第116話:「ミヒャエル少尉:2」
第116話:「ミヒャエル少尉:2」
ミヒャエル少尉が入院している軍病院は、ポリティークシュタットの城壁の内側にある、瓦屋根を持つ大きな施設だった。
スペースの限られる城壁の内側にあるから、軍病院の建物は5階建て。
いくつもの建物が組み合わされた、奥行きも幅もある施設になっている。
戦時に戦地で負傷した兵士を治療するために多くの病床を設けられている軍病院だったが、平時は一般の人々にも開放され、一般庶民でも手の届く価格で医療を提供している。
これは、摂政であるエーアリヒが始めた政策の1つで、ノルトハーフェンの国民からは高く評価され、支持されている政策の1つだった。
エドゥアルドがゲオルクの操縦する馬車で到着した時も、軍病院では治療を待つ多くの人々の姿を見ることができた。
ポリティークシュタットに住んでいる者だけではなく、一般的な医師の高額な医療費を払えないために近隣の地域から集まって来た者も大勢いる。
エーアリヒ準伯爵は、ノルトハーフェン公国の権力を掌握しようと目論む、エドゥアルドにとっての敵だった。
だが、若く、理想を抱いているエドゥアルドからしても、エーアリヒのとった平時には軍病院を人々に解放するという政策は、高く評価できるものだ。
それが、単純に多くの人々の命を救っているからというだけではない。
平時には通常の病院として機能するようにすることで、軍病院では戦時でなくとも多くの医師や看護師を雇い入れることができ、戦時になって慌てて医療体制を整えずとも、すぐに大勢の負傷兵に対応できるのだ。
エーアリヒがそういった効果まで狙ってこの政策を実行に移したのかどうかは定かではなかったが、少なくともエドゥアルドは、自分が公爵としての実権を取り戻した後もこの政策は継続するつもりだった。
実を言うと、エドゥアルドが、(自分が実権を握っても続けるべきだ)と思っているエーアリヒの政策は、他にもいくつも存在した。
公爵位の簒奪を目論む不届き者、という点にさえ目をつむれば、エーアリヒ準伯爵は間違いなく有能な政治家で、優れた摂政なのだ。
(だが、僕は、決して負けはしないぞ)
人々でにぎわう軍病院の様子を眺めながら、静かに決心を固め、握り拳を強く固めていたエドゥアルドの耳に、ルーシェの「わぁーっ! 」と驚く声が聞こえてくる。
視線を向けると、そこには、馬車から降りて軍病院の大きな建物を見上げながら、はしゃいだようにぴょん、ぴょんと飛び跳ねているルーシェの姿があった。
ノルトハーフェンにも大きな建物というのは存在したが、5階建てでここまで大きな建物というのはさすがになく、ルーシェはその軍病院の大きさに感動しているようだった。
エドゥアルドはそんなルーシェの姿に苦笑し、握り拳を解くと、ミヒャエル少尉を見舞うために歩き始めた。
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「昇進を、辞退する? 」
命の恩人であるミヒャエル少尉と面会を果たし、ミヒャエルといくつか言葉を交わし、エーアリヒにやっと認めさせた昇進の話を切り出したエドゥアルドは、その場でミヒャエル少尉から昇進を断られて呆気にとられたような顔をした。
「それはその、やはり、中尉程度では満足できぬ、ということだろうか? 」
まさか断られるだろうとは思っていなかったエドゥアルドは、呆気にとられたまま、いぶかしむようにそうたずねる。
「いいえ。そうではありません、公爵殿下」
しかし、治療中ということもあってベッドから上半身を起こしただけでエドゥアルドと対面していたミヒャエルは、首を左右に振る。
「オレ、いえ、私は、殿下に仕える軍人でございます。そうであるからには、殿下のお命をお守りすることは我が務め。確かに私は殿下をお救いするべく負傷いたしましたが、それを持って功となせるとは思っておりませぬ。当然のことをしたまでです」
エドゥアルドから恩を受けることで、陰謀のうずまく公国の中で、自身の立場を固定させるようなことにはなりたくない。
エドゥアルドはミヒャエルがあくまで政争とはかかわりのない立場にいたいから昇進を断っているのかとも思ったが、ミヒャエルのはっきりとした口調からは、そんな打算や保身のようなものは感じられなかった。
「だが、貴殿がいなければ、僕はあの時命を落としていただろう。貴殿は僕にとって命の恩人なのだ。……今の僕にできることは些細なことだが、少しでも感謝をさせてもらえないだろうか? 」
「殿下のお言葉には、感じ入るばかりでございます。……ですが、私が殿下をお救いできたのは、たまたま私が殿下のおそばにいた、それだけのことでございます。もし、私の上官であるアーベル中尉やペーター大尉が殿下のおそばにおりましたら、私と同じように殿下のため、その一身を差し出したでございましょう」
ミヒャエルの意志は、固い。
そこにはどうやら、自身の所属する隊の上官に対する遠慮もあるようだった。
「貴殿の隊の上官も、貴殿の働きを認め、今回の昇進を喜んでくれてもいる。なにも遠慮することなどないだろう。ぜひ、受けてはもらえないだろうか? 」
そう感じたエドゥアルドはそう言って説得しようとしたが、ミヒャエルは小さく首を振り、それから、どこか自信ありげな笑みをエドゥアルドへと向ける。
「我がオルドナンツ家は、公爵家にお仕えする貴族の中でも、下級ではございますが、代々軍事に携わってきた、武門の家柄であると存じております。……そして、これは私のうぬぼれかもしれませんが、私はそれなりに能のある人間だと思っております。……ですから、殿下。私に地位を与えてくださるというのであれば、それは、殿下が公国を掌握されたのちに、私の立てる武功によって、ふさわしき地位を与えてくださいますよう。もし幸いにしてそのような機会がありますなら、その時はありがたく頂戴いたしたく思います」
幸運による栄達ではなく、実力によって立てた手柄で。
そのミヒャエルの言葉は、エドゥアルドを感銘させていた。
なによりも嬉しかったのは、ミヒャエルが、公国を掌握したエドゥアルドからなら、その武功に応じた昇進をありがたく受けると言ってくれたことだった。
それには、2つの意味がある。
1つは、ミヒャエルが、エドゥアルドが公爵としての実権をその手にすることに期待し、その日が来るまで待ってくれるということ。
もう1つは、公爵としてノルトハーフェン公国を治めることとなったエドゥアルドの下で、ミヒャエルは働き、武功を立てたいということだった。
ミヒャエルは、エドゥアルドに誠実に仕えようとしてくれている。
実権を持たず、味方も少ないエドゥアルドにとってそれは、なによりも心強いことだった。
「わかった。……貴殿が、僕が公爵としてこの国を治める時まで待ってくれるというのなら、僕は必ず、良き公爵としてこの国を治め、貴殿のあげる武功に正当に報いようと思う」
エドゥアルドはミヒャエルにそう約束した。
それは、必ず果たそうという強い決意の込められた約束だった。
それからエドゥアルドは表情を崩し、口調を和らげてミヒャエルに言う。
「しかし、僕のメイドの手料理だけは、ぜひ、食べてくれ。貴殿のためにマーリアに腕を振るってもらったんだ。きっと貴殿も気に入ってくれると思う」
すると、ミヒャエルもまた、素直に、嬉しそうに笑った。
「はい! 実は、味気ない病院食ばかりで、飽き飽きとしておりましたところです。ありがたく、ご相伴にあずからせていただきます! 」




