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新たな日常 肆

 食後、お風呂を頂いた玲。

 実は彼女、こちらの時代に来て約一週間が経つが、お風呂に入ったのは今回が初めて。

 それというのも、玲の住んでいる家には風呂が無い。

 寺の僧坊には、僧達の使う風呂があるのだが、誰も使用してない時間に使うといっても、流石に此れは厳しいと判断し入らないでいたのだ。

 仕方がないのでここ一週間は、湯を沸かし大きな桶に注ぎ入れ、髪や体を住処となった家で洗っていた。

 しかし最近は、この世にも慣れ始めた事もあり、義観に頼んで銭湯にでも行かせてもらおうかと思っていた所だった。



「……池の水には、灰色のみにくいアヒルの姿ではなく、真っ白な美しい鳥が映っていました。

『ぼくはみにくいアヒルの子なんかじゃない。あの美しい鳥たちと仲間だったんだ』と若い白鳥は、心から喜び大きく綺麗な羽を広げました。――おしまい」

 お風呂に入り気分の良い玲は、勝家の子供達の子守に買って出、今はアンデルセンの玲の大好きな童話を聞かせていた。

「ねーちゃん。――じゃ、みにくいアヒルの子は、みにくくなんてなかったんだね!」

 勝家嫡男の小鹿が、瞳を潤ませて聞いてくる。

「そうだよ。みにくくなんてないんだよ」

 玲が微笑みながら告げると、「「よかったぁ」」と、小鹿と次女の孝子が互いに顔を合わせ笑顔を浮かべあった。

「みにくいアヒルの子は、自分が劣っているのだと思っていたけど、そうじゃなくて、本当の自分の姿を知らなかっただけなの。みんなと違うために、意地悪されたり疎まれたりしたけど、本当の姿は美しい白鳥だったよね。小鹿くんもお孝ちゃんも、もしこれから、みにくいアヒルの子のように出来ない事があったりしても、人と比べたり、自分が劣っているなんて思わないこと。いい? まずは、自分に出来ることを少しづつ見つけていけばいいし、それに人は皆それぞれその人が持つ個性と才能が秘められているの。十人十色っていうでしょ? それがきっと、自分を美しい白鳥に変えてくれるから自分を信じて前を向いていけばいいのよ」

 と、玲は話して最後にニッコリと微笑む。

「「うん! わかった!」」

 再び、小鹿と孝子が元気良くハモって返事をした。

(ちょっと、この子達には難しかったかな? でも、まっいっか。大きくなって、昔こんな話聞いたなぁ位に覚えててくれたら、それでいい)

「ねーねー、玲おねえちゃん! もっと何か話してー」

「うん! オレも聞きたい!」

「そうだね〜、じゃ今度は何がいいかな?」

 と玲が考え始めた時。

 襖が開いて、勝が姿を現した。

「小鹿、お孝、もう寝る刻限だぞ。そろそろ終いだ」

「「え〜!」」

「父上ぇ、もう少しだけダメですか?」

「今日はもう遅い、また今度聞けばいいだろう」

 抵抗も虚しく、あっさり却下された小鹿とお孝は、ふて腐れながらも立ち上がる。

「ねーちゃん、またお話聞かせてね」

「うん、いいよ。小鹿くん、お孝ちゃん、おやすみ」

「「おやすみなさい」」

 二人が、勝の横を通って座敷を出て行く。

 その姿を見送っていた玲。すると、

「おまえさん、少し、酒に付き合わねぇか?」

「えっ? 私、お酒なんて飲めませんよ」

「だろうと思ってな、甘酒も用意してある。来な」

 そう言って勝は座敷を出て行く。

(……強引だなぁ……)

 例の如く強引な勝に苦笑いをしながら玲は付いていった。


 座敷には、膳が二つあり簡単なつまみまで用意されていた。

 膳についた勝がさっそく手酌で酒を呑もうとしている。

「あっ、私やります」

「あぁ、いい。気にすんな」

 と言うと、勝は注いだ酒をぐいっと呑み干した。

 そして、猪口を膳に置くと勝は玲を見据えた。

「おまえさんは、色んな事知ってるんだな。さっき小鹿らにしてた話もそうだが、おまえさんメリケン語も話せんのかい?」

(メリケン語? ……なんでいきなりそんな話題になる訳?)

 勝がなぜそんな事を言い出したのか解らないといった風に勝を見る。すると、

「おまえさん、川に落ちた坊主の話してる時しゃべってたじゃね〜か」

「え?」

 玲は吃驚して、思わず息を止めた。

 勝が言う『川に落ちた坊主の話してる時』とは、心肺蘇生法の説明をしている時の、玲も気付かぬ内に口から出ていた『mouth to mouth』と言う言葉を指していた。

(……話したかも。でも、よく気付いたわね。――さすが勝海舟、ちょっと口を滑らしたものも聞き逃さないって訳ね。

 どうしたら……嘘が通用するようにも思えないし……あっ、たしか勝海舟って蘭学を学んでいたはずだよね? だったら、たとえ私が英語を学んでいると言っても勝さんなら大丈夫かも……)

「で、どうなんだい?」

 誤魔化しきれないと判断した玲は事実を話すことにする。

「――ええ。学んでましたので多少は……」

 勝は、酒を注ごうとしていた手を止めて玲を見た。

 その表情はどこか楽しんでいるようで口角が上がっている。

「こりゃ、まさかとは思ったが驚いたな。開国して以来、英学の習得は急がれるようになったがよ、まさかおなごのおまえさんが英学を学んでるとはねぇ」

「あははは……まぁそうですよね、これからは外交、貿易などの日本国防の手段として英学の習得は急務ですものね。あははは……」

 空笑いをしながら、その場しのぎの何気ない返事を返したつもりの玲であったが、その玲の返答に勝は微かに目を見開いた。

 その表情は先程までとは異なり、驚愕を孕んだ表情の中にも何か思案巡らせているかのような真剣な顔。


 女だてらに勉学に英学を学んでいるだけでも寝耳に水であるのに対し更には、開国してまだ数年、一般には藩が社会の単位で、国といえば藩的な規模を指す事が多い中で、玲の中にはすでに国家という概念がある事がわかる発言、そればかりか外交やら貿易などといった言葉。

 今現在の幕府、否、日本の現状を理解していないと出てこない発言である。

 玲の短い返事から、勝は鋭く玲のその高い知識を見抜く。

 玲を見ると、玲は銚子に手を伸ばし気品を漂わせる上品な仕草で湯呑みに甘酒を注いでいる。

 その仕草は、洗練されたもので見目の美しさも見合って、一見どこぞの姫君にさえ見える。

 しかし、その容姿もさることながら、非常に頭が切れる事が窺える発言。

 祖父と兄が医師であったと玲は言った、更に義観は縁続きの者と。

 勝は、なるほど頭が切れるはずだ。――と独り納得する。

 まだ出会って僅かだが、この数時間で驚かされてばかりである勝は、――実に面白い、興味が尽きない。と心底思っていた。


 勝は止めていた手を再び伸ばし自分の杯に酒を満たす。そして杯を一気に仰ぐと口を開いた。

「おまえさんは、英学を学んでたって事は開国を望んでんのかい? 今の幕府をどう思う?」

 勝自身は玲が英語を学んでいた事について驚きはしたが抵抗は無い。むしろ、関心した。――というのが本心だ。

 しかし、そんな事より今は、玲のこの国に対する考えが聞きたくなったのだ。

 英学を良いきっかけに玲の本心を導きだそうと勝は問う。

 玲は湯呑みを膳に置き、勝を見た。

「私が英学を学んでいたのは、別に政や思想などとは関係ありませんよ」

 もちろん玲はこの時代の人間ではないため義務教育でいままで学んでいただけの事である。

 開国・攘夷、ましてや後に出来る思想、佐幕派・倒幕派の対立などというのは過去の出来事で、これまで自分が過ごしていた平成の世では関係のなかったことである。

(たしか勝海舟は開国派の急先鋒だったんだよね。

 それに私の記憶が確かなら勝さんの妹の旦那さんって、開国論者の佐久間象山だったはず。

 それなら私の思っている事、まんま話しても危険はなさそうね)

「そうですね……開国については、こう言っては言葉が悪いですが仕方のない事だと思いますよ」

 授業や小説等で知った歴史の知識を思い出し、自分なりに考えていた結論を述べた。

「そうか。じゃ〜よ、おまえさんはなんでそんな風に思うっていうんだ?」

 杯を傾けながら勝はなお、問い掛ける。

(あまりこういう話はしたくないんだけどなぁ……でも、勝さんも知っている事だろうし大丈夫かな?

 それにどうせ私が話すまで、勝さん諦めてくれないだろうし?)

 玲の家には、歴史好きの祖父と兄達が買った小説や資料、時代劇のビデオやDVDが大量にあった。

 その影響で、小さい頃から家でひとりで過ごす事の多かった玲は暇を持て余した時などに、よくビデオを観賞したり本を読んだりしていたものだ。

 そのおかげといったところか、玲は小さな頃から歴史が得意分野であった。

 玲は、いつか読んだ資料を思い出し、少し考えてから話しはじめた。

「欧米諸国が産業革命を経た今、資源と市場を求めての諸国の進出が活発化しています。それは、アヘン戦争による清国、セポイの乱による印度の惨状をみれば分かる事です。勝さんもご存知だと思いますが、今ではどちらの国も植民地化が進んでいますよね。そして今、この日本が危機に瀕している。――ですが、攘夷を急ぎ今、諸外国と戦になれば確実に日本もこれらの国の二の舞となり植民地化されざるを得なくなります。それは、ただ開国を拒否した場合でも同じ事です。アメ、いえメリケンと戦をしても長らく鎖国していた日本国と欧米諸国では、なにより武力の差が大きい。残念ながら今の日本が勝てるとは思えません」

 甘酒の入った杯を傾け喉を潤おす。

 そして更に玲の言葉は続く。

「先ほども申しましたが、開国を拒否し続ければ清国のような英・仏・露による分割植民地化は避けられない。となると、開国の方針をとらなければ将来、国を維持することはできないでしょう。その点で、先を見据えられた策として大老の決断は英断だったと私は確信しています。日本が独立を維持するには、開国して積極的に貿易をし、国力を上げなければならない。今、日本にとって最善の政策は国交を結ぶ事。その上で富国強兵を進め欧米と再交渉するなり攘夷をすればいいのではないでしょうか? 色々問題はありますが、今は無駄な流血と植民地化を避けるための手段としてそれ以外ありません。それが正しいかどうかは判りませんが……私は、幕府は間違っていなかったと思っています」


 それまで静かに玲の言に耳を傾けていた勝は、その通りだ。と言わんばかりに深く頷き言葉を述べる。

「そうだ。戦をおっぱじめても勝ち目なんかありゃしねぇ。おまえさんの言う通りまずは富国強兵が先だ」

 少しの間の後、しかし――と勝の言葉は続いた。

「頭のかてぇ血の気の多い馬鹿野郎ばっかで頭が痛ぇや」

 それは、誰に聞かせるでもなく独り言のような響き。

 その言葉が耳に入った玲は、何か考えを巡らせているかのように沈黙する。

 程無くして、玲は神妙な面持ちで口を開いた。

「聞いて頂きたい事があるのですが……」

 勝がなんだ? といった態で玲を見る。

「私が言うのも差出がましいと思うのですが……井伊大老のことです。――大老のほぼ独断による米国との条約締結と強行に推し進めた開国、さらには大老の強圧的な政策。攘夷派にとって井伊大老は憎悪の対象となっているとは思いませんか?」


 万延元年、桃の節句の三月三日――。

 大老井伊直弼は登城途中の江戸城外桜田門付近で水戸藩浪士により襲撃をうけることとなる。

 それは、今から半年も経たぬ内に起こる。のちに言う《桜田門外の変》である。

 桜田門外の変による暗殺は、白昼、江戸城門外で幕閣最高責任者が殺害されるという最悪のシナリオで、幕府は井伊の強権的な手腕で回復しかけていた権威が一気に凋落することになる。

 更に、この事変により『倒幕』という明確な目的が攘夷派の中に形成され始め、反幕派による尊皇攘夷運動が激化する端緒となり、徳川幕府滅亡の遠因ともなってゆく。

 玲は、井伊が桜田門外の変で暗殺されなければ、この先の、日本人が日本人を浄化するといった醜く残酷な戦いが防げるのではないかと考えた。

 未然に防ぐ事で、沢山の死者を出す戦を避けれられれば、と思い立ったのである。

 ――ただ純粋に、この先に待ち受ける悲しく惨い出来事を避けるために……。


「……まぁ、そりゃそうだろうな。なんだ? 大老が襲撃されるとでも思ってんのか?」

 そう言うと、勝はおもむろに立上がり、傍にあった木製の箱火鉢のもとに移動し、隅に突き刺してあった火箸を手に取り、火を強く起こすべく火鉢の中に炭を足した。

「でもよ、そりゃねぇだろ。近江彦根藩の藩主でありながら大老だぞ。そんな事が起これば世の中の天地がひっくり返っちまうわぁ」

「では仮に、そのまさかが起こったらこの国はどうなってしまうのでしょうか?」

 玲は息を呑んで、火鉢をいじる勝の背中を見つめる。すると一言。


「内乱が起こる」


 と力強く、けれどもひっそりと響く音色をもって述べた。


(さすが勝海舟……鋭い勘働き。いや、瞬時に先を見抜く力が勝さんにはあるのかもしれない)

 確実に先見の明を有しているだろう勝の鋭い感性に、玲は慄きつつも敬意の念を抱く。

「私も同様に考えております。だからこそ、大老には気を付けて頂きたいのです」

「気を付けろつったって、相手は殿様だぞ? どうやって襲うって云うんだ? 攘夷の奴らが狙ったところで、そう易々と手出しはできねぇよ」

 勝は、途方も無い事を言い始めた玲の言に呆れたかの様に火鉢の中の炭を火箸で弄び始めた。

「ところで勝さん? 雨や雪の日に外出する時は刀に袋をかぶせると聞いたのですが、それは本当ですか?」

 突然、脈絡のない質問をする玲。

 勝は少し怪訝な表情を浮かべながら答える。

「なんだ? いきなりだな。――まぁ、そうだな……水が浸入して刀が錆びねぇように柄袋付けんな。あとは、鞘に油紙巻いたりな」

 それがどうした? といった表情で玲を窺う勝。

「突然おかしな質問をして、すいません。……ついでに、もう一つだけ良いですか?」

「なんだ?」

「はい。――先ほど勝さんが言った井伊大老をどのように襲うかですが、確かに一介の浪士が大老を狙うとなるとなかなか機会はありませんね。ですが唯一、大老と接触できる好機があるとは思いませんか?」

 二人の間に、束の間の沈黙が下りる。

 やがて、沈黙を破ったのは勝だった。


「――登城と下城か」


 勝が弄火ろうかしていた火鉢の中の炭がパチパチと音をたてて火の粉を散らした。


「はい」

 玲は勝の目をジッと見つめたまま、ゆっくり頷いた。そして、言葉は続く。

「更に申しま「更に言えば、襲撃する時、雨か雪だったら従者がすぐに刀を抜く事ができねぇ、襲撃する側としちゃ、これほどの絶好の機会はありゃしねぇ。――だろ?」

 玲が更なる口上を述べようとしたら、勝が言葉を被せてきた。

 しかもそれは今まさに、玲が述べようとしていた事。


 ――井伊直弼暗殺の当日、その日は季節外れの雪で視界も悪く、井伊家の家臣たちは雨合羽を羽織り、更には刀の柄がぬれないようにと袋をかけていたので咄嗟の応戦ができなかったと聞く。

 そのため襲撃側には有利な状況で、ことのほか容易く暗殺が実行されたのである。


「ご、ご名答です」

 玲は、鳩が豆鉄砲を食らったような表情を浮かべて言った。

 その様子を見た勝が笑う。

「なぁに、驚れぇてんだ。おまえさんが言おうとしてた事じゃねぇか」

「え、ええ」

「大老の身が危ねぇってのは分かった。んで、何でおまえさんはそんな事を言うんだ?」

 玲は、物寂しそうな表情をして微笑みを浮かべる。

「ただ、生きてほしいから。――大老も、沢山の人々も。……人の命は尊いものです。ですが、それと同時にこれほど脆いものもない……」

 病気を患い、長い間病床に臥していた母を玲は思い出す。

 余命僅かと宣告されてもなお、投薬も止めず最後の時まで病と闘っていた母。

 だがしかし、無常にも母は治療の甲斐なく儚く逝ってしまった。

 玲は、一番身近な存在の母により、死を学ぶ事となった。

 まだ幼かった玲には、こくすぎるほどの経験でもあり、また、命の大切さと儚さを知る貴重な経験でもあった。

「だからこそ、無駄に命を失って欲しくないのです」

 玲の小さな肩がかすかに震え、膝の上に置いた両手には力が入り白くなっていた。

「……なるほどな。おまえさんのように、医道の心得が有るような人間にゃ、尚更かもな。――まぁ〜よ、事の次第は俺が直接大老に託ける事は出来ねぇが、近しい者に伝える事ぐれぇなら出来っからよ」

 だからそんなに心配しなさんな。と言って笑う。

 ふいに立ち上がった勝は膳のもとへと戻り、酒の肴をつまむと、おいしそうに杯を仰いだ。

 そんな勝を見て落ち着いたのか、玲の強張っていた体から力が自然と抜けていく。

「くれぐれも気を付ける様にと、宜しくお願いしますね」

「おう。――で、俺からも言いてぇ事があんだけどよ、おまえさんはさっき命は尊いものだから無駄に失って欲しくねぇと言ったな。やっぱよ、そういう奴こそ医師になるべきなんじゃねぇか?」

 その勝の言を聞いた玲は、途端に黙り込んでしまう。

 その表情は先程までとは違い、まるで感情を押し殺しているかのように表情が無い。

 勝が更に言葉を続ける。

「おまえさんは、自分の知識は大したもんじゃねぇって言ったがよ、俺は、そんな風には思えねぇな。むしろ、おまえさんの医学の知識はそこらのヘタな町医より優れてると思うんだがな」

 シンとした室内だからだろうか、勝が酒を杯に注いでいる音が、やけに響く。

「……そんな事ありません……勝さんは私を買い被りすぎですよ」

「金子の心配はいらねぇと思うぞ。なんなら俺から義観に掛け合って「やめてください! いいんです! 私、医師になるつもりはありませんから」

 玲は我知らず強い口調で、勝の言葉に割りこんでしまっていた。

 平成の世から時を越えて此方の世へ来た時、玲は医師になる夢を諦めた。

 もしそうで無くとも、十分過ぎるほどに世話になっている義観にこれ以上甘える訳にはいかない。

 医学を学ぶための費用を無心するなど以ての外だ。今は、少しでも早く自立をし迷惑を掛けないように、一人前にこの時代で生きていけるようにならなくてはいけない。と、玲は考えている。

「すいません。本当に私には無理ですから……」

 そう言うと、視線を膳に落とし箸を手に取る。

 頭の先で、勝が小さくため息を吐いたのが聞こえた。

「そ〜か。じゃ、もう言わねぇよ。ただ最後に、これだけは言わせてくれ。――おまえさん小鹿とお孝に話を聞かせてただろ、みにくいアヒルだかなんとか言ってたな。あれ、おまえさんにも当てはまるんじゃねぇのか? おまえさんは自分が劣っていると思ってっけど、そうじゃねぇ、自分を知らねぇだけだ。――否、違うな。おまえさんは白鳥になる準備は出来てるのに、なろうとしねぇだけなんじゃねぇのか? 人にはそれぞれその人間が持つ個性と才能が秘められてんだろ? おまえさんの個性と才能はなんだ? 自分で分かってるはずだ。違うかえ?」

「……ご忠告は有り難く受け止めさせて頂きます。――ですが、先ほども申しましたとおり、私は医師になるつもりはありません」

 玲の表情は依然として無表情であるが、凛とした眼差しは健在で、その真っ直ぐな視線を勝に向け意思が変わらぬことを伝えた。

 その玲の意思の強そうな瞳を見て勝は――こりゃ、義観の縁の者に違いねぇ。頭が固くて俺にゃ手に負えねぇな。と胸中で呟き、自分の友人である義観を思い出す。

 普段温和である義観もまた、玲同様、頑固で融通のきかない所がある。

 しかしそれは、一本筋の通った芯の強さと、それと表裏を為す心の優しさを持ち合わせている人物である事から起因する。

 玲を見ているとそんな義観と重なる。

 そして、義観に似通っている玲だからこそ、頑なに医道を拒むのにも、また何か訳があるのだろうと勝は思う。

 外見は、まったくと言っていいほど似ていないが、中身は自分の友人にそっくりであると、しみじみ思いながら改めて玲を窺っていると、勝はなぜだか無性に可笑しくなってきて笑い始めた。

 玲はいきなり笑い出した勝を怪訝そうな表情で眺める。

 その様子に気付いた勝が、笑みを浮かべながら言葉を継いだ。

「悪かったな。おまえさんにも何か考えがあるんだろうからな。もう言わねぇよ」

 玲はそう述べた勝を、本当にもう何も言わないか? と疑っているように不審げに勝を見つめる。

「なんだ?」

 勝は、未だ笑みを浮かべながら問う。

 玲は一つ小さく息を吐き、我知らず入っていた肩の力を抜く。そして、

「いいえ」と述べ続けて、

「私の方こそ、勝さんは私のために言って下さったのに失礼な態度をとってしまいまして申し訳ありませんでした」と辞儀をした。

「あ〜いい、いい! んな事、気にすんな――それより、甘酒まだ残ってんのか? 持ってこさせるか」

 言うが早いか、勝は勝家に仕える小間使いを呼ぶために立ち上がった。

「あっ! もう結構ですよ!」

 そんな勝の言葉と行動を見た玲は、もうこれ以上つき合わされるのは勘弁だ。とでも言いたげに慌てて止めの声を上げる。

 すっかり勝のペースに乗せられている玲は、勝に引っ掻き回され、今日出会ったばかりなのに彼此あれこれと話し過ぎである。それに正直なところ、勝の質問は際どいものばかりであるため、襤褸を出さないようにと注意しながら受け答えるのが非常に疲れるのである。

「勝さん……まだお呑みになるのですか?」

 玲は、自分の解放を願いつつも言葉を紡ぐ。

 しかし玲の願いも虚しく勝は、

「なぁに言ってやがんだ。俺はまだ、大して呑んじゃいねぇ。もう少し付き合えや」

 とニヤリと笑みを浮かべて言う。

 そんな勝に、玲は二の句が継げず、引き攣った表情で苦笑いするのみ。

 玲にとっては正しく、一難去ってまた一難。否、二難三難去ってまた一難だろうか。


 こうして玲にとって長い長い夜は更けて行くようだった。














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