第7章
アスファルトに尻餅をついた俺の前には、桜さんが立っていた。俺がぶつかったのは、桜さんだったのか?
「・・・青木君 ?大丈夫?」
彼女は驚いた様に私の側にかがむと、尻餅をついた俺の気づかうように立ち上がらせてくれた。
「怪我は?」
「いえ、平気です、桜さん・・・・は・・・?」
そう言って顔を上げると、紛れもなく桜さんがいて・・・その後ろには・・・もう一人、見覚えある人が立っていた。
すらりとした長身と、整った顔立ちの男が・・・
鋭い目力をもつ筈のそのまなざしは、カモフラージュの為か、メガネで隠されていた。それでも、知っている人が見れば・・・判ってしまう。
「・・・シン・・・さん・・・・」
俳優の、シンさん。
桜さんの飲み友達で、ERISのヴォーカル、マナトとも知り合いの、あの俳優だ。よくテレビ局でも顔を合わせる男だ。
この前のテレビ収録の時にだって、現場に見学にきていたほどだ。
桜さんが今、ここにいることよりも、その後ろにいる男の存在に驚いた俺は、その驚きで声さえ出なかった。
「・・・青木さん・・・久しぶり」
シンさんは、笑っていたけど、その顔は、心なしか少し、引きつっているように見えた。それはもしかしたら、逢いたくないときに、逢いたくない人に出会ってしまった、という後ろめたさかも知れない。
「どうしてっ・・・」
差し伸べられた桜さんの薬指には、シンプルな指輪が光っていた。それは、仕事中の彼女の手にはなかった物だった。・・・見間違えていなければ、この前、桜さんがチェーンに通して首から下げていたものだ・・・
桜さんは普段から指輪はもちろん、アクセサリーなどほとんど身に付けない。飾り気のない彼女の身体に唯一輝くその指輪は、一際輝いて見えた。しかも、それを左薬指に指輪をしている・・・その現実に俺は思わず息を飲んだ。
そして、彼女の後ろに立っているシンさんの左手に視線を移した。その指にも・・・同じ指輪が光っていた。
俺の視線に気づいたのか、桜さんは、その左手をそっと、隠そうとした。
でも、その動きに気づいたのか、シンさんは、桜さんのその左指を掴んで、自分の方に引いた。
まるで、“桜は俺のだ”と言いたげに・・・
そして、それを拒絶しない桜さん。その行動で気づいてしまう。
「桜さん・・・」
「‥何?」
桜さんの表情は、今俺に出会った、という驚きよりも、俺にこれから聞かれる事の方に緊張しているようだった。
俺は、覚悟して、聞いてみた。
「・・・シンさんと、つき合ってるん・・・ですね?」
まっすぐに、桜さんの顔を見て、そう聞いた俺に、彼女は静かに頷いた。
その彼女の表情は、今まで俺が見たこともないほど、“女”の表情をしていた。
はっ、っと俺が一瞬見惚れるほどだった。
普段の、ピアニストの表情とも、少し天然風味な表情とも違う・・・年相応な“女”の・・・
「・・・とりあえず、さ。場所変えないか?
ここじゃ、目撃者大量生産しそうだ。
俺の部屋、行こう」
その空気感をいち早く読んでか、シンさんはそう言った。確かにこんなところにいて、シンさんのファンに見つかったら面倒だ。
シンさんの言葉に、桜さんと俺は頷いた。
俺達は、走ってきたタクシーに乗りこんだ。
シンさんが、運転手に住所を伝えると、そこから十分ほどで目的地に着いた。
そこは、繁華街から少し離れた所にある高級マンションだった。
「ここ・・・」
「俺の家。入って」
部屋に案内されて、俺と桜さんはシンさんの部屋に入った。
セキュリティーがしっかりしていて、外装も設備も整っていて綺麗で・・・いかにも芸能人が好んで住みそうなマンションだった。
正直、こんなマンションに足を踏み入れたのは初めてで、妙に落ち着かない。一方桜さんは平然としていた。それだけでも、普段からここに足繁く通っているのが判る。
部屋は、一人で住むにはとても広い部屋だった。そして、男性の部屋にしては妙に片付いていた。
リビングのような部屋にはソファと、対になっているテーブルは、落ち着いた色合いで、シンさんの趣味の良さが垣間見えた。
そのソファの片隅には、丁寧にたたまれた、明るい女性向けな色合いのブランケットがあり、ここに、よく桜さんが来ていることを暗に表しているようだった。
「コーヒー、淹れるね?」
桜さんはそう言って台所に入ろうとした・・・けど、シンさんはそれを止めた。
「俺が淹れるから」
心持ち、優しい声だった。すると桜さんは不安げにシンさんを見上げた。
「青木さんに、話さなきゃいけないことがあるんだろ?」
「っ・・・・」
真っ赤になって泣きそうな横顔が、一瞬見えた。
「コーヒー淹れるまでの間に・・・ちゃんと話すんだ。判ったな?」
シンさんはまるで諭すようにそう言った。相変わらず、不安げな表情をしているが、桜さんは、軽く頷いた。
ぽんぽん、とシンさんは桜さんの頭を撫でると、そのまま台所へ入っていった。
必然的に、リビングには、俺と桜さん、二人になってしまった。
正直、気まずい。
それは、桜さんが俺達に秘密でシンさんとつき合っていたから、とか、そんなんじゃなくて。
むしろ、桜さんの、1番触れてはいけないプライベートに、無断で触れてしまった、という罪悪感にも似た気分だった。
確かに、俺は桜さんのマネージャーをやっている。でも、それは仕事上であって、桜さんのプライベートには、必要以上に触れていない。それは、この仕事をやる上での、暗黙の了解というか、約束事だ。
事務所やマネージャーによっては、マネージメントする相手のプライベート全てにおいて関わってくるようなマネージャーもいる。でも、うちの事務所のマネージャーは、そういった事は絶対にしない。
そりゃ、俺もこういう仕事に就いているから、桜さんのプライベートは気になる。
例えば飲み友達のマナトやシンさん、明日香さんと、酒が入るとどんな話をするんだろう、とか、そういった事は、凄く気になる。
でも、そこは触れてはいけないところだ・・・と思っていた。
それでも・・・今、ここで避けては通れない
今、俺の目の前にいる桜さんとシンさんの関係も、そうだ。
俺が知りたいプライベートではあるけど、触れてはいけない事柄だ。
それでも・・・
「桜さん」
今、触れないわけにはいかない。
俺は、今、1番心を占めていた筈の七海さんの一件に、一旦蓋をした。
そして、少し怯えた表情で俺を見ている桜さんに、恐る恐る、聞いてみた。
「・・・シンさんと・・・その・・・つき合ってるんですよ・・・ね?」
それは、言葉にしてしまえば酷くあっけない言葉だった。
そして、その言葉に、桜さんは、頷いた。
「うん。そう・・・」
シンさんと、桜さんが・・・恋人同士?
俺は、改めて、さっき桜さんと向き合っていたシンさんを思い起こした。
向かい合う二人の空気感は、恋人同士のものだった・・・
確かに、この前車の中で恋人がいるか聞いた時、“いるよ”と答えていた。でも、それがまさか俳優 シンさんだとは思いもしなかった。
てっきり、マナトさんか、いつも事務所に来るあの大沢さん、そのどちらかだと思っていた。
でも・・・
「随分・・・格差恋愛ですね」
桜さんとシンさんのカップルを見て、真っ先に思った事が、それだった。
「そうね」
桜さんが、くすっと笑った。
人気俳優と世界的に有名なトップピアニストの恋愛・・・
それは、例えば一般の人同士の恋愛や、芸能人と一般の人との恋愛とか、そういった物とは訳が違う。
確かに、シンさんも桜さんも、それぞれの業界では、一流に属する人だ。
シンさんは、日本で知らない人がいないのでは? と思う程の国民的人気俳優だし、桜さんは桜さんで、“東洋の至宝”の異名をもつトップピアニスト。クラシックやピアノを知らない人にも名前が知られているほどの存在だ。
しかし、二人とも、恋愛に関しては、本人の意思よりも事務所や周囲の人々、外野の発言力の方が強く、むしろそういった存在に対して心を砕かなければならないのだ。
シンさんは、恋愛一つとっても、事務所やファンの事を考えると、公に出来ないだろうし。
桜さんは、・・・後援会の人がこの恋愛の事を知ったら、発狂して別れさせられるだろう。
『そんなつまらない人間との恋愛にうつつを抜かす暇があったら・・・』
嫌味ったらしくそう言いそうな、後援会のお偉方の存在を、俺は良く知っていた。
ゆっくりと、桜さんは俺の側に来た。
ソファに座る俺の隣に、ゆっくりと座った。二人がけのソファに並んで座ってはいるけど、俺と桜さんの間には、例えばさっきのシンさんと桜さんの間に感じたような特別な空気感はない。
かといって、夕方、七海さんの家に行った時に七海さんと並んで座ったときのような鼻鏡な距離感もない。
いたって自然体だった。
「黙ってて・・・ごめんなさい。
本当は、もっと早く、青木さんには言うつもりだったの。
でも、なかなか言い出せなくて・・」
ごめんなさい、と彼女は俺に深く頭を下げた。
「青木君がマネージャーになって・・・すぐにでも言いたかったのよ?
仕事で、テレビ局に行けば、シン君に会うことだって多いでしょうし。隠し通せるものでもないでしょ?」
確かに、俺がマネージャーになってから1年ちょっと経ったけど、こう言ったプライベートや色恋沙汰な話を面と向かってしたことがなかった。
「・・・いつから、ですか?」
「3年位前・・・かな?青木君が、入社してくるちょっと前から」
桜さんは照れくさそうに言った。
その表情はとても幸せそうで・・・俺は、胸の中にあった、2人の恋愛に対する否定的な言葉を飲み込んだ。
「事務所でも、知ってるのは憲一さんと・・・幹部の人達だけじゃないのかな?」
「秘密、なんですか?」
「公表・・・出来ないだろ?」
するとシンさんが、トレイにコーヒーカップを乗せて、リビングにやってきた。そして、俺にコーヒーの入ったマグカップを俺に差し出した。
「どうぞ。コーヒーで良かったか?」
「はい。ありがとうございます」
差し出されたマグを受け取ると、コーヒー独特の良い匂いが鼻に入ってきた。
同時に桜さんにも差し出されたライトカラーのマグには、カフェオレが入っていた。・・・桜さんはブラックコーヒーがあまり好きではない。飲む時はミルクと砂糖をかなり多めに入れている。
それ一つとっても、シンさんが、桜さんのことをよく知っている・・・理解している、という事実が伺えた。
「・・・俺と桜の事は、俺の事務所でも、マネージャー以外、知らせていない。
憲一さんとうちのマネージャーの間で、公表するタイミング、見計らってるけど・・・当分無理だろうな・・・」
「そうでしょうね・・・」
俺は頷いた。
超人気俳優とトップピアニストの熱愛・・・世間は大騒ぎになるだろう。
ピアニスト叶野桜と、俳優シン。
社会的地位や社会認知度の高さを見れば・・・桜さんの方が、圧倒的に高い。そんじょそこいらの、彼女と同年代の芸能人とは比べ物にならない。
シンさんは、人気俳優だが、それは国内での話。・・・でも桜さんは、東洋の至宝、とまで言われる、海外のクラシック業界にも認められ、一目置かれているピアニストで、認知度は偉い違いだ。
“東洋の至宝が、あんな俳優なんかに・・・・”
後援会のお偉方の呆れたような声が聞こえてきそうだ。それくらい、後援会のお偉方は、今、流行の芸能人とか若手アイドルとか、そういった存在を軽視している。後援会の人間にとって、俳優の「シン」という存在は、まさに「取るに足らない」「軽視してしかるべき」存在なのだ。
もちろんこれは、後援会側から見た偏見だが、桜さんはそんな偏見を持った人間によって『飼われている』存在であることは確かだ。
リアルな事を言ってしまえば・・・子供だった桜さんに、ピアノの才能を見いだした後援会の人間が桜さんに金を出し、ピアニストに育て上げた・・そのお陰で桜さんがピアニストとして成功を収めたのは確かだし、そう言った存在に対して恩義があるのも確かだ。
けれど、今や桜さんは、後援会の力がなくても、充分ピアニストとして活動してゆけるはずだ。でも、だからといって後援会との関係を断つことは出来ない。後援会が、桜さんに対して大きな発言権を持っているのは確かだ。
・・・そう、桜さんの交際相手に対しても・・・
桜さんとシンさんの交際が表沙汰になったら・・・各方面、大騒ぎになるのは目に見えている。
「今はまだ、公表できない。こんな格差恋愛、ちょっとないだろ?
桜の後援会の人間に認められるような俳優にならないと、公表しても、軽くあしらわれて別れさせられるのがオチだ。
このままじゃ、俺は「桜の添え物」、その他大勢いる桜の交友関係の一欠片にしかなれない。それじゃ、駄目なんだ。
桜の隣に、対等に立つのに相応しいのは俺だけだと、認めさせたいんだ」
シンさんの表情は穏やかだったけど、その独特な目には、強い意志の光が宿っていた。
桜さんの為に、自らの地位を、能力を上げて行こうとしている、一人の男の人の姿は・・・とても格好良く見えた。
そして、その言葉が嘘ではない事を、俺は知っていた。
連ドラ・映画、舞台、バラエティー・・・ここ1,2年の彼の活躍は目を見張るものがある。テレビに出る機会も多く、噂では、2年後の大河ドラマの主役にも決まったらしい・・・と言われている。
大河ドラマ主役、ともなれば、単なる流行り物の二流以下の俳優などではなく、経験値や演技力も認められた本格俳優、として一目置かれる存在になるだろう。
勿論、大河に出演したから、桜さんと釣り合う存在になれる、とかそういう問題ではないけど、周囲の、彼に対する評価は随分変わってくるだろう・・・
「・・・シンさんは・・・」
「ん?」
「シンさんは、桜さんの隣に立つために・・・」
そこまで自分を磨き続けているんですか?
俺がそう聞こうとしたけど、言葉にはならなかった。すると、シンさんは首を横に振った。
「それだけが目的じゃない。
でも、それも目的の一つだ。
俳優として、役者として自分を磨きたい、そう思ってるのも確かだし。
桜の為、っていうのも本当だ。
俺にとって、桜は・・・役者の仕事と同じくらい、大切な存在だ。
仕事の為に桜を手放す気なんか無いし、手放さないからには、隠したままにはしない。
桜とのこと、公表して・・・堂々とできる存在になりたい。・・・それだけだ」
それだけ。彼はそう言い切った。
でも『それだけ』が、どれだけ難しい事か・・・俺には判るつもりだった。
頭の固い、桜さんの後援会の人間に認められるような『存在』になる事は、そう簡単なことではない。
そんなこと、ここにいる三人、ちゃんと判っている。
判っていても尚・・・
部屋に、妙な沈黙が下りてきた。
でも、その沈黙は気まずい物ではなかった。
そして、今、この沈黙を破れるのは、桜さんでもシンさんでもなく・・・
「憲一さんが、認めてるんですよね?」
その沈黙は、俺が破った。桜さんは頷いた。
「だったら、俺は何も言いませんよ。誰にも言いません。
大体、人の恋愛にどうこう言うほど悪趣味じゃないです。
別れさせる権限、俺にはないですよ。
だから・・・安心して下さい」
軽い笑顔を見せて、俺は言った。
もともと言って回るほど悪趣味ではない。そんなことをすれば桜さんの仕事に影響が出るだろう。
「ありがとう。青木君」
桜さんが、やっと笑顔を見せてくれた。再会してから今まで桜さんの表情は、笑っていても少し固かった。それは、今まで隠していた後ろめたさと、俺に交際を反対させるかも知れない、という不安からきたものだったのだろう。
「あ、それから・・・」
桜さんは、ほっとした顔をしながら、そう、言葉を続けた。
「なんですか?」
もうここまで来たら、何だって聞いてやる、何聞いたって驚きやしない。そう覚悟しながら桜さんの顔を見た。
「・・・うちの事務所によくくる大沢先輩と、“ERIS”のマナトさんは、私達のこと、知っているの」
「大沢さんと・・・マナトさん?」
桜さんは頷いた。
「マナトと俺とは、昔っからの友達だし、以前からドラマ共演してて親しいんだ。奴は口固いし、信用出来る奴だからな。つきあい始めて割とすぐ、知らせた。
あと、同業者で知ってるのは、俺のチーフマネージャーと・・・MTVのドラマスタッフが少し、知ってるくらいか・・・
みんな口固いやつばっかりだから、外に漏れることはないだろう」
シンさんはそう言いきった。つきあい始めて3年、と言っているけど、この3年、二人の熱愛報道が表沙汰になった事は一度だって無かった。単なる呑み友達、という事だけは世間に知られているけど、色めいた恋人同士、という話はまったく表沙汰になっていない。
何せ、マネージャーとして近くにいた俺さえ気づいていなかった訳なのだから・・・
勿論、桜さんだって妙齢な女性なのだから、つきあっている人の一人や二人(二人もいたらまずいか?)いても不思議じゃない。
そんなそぶりが全くなかったわけではない。
でも、シンさんが相手・・・とは全く思わなかった。
俺の中では、大沢さんかマナトさんが、桜さんの相手だと思っていたフシが、少しあったのかも知れない。
(だから・・・イライラしたんだっけな・・・)
大沢さんにせよ、マナトさんにしても、桜さんのそばに来ると、桜さんの表情が少し変わるし、大沢さんだってしょっちゅう事務所に顔を出しに来る。
恋人同士みたいに見えることだって、ある。
でも、あの大沢さんやマナトさんが桜さんの相手だなんて、認めたくなくて・・・イライラしてたんだな・・・
ほんの少し前までは、出来れば俺が桜さんの隣に立ちたかった。誰も立つことが許されない彼女の隣に。許されるなら、彼女の孤独を癒す存在になりたかった。・・・認めたくはなかったけど。
桜さんのことが、好きだった・・・憧れだった。言葉にさえならないほどに・・・
でもそれは、七海さんに出会うまで。
彼女と出会ってから、俺の気持ちは、少しずつ変わっていった。
今の俺の気持ちは・・・
気持ちは。
「ん?どうかしたのか?」
思いがけない所で自分の感情に気づいて、妙な気分になった。
俺はどんな顔をしていたのだろう?きっと挙動不審な顔をしていたのだろう。怪訝な顔をして、シンさんが俺の顔を覗き込んでいた。
「いえ・・・ね、桜さん?」
「何?」
「桜さん・・・じゃあ、大沢さんとは?」
大沢さんと桜さんは・・・端から見ても、仲良く見える。
それも、友達同士、といったものではない、もうちょっとこう・・・友達とも恋人とも違うし、かといって、憲一さんと桜さんのような幼馴染み的な空気でもない。
もっとこう・・・言葉で表現できないような、既存の人間関係のカテゴリーが何も当てはまらないような関係、に見える・・・
大沢さん、その名前を出した瞬間、一瞬だけ、桜さんの表情が揺らいだような気がした。
「大沢先輩はね、私の高校時代の先輩。
あの人の所にはね、いろいろ情報が集まるから、面白い情報が入ったら、知らせてもらうようにしているの」
「・・・それだけ・・・ですか?」
たったそれだけで、あの人がうちの事務所にこう足繁く通うなんて、考えられない。もっと他に、何かあるような気がするのだ・・・
大体、桜さんや憲一さんにその『面白い情報』を伝えるだけだったら、メールでも電話でも、その手段はいくらでもあるはずだ。
わざわざうちの事務所に出向く必要なんかないはずだ。
俺のその言葉に、桜さんは軽いため息をついて、シンさんは頭を抱えた。
「桜、誤魔化さない方が良いんじゃないか?
お前は嘘つくの下手だからな。
ちゃんと話しておけ」
シンさんが頭を抱えたのは、どうやら桜さんが見え透いた嘘をついたかららしく・・・でも、俺はそれに全く気づけなかった。
桜さんは軽いため息をついた。
「青木君は、さ。
『MTVの情報屋』の噂、聞いたことあるよね?」
「ありますよ。勿論」
この前、五十嵐さんともその話になった。
絶対に敵に回してはいけない、情報屋。
その代わり、どんな情報でも必ず整えることの出来る情報屋。
そういえば、五十嵐さんは、その正体は大沢先輩だ、と言っていたけど・・・
「五十嵐さんが言ってたけど・・その人、大沢さんなんですか?」
五十嵐さんから聞いた事を、俺は桜さんにぶつけてみた。すると桜さんは、
「うん、そう」
と、少しだけ笑顔を見せてくれた。
「その“MTV”の情報屋がね、今追っかけてる事件があってね。
私、仕事柄、その事件の関係者と接触することが多いの。
それでね・・・」
「情報を・・・大沢さんに?」
俺がそう聞くと、桜さんは頷いた。
「持ちつ持たれつ・・っていうのかな?こういうの・・・
私も,大沢先輩に結構助けられているの。だから、先輩が必要な情報、拾ったら先輩に渡してるの・・・それだけよ」
一体何の情報なんだろう?一瞬気になった。けど、聞いたところで話してはくれないだろう。
「それに、先輩は、私の・・・恩人なの。
高校時代から、何度も助けて貰ってるし、それは今も同じ。
恩も、貸しも借りもあるの。
私も先輩も、お互いに 、一生かかっても返しきれない貸し借り。
憲一さんが、彼の事務所出入りを許しているのは、そういう事情があるの。
先輩は・・・表だって、私に何かをすることは絶対ないけれど・・・私にとっても・・ピアニスト叶野桜にとっても、スタッフ同様・・・ううん、それ以上に大切な存在なのよ」
まるで、彼のことを庇うように、桜さんは言葉を続けていた。その彼女の肩には、シンさんの手が触れてい。絶妙な距離感だったけど、それは、唯一彼女に触れるのを許されている「手」の様な気がした。
そして、そのシンさんの表情は、少し複雑だった。感情を荒立てることはないしても、平常心ではいられない想いを抱いているのかもしれない。
それでも、まるで彼女に一番近い場所にいるのは俺だ、と無言で、静かに示すように立っているその存在に、距離感に軽い嫉妬にも似た思いを抱きながらも、その思いに駆られることはなかった。
二人を見ながら、心底、素敵だと思った。
お互い想い合って、理解し合っているのが、手に取るように判る。
その証拠に、シンさんの側にいる桜さんの表情は・・・今まで見たこともない程、落ち着いていて、穏やかだ。
ピアニストとしての凛とした表情ではない、事務所で見かけるような天然風な表情とも、少し違う・・・見たこともない程、素の表情をした、桜さんがそこにいた。
そして、比べるつもりは全くないけど・・・
リュウと七海さんのカップルとは対照的に思えた。
もちろん、そう判断できるほど、俺はあの二人を知らない。
でも、お互い正体を隠して、知られること、嫌われることを恐れながら向かい合っていたあの二人・・・
お互い失えない存在だった筈なのに、偽り続けながら向かい合っていたあの二人は・・・
「青木君?」
考え込む俺に、桜さんは心配そうにそう声をかけてきた。
「あの・・ごめんね、急にこんなに色々。混乱した?」
「え?あ、いや、そのことじゃないんです・・・」
どうやら桜さんは、不用意に心の準備もなく知らせてしまったことを心配しているようだ。
まあ、確かに驚いたけど・・・
時計を見ると、いつしか日付が変わりそうな時間だった。
そういえば桜さんの明日の仕事はなんだったっけ・・・昼から都内の教室でレッスンだったっけな?
今から横浜の桜さんの自宅に戻っても、ろくに睡眠時間はとれないだろう。
「そういえば桜さん、これから横浜に戻るんですか?」
俺がそう聞くと、桜さんは時計を見て、不安そうな顔をした。
「本当は・・・帰るつもりだったの。
さっき、青木さんにあった時も・・・シン君に駅まで送って貰う途中だったの
でも、もう終電・・・ないよね?」
まだ地下鉄は動いているけど、桜さんの家までは、ここから電車で1時間近くかかる。途中で終電もなくなるだろう。
「いいよ、今夜はここに泊まればいい。着替えもパジャマも置いてあるだろ?」
シンさんが優しくそう言った。着替えもパジャマも常備しているところをみると、桜さんは、ここに時々泊まっているみたいだ。まあ、恋人同士だったら、それもありなんだろうな・・・
「シンさん、明日は?」
「午後から都内で収録。だから多少の夜更かしは問題ない。だから桜と食事してたんだ」
なるほど、そういう事だったのか・・・
二人のことに思いを馳せていると、
「青木さんは?何かあったの?」
突然、桜さんが話を振ってきた。
「え?」
慌てて聞き返すと、桜さんは不思議そうな顔をしていた。
「こんな時間まで、どうしたの?・・・何か・・・あったの?」
そういえば、桜さんは今日、事務所に来ていないから・・・七海さんに何が起こったか、知らないのかも知れない。
「七海さんが・・・」
「七海さんが・・・どうかしたの?」
桜さんが、ソファに座る俺に詰め寄って来た。
「今日付で事務所、辞めました」
そう言った瞬間、桜さんが息を飲んだ。
「どうして?・・・今このタイミングで辞めたら、また襲われるかも知れないのよ?」
「社長の判断です・・・」
「だからどうして? 納得できないわよっ!」
声を荒げてそう叫ぶ桜さんの表情は悲痛で・・見ている俺の方が、心の何処かが痛んだ。
それは、守る、と自分に誓いながらも守り切れなかった俺の不甲斐ない痛みかも知れない。
俺は、事の顛末を桜さんとシンさんに、話した。
「事務所に、圧力がかかったそうです。
七海さんを襲ったのは・・・芸能プロダクションと関わりを持っている暴力団だったんです。
このまま、うちの事務所が七海さんを匿い続けたら・・・事務所に圧力がかかるって・・・」
「暴力団、か・・・」
俺の話を聞いて、シンさんがそう呟いた。もしかしたら、その“暴力団”の存在を知っているのかもしれない。
「それじゃ、七海さんは・・・
このまま襲われるかも知れない場所に居続ける・・って事?
見捨てろって事なの?
だってそれじゃ!」
「桜、落ちつけ!」
シンさんが桜さんを背中をさするようにして落ち着かせようとしている。
「だって、また彼女っ!」
「お前の気持ちも分かるけど、感情的になるな!」
「っ!」
シンさんのその一言で、桜は一瞬言葉を止めた。そしてその表情は・・・今まで見たことのない桜さんの表情だった。
悲しそうで、今にも泣きそうで・・・傷付いた子供みたいだ、と思った。
「・・・桜?今日、泊まるんだろ?
シャワー、浴びておいで?・・・」
宥めるように、シンさんは桜さんにそう言った。
「でもっ!」
「俺が・・・青木さんに話があるんだ。
桜には、席外してほしいんだ」
「・・・・・」
まるで子供に言い聞かせるようにそういうと、少し不安そうな表情でシンさんを見上げた。
「大丈夫だ。
心配するな。俺を信じろ」
一瞬の間の後、桜さんはうん、と頷き、そのままリビングから出て行った。
リビングには、俺とシンさんの二人だけになった。
桜さんが興奮して喋っていた反動なんか、部屋が急に静かになったような気がした。