第23話:「エドゥアルド:1」
第23話:「エドゥアルド:1」
もし、なにかがあっても、なにもしようとせずに逃げろ。
そのマーリアの言葉は、ルーシェを気づかってのことだったのだろう。
それは、ルーシェにもよくわかる。
わかりは、するのだが。
ルーシェにはそのマーリアの優しい気持ちが嬉しかったが、同時に悔しくもあり、寂しくもあった。
逃げろ、と言われたところで、いったい、どこに逃げればいいのか。
ルーシェには身よりがない。
唯一の肉親だった母親は数年前に働き過ぎで身体を壊して他界してしまったし、父親はどこにいるのかわからないし、そもそも会ったことがないので顔さえ知らない。
ルーシェには、カイとオスカーという2匹の動物、かけがえのない家族がいるが、この館にいられなくなったら、どこにも行き場所などない。
また、あのスラム街に逆戻りするのが、せいぜいだ。
ルーシェにすべてを打ち明けることなく、なにかあっても、知らぬ存ぜぬで逃げ出せ、というのは、マーリアの優しさから出た言葉に違いなかったが、ルーシェにとっては残酷な言葉でもあった。
ルーシェにはこの館以外に行く当てなどないし、エドゥアルド公爵や、シャルロッテ、マーリア、ゲオルクのことを見捨てて逃げ出せ、とうのは、ルーシェにとっては「あなたはあたしたちの[身内]ではない」と言われているようなものだった。
だが、その気持ちをルーシェはうまくマーリアに伝えることはできなかった。
マーリアは間違いなくルーシェのことを思ってくれているとわかるから、ルーシェは自分の気持ちを言うことが[わがまま]のように思えてしまうし、そもそも、ルーシェのつたない語彙力では、この気持ちをうまく説明することも難しい。
ルーシェにできることは、それまでと変わらない。
一生懸命に、公爵家のメイドとしての仕事をこなすことだけだった。
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ルーシェは、その後もマーリアのために料理の仕事を手伝っていたが、やがて、マーリアから別の用事を頼まれることになった。
「ルーシェ。悪いんだけど、公爵殿下を呼んできてくれないかい? 今の時間なら、そうね、裏の森の中で、剣の訓練をしていらっしゃるはずだから。もうすぐお夕食の時間ですよって」
「はい。メイド長さま」
もちろん、ルーシェはすぐにうなずいて、自分が使っていた道具の後始末をきちんとすますと、すぐに厨房を出て、シュペルリング・ヴィラの裏手へと向かった。
メイドとして働くようになって知ったことだったが、シュペルリング・ヴィラの裏手には、歴代の公爵とその家族が狩場として利用してきた森が広がっている。
タウゼント帝国のみならず、ヘルデン大陸には古くから人が住み開発が行われてきたため、実を言うと豊かな森林は珍しい存在になっている。
木は、今でも燃料として貴重な薪の供給源であったし、なにより、家屋の建築など、様々な用途でたくさん消費される資源だった。
だから、ヘルデン大陸のあちこちでは、元々存在した豊かな森林というのはどんどん切り開かれて、現在では田畑や牧草地、なにもない平原となっている。
数百年前、このままでは木材資源が完全に枯渇してしまうという危惧を抱いた時の皇帝の命令により、タウゼント帝国では植林が計画的に行われるようになり、かろうじて森林が残されることとなった。
シュペルリング・ヴィラの裏手にある森も、そうして奇跡的に生き残った、それも植林によって再生されたものではなく、自然に存在した森がそのまま残っているものの1つであり、ある程度人の手がくわえられてはいるものの、鹿やウサギなど、狩りの獲物としてよく狙われる動物たちが多数生息している。
ルーシェは、その森があることを知ってはいたが、入るのは今回が初めてだった。
エドゥアルド公爵を呼びに行けと言われたので素直に館を出てきてしまったが、すでに冬を迎えつつある世界はすでに日が傾いて薄暗く、肌寒く、目の前に見える森の木々は黒々としていて、不気味に見える。
(なんだか、怖い……)
ルーシェは正直森の中に入るのが嫌になってきてしまったが、今さら引き返すわけにもいかないし、まだなんとか辺りが見える今のうちに、と、急いで森へと向かって行った。
幸い、森は狩場として整備されているためか、おとぎ話で聞くようなうっそうとした森ではなく、落ち葉が降り積もっていたが道とそうでない場所がはっきりとしていて、あまり奥まで入らなければ迷う心配もなさそうだった。
まだいくらか紅葉した枯れ葉が枝に残っているが、そのほとんどは地面に色とりどりの絨毯となって降り積もっているので、視界も思ったよりも良かった。
そして、ルーシェの耳に、静かな森の中で響く、風を切る音と、エドゥアルド公爵のかけ声が聞こえてくる。
どうやら、ルーシェが進んでいる道の先に、あの不愛想な少年公爵はいるらしかった。
ルーシェが、シャルロッテに厳しく指導されたように、なるべくきれいな立ち姿を意識しながら、落ち葉を踏みしめながら進んでいくと、ほどなくして、森の中の少し開けた場所で、木製の剣を振るって鍛錬に励むエドゥアルド公爵の姿が見えてきた。
どうやら、木から吊るしたいくつもの的に向かって次々と木剣で斬りかかり、複数人を相手にした立ち回りについて練習している様子だった。
いくらシュペルリング・ヴィラの裏庭のような場所とはいえ、命を狙われているかもしれない公爵が1人で訓練しているのは不用心だな、とルーシェは思っていたのだが、すぐに公爵には心強い護衛がいることに気がついた。
鍛錬に熱中している公爵のかたわらに、犬のカイがじっと、寝そべっているのだ。
一見するとカイは両目を閉じて眠っているような様子だったが、ルーシェは彼が本当に寝ているわけではないと知っている。
カイはああやって、耳をそばだて、そして、彼の鋭敏な嗅覚に意識を集中し、なにか異変があればすぐに公爵に知らせることができるようにしているのだ。
実際、カイは、ルーシェが接近してくるのにすぐに気がついた。
耳をピクリとさせ、鼻をフンフンとさせた後、閉じていた目を開いてチラリとルーシェの方を確認すると、カイは少し嬉しそうに舌を出した後、また両目を閉じて聴覚と嗅覚に意識を集中し、すぐに仕事に戻っていった。
忠義者なのだ。
ルーシェはそんなカイに小さく手を振った後、訓練に集中しているエドゥアルド公爵の邪魔をしないようにそっと近づき、やがて声をかければ容易に届くような距離にまで近づいた。
徐々に薄暗さが増してくる中で、公爵は相変わらず訓練に熱中している。
普段着のベストをぬぎ、シャツ1枚で、ボタンを上から3つ目まで外し、そでも肘の上までめくって、かなり使い込まれている様子の木剣を振るっている。
その振りは鋭く風を切り、足さばきはスムーズで止まることなく、公爵の額に浮かんだ汗が宙に舞い、木剣が的を叩く音と、公爵の息づかいが聞こえてくる。
ルーシェは、エドゥアルド公爵に声をかけるのをためらった。
せっかく集中しているのに、邪魔をしてしまっては申し訳ないと思う。
それに、ルーシェは、挨拶してから、公爵とまともに話したことがない。
だから、どんなふうに声をかければいいのか、わからないのだ。
それでも、このまま迷っていては、本当に日が暮れてしまう。
ルーシェは思い切って声をかけようと1歩を踏み出したのだが、たまたま、地面に枯れ葉と混じって落ちていた小枝を、ぱきっ、と踏んでしまった。
その時だった。
「誰だっ!? 」
エドゥアルド公爵はそう鋭く叫ぶと、素早くルーシェの方を振り返りながら腕を振りぬく。
すると、ひゅん、と空気を切る音が聞こえ、ダン、と、ルーシェのすぐ近くにあった木の幹になにかが突き刺さる音がした。
ルーシェが音のした方を振り返ると、そこには、1本の投げナイフが突き刺さっている。
「ひょっ、ひょわっはぁっ!? 」
ルーシェはようやくなにが起こったのかを理解して、素っ頓狂な悲鳴をあげながら、その場に尻もちをついていた。




