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新たな日常 伍

 義観の使いで勝家へと行った、あの日から数週間――。


 すっかり秋の装いは去り、風景は冬独特の寂しさを感じさせるものへと様替わりしていた。

 此処、寛永寺も秋には紅葉観賞に来ていた人々で賑わいをみせていたが、今は静寂の時が訪れている。


 全ての仕事を終え暇のできた玲は、寛永寺の寺領にある不忍池しのばずのいけまで散歩に来ていた。

 江戸の町の賑わいから遠ざかった、その静かな景勝地は、訪れる者すべてに癒しを与えてくれる。

 しかし、その景色を見つめる玲の瞳に覇気は無く、いつもの凛とした輝きも無い。

 心此処にあらずといった様子で、何処を見るとも無くただ辺りを、ぼうっと眺めている。

 暫くそうしていると――

「玲さん!」

 背後から自分の名を呼ぶ声が耳に入る。

 玲はゆるゆると振り返ると、辺りを見渡す。

 すると、寺の方へと通じる階段を駆け下りてくる明心の姿が視界に映った。

「……明心さん?」

「不忍池に居たのですね。ずいぶん探しちゃいましたよ」

 明心は玲に駆け寄ると、少し息を弾ませながらそう述べた。 

「いったい、どうしたのですか?」

「和尚がお呼びです。寺にお戻りになってください」

 突然の呼び出しに、玲は疑問を抱くが、明心はニコニコと微笑むだけで呼び出しの理由までは答えてくれなかった。

 そうして、自分を探しに来た明心と共に義観のもとへと赴くと、

「玲の人別簿を作ろうと思う」

 義観が開口一番にそう述べた。

「人別簿? ですか?」

 玲は首を傾げながら返事を返す。

 すると、義観は玲が人別簿が何であるか理解していないと察し、詳しく説明をしてくれる。


 人別簿とは、現代で言う戸籍・住民票の身元を証明する物であるが、玲の場合この時代の人間ではないため、当然そんなものは無く、必然とその戸籍の無い玲はこれまで無宿者になってしまっていた。

 無宿者とは、浮浪者、親から勘当された者(勘当の場合、久離とも言う)、罪を犯して人別簿から名前を外された者などであるが、これではおちおち安心して生活が出来ない。それどころか最悪の場合、町奉行所に捕らえれる羽目となる。

 そんな諸問題も有り、人別簿はこの時代で暮らしていく上で必要不可欠で重要なものであった。


「人別簿が無いのは色々都合が悪いからな。そろそろ玲の人別簿を作ろうと思う」

 しかし、手前勝手に作るわけには、いかんからな。おぬしと、よくよく話し合わなくてはならん。――と義観が述べた。

「……おじ上? そんな重要なものを勝手に作成して大丈夫なのですか?」

 私、このままでも構いません。私のためにご無理はなさらないでください。――と玲は心配そうに述べる。

「確かに本来はしては成らん事ではある。しかし、この世の人間ではないのだ。人別簿がないのは不可抗力。であれば、作るしかなかろう」

「でも……」

 義観にまた迷惑を掛けることになると考え、玲は返事を濁す。

 そんな様子を見て玲の心配をすぐさま感じ取った義観は、

「おぬしが罪人じゃというのなら話は別だが、玲、おぬし罪人ではなかろう?」

 と、玲をからかう調子で笑みを浮かべて問うた。

 すると案の定、驚いた表情になった玲は、

「お、おじ上、何をおっしゃってるんです! 滅多な事を言うものじゃありませんよ。私は罪人なんかではありません!」

 と語気を強めて慌てて否定してきた。

「ははは。だろう? 罪人でもなければ異人でもない。歴とした大和の人間なのだ。だから人別簿を作るのも何も心配はいらん」

 人より作る時期が少し遅れてしまったとでも思っておけばよい。と義観が微笑む。

 障子の傍に座り話を聞いていた明心も微笑んで頷く。

 そんな義観と明心の態度に、玲は困ったように曖昧に微笑む。

「ですがやはり、そんな重要なものを勝手に作るのは……おじ上にもしもの事があったら私…………」

「おぬし、本当に何も知らんのだな」と言うと小さな声で、まぁ仕方ないかの。と呟き義観は更に言葉を続けた。

「おぬしの世ではどうだったか解らんが、この世での人別簿のしきりは寺でしとるんだぞ」

 だから、わたしの心配なら無用だ。云わば管理主がわたしたち寺のもんだからな――と述べた。

 そうなのである。義観が述べた通り、人別簿の作成・管理は、主に寺院でしている。

 更に詳しく説明すると、五人組頭(五人組:領主が町村に作らせた隣保組織。農村、都市における相互監視制度。五戸前後で一組設置)、地主、家主などでも人別簿管理をしている。

 玲は、驚きで目を瞠りながら声を発した。

「そ、そうなのですか!?」

「うむ」

 義観が頷く。そして、

「だからの、本来ならしては成らんが此度の件は不可抗力の事ゆえ、わたしが責任を持って玲の後見になることで人別簿を作ろうと思う」

 しかし、宗旨や菩提寺、居所、世帯関係をわたしの勝手で作る訳にはいかんからな、その辺を玲と話合わなければ成らん――と述べる。

「…………」

 ぽかんとした表情で玲は義観を見つめる。

「なんて顔をしておる。話はわかったか?」

「……え、えぇ」

 玲は、こくりこくりと頷きながら答えた。


 そうして納得した玲と義観が人別簿を作成するにあたって大切な話し合いをし始めた、その頃。


 一人の男が、此処寛永寺にいる親友に会うため、親友の居るであろう院へと向かっていた。


「いや、しかし。此処はいつ来ても広いな」

 寺ん中、歩くだけでも一苦労だぜ――と、ぼやきながらその男は歩いている。

 このべらんめぇ口調。そう、勝海舟である。


 安政六年 十一月。

 幕府は日米修好通商条約批准交換のため使節をアメリカ派遣に決定した。

 その使節の随行艦咸臨丸の指揮として乗船する事になった勝は、しばらく会う事が出来なくなるであろう親友に渡米の報告をするため義観のもとへと訪れたのであった。


「せっかく来たからな、参拝してくか」

 と考えた勝は、義観のもとへ行く前に御本尊の納められた根本中堂へ向かって行った。



「おじ上、本当に何から何まで有り難う御座います」

 と玲は深々と辞儀をした。

 話し合いの末、玲の細かな事柄が決まったのだ。

 宗旨は、天台宗。これは玲が寛永寺にお世話になっているから決まったのでもなく偶然にも元々玲の家の宗旨が天台宗であったからである。

 となれば菩提寺は、此処寛永寺でよかろうとの義観の勧めで玲の菩提寺は寛永寺となった。

 世帯関係が一番の難問であったが、義観は前以って用意しておいた家督相続人が無くもう何十年も廃絶家となっていた戸籍を柳崎と改名して玲にあてがい再興させた。

 そしてその後見人に義観が納まった。

 これにより玲に何か問題が起きた時には義観が親代わりに動くことになる。

「本当に感謝を申し上げます」

「いいのだよ。これで玲も立派なこの世の人間だ」

 何かしたい事がみつかった時には好きなように生きたらいい。――と微笑んで義観が話す。

「玲さんは何かしたい事は見つかりましたか?」

 それまで黙って見守っていた明心が口を開いた。

 玲は、その質問の返事に窮する。

「…………い、いえ。まだ何も……」

「そうですか。でも焦らずとも自然に見つかりますからね、これからです」

 と明心が笑う。そして、

「さて、和尚もお茶が欲しくなった頃でしょう? 一服いたしましょうか、茶を入れてきます」

 と明心が立ち上がろうとした時、障子の向こうから控えめに義観を呼ぶ声が聞こえてきた。

 玲の身に関わる内密な話し合いのためこれまで人払いをしていたのだが、それを無視した訪問に義観と明心が険しい表情をする。

 義観の代わりに明心が廊下に用件を聞きに出た。

 すると、程無くして明心は呆れ顔をして座敷に戻ってきた。

「どうしたのだ明心?」

「ええ、海舟殿ですよ和尚。海舟殿が和尚にどうしても会いたいと来ているようです」

 今日は忙しいからと断ったそうですが、会うまで帰らん。と言っている様で勝手に座敷に居座っていると――と呆れた表情で述べる。

「海舟か……あやつは毎度毎度」と何時も突然訪問してくる勝にため息をつきながら義観は言う。

「まぁ、話し合いも終わったし、よかろう。連れてくるように言ってくれ」

「わかりました。では、私はお茶を用意してまいります」

 と言いながら明心は人別簿を木箱にしっかり納め、それを手に部屋を出て行った。

「それでは、私はお邪魔でしょうから失礼いたしますね」

 と玲が述べる。しかし義観は気にしていない様に、

「ん? 別におっても構わんぞ。それに玲を気に入っていた様じゃからな、奴が喜ぶであろう」

 と述べる。

 しかし、そうは言われても、玲の方が勝にあまり会いたくないのである。

 散々振り回されたあの日以来、勝に対し苦手意識が芽生えてしまった玲。

 ズバズバと、それも鋭い物言いに、今度は何を言われるのだろうかと考えるだけで慄いてしまう。

 さっさと退散したいというのが玲の本音である。

「ですが、おじ上も勝さんと会うのは久方ぶりでしょうから、やはり私は……」

 と、立ち上がろうとしたとき、徐ろに障子が大きく開いた。

「おお、おお。おまえさんも此処にいたのか。久しぶりだな」

 と、笑いながら入ってきた勝。

 勝を案内してきたであろう僧などは勝に後ろに追いやられたのか、後ろで申し訳なさそうに身を小さくしている。

 それを見た義観は僧に、労をねぎらうように深く頷くと「ありがとう。もうよい」と言葉を掛けた。

 その僧が障子を閉めて去っていくと、義観は途端に呆れた表情でため息をついた。

 玲などは先ほどから目を点にして固まってしまっている。

「海舟、人の訪ね方というものがあるであろう。どうしてこう、何時も何時も行き成りなんだ」

 こっちも暇ではないんだぞ。――と苦言を呈しながら胡坐をかいて座る勝を見る。

 しかし返ってきた勝の反応は、何の反省の色もなく。

「いやな、近くまで来たからな、話す事もあるし今日が丁度よかったんだわ」

 と笑う。

 そんな勝に一層大きなため息を一つ零すと義観は口を開いた。

「で、なんなのだ? 話というのは」

「ああ。幕府の命でよ。俺、メリケンに渡航することになったんだわ」

 と先程までの様子とは、がらっと変わり堅い表情で勝は告げた。

 それを聞いた玲は、ハッとする。

 義観と勝が話しているのを横目に玲は歴史の記憶に思いを馳せる。


(たしか、勝さんは条約批准書の交換のためにアメリカに行く使節一行の随行艦の指揮官なのよね……なるほど、これから行くのね)


「そうか。メリケンに……長い旅になりそうだな」

 長く厳しい航海を思ってか心配そうに義観が述べる。

「……ああ」

 重い沈黙が座敷を支配する。

(そうよね。友達なんだもの心配よね……でもおじ上。大丈夫だよ。勝さんは事故も遭難もなく元気に日本に帰ってくるからね)

 と胸中で思いながら義観をみつめる。

 すると視線に気付いた義観が玲を見た。

 玲は柔らかく微笑んでゆっくりと頷く。

 それを見て玲が何を言いたいのか察した義観は一瞬驚いた表情をしたが、直ぐに明るい笑顔を浮かべた。

 そして義観は、勝を励ますかのように強い口調で言葉を述べた。

「海舟よ。心配無用だ。おまえさんなら大丈夫。しっかり責務を果たしてこい」

「……おう。そうだな」

 と勝は言うが、やはり心配は拭えないのか何時ものキレがない。

「心配か? だったらおぬし、浦賀の耀真山永神寺に行ってみるといい。あそこは海神が祭られておる」

 航海の守護神の加護を祈念してきてはどうか?――と述べる。

「そうだな……俺もまだまだだな。渡航まで日がある。心身の鍛錬のため修行に行ってみるか」

 修行は、久しぶりだ――と勝が笑う。

「勝さんが修行するんですか?」

 勝が修行とは少し、柄では無い様な気がして玲が思わず問うてしまう。すると、

「おめぇさんよ、人間完璧な奴なんかいやしねぇんだ」

 俺だって信仰心くれぇある。――と勝が言う。

 実はこの男、こう見えても信仰に厚く若い頃に禅の修業をしたほどであった。

 その修行時代に出会ったのが今、友人である義観であった。

「――そうですね。完璧な人間なんていませんもんね」と述べると玲は指先を畳に付けた。

「勝さん。勝さんの益々のご発展と、御武運長久をお祈りしております。無事なご帰還、心待ちにしております」

 と、玲は深く辞儀をした。

 そして頭を上げるとニッコリ微笑み、付け足すように言葉を述べた。

「勝さん。慣れぬ長旅ゆえ船酔い対策をし万全の状態でいってらっしゃいませ」

 勝はこの渡航中、船酔いに苦労したと聞く。その事を知っていた玲なりのアドバイスであった。

「お、おう」

 という勝の返事を聞き届けると玲は立ち上がった。

「それでは、私は夕餉の支度がありますのでこの辺で失礼いたします。勝さん、ごゆっくりしていってくださいね」

 と伝えると、もう一度辞儀をして玲は部屋を去っていった。

 玲が出て行った障子を見つめながら勝が言葉を紡いだ。

「義観、おまえさん。あんな娘が縁の者にいるなんて俺は聞いちゃいなかったぜ」

 そして視線を義観に向け、更に言葉を継ぐ。

「あの器量だわ、頭は切れるわ、俺はおどれぇたってもんじゃねぇぞ。よくよく隠していたな」

「隠しておったわけじゃないわい。それにの、身内の者がなくなり、わたしが親代わりに面倒をみる事になったが、わたし自身玲には驚かされてばかりじゃ」

 と困ったように曖昧に微笑むがその表情の中には嬉しさが見え隠れしている。

「そうかえ。――俺が言う事じゃねぇが、良くしてやれよ。アレは多分よ、おまえさんに遠慮してんじゃねぇか?」

「そうさな。わたしもずっと見守っているのだが玲は中々の頑固者らしいの」

「おう。その辺は、おまえさんに似てら。姿形はまったく似ちゃいねぇがな」

 と勝は可笑しそうに笑う。

「なんだ? わたしの顔立ちが醜いとでも言いたいのか?」

「いやいや。そこまでは言っちゃいねぇがよ……」

 と否定するが顔は可笑しさで歪んだままである。

「……海舟よ。おぬしはほんとに……」

 と義観がため息をつく。

 しかしこんな勝は、今に始まった事ではなく友人として付き合っている義観にしてみれば慣れた事であった。

「さて海舟、夕餉食べていくのだろう?」

「おう、そうだな。頂いていくよ」

 と義観の問いに勝が頷きながら答えた。


 

 アメリカへと発つ勝。

 万一の不幸を考え、今生の暇乞いとまごいに来たつもりであったが、友人に会い、玲に会った事で、なぜだか今ではそんな挨拶など無用のもののように感じていた。

 大丈夫だ。と力強く自分を激する義観。

 アメリカ渡航と聞いてもあっけらかんとしている玲。

 そんな心配など無用だと。

 

 



 




********




 太陽が沈み、月が支配する闇夜のとばりが辺りを包んだ頃。


 玲は提灯とヴァイオリンを手に、住処である家を出ると落葉樹や常緑樹の木々が茂る雑木林の中へと入って行く。

 落葉樹の葉はほとんど落ちて冬枯れの状態。それと対照的な常緑樹の松や杉は冬でも緑の濃い葉をつけている。

 玲が進むに連れて地に落ちた葉や木が、カサカサ、パキッと微かな音をたてる。

 吐く息は白く、頬に触れる空気は刺すように冷たい。自然、足を進める速度が早まる。

 暫く歩くと木々に囲まれる小さな空間に出た。

 玲は足を止め、辺りを見回すと、徐ろに木の枝に提灯を吊るした。そして、ヴァイオリンケースを開きヴァイオリンを手に取る。

 優美な曲線の風格ある、そのヴァイオリンは、玲の母の形見である。

 そのヴァイオリンを流麗な動作で構えると、玲は静かに目を閉じる。

 そして、息をそっと吐き気持ちを鎮めると、弦の上に乗せた弓を滑らせた。

 玲の手から生まれる幻想的な音色は、玲の彷徨える魂の姿を表すかのように哀愁帯びている。


 美しくも悲しい調べは、本格的に冬ごもりを始めた草や木々を呼び覚ますかのように夜空へと舞い上がってゆく。


 勝の家に行ったあの日から玲の胸奥深くで何かが疼いていた。

 玲は、始めはその疼きに気付かないふりをしていた。

 時が経てば無くなると思っていた。

 しかしそれは無くなる所かいつしか自分自身さえも戸惑うほどに大きなものへ変化していた。


 心のままに奏でられる旋律は、玲の心情を映すように弱々しく悲しげに辺りに響く――。

 その音色に共鳴するが如く草木がざわめく。

 


『おまえさん小鹿とお孝に話を聞かせてただろ、みにくいアヒルだかなんとか言ってたな。あれ、おまえさんにも当てはまるんじゃねぇのか? おまえさんは自分が劣っていると思ってっけど、そうじゃねぇ、自分を知らねぇだけだ』



 勝に言われた言葉が頭から離れない。

 その言葉は、鋭い牙となり玲の心に突き刺さる。



『おまえさんは白鳥になる準備は出来てるのに、なろうとしねぇだけなんじゃねぇのか? 人にはそれぞれその人間が持つ個性と才能が秘められてんだろ? おまえさんの個性と才能はなんだ? 自分で分かってるはずだ。違うかえ?』



 玲の表情が苦しそうに歪む。

 その苦しさが表れたように、切ない音色が静寂の中に響く。

 感傷的な音色は澄んだ空気に染み渡り、生い茂った草木を揺らし空気をも震わせる。

 玲の頭の中では何度も何度も、勝の言葉が繰り返されていた。

 

 勝が何を指して言っていたのか、玲は十分に理解している。

 しかし現状を考えると、とてもではないが医師になどになれない。


(私の知識は現代医学。薬も術用具も電気も無い、この過去の世界で何が出来るというのだろうか。私に、出来る事は無い)


 この世の医療水準よりはるかに豊かだった平成の世。

 玲の生まれ育った現代であれば難なく助けられる人も、この過去の世では、自分がどれだけ奮起しても助けることの出来ない人が大勢いる。

 それに、いくら小さい頃から医療に触れていて、自分でも医学を勉強していたといえ、所詮、まだ学生で医者ではなかった。

 助けられない人がいる事、知識ばかりで技術の無い自分。


「――ごめんなさい――」


 玲は誰に謝るとなく謝罪する。

 過去の医師になる事を使命のように感じていた自分にだろうか? それとも亡くなった母にだろうか?


(私には、この世での医師は務まらない)


 玲の華奢な手から生まれるその音色は、聞くもの全ての魂を揺り動かすほど切なく、甘く繊細な調べは心をひきつける――。

 その旋律は、生い茂った草木を揺らす一陣の風となって、木々の間を抜けどこか行き場を探すかのように夜闇を彷徨い、やがて森を抜けると空気と溶け合った。


(それに、おじ上にこれ以上迷惑は掛けたくない――これでいいのよ)


 義観に助けられて以来、全ての面倒をみてもらっている。

 路頭に迷うところだった玲に、住む場所を与え、衣服や食べ物を与え、大した事はしていないのにも関わらず給金さえくれる。

 それに今日は、この時代に自分がしっかり存在しているのだと証明する人物簿までをも与えてくれた。

 そしてそれはささやかな物ではあるが、これまで時間の流れに従うまま存在していただけの浮いた存在だった自分を、今ここで生きているのだと改めて自覚させるものであった。

 そんな大切なものまで与えてくれた義観。

(これ以上、迷惑掛けられない)

 玲は再び強く胸中で思う。


 玲は無我夢中で弓を滑らせる。

 やがて曲が終わると二曲目三曲目とそれは永遠に続くかのように、玲一人のリサイタルは続く。

 どのくらいヴァイオリンを奏でていただろうか。

 玲自身さえも何曲目を弾いているのか分からなくなった頃。

 後ろでパキッと音がした。

 玲は動かしていた手を止める。

 玲の手から紡ぎ出されていた音色が止むと、辺りは静寂に包まれた。

「……邪魔したようだな」

「おじ上?」

「ああ、そうだ」

 玲は構えていた両腕を降ろし星空を見上げた。

 その頬は涙で濡れていた。

「玲、何を考えておる?」

「……いいえ、何も」

「何もない訳がなかろう」

「おぬしが奏でておったその鳴り物はなんという物なのだ? 不思議と心が洗われるような澄んだ音色だな」

 ――しかし、おぬしが奏でる音色は酷く悲しいものであった。と述べる。

 ここ最近、玲の様子がおかしい事は義観自身、気が付いていた。

 玲から何か言って来るのを義観は待っていたのだ。しかし、待てども待てども玲は口を硬く閉ざしたままで一向に胸のうちを明かさない。

 それで、勝に言った『玲は中々の頑固者らしい』であった。

 

「この楽器は、ヴァイオリンといって西洋の弦楽器です。日本の楽器でいうと三味線と同様のものです」

 音色が悲しいのは、こういう音なのだと思います――と玲は呟くように付け足した。

 義観からはそれを述べる玲の表情は窺えない。

 しかし、音色が悲しい響きだったのは玲の心情をよくよく映しだしていたからであると義観は思っていた。

 明白である。今も表情は確認できなくとも、玲の肩が微かに揺れている。

 その様は、何かに耐え、悲しみに打ち震えているようであった。

「玲。今日、海舟から話を聞いた。玲は何も言っていなかったが使いへの道中、人助けをしたようじゃの」

 玲は苦虫を噛み潰したような顔をする。

「おぬしは、何を悩んでおる? 今日、明心が何かしたい事は見つかったかと問うた時、おぬしは返答に困っておったな。困るという事は、迷っておるのだろ?」

 と告げながら義観は玲の横へと歩を進める。

 義観の持っている提灯に照らされた玲の横顔には幾筋もの涙の線ができていた。

「いいえ。いいえ、私は迷ってなど……」

 と、玲は横に来た義観の方へと体を向け否定する。

「ではなぜ、涙を流しておる?」

 そう云われた玲は、驚いたように呆然と手を頬に当てる。

 無意識に涙を流していた玲。玲自身、自分が泣いている事に気付いてはいなかった。

「何をそんなに恐れておる?」

 その問いに、玲は、ひゅっと音を立て息を吸い込む。

「玲は、逃げておるのではないか?」

 玲は、目を見開き表情を失くす。

「……わ、たし…………」

 そう、玲は現代の医療とこの世での医療レベルを比べた時、明らかに劣っているこの世の医療に対し恐れを抱いた。

 現代医療の知識を持っているからこそ怖いのである。

 この世で医療に関わった時、必ず自分が傷つき、又、歯がゆい思いをするだろう事は否が応でも分かる。

 玲は、逃げていたのだ。

 傷つく事を避けるため『義観が、』『金子が、』『知識が、』と理由を見つけ自分の守りに入っていた。

「玲、それでいいのか?」

 義観が優しく諭す様に聞く。

 義観の持つ提灯の火が、ゆらゆらゆらゆら、と玲の心情を映すかのように揺れ動く。

「おじ上、でも私が居た時代の医療水準とこの世の医療では、あまりにも違いすぎるのです。それが、こんなに怖い事なんて私、思いもしなかったんです」

 玲は、頭を垂れ俯いて述べる。

「うむ、そうだな。しかし、その違いを少しでも埋めることが出来るのは玲ではないのか? 玲がおった世であったならばなどとは考えず、反対に考えてみたらどうだ?」

 玲が先日救ったお子も、玲が居なければ本来死に往く者であっただろう。これから玲が医道に進む事で、本来死すはずの者に生きる道が出来る。とな。――と薄い微笑みを携えて告げる。

「……私の知識を、逆に活かす……」

 玲は、垂れていた頭を上げると呆然としたように云った。

「うむ、そうじゃ。――恐れなして逃げるでは何も始まらん」

 それに……真に医道に進みとうないとは考えておらんのだろ?――と義観が微笑む。

 玲の瞳から大きな涙の雫が零れ落ちる。

「……私に医師が務まるのでしょうか? 私なんかでも……」

「自分を卑下するでない。玲なら大丈夫だ。立派に乗り越えられるはずだ」


 諦めたはずだった。

 忘れたはずだった。

 しかし現実は、勝や義観の言葉に揺さぶられるほど未だ未練があり、更には逃げても結局は医師になる夢が捨てられない。


 諦めたくとも――諦められない。

 忘れたくとも――忘れられない。


 医師への道。


(――私、医者になりたい……逃げたくない)


(でも…………)


 医道に進むという事は、義観にまた負担をおわせる事になる。

 出来るならば医師になりたい。

 だがそれを通すというのは、あまりに我が儘が過ぎる。

 そんな事を玲が考えていると、義観が口を開いた。

「一つ言い忘れておった。――わたしに遠慮をと考えているならば、それはいらん事だ。おぬし一人の面倒くらい、なんてことはない」

 それにの。と更に言葉は続く。

「わたしは、おぬしを本当の娘のように思っておる。だからの、世話を焼くのも苦ではないのだよ」

 義観は、これまで玲と一緒に過ごしてきた中で、ある程度玲の思考回路を理解していた。

 今回の事も、多少なり自分への遠慮が存在しているがため玲が踏み切れないでいるのであると義観はすでに見抜いていた。

「……おじ上……」

 玲の瞳からとめどなく涙が溢れる。

「おぬしは本当に泣き虫だの」

 と義観が笑う。

「おじ上、本当にいいのですか? 私、おじ上に甘えっぱなし……」

「いいも何も、わたしは初めから望む道がみつかれば其の方へと進めば良いと言っていたではないか。遅くなったがそのために人別簿も作った」

 と述べ、懐から懐紙を取り出す。

 そして、それを玲に手渡しながら、

「玲、望む道に進みなさい」

 と目尻に柔らかく皺を作り微笑む。

「お……おじ上、ありがとうございますっ」

 と玲は懐紙で顔を覆いながら咽び泣く。

 義観は、困ったな、と云う風に微笑みながら玲の頭をポンポンと優しく叩く。

「玲。その鳴り物……ばいおりんとかいったな、それを奏でてはくれんか?」

 もう一度、聴かせてくれ。――と義観が述べる。

 すると玲は、涙を流しながらも、

「ええ。おじ上の頼みとあらば、なんなりとっ」

 とにっこり微笑んだ。




 再び始まった、玲のリサイタル。

 月や星が見守る中、此度奏でられた音色は先程とは違い、希望に満ちた明るいワルツ。

 風に揺れ木々達が、さわさわと歌う。

 落葉が、玲の奏でる音色に誘われるように舞い踊る。


 透明な、それでいて力強い音色が玲の手から紡ぎだされる。

 義観は、その音色を聴き頬を緩めた。

 『もう、玲は大丈夫であろう』と――。



 



 

 

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