第118話:「城壁の上:2」
第118話:「城壁の上:2」
幾重にも連なる瓦屋根。
道行く人々の喧騒。
城壁の上は見晴らしがよく、市街地だけでなく、周辺の田園風景や、遠くの野山までも、ずっとずっと遠くの方まで、一望することができた。
まるで、鳥か、天使になって、空の上から世界を見渡しているようだった。
北方のフリーレン海から吹き寄せる風がふわりとルーシェの髪と服とを浮かび上がらせ、その、少し空に浮かんだような感覚が、空を飛んでいるような解放感、心地よさをより強くルーシェに感じさせた。
ルーシェはその瞳を輝かせながら、城壁の上から周囲を見渡す。
どの方向を見ても(きれい……っ! )という感動を覚えたが、中でもルーシェの目に留まったのは、ポリティークシュタットの中でももっとも高台に築かれた、白く輝く城館だった。
「公爵さま! あの、お城? は、なんでございますか!? とっても、きれいです! 」
ルーシェに少し遅れて城壁の上まで登り切ったエドゥアルドに、城館を指さしながらルーシェがたずねると、エドゥアルドはルーシェの隣に並び、目を細めてその城館を眺めながら教えてくれる。
「あれは、ヴァイスシュネー。……我がノルトハーフェン公国の政庁であり、中枢であり、僕が……、ノルトハーフェン公爵が本来いるべき場所だ」
ヴァイスシュネー。
その名前を口にするエドゥアルドの口調になにか特別な思い入れを感じ、ルーシェは「ほわぁ~」と驚くような声を漏らしながら、ヴァイスシュネーを見つめた。
ルーシェも、公爵家に仕えるメイドなのだから、その名前くらいには聞き覚えがある。
しかし、こうやって実物を目にするのは、これが初めてのことだった。
まるで、おとぎ話に出てくるような建物だった。
漆喰で美しく表面を仕上げられたヴァイスシュネーは陽光を反射して輝き、どこか現実離れしたような姿を見せている。
ノルトハーフェン公爵家は代々、過度な装飾にはこだわりがなかったために、その居館となるヴァイスシュネーにも装飾は少なく、その外観はすっきりとした印象だ。
だが、そうすることで逆に、建物の形の組み合わせがシンプルに美しく見える、よくできた建築物になっている。
白く、清楚に気品ある美しさを持つその姿は、[白雪]と呼ばれるのにふさわしいものだった。
城壁の上からでも遠くまで見通せるのだが、ヴァイスシュネーはポリティークシュタットの中でも高台にある。
その塔からはきっと、もっと遠くまで見ることができ、ノルトハーフェン公国を一望の下に見おろすことができるはずだった。
「公爵さま! ルーシェ、今度は、あのお城から世界を見てみたいです! 」
城壁の上から見ただけでも素敵なのに、ヴァイスシュネーから見た世界は、もっと素敵に違いない。
そんな風に思ったルーシェは、自身の隣に立ってヴァイスシュネーを見つめているエドゥアルドに、無邪気にそう願った。
それはあるいは、少し失礼な物言いだったかもしれない。
エドゥアルドにとって、ヴァイスシュネーは本来、自分が居館とし、公国を統治するための場所だった。
だが今、エドゥアルドはそこにはおらず、それを城壁の上から眺めていて、そして、エドゥアルドがいるべきはずの場所には今、摂政であるエーアリヒがいる。
エドゥアルドは、好きで城壁の上にいるわけではないのだ。
自分が住むべき正当な場所を他人に占拠され、それに文句を言うこともできない、実権なき公爵であるがために、ここにいる。
だから、ルーシェの無邪気な物言いは、エドゥアルドの機嫌を損ねる可能性のあるものだった。
しかし、エドゥアルドは少しも気分を害した様子はなく、「ああ。……そう遠くない未来に、連れて行ってやるさ」と言って、ルーシェに約束をした。
ルーシェになんの悪意もないことなど、エドゥアルドにはとっくに理解できている。
それに、エドゥアルドは、自分の現状と向き合い、そして、この現状を打破しようという、揺らぐことのない決心がある。
(いつか、あの場所を僕の手に入れる)
公国の統治者として、人々の上に立つ。
ヴァイスシュネーを取り戻すことは、その象徴となることだ。
エドゥアルドはヴァイスシュネーに向かって手をのばすと、その先にあるものをつかみ取るようにぎゅっと握り拳を作りながら、自身の決意を新たにしていた。
「はい! 公爵さま! ルーシェ、楽しみにしておりますね! 」
そんなエドゥアルドに向かって、ルーシェは無邪気な微笑みを向ける。
それは、エドゥアルドがきっと、その約束を果たしてくれると、信じて疑わない真っ直ぐな笑みだった。
ルーシェにはまだ、この世界の複雑な事情というものはわからない。
彼女はただ生きるのに必死で、世の中の冷たさ、厳しさというものはこれ以上ないほど味わって来たが、エドゥアルドたちが身を置いている[政治]の世界のことはさっぱりだ。
だが、少なくとも、エドゥアルドはルーシェに、今日という素敵な1日を作ってくれた。
ルーシェに人並みに生きていくことのできる環境を与えてくれただけでなく、素敵な思い出をエドゥアルドはルーシェに作ってくれたのだ。
それに、ルーシェはエドゥアルドがいつも頑張っている姿を目にしている。
エドゥアルドは毎日難しそうな本を読み、ヴィルヘルムの授業を熱心に受け、そして剣の鍛錬も怠ってはいない。
最近では、ヴィルヘルムから異国の剣術なども学び、その武芸の技術はますます高くなっている。
そんなエドゥアルドの姿に、最近では、兵士たちの見る目も変わりつつある。
最初は、あくまで[公爵]と[兵士]という、地位や身分という一線のひかれた、いわば[お互いに別の世界の住人]であったのだが、今では[エドゥアルド]と[自分たち]という、[同じ世界の住人]とでも言えるような関係になりつつある。
突然演習に参加するなどとエドゥアルドが言いだした時には、実を言うと迷惑がられたりもしていたらしいのだが、その目的が[兵士たちと真剣に向き合うため]だったということが、兵士たちの間にも理解されつつあるのだ。
兵士たちだって、感情のある人間だ。
同じ戦地に向かうのだとしても、自分たちのことを[駒]としか思わない相手よりも、同じ[人間]として見てくれる相手からの命令である方を好ましいと思う。
エドゥアルドの頑張りを、誰もが目にして、認めている。
そして、そんなエドゥアルドのメイドだからこそ、ルーシェも頑張ることができるのだ。
(公爵さまなら、絶対に、できます! )
ルーシェがそんな、真っすぐでキラキラとした瞳で見つめてきていることに気づいて、エドゥアルドは気恥ずかしくなったのかそっぽを向いた。




