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新たな日常 参

 あれから、休みなしで一時間以上歩き続けた玲は、疲れてクタクタになった姿で、地図を片手に辺りを見渡している。

 汚れた着物は、泥が乾き始め、歩くとポロポロと土が地面に落ちる。

「此処かな?」

 目の前の立派な門構えの屋敷を見上げる。

 遅ればせながらも、ようやく義観に頼まれた使い先に着いたようだ。

「御免くださーい」

 門から声を掛けてみるが、何の反応も無い。土地が広大らしく、声が届いていないようだった。

(勝手に中に入っていいのかな? 不法侵入で怪しまれないかな?)

 入るべきか、入らざるべきか、と悩んでいると、

「おまえさん、ウチに何か用かい?」と、背後から声を掛けられる。

 玲が振り向くと、そこには、鳶色の紋付袴姿で腰に刀を帯びた義観と同年代位の男が立っていた。

「えっ? あの、こちらのお屋敷の方ですか?」

「そうだぜ」

 と答えると、玲が何者であるか見定めているのか、ジッと見てくる。

「失礼しました。私、寛永寺義観僧都かんえいじぎかんそうずの使いで参りました、柳崎 玲と申します」

 と改めてお辞儀をして挨拶をする。

 すると、男は笑って話してきた。

「そうかよ。俺は勝麟太郎かつりんたろうだ。号は海舟かいしゅう。義観にゃ海舟と呼ばれてんな」

 そのあまりにも著名な名は、玲を驚かせるには十分な威力だった。

(えぇ!? 号が海舟!? それって、もしかして勝海舟!? 江戸城無血開城の? 幕末の三舟って称される、あのっ!? う、うそ〜!)


 玲の想像通り、正しくその男は、勝海舟。

 言わずと知れた、幕末明治期の政治家であり、あの坂本龍馬の師匠となる人物。

 そして、江戸の町を戦禍から救うため、江戸城を無血引渡しをした、その人である。


 眩暈を覚えた玲は、体をふらつかせた。

 それを見た勝が、咄嗟に玲の腕を掴む。

「おっと、大丈夫かい? おまえさん、そのナリもそうだが何があったんだい?」

 驚きの余り眩暈を起こした玲であったが、勝は泥まみれの玲の姿を見て違う風に勘違いしてくれたようだ。

「こんな所じゃなんだ、中に入んな。ちっと休んでけ」

 と言って、玲の腕を掴んだまま門に入って行く。


 玄関先で、勝が声を張り上げた。

「民子ぉー、帰ったぞ!」

 しばらくすると、廊下の奥から足音が聞こえてきた。

「おかえりなさいませ」

 と述べながら姿を現したのは、勝の妻・民子である。

 民子は、床に膝を下ろすと、

「あらっ、お客様ですの?」

 と、勝の背後に隠れていた玲を見遣る。

「ああ。使いで上野の山から来たんだが、調子がわりぃみてぇなんだ」

「あらあら、じゃ休んだ方がいいわね」

 玲が放心している間に、話がどんどん一方的に進んでいく。

「まず、着物を着替えさせてやってくれ」

「ええ、わかりました」そして、未だ放心状態の玲に民子は声を掛ける。

「? あなた大丈夫?」

 勝が振り返り玲を窺う。

 その気配にハッとして、玲は顔を上げた。

「えっ? あ。は、はい。だ、大丈夫ですから、お気になさらずに」

 と言うと玲は、慌てた様子で着物の袷から義観が認めた書状を取り出した。

「おじ上から、この書状をご主人に渡すようにと託っています」

 玲は、勝に文を差し出す。

「はぁ? おじ上ぇ? おまえさん、義観の親類かなんかかい?」

 と、勝は玲を見つめながらポカンとした様子で、文を受け取る。

 勝のそんな反応に一瞬驚いた玲であったが、

「はぁ、まぁ……そんなようなものです」

 と答えると、少し照れているような、はにかんだ笑みを浮かべた。

 そんな玲の様子を、尚も呆然とした様子で見つめる勝。

「麟太郎さん、こんな所で失礼ですわ。お話は、上がって頂いてからして下さいな」

 民子が、勝の様子に構わず話に割って入る。

 そして、さぁ、どうぞ。――と玲に微笑みかけた。

「あっ。私、汚れているので上がるわけにはいきません」

 お座敷を汚してしまいますので結構です。と玲が伝えた。しかし民子に、

「いいのいいの、気にしないで。休んでいって下さいな」

 ささ、上がってくださいまし。――と笑顔で返される。

「……それじゃ、ちょっと失礼いたします」

 と継げた玲は、家に上がるのかと思いきや体の向きを変え、玄関の外へと小走りで出ていってしまった。

 玲の突飛な行動に勝と民子は、目を丸くして玲の後ろ姿を見送る。

「あ? なんだ?」

 勝が意味が分からないといった風に呟く。

 程無くすると、玲は庭先で立ち止まり自分の体を叩き始めた。

「ん? ありゃ、何やってんだ?」

 勝が怪訝そうに玲を眺める。

 すると、式台にいる民子が、あっ。と小さな声を上げた。

 そして、歪む口元を隠すように、そっと指先で押さえ、勝を見上げた。

「……麟太郎さん。あれはきっと、着物に付いた泥を叩き落しているんだわ」

 と言うと、民子は可笑しくて、もう堪らないといった風に笑い始めた。

 そう、民子が述べた事はまさしく正解で、玲は、着物にこびり付いた乾いた泥を外で落としているのである。

 それは、玲なりに、お座敷を汚さないようにと配慮しての行動だった。

 民子から玲の行動の実態を聞いた勝は、しばらくポカンとしていたが、次第に可笑しくなってきたのか民子と一緒に笑い始めた。


 しばらくすると、玲はまた小走りで玄関に戻ってきた。

 玲は、自分の行動を一部始終見られていたのが恥ずかしいのか、少し頬を朱に染めて辞儀をした。

「それでは、お言葉に甘えてお邪魔致します」

「ふふふ。可愛らしいお客人だわ。どうぞ、上がってくださいまし」

「おう、遠慮すんなよ。上がれ上がれ」

 と、未だ可笑しそうに笑みを浮かべる民子と勝に促され、玲は式台に上がる。

 続いて勝も、草履を脱いで式台へと上がった。そして、

「おまえさん、着替え終わったら、俺の所にこいよ」

 それだけ言うと、勝はくるりと踵を返し、奥に続く廊下を歩いて行ってしまった。

 玲は、えっ?――と暫し、ぼうっと勝の後ろ姿を眺めていたが、  

「あなたは、こっちよ。ついてきて」

 と、民子に勝が歩いて行った方向とは逆の廊下へと急き立てられ、慌てて玲は民子の後をついて行った。



******



 お言葉に甘えて、着替えまでさせてもらった玲。

 しかし、借りた着物は少し小さかったため、おはしょりを作らずに着た。

 現代では其れほど身長の高い部類ではなかった玲だが、往々にして、この時代の女性は玲より若干低い。

 ほんと、何から何までお世話になりっぱなしの玲は、只今は夕餉を頂いている。

 着替えが終わって、勝の部屋に向かう頃には、外は薄暗くなり始めていた。

 驚いた玲は、丁重にお礼を述べて帰路につこうとしたのだが、勝が夜の女のひとり歩きは危険だから泊まっていけ、と言ってきたのである。

 しかし、義観が心配するからと断ると、飛脚を出したから大丈夫だと言うのだ。

 その、勝の行動の速さに思わず関心するやら、強引さに呆れるやらで、玲は舌を巻いた。

 そうして説き伏せられた玲は抵抗を諦めて、今日一日勝家に泊まる事にしたのである。


「そんで、おまえさんはその子供を助けて泥まみれだったって訳かい?」

 勝が、野菜の煮物を食べながら聞いてくる。

 なぜ、あんな姿だったんだ。と勝に聞かれ、当初、渋って話そうとしなかった玲だが、余りにも勝がくどいので到頭観念して救出劇の顛末を話したのだ。

「はい」と玲は手に持っている椀を、膳に戻しながら小さくなる。

「しかし、死んだ人間が生き返るってぇのはすげぇな。そのシンパイソセイホウってどんななんだい?」

(困ったな、この時代って心肺蘇生なんてないんだよね? だから言いたくなかったのに……)

 きっと、また自分が口を割るまで勝は聞いてくるだろう。と一つため息をつき、諦めて話すことにする。

「心肺蘇生法は意識障害、呼吸停止、心停止もしくはこれに近い状態に陥った患者の、呼吸および循環を補助し救「おい! 待て待て!」」

 玲が早口に説明していると、勝がストップを掛けてきた。

「おまえさん、俺が意味わかんねぇの分かっててわざと言ってるだろ? まぁ、その通りなんだがよ。おまえさんも中々のつむじ曲がりだね」

 と言うと、可笑しそうに盛大に笑い出した。そして、もっと分かりやすく説明してくれ。と言う。

 玲も、少し意地悪が過ぎたかな? と少しだけ反省して、もう一度説明をする。

「えーと、今回の場合、その坊やが川で溺れて、私が駆けつけ確認した時には、意識もなく呼吸が止まった状態でした。

そこで、気道の確保……気道とは呼吸の際に空気の通る道のことなんですが、この場合鼻または口ですね。

その気道に、舌が喉に落ち込んだり、吐物などで、肺胞に達するまでの道を塞がないように空気の通り道を作る処置をします。ここまでが第一段階です」

 とそこまで話して、玲はお茶を飲んで喉を潤した。

「それで、次にmouth to mouth 鼻をつまみ口対口で空気を送ります。これを、二回行います。このとき空気がきちんと送られているかを胸の膨らみで確認します。

そして、自発呼吸が戻ったか、脈があるかを確認します。坊やの場合は、残念ながらどちらともありませんでした。これが第二段階。

第三段階は、第二の後で自発呼吸・脈拍が確認できない場合のみ行います。もちろん坊やにも行いました。

今度は直接心臓に刺激を与え働きかけます。手を重ね、胸骨圧迫を反復することによって、血液を体に循環させようと促がします」

 身振り手振りでジェスチャーを交えながら玲は説明をする。

「これを速い速度で三十回圧迫します。とにかく全てにおいて素早く行動することが大切です。そしたら、また第二の口対口人工呼吸、第三の胸骨圧迫を繰り返します。

坊やの場合……私も良く覚えてないのですが、五・六回繰り返した頃に意識を取り戻してくれました。

――運がよかったんです。心臓が停止してから長く刻限が経過した場合、心肺蘇生法は役に立ちません。

ですが、坊やは呼吸と心臓が停止してからの刻限が短かった。それと、今の季節が初冬で気温と溺れた川の水温が低かった。

体の温度が低下している場合、脳は呼吸が止まっても、より長い時間生存してくれます。直ちに蘇生法を行えれば助かる確率が高くなるんです。

そして、私が偶然その場にいて、直ぐに処置を行えた」

 ほんと、運がよかったんです。――ともう一度最後に言って締めくくった。

 玲の話しを黙って聞いていた勝は、腕を組み何か考えているかのような様子。

 玲は、止まっていた食事に戻ろうと、箸を手に取り、ぬるくなった味噌汁をのむ。

「おまえさんは、医師なのか?」

 暫く玲の食事をする光景を眺めていた勝が口を開いた。

 玲は、口に入っていたものを飲み下すと、

「いえ、祖父と兄が医師だったので一般の人よりは知識がある程度です」

あと、自分で独学で勉強はしてましたけど。と、胸中で呟く。

「おまえさん、いま家人は?」

『〜だった』と言うニュアンスに勝が何か感じたようだ。

「……おりません。ですので今は、おじ上の所でお世話になっているんです」

 それを聞いた勝は、少しばつが悪そうに、

「そうか。余計なこと聞いちまったな」

「いえ、大丈夫です。御門主様も宮様も、もちろんおじ上も、皆良くしてくれるんです。感謝してもしきれません」

「そうかよ。――んで? おまえさんは、医師になる気はねぇのかい? それだけの知識があんだ、もったいねぇだろ」


(そんなの無理よ。いくら知識があるっていっても、それは現代医学であって、この時代の医療知識じゃない。――医者なんて、到底無理よ……)


「私の知識なんて大した事ありません。それに、勉学するにも私には金子がありませんから」

 ささ、折角の御飯が冷たくなってしまいますよ、頂きましょう。と、その話を避けるかのように断ち切り、玲は煮物を頬張った。

 そんな玲を見て勝は、もったいねぇなぁ。――と、一つ零したが玲にならい再び食事に戻った。










ご覧いただき、ありがとうございます。


やっと新たな人物が登場しました。

話の流れがゆっくりで申し訳ないです。

とりあえず、新たな日常の章はこんな感じで、ゆっくりじっくり進みます。

とか言って、他の章もこんな感じかもしれませんが……それはスキルの問題でしょうね(|||´Д`)ゞァィャァ〜

……頑張りますっ。



※当方、医療関係者ではありません。

 事前に下調べをしてから文章に起こしていますが、医療行為・知識に誤りがあると思います。

 従って、作中に登場する医療に関する行為・知識は参考になりません。

 上記の事をご理解の上でご覧下さいm(_ _)m


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