過ぎたる性能は身を滅ぼす
第一項では登場人物における設定の希薄さについて書いた。
次の問題点として、作者が物語における不正行為についてあまり深く考えていない点である。
この場合の不正行為とは作品内での登場人物の設定の不正、所謂チートの事だ。
なろうではこのチート設定が氾濫している。特に異世界転移、召喚系だが最近の流行りは追放系であろう。
これらの序盤から最強系万能主人公のみでしか、なろうでは流行らないという点が問題なのだが、これに関しては作者より読者の方に責任があるということは先に述べておく。
話を戻すと、最強系万能主人公を出すとどう不都合があるのか、という点だ。
ではよくある最強系万能主人公の話の流れを大雑把に書くと、主人公が最強になる。敵を倒す。以上である。
細かく書けば途中途中に仲間の加入だの、新しい敵の発生だのという流れがあるにはあるが、結局はひたすらこれを繰り返している。
これは主人公が強すぎるからこれ以上にはどうにもならない、それに尽きるのだ。
主人公が強いから基本的には負けない。苦戦すらしない。強すぎる実力でライバルキャラクターを煽りに煽り、目上の人間だろうがなんだろうが敵ではない人に向かって見事にイキリ散らし、現れた敵を言葉通り瞬殺する。現実世界にこんな奴が現れたらどう考えても人格破綻者なのだが何故か素敵!抱いて!と好意を寄せられる。
感性の違い。これに尽きると言われればそれまでなのだが正直言ってこのいつもの流れは梅雨より不快指数が高い。
異世界は弱肉強食で強ければ生き弱ければ死ぬ。だから強いやつが偉いのだ。と言われれば異世界の厳密なルールはそうなのかもしれないが、群雄割拠して天下を伺う戦国の世でさえ将軍より強い武将などいくらでも居た。
その武将が果たして将軍にイキリ散らしていたのかといえば答えは恐らくほぼノーであろう。
ギャグやコメディ枠の作品ならその限りではないが、シナリオ自体はシリアス寄りにも関わらず主人公が領主にイキリ散らすシーンなどを読むと噴飯ものである。
しかしなろうにおいては主人公は強いから許されてしまう。本気で戦えば一国を滅ぼせる程強いから仕方ないのであろう。
そんな主人公は当然敵になるものが存在しない。
万が一苦戦すれば新たな能力に目覚め、再び瞬殺するわけだからなんら問題がないのだ。
さて義務教育にて学習したと思うが、物語には起承転結というものが存在する。これは物語自体の構成を表す物であり、起承転結とは文字数通り四段階で構成するという意味である。
なおこれは物語に限らず音楽の分野でも存在する概念であり、創作する方にとっては聞きなれすぎてもう聞きたくないほどメジャーなものであろう。
変則的なもので言えば守破離、序破急の三段、起承鋪叙結の五段、起承鋪叙過結の六段と存在するのではあるがここではあえて取り上げない。
一般的に義務教育等では起承転結が基本ベースとして用いられている。正確に言えば義務教育で取り扱われる創作の物語では起承転結の中でも複雑に入り乱れているのだが、基本はこれである。少なくとも義務教育では起承転結が重要視されている。
では義務教育から外れた創作の世界ではどうであろうか。
私個人の意見ではあるが、起承転結を用いなければ駄作であるという答えには断固として否という意見を出したいと思う。
脚本等では三幕構成がそこそこメジャーであるし、大学に通われた方の中にはイムラッドを教わった方もいるのではないか。
創作に何が何でも起承転結で物語を作らないといけないというルールは存在しない。
それが創作のいいところであろう。
商業作家の中ですら起承転結なんて存在していない話も山のようにある。スタートからクライマックスだぜ!を地で行くものだってある。しかしそんな作品でもとても面白い物は沢山ある。
身もふたもない言い方をすれば創作は面白ければいいのだ。起承転結を守るが故にその面白さが損なわれるようならば起承転結なんて犬に食わせておけばいい。
ただし、だ。
やおい、という言葉は最近めっきり聞かなくなり死語になってしまったのであろうか。何にせよやおいという言葉は殆ど男性同性愛を扱う女性向け作品の事を指していたが、元々は「やまなし、おちなし、いみなし」という語源通り、物語性が無い創作物の事である。
この場合の「やま」とは起承転結で言う「転」の部分であり、「おち」とは「結」の事である。
山も無ければ落ちもない物語は果たして面白いのかどうかは全く別の問題である。
「山」もなければ「落ち」もない。そうなると読む「意味」もなくなるのも当然である。
なろう小説にはまさにやおい状態に陥った作品が非常に多く見られる。
では「やおい」な話はどうやって話を始め、どうやって話を終わらせるのか。
それは力業以外なにものでもない。
なろうの場合の力業というものが最強主人公である。
苦戦している。もしくは一度簡単に敗退した為に、今度こそ勝つと決心し努力し、再挑戦してなんとか一進一退のノーガードの殴り合いになる。仲間の命がけのフォローを受けなんとか立て直し、傷ついた仲間はフォローするので力を使い果たし気を失う。本来ならば物語の構成で「山」となる部分が、最強系万能主人公の前には拳一発で解決してしまう。
話は進み、命を懸けて勝利をもぎ取った。仲間と鬨の声を上げる。討伐報酬を貰い、仲間と前後不覚になるまで飲み明かす。目覚めると討伐報酬全部つぎ込んでいた。今晩の宿代どうするんだと責任を擦り付け合う。仕方ない、明日から本気だすか。と話が締めくくられる。次回へ続く。
本来ならば物語の構成で「結」になる部分が、最強系万能主人公の前には問題にならない。なにせ苦労せずに他者から見たら圧倒的に強い敵が倒せるから、また倒せばいいだけなのだから。だから結の部分が特に印象に残らないまま次回の話へ進んでしまう。
結局、主人公が手軽に最強になったが故に自らの作品がやおい状態に陥っているのだ。とは言え話を進めないわけにもいかない。結果的にやおいの物語が続く事になり、最後の最後までやおい作品になってしまう。
そういえばこのコラムを書く為に参考資料として幾つか掲載されている作品を読んだ。その際に強くこう思う事がよくあった。
この現場にその仲間居なくても問題なかったですよね、と。
主人公が強すぎるが故に、仲間が必要ない状態が作り出されてしまう。もし多少の活躍があっても役に立ったわけではない、それはただの便利屋である。どの局面を見てもいなくても放っておけば主人公が解決してしまっていただろう、という物語の進行が見られた。
これが冒頭に述べた、「敵を倒す。以上」という問題に繋がるのだ。
仲間という物は基本的に持ちつ持たれつの関係が望ましい。現実世界とは違い創作の物語では、いかに個々の登場人物に魅力を持たせるのかが非常に重要なファクターになる。
ロールプレイングゲームを嗜む方ならお分かりになられるだろうが、前衛中衛後衛のバランスを考えてパーティー編成を考えるだろう。
やり込みプレイならば全前衛、全後衛パーティー等もあり得るがそのやり込みプレイをする為にかなりプレイヤーが無理をして育成すると思われる。
真っ当にバランスの良いパーティーを編成すれば苦戦しないだろう箇所で、パワーレベリングを行いゴリ押しプレイの必要が出てくる恐れもある。
要は最強万能系主人公とは、パワーレベリング後のゴリ押しプレイを行っているのと同義なのである。
レベルを上げて物理で殴る、確かに爽快感はあるだろうが反面飽きやすいというデメリットがあるのは想像に難しくない。
中にはこれを上手く解決させた作品も多い。一例のみ上げれば自らはバッファーに特化している。ただしバッファーの為に自らは敵をまともに倒す事ができない。だから仲間を必要とするという設定である。
こうする事により、一概に最強とは言えない主人公ならば仲間を連れ立つ理由も成立する。
多くの作品ではこういう特化型ではなく、万能な主人公が用いられる事が多い。だが主人公を万能にしてしまうと仲間の存在価値を失わせ、物語性も失う事になる。
前項で書いた、登場人物が薄っぺらいという問題との相乗効果で、なんら印象に残らない登場人物だらけのなんら印象に残らない物語が語られる。結果、なんら印象に残らない小説の完成、というわけである。
と、ここまで書いて気づいたが背中を任せる仲間としての存在価値を失った状態だからこそ、ヒロイン達は自分の必要性を確かめるように素敵!抱いて!に繋がり、愛情表現を繰り返すのか。
戦闘では必要とされないならば他の場所で、とは誰でも考える事だ。なるほど、これは一理ある。
行間を読め、とはまさにこの事なのであろう。
しかしそれはもはや愛玩動物となんら変わらない事は、あえて書かなくても理解してもらえるのではないだろうか。