われてさえいるような気がする。
エドゥアルドは転びそうになったルーシェを支えてくれただけではなく、顔についた落ち葉や土までもはらってくれた。
そして、おそらくは、ルーシェがエドゥアルドに抱き着くようになってしまった時に、エドゥアルドの衣服も汚れたはずなのに、そのことに文句の一つも言わない。
ルーシェは、自分が目を開いたまま夢の世界にいるような、そんな、ふわふわとした心地になっていた。
パニック状態だった思考は一応の冷静さを取り戻しはしたものの、起こった出来事を理解しきれずにいるし、エドゥアルドが顔をなでてくれた指の優しい感触や、暖かさを思い出すと、なんだか頬が熱くなるような気がする。
心臓も、いつもよりも早く、トクントクンと、脈打っている。
ルーシェは、少しずつ小さくなっていくエドゥアルドの背中を、自身の両手を胸に当て、自身の心臓を抑えるようにしながら見つめる。
今までだったら、絶対に、怒鳴られたり、叩かれたり、厳しくしかりつけられるはずなのに、優しく気遣われる。
ただ、それだけ。
そんな経験は、ルーシェにとって、生まれて初めてのことだった。
その時、ルーシェのメイド服のスカートに、そっと触れるものがあった。
視線を落とすと、そこには、ルーシェのことを心配そうに見つめるカイの姿があった。
カイはルーシェの近くにお行儀よく座ると、まるで「大丈夫? 」とでもたずねるように、小さく「クゥン」と鳴いて、尻尾をぱたん、と振る。
そう言えば、と、ルーシェは思い起こす。
カイは、エドゥアルドによくなついている様子だった。
エドゥアルドも、カイのことを好意的に見てくれているようで、まだ知り合ってから日が浅いのに、信頼しあっているようだ。
カイがなついているということは、あの、不愛想な少年公爵は、根は優しいのだろう。
せっかく挨拶に出向いたルーシェのことをほぼ無視し、そして、今日再び名乗るまで、名前さえ覚えてくれていなかった主ではあるものの、決して、悪い人間ではない。
エドゥアルドも、シャルロッテも、マーリアも、ゲオルクも、みんな、ルーシェたちに良くしてくれている。
メイドの仕事は大変だったが、それでも、なんの意義も目的もなく、日々、飢えをしのぐために働くのとは、比較にならない毎日がここにはあった。
スラム街とは、まるで違う。
スラム街の人々は、ルーシェたちに、良くて無関心、悪ければ、搾取や強奪の対象、という感じだ。
冬の入り口にさしかかった空気は冷たく、風も出てきていたが、ルーシェの胸の中は、なんだか暖かい。
「カイ。……ここは、思っていたよりずっと……。ずっと、ずっと、いいところだね」
ルーシェはそう言ってカイの頭を軽くなでてやると、それから、冷たい空気を思い切り吸い込んで吐き出し、火照るような感覚になっていた身体を冷ました。
「よぉしっ。がんばろーっ」
転んだりしたせいで全身についていた落ち葉や土をはらうと、ルーシェは小さく両手でガッツポーズを作りながら、エドゥアルドたちを驚かせたりしないよう、大声にならないように気をつけながらそう言って自身に気合を入れた。
そんなルーシェに合わせるように、カイも「ワンっ」と一声吠えると、ルーシェがやる気を出しているのが嬉しいとでも言いたそうに、ブンブンと尻尾を振って見せる。
「うふふ。……さ、行きましょっ」
ルーシェはカイに向かって微笑むと、そう言って、エドゥアルドの後を追って館へと歩き出した。




