第25話:「エドゥアルド:3」
第25話:「エドゥアルド:3」
ルーシェは、全身を小刻みに震わせながら、公爵の言葉を待った。
自分には、公爵がなにをしようと、それに逆らうような力も、権利もない。
スラム街での生活の中で刻み込まれた、おそらくはタウゼント帝国に暮らしているほとんどの人々が共有している意識が、ルーシェを怯えさせ、縛りつけている。
「顔をあげろ」
やがて頭上から発せられた公爵の言葉に、ルーシェは、ビクッ、と肩を震わせた。
これから、なにが起こるのか。
どんなつらい目に遭うことになるのか。
その恐怖心がルーシェに顔をあげさせることをためらわせたが、しかし、公爵の言うことに逆らうことなど許されない。
ルーシェは、おそるおそる、ゆっくりと顔をあげた。
そこには、憮然とした表情の、不機嫌そうなエドゥアルドが立っていた。
ルーシェは、エドゥアルドの姿を見ていることができず、慌ててまた額を土につける。
やはり、公爵は、怒っている。
そう思ったルーシェは、ただひたすらに、許しを請う。
「……立て」
少しの間を置いて、エドゥアルドはルーシェにそう命じる。
ルーシェは恐縮して動くことができなかったが、エドゥアルドはさらに強い口調で言う。
「立て。お前、僕に逆らうのか? 」
「と、とんでもございませんっ! 」
ルーシェは慌てて否定すると、浅く、早くなった呼吸を続けながら、ゆっくりと起き上がった。
だが、恐怖心で凝り固まったルーシェの身体は、ルーシェの言うことを聞かなかった。
立ち上がりかけたルーシェは足をもつれさせ、よろめいて、倒れこみそうになる。
そんなルーシェの手を取って身体を支えてくれたのは、エドゥアルドだった。
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「大丈夫か? 」
ルーシェの耳の間近で、エドゥアルドの声が聞こえる。
ルーシェが気づいた時には、彼女はエドゥアルドによりかかるようになって、まるで自分からエドゥアルドに抱き着いたような格好になっていた。
剣の訓練で汗だくになったエドゥアルドの汗のにおいが息をするごとに感じられ、肌寒い外気と熱く火照った体温がはっきりと感じられる。
耳を澄ませば、エドゥアルドの鼓動の音までも聞こえて来そうだった。
ルーシェの頭の中は、後悔と、焦りと、怖れで、真っ白になった。
とんでもないことをしてしまった。
そんな気持ちだけがぐるぐると頭の中を回っている。
ルーシェは、これまでの努力も、幸運も、すべてが台無しになってしまったと思っていた。
スラム街でその日暮らしをしていたような自分が、意図したことではないとはいえ、公爵に抱き着くような格好になっている。
平民の中でももっとも底辺にいたような自分が、タウゼント帝国の貴族の中でも高位にあるエドゥアルドによって、支えられている。
これ以上の無礼な行いが、あるだろうか?
「もっ、申し訳ありません、公爵さまっ! 」
ルーシェはなんとかそれだけを言うと、勢いよくエドゥアルドから離れようとする。
だが、パニック状態のルーシェの身体は、まともに動いてはくれない。
エドゥアルドから勢いよく離れたものの、ルーシェはそのまま後ろによろめき、足がもつれ、後ろにひっくり返りそうになる。
「ひょっ、ひょわぁっ!? 」
「あぶないっ! 」
ルーシェは再び悲鳴をあげながらひっくり返りそうになったが、エドゥアルドは今度も、ルーシェの手を取って転ぶのを防いでくれた。
エドゥアルドの手助けでルーシェはようやく自分の足で立つことができたが、全身の震えが止まらなかった。
一度ならずも、二度までも。
公爵の手をわずらわせてしまった。
(ごめんねっ……! カイ、オスカー……っ)
せっかく、1人と2匹、寒さや飢えに怯えずに暮らしていけるかもしれなかったのに、台無しにしてしまった。
ルーシェはそう思って罪悪感に包まれ、そして、公爵から下されるであろう罰を覚悟して、まなじりに涙を浮かべながら双眸をきつく閉じた。
「まったく。……お前は、危なっかしい奴だな」
だが、ルーシェが覚悟していたようなことは、起こらなかった。
エドゥアルドの、少し呆れたような声。
それと同時にルーシェへとのばされた手は、優しい。
どうやら、ルーシェの顔についた枯れ葉や土を、エドゥアルドがはらってくれているようだった。
「なにを勘違いしているか知らないが、僕は別に、お前に怒ってなんかいない。だから、そんなに慌てなくて、いい」
そんなの、ウソだ。
自分はとんでもないことをしてしまったのに、公爵が怒らないはずがない。
ルーシェはそう思った。
しかし、エドゥアルドが自分に触れる手は、優しい。
ルーシェの頬に触れるエドゥアルドの手は、暖かい。
(こんなの……、こんなはずは、ないのにっ! )
それは、ルーシェが知っている[貴族]の振る舞いではなかった。
もちろん、ルーシェが接したことがある貴族という存在は、エドゥアルドが生まれて初めての相手であるのだが、少なくとも、ルーシェがスラム街で暮らす中で伝え聞いていた、あるいは自然にそう思い込むようになった[貴族]のイメージからはかけ離れている。
ルーシェは、恐る恐る、その双眸を開いた。
目を開けば、夢が覚めて、自分はきっと厳しくしかられる。
そう思っていた。
だが、ルーシェの目の前にいたのは、ルーシェのことを呆れ、そして、少し楽しそうに見つめている、1人の少年だった。




