第24話:「エドゥアルド:2」
第24話:「エドゥアルド:2」
もう少しで、ナイフが自分に刺さるところだった。
それはもちろん怖いことだったが、ルーシェがなによりも恐ろしかったのは、[公爵殿下に嫌われたのではないか]ということだった。
目の前にいる少年は、自分と1つしか年齢の違わない相手だったが、あちらはノルトハーフェン公国という一国を治める領主である。
それに対して、ルーシェの方はというと、家名も持たないような、どこの誰ともわからない少女に過ぎない。
状況から言って、ルーシェに特に非があるわけではなかった。
それでも、すべてはエドゥアルドの気分次第で決まってしまうのだ。
貴族と、平民。
それが、このタウゼント帝国に存在する、身分の違いというものだった。
(どうしよう!? どうしよう!? どうしようっ!? )
ルーシェの頭の中は真っ白で、パニックだった。
もし、エドゥアルドが一言、「出ていけ」と命じれば、ルーシェはカイとオスカーを連れてこの館を出て行かなければならない。
冬本番は、もう、目と鼻の先だ。
まだ雪こそ降ってきてはいないが、いつ降り出すかわからないし、タウゼント帝国でも北の方にあるノルトハーフェン公国の冬は長く厳しいものとなる。
なんの身よりもあてもなく放り出された少女が、なんの準備もなしに生き残れる確率は限りなくゼロに近い、いや、皆無だった。
「なんだ。……お前は、確か、新しく入った、メイドじゃないか」
内心で、自身の悲観的な運命ばかりを想像し、腰を抜かしたままオロオロとしているルーシェの姿を見つめながら、エドゥアルドはバツが悪そうに、木剣を持っていない左手で自身の後頭部をかいた。
「まったく。……えっと、カイ、だったか? ちゃんと教えてくれないと、困るじゃないか」
それからエドゥアルドは、地面に寝そべったままのカイの方を軽く睨みつける。
カイは少し顔をあげると、「そう言われても……」と言いたそうに、困ったように小さく「クゥン」と鳴いた。
カイはきちんとルーシェに気がついていたし、エドゥアルドにルーシェのことを知らせなかったのも、ルーシェがエドゥアルドに害をなすことは絶対にないと、はっきりとわかっていたからだ。
「いや……、特に危険がないから、僕の邪魔をしないようにしてくれたのか」
少し考えてそれが理解できたらしく、エドゥアルドはやや憮然とした表情でため息をついたあと、カイのところへと向かい、かがんでやってその頭を「悪かったな。お前は、ちゃんと仕事をしてくれたのにな」と言いながら、優しくなでる。
カイはほめられたのが嬉しそうに、ブンブンと尻尾を振って見せた。
それからエドゥアルドは立ちあがると、まだ腰が抜けたまま立てずにいるルーシェの方に向き直る。
「ひっ!? 」
ルーシェは、(怒られるっ!? )と思って、反射的に小さく悲鳴をあげていた。
そんなルーシェに向かって、エドゥアルドはゆっくりとした足取りで近づいてくる。
その間、ルーシェの頭の中には、様々な悪い想像が駆け巡った。
最悪なのは、この館を追い出されることだった。
だが、そうでなくとも、恐ろしいことはいくらでもルーシェの頭の中に浮かんでくる。
たとえば、エドゥアルドに平手打ちにされるとか。
もっと悪ければ、彼が持っている木剣で叩かれるということだってあり得る。
それ以外にも、エドゥアルドに蹴られるとか。
きっと、とても、とても、痛いだろう。
怒鳴られる程度なら、かわいいものだ。
その時、ルーシェの頭の中で、スラム街での光景がよみがえる。
その瞬間、ルーシェは息をするのもつらくなって、心臓の辺りに、冷たい、氷でできた鋭利なナイフを突きつけられたような、恐怖を覚えていた。
だが、エドゥアルドは、ルーシェの方には来なかった。
代わりに、ルーシェが腰を抜かしているままでいる隣、木の幹の前に立っていた。
「やれやれ。やっぱり、シャーリーのようにはいかないな。……咄嗟にメイドだと気がついて、狙いをそらせてよかった」
それから、エドゥアルドはそんな独り言をぶつくさと呟きながら、木剣を自身のズボンのベルトに挟んだ後、木の幹に刺さったままのナイフを引き抜いた。
(ぁっ……)
ルーシェの頭の中に、その瞬間、スラム街での、もっともつらい記憶がよみがえった。
あの浮浪者に襲われ、衣服を破かれ、自分も家族も傷つけられ、大切な母の形見のペンダントを奪われた夜のことを。
あの時、スープを作っていた焚火の炎を鈍く反射していた、ナイフの刃を。
にじんだ視界で見つめたその光景を、ルーシェは、自身が望まないまま、はっきりと思い出していた。
「もっ、申し訳ありませんっ、公爵殿下っ! 」
ルーシェはぱっと跳ね起きると、落ち葉をかき分けるようにその場に這いつくばってエドゥアルドに向かって土下座していた。
ルーシェからすれば、今でも、公爵という存在は、雲の上のものだ。
貴族には地位があり、富があり、権力がある。
ルーシェのような平民の生殺与奪など、すべて、その貴族のその時の[気分]で決まる。
ルーシェの近くまでやって来た公爵がその手にナイフを持った瞬間、ルーシェの中にあった恐れがあふれだして、ルーシェの感情を埋め尽くしていた。
あの、公爵の手にあるナイフ。
それで、自分は切り裂かれるのか、突き刺されるのか。
あるいは、一時の興で、もてあそばれるのか。
ルーシェにとって、自分自身の力ではどうしようもない、逆らいようもない、運命。
それを想像したルーシェは、怖くてどうしようもなくて、ぶるぶる震えながら、身動きすることもできなかった。




