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新たな日常 弐

 しばらく歩くと、先にある橋の(たもと)にできた人垣が、玲の視界に入ってきた。

 すれちがう者達が、ありゃ、もう駄目だな。――などと口々に囁きあっているのが聞こえる。

 次第に人垣が近くなると、玲の所にまで届く女の叫び声が聞こえてきた。

 何事か? と思った玲も急ぎ足で駆け寄り、人垣の間から様子を窺う。

 すると、何があったのだろうか、女は地べたに座り子供を抱きながら咽び泣いていた。

 抱かれた子供は、全身びしょぬれでグッタリとし、酷く顔色が悪い。

「どなたかお助けをっ! 坊やが! 坊やが川に落ちて溺れたんです! 誰か!」

 母親だろうと思われる子供を抱いた女が、助けを求め泣き叫んだ。

 玲は、人垣を掻き分け、二人の居る場所へと駆け寄る。

 考えるより先に体が動いた。

 玲は母親の傍らに膝を突くと、子供を母親から抱き上げ地面に寝かせながら、矢継ぎ早に母親に問うた。

「水中の中にはどの位いましたか? 助け出してからは、どの位の時が経っていますか?」

 一瞬何が起きたのか、と呆けた顔した母親も玲の質問に、はっ、として答える。

「あっ合わせても四半刻も経っていません! ほんの少し目を離した隙で!」

(て事は多くみても三十分も経っていないって事ね……細かい時間が分からないから何とも言えないけど、意識が無くなってからそんなに経っていないなら助けられるかもしれない!)

 考える間にも、手早く意識や呼吸の有無を確認していく。


 子供は意識もなく、呼吸もなかった。


 玲は、舌根沈下を防ぐため気道を確保をし、次いで鼻をつまみ胸が膨らむのを横目で確認しながら息を吹き込み始めた。

 その玲の行動に驚いた周りの人々が、ざわつく。

 しかしながら、今は、それに構っている時間はない。

 続いて玲は、坊やの脈が触れるかを確認するため、素早く首に指を当て頸動脈の拍動を確かめた。


(脈がない。――心臓が止まってる!)


 玲は内心焦りながらも、胸に両手を重ね置き心臓マッサージを始めた。


(……二十八、二十九、三十!)

 心臓マッサージを終えると、もう一度、呼吸の有無や体に何らかの動きがあるかを確認する。 


 されど――――反応は、無い。


 玲は諦めず、再度、人工呼吸を始めた。


 時折、反応の確認をしながらも、繰り返し繰り返し、人工呼吸と心臓マッサージをする。

 時間が経つにつれ玲の額には、徐々に汗が浮き始めていた。

「お願い! 戻ってきて!」

 と、何度目かの心臓マッサージに入ろうとした、その時――。


「げほっ!」

 子供が、水を吐き出した。


「鶴之助!!」

 母親が涙を流しながら子供の下へと飛びつく様にいざり寄る。

 男の子は、まだ意識がはっきりしないのか虚ろな目をしているが、それでも母親の声に反応するように顔を母親の方へと向けた。

「鶴之助君っていうのね? 鶴之助君? これは感じる?」

 と言うと玲は、坊やの手や足の指をギュッと抓み、順番に感覚があるか確認するために触診していく。

 感覚があるようで、坊やは弱弱しくではあるがきちんと頷いた。

 こちらが言っていることも理解しているようだ。

「じゃあね、これは幾つに見える?」

 と玲は指を二本立て坊やに見せる。すると、

「……に……」と坊やは小さな声で答えた。

「そうだよ。偉いね」と玲は坊やにニッコリと微笑む。

 そして、ちょっとごめんね。と言いながら、坊やを抱くようにして仰向きだった坊やの体勢を横向きにして寝かせた。

 まだ水を吐く可能性があるために体勢を変えたのである。

 そして、玲は虚脱状態の母親に視線を向けると、

「お母さん、もう大丈夫ですよ。安心して下さい」と告げた。

 玲は伝え終えると、自分こそ安心したのか気が抜けたようにペタンと地べたに座った。

「ほんと……よかった……」

 玲は呆然とした様子で呟いた。

 するとその玲の呟きがきっかけかの様に、周りの人々が信じられないといった様子で「子供が生き返った!」と騒ぎ出した。

 中には、夢でも見ているのではないか? と自分の頬をつねったり叩いたりしている者までいる。

 この時代の人々は、玲の行っていた救出法を知らない。

 人間を生き返らせるという神業とも思える事を、やってのけた玲に誰もが衝撃を受けているのだ。


 暫くすると我に返った坊やの母親が、玲の目の前へと来た。すると、地面に手を付き深々と頭を下げてきた。

「この子を助けて頂いて有難うございました。この子はやっと授かった一人息子なんです。このご恩は決して忘れは致しません」

 母親は、体を震わせながらも、なお深く頭を下げ続けている。

 玲は、その震える肩に触れ、

「お母さん、やめてください。頭を上げて下さい」と継げ母親に頭を上げてもらう。

「私は大した事をしていません。坊やの生きたいと思う気持ちが強かったから助かった。私は、その手助けをしたまでです」

 ほんとうに助かってよかった。――と満面の笑みを向けて玲は母親に言った。

 すると母親は、今、目の前の人物の姿に気付いたかのように瞠目する。

 玲は、立ち上がり着物に付いた汚れを懐紙で拭う。

 しかし、水に濡れた土の上で心肺蘇生を行っていたため、懐紙で拭って落ちる類の汚れではない。

 膝から下、袖下にお尻、他にも跳ねた所や手で触った所が泥で汚れてしまっている。

(あらぁ〜見事に泥だらけ。――でも、命を救えた代償がこれなら安いものよね)

 などと、玲が考えていると、

「あのっ、どっどちらの、お武家様の娘さんでしょう? 助けて頂いたお礼をしたいのですが」

 と、母親が声をうわづらせながら問うてきた。

 日本髪を結っていないおかしな姿でも、奥ゆかしさと凛とした、その美しさは変わらない。

 蕎麦屋の人々がそうだったように、また、少し風変わりの武家の娘だと勘違いしたのだろう。

「いえっ、お礼なんてとんでもないです。それに私、お武家ではありませんし、お礼は結構ですよ」

 と返すが、なおも母親は食い下がる。

「お武家様では、ないのですか? それでは、どちらのお医者様で?」

「いえいえ。医者でもありませんから、どうぞお気になさらず」

「では、どちらにお住まいで? お名は?」

 先を急ぐ玲にとって、この永遠に続きそうな、やり取りは困りものだ。

(困ったな。なるべくなら名乗りたくないんだけどな……でも、こんな事続けてるんじゃ、坊やが可哀想。早く暖めてあげないと)

 そう考えると玲は、やむを得なく折れる事にしお辞儀をした。

「私は柳崎 玲と申します。――おじが僧職をしておりまして、今は訳あって東叡山寛永寺にお世話になっております」

 それを聞いた母親は、驚いたように目を丸くする。

(やっぱり普通驚くよね。こんな小娘が寛永寺に住んでるなんて言ったら。――皇族が歴代門主を務める宮門跡寺院で、徳川将軍家の祈祷寺であり菩提寺で、天台宗関東総本山だものね……)

 玲は苦笑しながら言葉を続けた。

「あの……坊や、早く家に連れて帰って暖めてあげて下さい。このままじゃ風邪を引いてしまいますから。――それと、飲み物を欲しがると思います。そのときは冷たい物ではなくぬるめの物を与えてください」

 使いの途中ですので、この辺で失礼致します。お大事に。――と誤魔化すように一気に話すと、玲はそそくさと退散を決めこむ。

 未だ呆然としている母親に一つ苦笑いを零し、玲は体を進行方向へと向けた。

 するとそれまで事の成り行きを眺めていた野次馬の人々がざわめきを起こす。

 玲は、その思わぬ光景に吃驚する。

 坊やの救助に必死になっていた玲は、今の今まで人垣を作る人々がいた事をすっかり忘れていた。

 そこには未だに沢山の人々がおり、それも当初、玲が見た人垣よりも遥かに多くの人が集まっているかのようだった。

(なっなに? いつの間にこんなに集まったの? もう、坊や助かったから帰っても大丈夫だよ?)

 玲は、あたふたしながらも観衆に声を掛ける。

「あの、皆さん、お騒がせ致しました。坊やの意識も無事戻りましたので、もう心配はございません」

 しかし玲が其れと伝えても人々は、玲を食い入るように見つめたまま動こうとしない。


(なっなに? どうして帰らないの? ……そうか、心肺蘇生法なんてやったから、よっぽど皆の意表をついちゃったんだね――でも困ったな、先を急ぐのに……ここは、突っ切って行くしかなさそうね)


 そう考えると、玲は人垣に向かって歩を進めた。

「あの、すいません。使いの途中で先を急ぐので、通してください」

 言葉を告げながら玲が人垣に近寄ると、人垣は自然に二つに割れた。

 玲は、すいません。ありがとうございます。――などと、軽く会釈しながら、人々の注目を物ともせず人垣を抜けた。

 暫くは人々の視線を感じたが、橋を渡りきり振る返ると、もう人垣も見えなくなっていた。

「ふう。びっくりした。いつの間にあんなに集まったわけ? 全然気が付かなかった」

 さてと。と玲は時間を確認すべく帯に入れてた時計を取り出す。

 すると、驚いたように声をあげた。

「うわぁ大変! ずいぶん時間ロスしちゃった。急がなきゃ!」

 と、玲は慌てて使い先へと、急ぎ足で向かった。














※当方、医療関係者ではありません。

 事前に下調べをしてから文章に起こしていますが、医療行為・知識に誤りがあると思います。

 従って、作中に登場する医療に関する行為・知識は参考になりません。

 上記の事をご理解の上でご覧下さいm(_ _)m


四半刻しはんとき……三十分

 江戸時代では、一般に『四半刻』が時間を表す最小単位だったそうです。

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