一日目 居残りともう一枚
「よし、とりあえずその耐火布とやらを買ってこい」
日の光で目を覚ますという、いつも通りの健康的な朝に飛び込んできたのがこの一言。爽やかな一日の始まりが台無しである。クレスは寝惚け眼で頭を掻き、イーノに機嫌の悪そうな目を向けた。
「最悪な目覚めをありがとうよ、クソジジイ……」
そうして大きな欠伸を一つ。フェイネとクロウブも体を解しながら、頭を完全に覚めさせようと立ち上がった。
そこへ、湿った土の匂いが冷たく気持ちのいい風に乗り、神殿内へと流れてくる。外に目を向ければ、木々の葉に滴る露が朝日に照らされ、生き生きとした美しい光景が広がっていた。
「よかった、快晴ね」
晴れ渡る青空も相まり、より一層美しく映える光景がそばにあるからこそ、この神殿だけが取り残されてしまったかのような寂しさがある。
フェイネは改めて神殿内を見渡し、溜め息と共に肩を落とした。
「ここもちゃんと片付けないとだめね、長くいることになるし」
「そうだな……この広間だけでも使えるようにしないとな」
九十日間の滞在という、彼らにとっては恐ろしく長い期間を過ごす拠点となるのだ。急ごしらえの狭い、埃っぽさばかりが残る空間では生活どころではないし、何より衛生上もよくない。
クレスとてそれは分かっていると思うが、彼は近くに置いてあった悪魔の入る箱の蓋を開けながら、苦虫を噛み潰したような、全面で“嫌”を主張した顔を二人に向ける。
「やること増やしてどうするんだよ──と、何も変わってねぇな」
「でもこんなの持ちながら宿なんて行けるわけないでしょ」
「そうだけどよ……」
やはり、分かっていても受け入れたくはないらしいクレスは、箱の中で変わらず燃え揺らぎ続けている中身に、フェイネの当たり前の切り返しに不貞腐れて目を逸らす。が、それ以前に三人から目を離そうとしない半透明の老翁が、神殿から悪魔を持ち出すことなど許すはずがないだろう。
「落ち着いたなら早く行ってこい。ああ小僧、お前は残れ」
「はぁ!? 何でだよ!?」
「話があるに決まっている」
やっと離れられる。そんな気分でいたクレスは、盛大な舌打ちと共にイーノから顔を背けた。しかし、それも目の前の箱に収められた火の玉が目に入るなり、仕方がないと溜め息を吐く。
「まぁ、こいつをこんな狭い箱に押し込めておくのもなー……」
「じゃあ行ってくるからな、早めに戻って来られるようにはするが話はよく聞いておけよ?」
「わーかってるって」
へらへらと手を振りながら、準備が整ったらしい二人を見送るクレス。言い含めたクロウブはともかく、フェイネも本当に大丈夫かと疑惑の眼差しを向けるが、ここはどちらにしても行ってくる他はない。
そうして間延びした声で二人を送り出したクレスは、改めてイーノを向き直る。胡坐をかいて。
「で、何だよ、ジジイ」
「思うが、お前は何故私をジジイなどと呼ぶんだ。そんなに年老いて見えるのか」
仏頂面のイーノの前、クレスの顔から感情が抜け落ちる。一瞬の無。だがそれも、次には訝しむような顔に変わる。はぁ、何言ってんだこいつ、とでも言うような。
「誰がどう見たって白髪の頑固ジジイだろ」
「何?」
不愉快や怒り、というよりも、食い違いに湧いた、妙な疑問に顰められるイーノの眉。彼の中ではまだ、自身は老いていないという認識なのか。昨夜と違い、平常心でいるクレスもそれを察することができたため、この話は切り上げることにする。
「フェイネが帰ってきたら鏡でも見せてもらえよ。あー、でも幽霊って映るのか?」
「そこは何とでもなるわ」
馬鹿にするなとばかりに、だが気になるのか、オールバックの髪を撫でつけるイーノ。それを見はするも声はかけないクレスは、抱えていた箱に視線を落とす。
「なぁ、こいつ起きたか?」
今は動きを見せない、箱に収められ、されるがままとなっている火の玉。この正体こそ知れているが、クレスは警戒心もなく真上から覗き込む。もしこれが火でなければ、彼は手を触れることまでしていたかもしれない。
ただ、イーノもこの状態にはさほどの危険はないとしているらしく、近寄り様子を見る。
「最初に明確な変化がない限り、こいつは夢現を彷徨っている状態だ。つまりはまだ目覚めるには至っていない」
「何だよつまんねぇな」
「だが周囲の気を吸収はする。こんな状態だからといって気は抜くなよ」
一度はやる気を失くしかけたクレスだが、続いた言葉の羅列、意味に緊張感を露わにしたか。愚痴の一つもなしに、再度箱の中を覗き見る。確かな器官さえそこにはないが、全てを感じ取られているということ、本能的な部分であるからこそ、生半可な構えではいられない。
「さて、昨夜言ったことは覚えているか」
「育てて封印の話か?」
「そうだ」
昨夜目覚めてから、何かと物の上へ腰かけていたイーノは、今初めてクレスと同じ目線、床の上に腰を下ろす。
「お前は精霊に好かれやすいか」
「好かれやすいかって……オレはあいつらにちょっかいかけられまくってる方だな。助けてもらえることもあるけどよ」
舐められてんのかな、と口を尖らせるクレス。彼は幼少の頃からそうであった。よく森に入っては精霊に遊ばれ、迷えば助けられもするなど、何かと彼らに絡まれる。
「その時彼らに危害を加えたか」
「餓鬼の頃は手が出たかもしれねぇけど、今は何もしねぇよ。大体あいつらってそんなもんだろ?」
「ほう?」
感心したように細められるイーノの瞳。クレスはそんな目を向けられるようなことを言ったかと、怪訝な顔をするも、まだ言い足りないと話を続ける。
「人間が来たからちょっと悪戯してやろうとか、それで困ってんなら少しくらい助けてやるか──って、この話関係あんのか?」
言ってはおきたいことの最中だったが、クレスは話が逸れているかと気づき中断した。元はイーノの問いかけに答えているだけだが、その問いかけ自体がずれていたと感じたか。
腕を組み、静かに聞いていたイーノは、一人で納得し頷いた。
「成る程、これなら心配はいらないな」
「馬鹿にされてんのかオレは」
イーノは馬鹿にしたわけではなかったのだが、言い方や言葉の選び方が悪かったのだろう。彼の意図が読めないクレスは、馬鹿にされたと思い食ってかかる。
納得したイーノだからこそ、これは訂正してやるかと、しかし仏頂面を向けた。
「そう怒るな、心構えがいいと言っただけだろう」
「どうも馬鹿にした口だったぞこの野郎……」
伝わらねぇよ、と言いたげに、じとりとイーノを睨みつけるクレス。この調子では先が思いやられそうだと首を振ったイーノは再び箱に目を向けた。
「その意気、忘れるなよ。──して、あの二人はどうなんだ?」
「あ? まぁ絡まれはしてねぇな……けどフェイネはそういうのと仲良くしたがってるし、クロウブは興味なさそうだけど、簡単に手ぇ上げるような奴じゃねぇし」
「ふん……そっちも心配はないか」
一方的に聞くだけ聞き、答えに満足したイーノは立ち上がると、クレスに背を向ける。
「ていうかなぁ、自然で自由気ままに生きてる奴に手ぇ出してどうするって──何だよ、どこか行くのか?」
箱を足の上で抱え、体を揺らしながら天を仰いでいたクレスは、イーノの動きを横目で捉え呼び止めた。そして、止められたから振り返ってみただけ、といった様子のイーノ。互いを見たまま何も起きないこと数秒。
「……お前には最上段階の封印術を習得してもらうわけだが」
「な、何だよ……」
「日々の育成にも関わってもらうぞ」
最後にと、取って付けたような今後の予定。これだけ決定付けられた物言いをされては、何を言おうが変えてはもらえないだろう。それを飲み込むのに、さらに数秒。
「オレだけやること山積みじゃねぇか!」
「だが、元はと言えばお前の責任だろう」
はっきりと文字に起こすことはできないが、濁音の呻き声を上げたクレス。そこを突かれてしまえば言い逃れはできないのだ、絶対に。
「やるしかねぇんだろ知ってるよ!」
「うむ、では任せるぞ」
上手く丸め込まれてしまい、やり場のないわだかまりを振り払うしかなくなったクレスは、精一杯腕を振り下ろすだけに留めた。この手の扱い方を心得ているようにも見えるイーノは、通路へ向かいながら徐々に姿を消していく。一人広間に留まるクレスは、手元にある火の玉に小さな愚痴を零すしかなかったが、それを耳にしてしまっても、去り際のイーノには穏やかな微笑みが浮かんでいた。
一方で、町に戻ってきたと言うべきか。フェイネとクロウブは昨日と同じ角を曲がったところを歩いていた。
「確実に手に入るところでいいわよね」
「あぁ、早く戻りたいところだしな」
目指すのは耐火布のマントを購入したあの店。昨日買ったのがマントだったとはいえ、手頃な大きさの布もあるだろう、ということだ。何も衣類関係しか取り扱っていないことはないはず。
「あら貴方たち! 昨日は大丈夫だった? あの後雨が降ったから心配していたのよ」
「あー……はい、上手いこと神殿が見つかったので雨宿りさせてもらいまして……」
「神殿を見つけることができたのね? よかったわ」
そうして店先に顔を出して、少しばかりの挨拶を。二人が無事だったことに目尻を下げ、安心したように笑ってくれる店主に対し、二人の笑い声はやや乾いている。当たり障りなくも、これから留まる日数も考えれば、事実も織り交ぜて会話をしなくてはならない。口を滑らせでもしたら大変だ。
朗らかに笑っていた店主も、残る一人の姿が見えないことに気がついたのか、また心配そうな顔を浮かべる。
「もう一人の男の子はどうしたの?」
「ちょっと神殿に残ってます……いろいろあって……」
「あら、風邪でも引いてしまった?」
至極真っ当な心配事だが、彼はすこぶる元気だ。むしろ、ちゃんとイーノの話を聞いているのかと、二人からしてみればそちらの心配をしたくなってくる。
なので、彼は元気だと伝えつつ、フェイネはここへ来た目的という願いで、上手く話を逸らした。
「それで……もう一枚布が欲しいんです。ええと、フェイスタオルくらいの!」
「分かったわ、少し待っていて」
元気ならよかったと、また微笑んでくれた店主は、注文の品を取りに店の奥へと引っ込む。途端に二人は、溜め息と共に肩を落とした。
「クレスがいなくてちょっと安心してる私って最低かしら……」
「あいつは良くも悪くも素直だしな、俺も少しは……」
見送るクレスのへらへらとした笑顔を思い浮かべ、心の中で謝る二人。一応、ここに来るまでの間に決めてはおいたのだ。こういう前提で滞在することになったという、苦し紛れの理由は。
そうして小さな反省会をしていたところに、布を持った店主が戻ってくる。
「ごめんなさいね、うちでは大きい布しか扱っていなくて……フェイスタオルではないけど、バスタオルくらいの大きさならあるのだけど」
「じゃあそれで!」
手元に広げられていたのはクリーム色と僅かに色のついた、やはり肌触りの良さそうな耐火布。イーノは大きさの指定をしなかったが、マント程の大きさはなくてもいいはずだ。あの悪魔に使おうとしているのは深く考えなくても、昨夜の言動で決まりきっている。
「これから大都市に向かうなら気をつけてね」
「はい、ありがとう、ございます……」
フェイネから代金をもらい、そのままでいいと断られた布を綺麗に畳んで差し出した店主は、歯切れの悪い彼女に首を傾げた。
「やっぱり何かあったの?」
「あの神殿、ボロボロだったので……私たちみたいにたまの雨宿りに使う人もいるかもしれないから、少しは片付けて行こうかなって……」
一晩お世話になったし、とまた乾いた笑いと共に、もっともらしい滞在理由を挙げてみるが、これは片手間の用事でしかないし、本当の理由など口にできるはずがない。
これが、一応決めてみた滞在理由である。
「まぁ、やっぱりそうだったの……でも嬉しいわ。神官様も喜ばれるでしょうし、でも怪我をしないように気をつけてね?」
「はい、ありがとうございました」
励みに笑顔を返し、二人は店先を後にした。そのまま何となく、無言で来た角を曲がり、町を出るための通りへ出てくる。
「神官様、ねぇ……」
「感謝に伴って信仰してる人が見たら幻滅しそうだよな……」
まだ昨夜と今朝の、少ししか言葉を交わしていなかったとしても、想像しやすい救世主像とはイメージがかけ離れているに等しかった。例えるなら、気難しく取っつきにくい雷親父、といったところか。どうせ説明してみたところで信じられるはずもないが、それ以上の秘密が漏洩することでもあり、何より彼が姿を晒すはずもない。
「怪しい部分は伏せるで正解ね。よし、早く戻ってやりましょうか」
「ちゃんと話ができてるといいけどな」
難関と気合を入れるのはここからである。神殿への帰り道から意気込むフェイネと、まだ心配の拭えないクロウブは、居残りとなったクレスの元へと急いだ。