第126話:「のぞき見メイド、知恵をつける:1」
第126話:「のぞき見メイド、知恵をつける:1」
静かな時間が流れている。
エドゥアルドは読書すると宣言したとおり、ヴィルヘルムから推薦された難しそうな、分厚い本を読みふけり、ページをめくる音だけが聞こえてくる。
イスに腰かけたルーシェは、最初、そわそわと落ち着かなかった。
メイドとして働くことは、ルーシェにとっては自分がこの場所にいてもいいという存在理由であり、生きがいと言ってもいいようなことだ。
休めという主の指示だから休んではいるものの、身体を動かしていないのはどうにも落ち着かない。
だが、エドゥアルドが読書に集中し始めると、ルーシェは、いつの間にか睡魔を覚え、うつらうつらと船をこぎ始めていた。
ルーシェは少しも自覚してはいなかったが、エドゥアルドに心配された通り、疲れは溜まっていたらしい。
毎日朝早くから夜遅くまで、ほとんど働いていて、そうでなくても、シャルロッテやマーリアにメイドとしてのスキルを学ばせてもらったり、ゲオルクから文字を教えてもらったりしているのだ。
それに加えて、ルーシェは、ヴィルヘルムがどうやらエドゥアルドに害意を持っていないとわかった今になっても、授業ののぞき見をやめていない。
元々はヴィルヘルムのことを警戒しての行動だったのだが、今はすっかり、授業そのものが面白くなってきているのだ。
最初は内容が少しもわからなかったのが、ヴィルヘルムとエドゥアルドの授業をのぞき見しているうちに段々と理解できるようになってきて、もっと、もっと、と、そう思うようになってしまった。
ゲオルクから文字を教えてもらったから、ルーシェはこっそり、エドゥアルドが読んでいる本を読んだりもし始めている。
高位の貴族の子弟に英才教育を施すために集められた書籍ばかりだったから、どの本も分厚く、弾丸を防げそうなほどのものだった。
だが、重厚なのは外見だけではなく中身もで、文字がびっしり書かれているだけではなく、内容がわかりやすいように挿絵なども入れられている。
ルーシェには聞いているだけではわからないようなことがたくさんあったのだが、その挿絵のおかげでようやく内容を理解できたというものがいくつもあり、それが楽しくて、嬉しくて、今ではこっそり本を読むことが習慣化しつつある。
頭も、身体も、ルーシェはよく働かせている。
気持では少しも疲れていないつもりでも、自覚しない間に、疲れは溜まっていた。
いつの間にか、ルーシェはすっかり、眠りこけてしまっていた。
だらしなく口元を開き、そこからよだれを垂らしそうな勢いで、くかー、すー、と、寝息を立てている。
スラム街であれば、こんな風に居眠りすることはできなかった。
動ける限り動き続けなければそもそも食べていくことなどできなかったし、油断していれば持ち物が消えている、などということはよくあることなのだ。
だが、この場所は違う。
シュペルリング・ヴィラでは、皆がルーシェに良くしてくれるし、ルーシェを傷つけようなどとする人は誰もいない。
そしてなにより、そこにはエドゥアルドの姿があった。
黙々と読書に打ち込む、エドゥアルドの背中。
あの城壁の上で、人質に取られたルーシェのために怒り、フェヒターと決闘を戦ってくれたエドゥアルドの背中。
ルーシェに、ここにいてもいいと言ってくれる、背中。
エドゥアルドはまだ少年に過ぎなかったが、その背中は、ルーシェにとっては頼もしく、エドゥアルドのいるこのシュペルリング・ヴィラという場所は、心から安心することのできる居場所だった。
エドゥアルドは、いつの間にか空になっていたカップにコーヒーのお代わりを頼もうとルーシェの方へと視線を向けたが、その安心しきった様子のルーシェの寝顔を見て苦笑し、なにも言わずに視線を本のページへと戻した。
公爵家のメイドとしては、すっかり眠りこけて、口からだらしなく涎までこぼしそうになっているのはあるまじきこと、ではあったものの、ルーシェの普段の頑張りを知っているエドゥアルドにはむしろ、微笑ましかった。
ルーシェが居眠りしてしまうほどに疲れ切っているのはエドゥアルドのために頑張っているからだったし、ルーシェが心からエドゥアルドのことを信じ、頼りにしているからだというのがわかっているからだ。
(起きた時に、どんなふうにからかってやろうか)
そして、エドゥアルドにはそんな楽しみもあった。
エドゥアルドは、ルーシェのように凄惨な環境で育っては来なかった。
ノルトハーフェン公国という、タウゼント帝国の中でも有力な大貴族の家に生まれ、何不自由なく育てられ、次期公爵として、英才教育を施されて来た。
そんなふうに、エドゥアルドとルーシェは対照的な存在だったが、今、一番エドゥアルドと距離が近いのは、ルーシェだった。
エドゥアルドは、実権を持たないとはいえ、ノルトハーフェン公爵だ。
厳格な身分制度が存在する社会の中で、その公爵という地位は重い。
誰もがエドゥアルドに、少なくとも表面的にはかしこまって頭を下げ、その意向を尊重するような態度をとる。
裏では公爵位の簒奪を目論むエーアリヒ準伯爵でさえ、表面的にはそうだ。
だから、エドゥアルドには、[臣下]はいても、対等な[友人]はいなかった。
シャルロッテやマーリア、ゲオルクのことは信頼しているし、確かな絆があると感じているが、彼女たちもまた[臣下]であって、[友人]ではない。
ルーシェには、その垣根がなかった。
スラム街で育つという不幸な過去のせいか、ルーシェには公国で暮らす人々が一般的に持っている[常識]が欠如している部分があり、エドゥアルド[公爵]を敬わなければならないということは理解していても、なんとなく距離が近い。
それに加えて、他愛のないことでも一喜一憂するような、純粋で素直な、明るい性格だ。
エドゥアルドの方も変に気兼ねすることなく接することのできる、気安い相手だった。
エドゥアルドにとって、ルーシェはもしかすると、生まれて初めてできた[友人]であるのかもしれなかった。




