第125話:「穏やかな時間」
第125話:「穏やかな時間」
エドゥアルドとフェヒターが、ポリティークシュタットの城壁の上で決闘を行ってから、数日が経過している。
その間、シュペルリング・ヴィラでは、穏やかな日々が続いていた。
あれ以来、記憶に残るような大きな事件はなく、ルーシェも、エドゥアルドたちも、これまで通りの日常を過ごしている。
冬は深まり、雪も何度か降って、シュペルリング・ヴィラの周囲は銀世界となっていたが、屋敷の中は暖かい。
それは、単に暖房のために暖炉に火が入れられ、途絶えさせることなく炎を燃やし続けているからというだけではなく、そこで過ごしている人々の間に連帯感のようなものが生まれつつあったからだった。
エドゥアルドは、ヴィルヘルムの指導の下で熱心に勉強や鍛錬に励み、その姿を目にする兵士たちは、少しずつエドゥアルドに[期待]を持ちつつある。
自身の才能におごらず、努力を続けるエドゥアルドの姿に兵士たちは他の貴族のような傲慢さを感じず、親しみを覚えつつあるようだった。
これには、ルーシェが続けてきた努力も大きかった。
寒い冬の夜に兵士たちに差し入れられる暖かなスープはもちろん、いつも元気な(ただしたまにドジっ子な)ルーシェの姿に、兵士たちは心にまで温かさを感じているようだった。
ルーシェは、相変わらず忙しく働いている。
事情があって使用人の数を簡単には増やせないシュペルリング・ヴィラでは、ルーシェがこなさなければならない仕事はいくらでもあった。
だが、ルーシェは幸せだった。
ルーシェにとって、メイドとして働くことは自分が必要とされているとやりがいを感じられることだったし、なによりも、自分が一生懸命働けば、周囲の人々はそれを評価してくれる。
それは、ささいなものだ。
たとえば、ルーシェがなにかお仕事をこなした時に、短く「ありがとう」とお礼を言ってもらうことができたり、シャルロッテやマーリアにほめられて頭をなでてもらえたり、兵士たちが「いつも美味しいスープを食べさせてもらっているから」などと言って、ルーシェには手の届かない高い場所にあるモノをさりげなく取ってくれたり、力仕事を手伝ってくれたり。
この前は、エドゥアルドが「ずっと渡すタイミングを逃していたんだが」と言いつつ、袋いっぱいのキャンディをルーシェにプレゼントしてくれもした。
それは、ルーシェが今までに経験したことのないものだ。
頑張れば、頑張っただけ周囲の人々が喜んでくれる。
ルーシェのことをほめて、必要としてくれる。
スラム街で暮らしていたころは、そんなことはなかった。
スラム街の人々は皆貧しく、自分にとっての利益を少しでも逃すまいと抱え込み、互いに奪い合い、警戒し合い、時には排除しようとさえした。
そうして、力のないルーシェのような存在は、隅に追いやられ、誰にも知られないまま消えて行ってしまう。
ルーシェは、そういうモラルのないスラム街の人々を、恨む気にはなれない。
なぜならそれは、スラム街に暮らしていた人々が余裕のない、食うや食わずの生活をしなければならず、今ルーシェの周りにいる人々のように、他人のことを考えるという余裕を持てなかったためだからだ。
ルーシェは、自分は幸運だったのだと思っている。
思い出したくないほどに辛いことはいくつもあったが、今のルーシェには、暖かくて素敵な居場所があるのだ。
ルーシェを助けるために必死になってくれた2匹の大切な家族、カイとオスカーにも、ルーシェを見つけ出して助けてくれたシャルロッテにも、ルーシェを受け入れてくれたエドゥアルドにも。
料理のことや、最近ではお裁縫や、簡単な応急処置のやり方などを教えてくれているマーリアや、いろいろな昔話を聞かせてくれたり文字を教えてくれたりするゲオルクにも。
ルーシェが困っていたら自然に手を貸してくれる兵隊たちや、ルーシェがなにか用事をこなすといつも「お駄賃に」とキャンディをくれるヴィルヘルムにも。
ルーシェは感謝して、いつか、自分の働きでその恩が返せればと思っている。
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「ルーシェ。なんだか最近、ずっと機嫌がいいな? なにか、いいことでもあったのか? 」
冬の、降り積もった雪がとけ出すほどに日差しの暖かな日。
エドゥアルドの食後のコーヒーの給仕をしながら、にへら、にへら、と笑みを浮かべているルーシェの様子に気がついたエドゥアルドが、少しからかうような口調でそう言った。
「はい。ルーシェはとっても、嬉しいのです! 」
その問いかけにルーシェはうなずくと、元気のいい明るい声で答える。
「頑張れば、頑張っただけほめていただけて、ご褒美までいただけるのです!
毎日、とっても充実してるっ、ていう感じです! 」
「それは、よかった」
その、ルーシェのまっすぐな言葉に、エドゥアルドは思わず微笑む。
ほめられることが嬉しいというのはわかるが、ルーシェが[ご褒美]と言ってありがたがっているのは、この前エドゥアルドたちと一緒に外出した[休日]のことや、エドゥアルドが先日ようやく渡したキャンディのことだ。
その程度のことでも心底嬉しそうにしている他愛のなさが、エドゥアルドにはおかしく思え、また、どういうわけか、落ち着くような心地がする。
それからエドゥアルドはルーシェが給仕してくれたコーヒーを一口飲む。
焙煎されたコーヒー豆の香りが強く鼻に抜け、ほのかに苦みを感じることのできる、しっかりとした味わいのコーヒーだった。
(ずいぶん、上達したみたいだな)
エドゥアルドが内心で感心していると、ルーシェは(ドヤッ)という顔で、自慢げに笑っている。
そのルーシェの笑みに釣られて自身も微笑みながら、ふと視線をあげて時間を確認すると、時刻は2時近くだった。
「ルーシェ。今日は公務も特にないし、僕はしばらく、本を読むつもりだ。給仕はもういいから、その間、お前も少し休んでくれ」
「いえ、そんな! ルーシェは、エドゥアルドさまのメイドですから! 」
兵士たちへの差し入れの準備などで相変わらずルーシェが忙しく働いていることを知っていたエドゥアルドが気づかうと、ルーシェは少し驚いたように首を左右に振った。
「そうか? ……しかし、ずっと立ちっぱなしだと疲れるだろう? 」
「いいえ! 慣れておりますから! 」
エドゥアルドはルーシェに重ねて休憩を勧めるが、ルーシェは頑なだ。
やはり、ワーカホリック気味なところがあるのだ。
そんなルーシェの様子に、エドゥアルドはニヤリと笑って見せる。
「そうやって休みもとらないで働きづめだから、ドジを踏むんだぞ? 今日だって、危うく皿を割るところだったじゃないか」
「あっ、あぅぅっ! 」
エドゥアルドに、給仕中につまづいたことを指摘されて、ルーシェは赤面する。
現場をしっかりエドゥアルドに目撃されているために、反論できないのだ。
「わ、わかりました。……でしたら、その、そこのイスをお借りして、少しだけ。ご用があれば、いつでもお呼びくださいね! 」
そしてルーシェは、自分にできる精一杯の妥協をし、エドゥアルドの許可を得てイスに座り、少し落ち着かない様子で休憩に入った。




