捨てられた神殿
空を覆った雲は厚く暗く、完全に陽の光を遮ってしまった。しまいには雨が降り出し、それは雹をも降らせ始める。
「急に雨って……!」
「雹も混ざってないか!?」
気休めにと腕で顔を守りながら走ってみるが、ここは森の中。雨を凌げそうな場所などなかった。あるとするなら、目的地でもある神殿か。
クロウブの籠手からは、雨よりも重いものが当たる音が絶え間なく聞こえてくる。雨ならまだしも、雹となると危険も増すだろう。無闇に走るのも更に危険だが、三人はとにかく休めそうな場所を探して走った。
「フェイネ、お前それ……!」
「嫌よ!?」
「まだ何も言ってねぇ!」
意外と目ざといものだ、この男は。フェイネが余裕を持って走れていることに気が付いたクレスは、彼女が持つ杖の先、頭上にあったそれに酷いものを見たと叫び声を上げた。フェイネもフェイネで、隠すつもりなどなかったが、次の一言が飛んでくる前に、反対側へと杖を抱え直す。
簡単に言って、それは傘だった。杖の先から彼女の頭上を覆うように膜を張る半透明の虹色。それは見事に雨と雹を弾き、フェイネはほとんど濡れていなかった。そして、嫌がられたとはいえ、こんなものを使われていては次を言いたくなるのは当然で。
「入れろよ!」
「嫌よ! あんたと入ると私が濡れるんだから!」
とは言いつつ、クレスは入ろうとはせずに口喧嘩だけが響く。それでも足は止めずに走り、やがて木々のまばらな平地へと出てくる。突然変わった景色に三人はゆっくりと足を止め、目の前にそびえる建物を見上げて呆然とした。
雨に濡れるのも、雹に打たれていることも忘れたまま立ち尽くす。
それは誰が見ても神殿、と答えるであろう代物だった。完全に過去の遺物となってしまったものだが。
正面、足場から天井を支える大きな柱は、長年管理の手が入らなかったことによる劣化で、一部は表面が剥がれ、崩れ落ちている。その中の一本は折れ、倒れたままの状態で残されていた。それだけでなく、周りの雑草はここぞとばかりに伸び伸びと生え、開け放たれた入り口から覗ける中の広間は埃や、柱と同じく崩れた内装などで荒れ放題、という有り様。人の手が入っていないということは一目瞭然だった。
「とりあえず入り口近くで雨宿り……ってやっぱ無理ね……」
「屋根も高すぎるからな」
石段を上り、傘を閉じたフェイネに倣い、クレスとクロウブも上り、服についた雨粒を払う。雨宿りをするにはあまりにも不向きな場所だ。何せ天井が高すぎる上に、柱の間を吹き抜ける風などで雨粒や雹は容赦なく当たってくる。
ここは中に入らせてもらうしか完全に凌ぐ術はないが、この有り様では踏み出した足を止まらせるには十分だった。
「これ中に入るしかねぇけど……──うわ、汚ねぇ……」
逃げるように広間を覗き込んだクレスは、嫌悪感全開で顔を顰める。
ただの埃や瓦礫が積み重なっているだけならまだ可愛いものだ。長年蓄積された砂や、乾いた泥を伴う埃に、一度動かせば端から崩れ、さらに増えていくであろう瓦礫。この広間の中、たった三人が居座る場所を確保するだけでも骨が折れそうだ。
「あんたたち、これを片付ける気はある? きっとこの雨、当分止まないわよ」
「……背に腹は代えられない、か」
「凍えるよりマシだぜ……!」
まるで危険地帯へ突入するかのような緊張感だ。しかし、相応の覚悟を持たないと、しばらくの時間を過ごすための場所を作ることはできない。
三人が神殿内へと踏み入れた足元、分厚い埃が浮き上がった。
「よし、それじゃあ一回飛ばしてみるわね」
大方開けた場所に立ったフェイネは、床に突き立てた杖を中心に外へ広がる風を起こした。その風は取りきれなかった砂埃や小石を押し流し、綺麗になった床を現してみせた。
至るところに汚れの目立つ三人。クレスは床に大の字で寝転がり、クロウブも胡坐をかいて座り込む。
「もうこのくらいでいいんじゃねぇか?」
「そうだな、三人は余裕で……」
あれからどれくらいの時間が経ったか。砂や埃に塗れながらも、三人は無事に居場所を確保することができた。
入った広間のちょうど真ん中、大きな柱らしき瓦礫が横たわっていたが、そこは比較的広く場所を取れそうだったため選んだという次第。崩れる石造りの瓦礫を退かしては、フェイネが足元の砂を払う。それを繰り返し、三人が寝転がっても余裕が出るくらいの床を綺麗にした。
経過した時間などいちいち数えてもいないため誰も分からない、が、雨は降り続けたままだった。
「雨、止んでないわね……一晩ここで過ごすしかないかしら」
「止んでも暗くて危ないしな」
体に付いた埃も払い、かき集めた枯れ葉に起こした火を囲んで休む。その明かりがあるとはいえ、微々たるものに変わりはなく、外が暗くなってきていることは嫌でもその目で見えていた。雨足こそ弱まっているが、しとしとと降り続けている雨。フェイネは改めて神殿を見回した。
「本当、朽ちてボロボロ……でも使われていた当時はさぞ美しかったんでしょうね……」
「ここがこんなだもんな、あの昔話が事実だとして、今どれだけの奴が信じるか……」
おそらく石造りの建物。当時では技術もさることながら、立派で神秘的だったに違いない。今は見られるところ、中央には広めの通路があり、左右の壁には外へ直接通じる出入口と、その前にも仕切るような通路があり、天井まで柱が伸びている。その柱は折れ、器用にも壁や隣の柱に寄り掛かっているものもあり、広間に転がっている瓦礫はその一つと見られた。正面には対象を祀るための祭壇か、さらに奥には下半身を残し崩れ落ちた石像もある。朽ち汚れ、見る影もないが、それは繊細な像だったことが感じられた。その正面右端には別室へ繋がる真っ暗な入り口がぽっかりと開いている。
こうした過去美しかったであろうものが荒廃した姿は痛々しくもあるが、何故こんなにも恐怖心を煽るのだろうか。
「ずっとここにいたら慣れてきたな……この埃っぽさ」
「ちょっと、大人しくしててよ?」
何かを察したらしいフェイネは嫌な顔をしながら、行動を起こされる前にとクレスに釘を刺す。確かに慣れてきたとはいえ、また埃塗れになられてはたまったものではないし、下手に動き回って瓦礫を崩されても困るというものだ。しかし別な棟でもあるのか、右の壁から奥へ伸びる通路が嫌でも目に入ってくるため、気にならないわけがない。
その通路を凝視していたクレスは、不意にマントを脱ぎ捨てながら立ち上がった。
「気になるから行ってくるぜ……!」
「あ、馬鹿!」
一つ身軽になったクレスは制止の声を振り切って走り出し、通路を目指した。道中に転がる瓦礫の間を縫い、舞い上がる砂埃と共に軽々と向こうの部屋へと消えていった。
あっという間でもあったその疾走に、取り残された二人は言葉にならない声で顔を見合わせた。
「うぅ……ちょっと怖いから下手に動かないでほしかったのに……」
「まぁ……満足したら戻ってくるんじゃないか? こんな状態であの箱があるとも思えないし、仮にあったとして、いくらあいつでも勝手に開けたりは……」
しないだろうな?
思わずクロウブは疑問形で締めくくってしまった。両膝を抱えるフェイネはまさかね、と腕に顔を埋めようとする。それに同じく、まさかな、と返したクロウブ。二人は互いに乾いた声で笑うしかなかった。
「ここも砂だらけだなー……」
一歩進むごとに砂埃が舞い、ここまでの足跡がくっきりと残されている。広間とは違い、この通路は瓦礫が少なく歩きやすいが、風通しの窓がすぐ側にあるせいか、砂としての埃が多く見受けられた。
黒いブーツを汚しながら歩いてきたクレスは、突き当りにあった部屋の中を覗く。ここに仕えていた誰かが、日々の生活を送っていた一室だというのは残された家具から見て取れるのだが、この光景はあまりに酷い。
枠組みだけが残された簡素なベッドに、足の折れたテーブル。極めつけは物入の棚だ。引き出しは全て出され床に放り投げられており、外枠も歪んでしまっている。他にも酒瓶が転がっていたりなど、何者かが荒らした形跡がそのまま残されているかのようだ。
「オレたちみたいに誰か入ってたんだな……」
どうせ期待するような面白いものなんてない。クレスはどこか片隅でそんなことを思っていたが、部屋へと踏み入った。散らばる引き出しや酒瓶に敷かれるようにして、紙が落ちている。茶色く染みが広がり、触れれば劣化で破けてしまいそうなそれを拾い上げたクレスは、表面に目を凝らした。これもまた、当時から変色したであろうインクで文字が綴られている。酷く掠れ、文字の判別もつかないが、この文字自体が馴染みのないもののような。
「……読めねぇ」
クレスは一旦顔を上げると床を見回し、ベッドの上で落ちそうになっていたもう一枚に目を留めた。明らかに離れた場所ならどうだろう、ということなのだろうが、何一つ変わることなどないのは目に見えている。
「どうせ同じか──っとお!?」
砂埃を巻き上げて、何かに足を取られたらしいクレスは派手に倒れた。ここに積もり、混ざって不快な臭いを生み出している煙が鼻を掠め、クレスは足元を確認する。半ば蹴り飛ばしたも同然なのだが、床に張りついているかのような、重量感のある四角い物体が。
「こんなところに瓦礫なんて──って……あ?」
それが目に入るや否や、クレスは悪寒に襲われた。心臓は早鐘を打ち、嫌な汗が噴き出る。
箱だ。箱があった。
これだけ明らかに存在が浮いており、全面に彫刻の施された特別感もありつつ、手を触れてはいけないとも思わせる神性と、不気味さまで兼ね備えているものだ。
今やその箱の蓋は、開かれていた。
言葉なく起き上がり、箱に近づくクレスの頭には店主の昔話が思い出される。炎の悪魔、大災厄。封印の箱に神殿。嘘ではないとここまで来たが、今は嘘だと思いたかった。そんな彼の目の前で、揺らめく火の玉が唐突に姿を現した。
「うわあああああッ!」
不意に響いた絶叫に、フェイネとクロウブは緊張の走る顔を見合わせると同時、すぐさま動いた。向かう場所など決まっている。クレスが向かった通路の奥、二人は舞い上がる埃など意に介さず、いち早くと転がる瓦礫の中を駆け抜けた。
「クレス! 大丈……」
「何があっ、た……」
突き当りの部屋の中央。尻餅をついて呆然としていたクレスの姿を捉えた二人は彼の無事を確かめようと部屋に飛び込み、目に入ってきた物体に言葉の勢いを失う。
この中で、それだけが異質だった。
夜中に出る良くない現象のような、両の手に収まる程の大きさしかないが、触れようものなら火傷でも負わされてしまいそうな、煌々と燃える浮遊物。火の玉。
「ちょっと、嘘でしょ……これ……!」
「躓いただけだぜ!?」
「それだけで開くものなのか!?」
蓋の外れた石の箱。その上で動きを見せない火の玉。
得体の知れない、と言えばそれだ。だが、三人にとっては正体という名の脅威を目の当たりにしていることになる。
目を離さず、動ける構えをを崩さず。三人は焦りからの言い合いを繰り広げるしかない。少しでもこの現実を整理し、受け入れるためにも、その言い合いが必要不可欠だった。
「──全く……この箱を開けてしまう阿呆がいるとはな」
「今度は何!?」
空間そのものから声が聞こえているような、姿もないのに声だけが響く異様な雰囲気。フェイネは反射的に杖を抱き込み、クロウブは周囲の気配を探る。クレスといえば、まだ座り込んだままであった。
と、ベッド枠の上、溶け出てくるように一人の老翁が姿を現した。気難しそうな仏頂面に白髪のオールバック、グレーの口髭。白く裾の長いカソックを身に纏っている姿は正に神官のそれだ。ただ、足にかけて透明度の高くなっている様子はまるで。
「でっ、出たな!? 幽霊ジジイ!」
「誰がジジイだ!」
今が一番慌てているのではないかと思わせる速さだった。勢いよく立ち上がったクレスは背中の剣を引き抜き、老翁に向かって構える。火の玉を前にした時よりも手元が震え、顔が青いのは気のせいか。
そして、剣を向けられた老翁は心外だとばかりに素直な怒りを露わにした。クレスの言葉こそ悪いが、誰がどこからどう見ても、年配だというのはすぐに分かるのだが。
「──それよりも落ち着け小僧、その剣を下ろすんだ」
それでも感情を抑え込んだらしい老翁は、険しい顔ながらもクレスを諫めるように片手を下げた。今にも斬りかかりそうな状態で対峙していた当のクレスは、その一言で落ち着いたのか、口をへの字に曲げながらも、渋々剣先を下に向ける。
老翁は肩を落とすと頭を抱え、深く深く悲壮に溢れた溜め息を吐く。視界に捉えるのは、未だ箱の上で浮遊し、燃え続ける火の玉か。
「私はイーノ。この神殿に仕えていた神官だ」
そして、息を吐くように、老翁は名乗りを上げた。