9 新しい生活(天斗視点)
凪と出会ってから一月が経とうとしている。
家に着いたばかりの頃は、色々と戸惑っていた凪だったが、持ち前の順応力の高さで瞬く間に馴染んだ。
家のある辺りは人里から離れているし、旅人が通るような道からも外れているから滅多なことでは他の人間は訪れない。
空人と思われる凪を匿う場所としては最適だ。
凪が寝静まった夜中に、情報収集の為に家を空ける。多少の不安はあるが、念の為家の周りに罠を仕掛けた。
凪には夜、厠に行かない用厳重注意しておく。夜は危険だから俺が付き添えない時は行くなと。これで問題ないはずだ。
空人。
凪と出会う少し前から聞くようになった言葉だ。
見慣れぬ紺色の着物、そして優れた知識有する者達。彼らは神に使わされた使徒だと言う者まで出始めている。
凪曰く紺色の着物はじゃあじと言って、学び舎の指定の物で何も特別な物ではないと言う。知識に関しては、幼少から皆が学ぶ制度があるからそれなりに有しているのは当然で、更にこの時代よりも未来から来たのだから、かがくとか歴史の知識が多少なりともあるのも当然だと。それでも皆が皆、この時代で役に立つ知識を持っていると言えば違うと言う。私はじゃあじの作り方もしょうゆの作り方も知らないんだからと。しょうゆは塩や味噌など調味料の仲間らしい。
凪は朝の寝起きは悪いが、それでも日の出と共にもそもそと起きてくる。
「天斗って、本当に寝てる?」
何度か尋ねられたが、俺は一刻かニ刻も寝られれば体調は万全だ。三日ぐらいなら睡眠を取らなくても問題ない。それが凪には不思議に見えるらしいが、毎日俺の顔を見て大丈夫だねと満足したように頷くので、睡眠に関しては納得したようだ。
意外だったのは、なんでも卒なくこなす凪が料理に関してはてんで駄目だったことだ。
ある日は魚を炭に変え、またある日は米を炭に変え、またある日は味噌汁を蒸発させた。
そこからはもう竈に触れることを禁止した。洗ったり切ったりは大丈夫そうなので監視のもとやらせている。
聞けば、あちらに居た時も火は使うなと厳命されていたらしい。もっと早く言え。
そんなこともありながら、穏やかな日々が過ぎていく。
俺からすれば、それはありえない日々だった。
凪と出会っていなければ、この家には帰っていなかった。どこかの宿に泊まるか、野宿をするか、どこに居ようと変わらないからだ。
「天斗、今日は良い天気だね。洗濯物乾きそう!」
そんなありきたりな台詞を、眩しいぐらいの笑顔で言う。
なんで凪を連れてきたのか。
ただの気まぐれ、あるとすれば空人らしき浮世離れした空気感が珍しかったから。泣き言を言ったり、面倒くさくなれば山に捨てるつもりだった。他人のことなんてどうでもいいと思っていたから。
「天斗、なにこれ!めっちゃ美味い!」
俺が作る飯をいつも美味いうまいと言って食べる。
「天斗ー、草鞋作るのって結構むずい」
いつも俺の名を呼ぶ。
高くも低くもない耳に心地良い声。
目が合えば、頬を緩ませる。
時に怒ったり、時に白い目を向けられることもあるが、大抵笑ってる。
そんな凪が顔を曇らせる時がある。
それは、家族を思う時だ。
凪の両親は幼い頃に事故で死んだらしい。親代わりとして育ててくれたのは三人の兄だと。一番下だった自分には過保護過ぎるぐらいで、うっとおしく思ったこともあったけど、やっぱり大事にされてたんだなぁと思う。独り言のようにそう呟いたことがある。
家族、それは俺には縁遠い言葉だ。
忍として生きることを定められた俺たち里の子供は産まれてすぐ親から離される。物心つく前から忍としての訓練が始まる。途中で訓練についてこれなくなった者は里を維持する生産側に回される。そうして何度もふるいにかけられ、残った一握りの者達だけが忍として世に解き放たれる。殺らねば殺られる。信じられるものは己の力のみ。余計な感情は死に繋がる。そう叩き込まれていた。
「天斗、おやすみ」
蝋燭の消された室内は暗い。
だけど、夜目のきく俺には然程不便はない。
凪の顔も見える。
手の届くところに居る。
それだけで、ほっとする。
この感情は余計なものなのか?
わからない。
ある日、凪が言った。
「私は、帰らないと」
帰る?
その一瞬、心臓を掴まれたように息が止まった。
そうか、凪はこの時代の人間じゃない。本来俺と出会うはずもない人間だったんだ。
これまで集めていた空人の情報の中から、近場の話をすれば凪は行くとすぐに返事をした。
他の空人に聞いたとして、帰り方がわかるとも思わない。それはきっと本人も重々承知の上なのだろう。
荷物の大半を家に置いて行くと言った。それはつまり、またこの家に帰って来ると言うことだろう。たったそれだけのことで、俺の心臓は正常に脈打つ。
感情に振り回される危うさは感じていた。
それを見事に突いてきたのが同郷の猿飛佐助、今は真田に仕える忍だ。
何故こんなところをうろうろしてるのかは定かじゃないが口ぶりからして、どこかで俺が凪を連れて歩いてるのを同業者に見られたようだ。
なんにせよ、何れは知られることだ。それはいい。問題は、ベラベラと余計な事ばかり言う佐助の口の軽さだ。
凪を枷だと言う。
違う。
凪は…………。
「枷じゃないなら、その足を守る草鞋ぐらいにはなりたいかな」
俺の気持ちを知ってか知らずか、そんなことを言う。
凪を草鞋なんかに例えられないが、守るという言葉を向けられたのは初めてだった。
心が浮き立つ。
町に着き早々に、問題が起こった。
凪と同じ空人である女が殴られている場面に出くわしたのだ。それがならず者に絡まれているぐらいだったらどうとでもなるが、相手が千葺屋となれば面倒だ。
千葺屋は元々瓦屋で時の国主に認められたのを良いことに、あの手この手と勢力を伸ばし今じゃ国お抱えの大商人になった。千葺屋の当主、真木島則業は悪い噂が絶えない男だ。そんな場所に凪をのこのこ連れて行けば、目をつけられるのは間違いない。空人だということを黙っていたとしても、凪の容姿は自然と目を引く。女にしては背が高く、榛色の髪と瞳はそれだけで珍しい。そんな凪を金と権力で囲いこもうとするのは目に見えてる。まぁ手を出してくるなら、返り討ちにするだけだが。
面倒事になるとわかっているところにわざわざ凪を連れていくことはない。
凪は千葺屋にいる空人を友だと言う。そこまで親しい仲ではないようたが、助けてやりたいんだろう。
人を助けてやる程、凪自身に余裕があるわけでもないだろう。なのに、真っ直ぐな瞳は俺からそれることなく強い意志を見せる。榛色の瞳に俺が映るほど近付いても逃げ出さない。
「千葺屋から離したとしても、家に連れて行くんは無理やで」
どの道、空人から情報を集めるには接触するしかない。なら、凪が望む最低限のことぐらいはしてもいい。
「え、それって」
譲歩した途端に真剣だった瞳にきらきらとした期待が灯る。
「あと」
危険に首を突っ込まないよう、ここは凪の居た場所のように甘くないと釘を刺そうと思ったのに、言葉に詰まった。
じっと俺を見る目に吸い込まれそうな感覚に陥る。すぐに触れられる距離だ。なのに、警戒心の欠片もない。
「あと?」
小首を傾げる仕草に、息を飲む。
かわ…………いや、ちょっと待て、落ち着け。
「あぁ、あかん」
自分から近づいといてなんだが、駄目だ。あの距離は駄目だ。
離れて凪を見れば、何故か眉毛と鼻を手で覆って狼狽えている。
「ほんま、なんなんやろなぁ、お前は」
特別飾り立ててるわけじゃないのに、誘うような色香があるわけじゃないのに、どうして目が離せないんだろうな。