自己愛
僕は幻覚を見る。
その幻覚はハッピーな笑顔で「『ファイト・クラブ』って映画は知っているだろう。んー?」口の端を上げて「私はタイラー・ダーデンで、君は『僕』。そういうことなのさ」西日が差す窓の縁に座る。
タイラーはぼくの幻覚なんだ。
「くだらない」とタイラーは言う。「おまえのほうこそ、おれの幻覚かもしれないぞ」
タイラー・ダーデンは『僕』が成り得た理想の自分か。憧れに過ぎない自分だったのか。
果たして眼前で優雅に白くて細い足を組む、幻覚の女は、僕の理想なのか?
「君は女っぽいところがあるだろう? 女々しいし、直ぐ落ち込むし、急にロマンを求めたがるし」幻覚が喋る。
「でも、艶やかな女性像を望んだ事は一度たりともない筈だ」
「女をジッと見つめる時に覚えるのは男性的本能か、はたまた女性になりたいという願望であり観察か、ふふ」
「僕は性同一性障害じゃない」
「結論を出したがるところは実に男の子っぽくて素敵だよ」くすくすと笑う。
僕は部屋の真ん中で体育座りをして、膝の隙間から女を見つめた。女は、とろけそうな初夏の夕焼けに照らされた屋根を見つめる。「君はこの町が好きか」「別に」家賃が安い学生街、この町に住む理由なんて簡潔に言えばそれだけだ。
「私が女性の姿をしているのには理由がある。ボーイ・ミーツ・ガールで始まる物語。男は突発的に現れた少女に日常を破壊され、日常に抱いた疑問を開放し、昇華する。私が『もう1人の君』なら、君は君自身を好きになる機会を与えられたのかもしれない…」
「僕は自分の事が嫌いだ」
「知っている」
「飽きっぽい性格も、誰かにケツを叩かれなきゃ動けないところも、人からの見られ方を気にして結局人とコミュニケーションを取ろうとしないことも。自意識過剰なんだ僕は」
「知っている」
「…なら、どうすればいい?」
「それは人に相談することじゃない」
「は?」思わず顔を上げる。
「人のアドバイスなど参考にならない、自分の決断への後押しにしかならない。君がその人間に伺おうとしている答えは、君自身が既に算出した答えだ。答えの正当性を深めるための相談に果たして何の意味があるのか。…君の幻覚がそう口にしているんだから、君もそう思っているんだろう?」女は意地の悪い笑みを浮かべる。このサディスティックな一面も『僕』なんだろうか。
「私はね、そんな君の事が嫌いじゃない」背筋にざわりとした心地良い感覚が走った。
「気楽な人間がこれっぽっちも悩んでいないことを馬鹿みたいに長時間悩んで、自己嫌悪に陥って、改善する気力を失って、どんどんダメな方向に進んで行く君が、嫌いじゃない」
幻覚の女は僕をジッと見つめる。
「本当に欲しいのは、簡単な言葉さ。そうだろ。大丈夫だよ、平気だよ、うん、側に寄り添って自分を分かってくれる、ちゃんと見てくれている、そういうフリだけの女でも良いんでしょう?」違う。
幻覚の女が僕に触れた。僕がかたくなに首を横に振るんだって、この幻覚は分かっていた。だから、彼女は華奢な手で僕の頭を固定して、それからゆっくりと顔を近付けてキスをしたんだ。
垂れる髪の隙間から夕焼けを感じた。