第120話:「人質」
第120話:「人質」
エドゥアルドとシャルロッテがフェヒターのことを警戒しつつ背後を確認すると、そこには、後ろからエドゥアルドたちを追いかけてきたごろつきたちによって捕まえられてしまった、ルーシェの姿があった。
「はっ、はなしてっ!! いやっ、なにをするんですかっ!! 」
ルーシェはそう言いながらジタバタと暴れるが、背後から大柄なごろつきに羽交い絞めにされてしまっていて、どうすることもできない。
ゴン、と後頭部でごろつきに頭突きもしてみたが、逆にルーシェが痛い思いをしただけで、ごろつきはけろりとしていた。
「はっはっは! 間抜けなすずめ公爵め! 護衛の人間を連れず、わざわざこちらの人質になるようなか弱いメイドを引き連れてのほほんと観光とは! まったく、見ていて虫唾が走ったぞ! 」
フェヒターは、ルーシェを人質に取られたことで表情を険しくしているエドゥアルドとシャルロッテを指さして嗤った。
自分からルーシェを人質だと言うあたり、もう、エドゥアルドと敵対する気でいるのを隠すつもりはないのだろう。
元々、エドゥアルドはフェヒターのことが大嫌いだった。
フェヒターがエドゥアルドの持つ公爵位を狙う簒奪者であるということはもちろんあったが、なによりも、その軽薄な態度や人を見下した態度、派手さを好み自分を[大きく]見せることに執着することなど、もう、その存在自体が嫌いだと言ってもいい。
だが、普段のエドゥアルドであれば、ある程度はクールに振る舞うことができた。
しつこいフェヒターを追い払うために声を荒げることもあったが、エドゥアルドは頭のどこかに冷静な部分を残すことができていた。
しかし、この状況の中で、エドゥアルドは冷静さを失った。
「フェヒター! 貴様! 普段のおごり高ぶった態度はどうした!? 帝国の貴族としての誇りは、どこへ行ったのだ!? 」
ルーシェを人質に取る。
その行為は、あまりにも破廉恥なことだった。
そもそも、ルーシェは公爵家に仕えているメイドというだけで、本来であれば公爵位を巡る簒奪の陰謀とはまったく関係のない婦女子であるはずだった。
ルーシェはすでにエドゥアルドにとって信頼のおける人間の1人に数えられており、ルーシェを人質にされてエドゥアルドが冷静さを失う程度には重要な存在ではあったが、それでも政治とは無縁の立場にいるはずのか弱い少女を人質に取ることは、明らかに貴族としてふさわしい態度ではない。
それに加えて、フェヒターは、ルーシェを人質とすることで、エドゥアルドを恫喝しようとしている。
エドゥアルドからすれば、本来は1人の臣下でしかないはずのフェヒターが公爵位の簒奪を目論んでいることでさえ許しがたいのに、人質という卑劣な手段によって、フェヒターは自身の要求を通そうとしている。
臣下としての立場も、人としての道でさえも、フェヒターは踏み外したのだ。
しかし、フェヒターはエドゥアルドの批判を笑い飛ばしただけだった。
「はっ! ニセ公爵め! そうやって怒鳴り散らせば、人がいつでも頭を下げるとは、思わないことだな! 」
フェヒターは、その不敵な笑みを深くしている。
エドゥアルドがルーシェを人質に取られたことで激昂したことで、ルーシェという人質がエドゥアルドにとって[痛い]ものであると知って、自分の優位を確信したのだろう。
「さぁ、公爵殿下? たまには口ばかりではなく、ご自身の実力で道を切り開かれてはいかがですかな? ホラ、すずめ公爵様の腰のものは、無礼な臣下を切ることもできない、なまくらなのですか!? 」
エドゥアルドを小馬鹿にした口調のフェヒターの挑発に、とりまきのごろつきたちがゲラゲラと笑う。
これほどの無礼を働けば、公爵であるエドゥアルドには、フェヒターを斬り捨てる正当な口実が与えられる。
だが、エドゥアルドが剣を抜いた瞬間、フェヒターはとりまきたちと一緒になって、エドゥアルドをこの場で滅多切りにして始末してしまうつもりなのだ。
この城壁の上には、エドゥアルドたちと、フェヒターたち以外の何者もいない。
つまり、フェヒターがエドゥアルドたちを全員始末してしまい、そして、「エドゥアルドが不当に剣を抜いたから、正当防衛をしたまでだ」と主張しても、それを真実か偽りか判定するための確固たる証拠は残らないということだった。
噂はあっという間に広まるものだったが、[作る]こともできる。
この現場でなにが起こるのにせよ、エドゥアルドと、彼に従う2名のメイドを始末してしまえば、あとはいくらでもとりつくろえるとフェヒターは考えているようだった。
フェヒターは、合計で4人のごろつきを従えている。
人数で言えば、5対3。
しかも、対峙しているエドゥアルドの側は、エドゥアルド以外はメイド。
負けるはずがないという気持ちが、フェヒターの自信ありげな態度にあらわれている。
実際、エドゥアルドたちは、窮地だった。
フェヒターにとって、シャルロッテがエドゥアルドの身辺警護を1人で務めるほどの高い戦闘能力を持ったメイドだというのは計算外であるようだったが、それでも、ルーシェをすでに人質に取られてしまっている。
戦うのだとしても、満足に戦えるかどうかはわからない。
「殿下」
だからシャルロッテは、小さな声で短く告げて、エドゥアルドの高ぶった感情をなんとか抑えようとする。
この窮地を打開するための方策は見いだせていなかったが、それを考え出すためにも冷静さを取り戻し、できるだけの時間を稼がなければならないからだ。
シャルロッテの言葉でエドゥアルドは自身の腰に吊ったサーベルの柄にのばしかけていた手を引こうとしたが、この場でエドゥアルドから剣を抜かせたいフェヒターはすかさず、挑発を重ねた。
「ハッ! すずめ公爵は、口先だけで、存外、臆病なようだな! 」
そしてフェヒターは、ルーシェを捕らえているごろつきにあごをしゃくって合図を送る。
「ひっ!? 」
ルーシェは、ごろつきが取り出した抜き身のナイフの、鋭く研がれた切っ先を目にして小さく息をのむような悲鳴を漏らし、表情を青ざめさせる。
あの、スラム街で起こった、思い出したくもない出来事の記憶が、ルーシェの中で鮮明によみがえっていた。
「さぁ、公爵殿下? 少しで勇気がおありなら、剣を抜かれては? 」
「こらえてください。殿下」
フェヒターが挑発し、シャルロッテが抑える。
シャルロッテの声の震えから、彼女自身が今すぐ、ルーシェを救うために剣を抜きたいという衝動を必死に抑えているのがわかったエドゥアルドは、自身も辛うじて剣を抜きたいという衝動に耐えることができた。
「フン。筋金入りの臆病者め。……お前のメイドがどうなっても、知らんぞ」
そんなエドゥアルドたちの様子を見ながら、フェヒターは愉悦に歪んだ冷酷な笑みを見せ、ルーシェを捕らえているごろつきに「メイドがどうなるか、見せてやれ」と命じる。
ごろつきはうなずくと、冷たい視線をルーシェへと向け、そして、恐怖でガタガタと震え、涙を浮かべているルーシェに向かって、そのナイフの切っ先をゆっくりと近づけていった。




