第6章
その日、仕事の後。
俺は散々迷った末、七海さんの家に行くことにした。
七海さんの所に行くのに躊躇いが全くないわけではない。
俺と七海さんの関係を考えても・・・1会社の同僚が訪れていいものなのか・・・非常識じゃないか?
そう思った。
でも。
彼女がこの職場を辞めてしまう以上。彼女に会うにはこうするしかない。
少し前だったら、彼女にメールでも電話でもすれば連絡はついた。
でも、彼女の携帯は、あの襲われた日以来、俺の手元にあった。
返さなくては、と思いながら、機会を逃したままだった。
この携帯が俺の手元にある、と言うことは。
彼女との連絡手段が完全に断たれている、という事だ。
俺は、社員名簿から、彼女の住所を調べた。職権乱用、そう言われたら何も言い返せない。
個人情報保護法だとか、プライバシーの問題がどうとか、頭の中をぐるぐる回っていたけど、結局は自分の欲求に勝てなかった。
その住所を見て、一瞬驚いた。この事務所の最寄り駅から、電車で3駅程で、最寄り駅こそ違うけど、俺の住んでるマンションからそう遠くない。歩いて五分とかからない場所だった。会社帰りに寄れない距離ではない。
散々迷った挙げ句、俺は仕事が終わってから、彼女の家に向かった。
あんな事件があったから、てっきり実家に居るのかと思ったけど、一人暮らししているみたいだ。
でも、やはりあの事件を気にしてか、セキュリティーのしっかりしているマンションで。メインエントランスはオートロックになっていた。呼び鈴を鳴らして、彼女がいないと、このドアは開かない・・・
それに・・・鳴らしたところで、出て来るとは限らない。
あんな事件があったし、怯えて出てこない可能性だってある。いや、その可能性の方が高い。
「・・・・・」
しばらく、ドアの前で悶々と悩んでいたけど。ここでずっと待っている方が、よっぽど不審者かストーカーの様だ。
やっと決心が付いて、呼び鈴を鳴らしたのは、このドアの前に着いてからかなり時間が過ぎてからだった。
呼び鈴を鳴らすと、すぐに返事が聞こえた。
「・・・青木です・・・」
小さい声で、そう名乗ると、少し驚いたのか、数秒、間があった。
『どうぞっ・・・』
その言葉と同時にオートロックが開いた。一瞬躊躇いながら、入り、住所に記されていた部屋番号へと向かった。その部屋番号のドアの前で再び呼び鈴を押すと、今度はすぐにドアが開いて、七海さんが出てきた。
「・・・こんばんは」
「こんばんは・・・どうしたの?」
驚いた表情のまま、彼女は俺を見上げている。いつもの、かっちりとしたスーツではなく、ラフなTシャツに柔らかそうなデニム風のパンツ、といったスタイルだった。普段のキャリアウーマン、といった印象から、がらりと変わって、可愛い感じに見えた。
「・・・社長から・・・辞めるって聞いたから・・・」
一体何から話したらいいか判らなかった。七海を襲った人が、暴力団関係者で、そのせいで七海が辞めさせられた、なんて・・・言っていいのか・・・
「とにかく・・入って?」
彼女に促され、俺は部屋に入った。
女の一人暮らしの部屋なんか、入ったのは初めてだった。
今まで、女とつき合ったことがない・・・といったら嘘だ。それなりに、人並みに恋愛もしていた。
でも、つき合っていた女はみんな、親と暮らしている子だったせいか、あまり彼女の家に遊びに行ったりはしなかった。ましてや一人暮らしの女とつき合ったことなどなかったし、周囲にそんな女もいなかった。
「あ、適当に座って?疲れたでしょ?
何か・・・飲みますか?コーヒーでいいですか?」
突然、連絡もなく訪れたにも関わらず、彼女はいつものぎこちない笑顔で、そう言ってくれた。その、いつもと変わらない様子が、俺にとっては有難かった。
「あ、ああ。ありがとう・・・一人暮らし、してんだな」
そう呟くと、床に敷いてあるラグに座り込んだ。キッチンに立つ彼女は俺の方を振り向いて、頷いた。
「凄いな・・・俺なんか、今の仕事に就いていなかったら、未だに親元だったよ」
これは嘘ではない。今の事務所の仕事・・・コンサートスタッフもマネージャー業も、仕事時間が不規則だったり、早朝や深夜も当たり前になるから、親元よりも、都内の職場の側に暮らした方が都合が良かったのだ・・・さらに、医者の兄のマンションに同居させて貰えれば、家賃もお互い安くなるから・・・都合が良かった。
「・・・私は・・・なるべく早く、親元から離れて自立したかったの」
そう言いながら、彼女はコーヒー豆をミルで引いている。コーヒー好きなのか、こだわりがあるのか、その姿は新鮮だった。
俺の周囲に、コーヒーを豆から挽いて淹れるような、コーヒーに凝る人は皆無だった。良くてせいぜい市販の挽いたコーヒーだし、大体がインスタントだ。
「学生時代は、両親、凄く厳しくてね。門限はきついは、男女交際もうるさいはで・・・息苦しかったんだ。
それに、大学の時、姉がハネムーン中に現地での事故に巻き込まれて亡くなって。両親は更に心配性になっていったの。
それが息苦しくて・・・だから、就職を機に、家を出たの。
・・・・はい、どうぞ」
そう言って、彼女は俺にコーヒーの入ったマグを差し出した。途端に、温かい淹れたてのコーヒーの香りに包まれた。
「ありがと」
驚く程、香りの良いコーヒーだった。そのコーヒーを一口飲むと、明らかにインスタントや自販機とは違う味に、驚いた。
「コーヒー、好きなのか?」
「ううん。そういうわけじゃないの。
でも、父がコーヒー好きでね、豆の選び方とか淹れ方とか、教えてくれたりしたの。
それと・・・・前につき合っていた人もコーヒー好きでね。
喜んでほしくて、結構豆とかこだわってたかな?」
照れくさそうに、一瞬だけ笑った笑顔が、とても魅力的だった。
前につき合っていた人・・・・
それはもしかして・・・リュウなのか?
声にならない言葉をコーヒーで飲み込みながら、改めて俺は周囲を見渡した。
少しだけ広めのワンルーム、部屋の中の家具も、シンプルで余計な装飾がないけど、機能重視でいかにも彼女らしいと思った。
そのシンプルな棚の片隅に、控えめに写真立てがおいてあった。
その写真立てに飾られている写真を見て・・・俺は固まった。
幸せそうに微笑む七海さんと・・・その隣に立つのは・・・・あのリュウ?
テレビや楽屋で会う、“ERIS”のメンバーとしてメークや服が整っているリュウではなく、ラフな私服で、素顔のままのリュウだった。
場所は、屋外でもテレビ局でもない、誰かの部屋の中で、しかも、ケータイかデジカメを使って自分撮りの要領で撮ったツーショット写真だった。アングルがちょっと変なのは、そう言った条件で撮ったからだろう。
改まった写真ではなく、本当にふざけて撮ったワンショットのようで・・・シャッターを切られた時の表情が、何とも言えず自然で、柔らかい笑顔だった。・・・俺には見せたことのない、素に近い笑顔だった・・・・
俺と向かい合う時には、絶対に見せてくれないような表情だった。
それを見た途端・・・
俺の中の、“まさか”という、一縷の望みのようなものは、完全に崩れた。
「七海・・さん・・・」
どうしても、どうしても七海さんの口から聞きたくて、俺は改まって彼女の名前を呼んだ。すると彼女は、少し驚いた顔をして俺を見つめた。
「そういえば・・・いつの間にか、青木さん、私のこと、名前で呼んでますね」
くすくすと笑いながら、彼女はそう聞いてきた。
「あ・・・ごめん・・・」
いつの間にか、俺の中で、彼女は「大西さん」ではなく、「七海さん」になっていた。それはもしかしたら、リュウや大沢さんに対する嫉妬とか、対抗意識とかも混ざっていたのかも知れない。
「いいですよ? 名字で呼ばれるより、名前で呼ばれるの、好きなんです」
そんな俺の思いには全く気づかずに、彼女は相変わらずにこにこ笑いながら、そう言った。
「“ERIS”の・・・リュウも・・・名前で呼ぶ仲・・・だったのか?」
無意識に、まるで零すように口から落ちた言葉に、七海さんの表情は凍り付いた。
「・・・青木・・・さん・・・?」
俺は、飾ってある写真を指さした。
「リュウと・・・つき合ってたんだろ?」
それは、問い、ではなく・・・確認に近かった。
そう、もう聞くまでもない。
たとえここで、七海さんが否定したとしても・・・その否定さえ、信じられない。
「この前、人から聞いた。七海さんとリュウがつき合ってたって聞いた。
で、少し前、リュウの恋人が失踪したって・・・」
マナトさんの言葉を信じれば、そういう事だ。
「社長から、七海さんの事も聞いたよ?
ストーカー被害を受けていたって、ね。
脅迫状の、今回の事件以前から、ずっと脅迫状を受け取っていたって、言ってた。
それは、もしかしたら・・・・」
リュウのファンか誰かが、リュウと七海さんの事を知って、嫌がらせで送ってきた事かも知れない・・・
俺はそう思っていた。
だって、それ以外に、あり得ないから。
俺の言葉を聞き終えると、七海さんは、軽くため息をついた。
「何にも知らなかったの」
ぽつり、と、小さな声で、そう言った。
「知らなかった?」
信じられなかった。
だって、“ERIS”程有名な、国民的グループを、知らないなんて・・・
テレビを見ていれば、かならずCMが流れているし、週に何本も冠番組屋バラエティー番組に出演しているのだ。
歌だって、ドラマ主題歌になったり、CMソングやキャンペーンソングになっている。よく流れているし、聞いたことくらいはあるはず・・・
少し前まで、俺はそう思っていた。
でも。それは結局は、俺の常識下での事だ。
現に、“ERIS”の事をあまりよく知らない子が、目の前にいる・・・その現実を目の当たりにしてしまったら・・・
「うん。
私、何も知らなかったの。
“ERIS”の事も、“リュウ”の事も、何も・・・
私、あんまりJ-POP聞かないし、まして、テレビもあんまり好きじゃなくて・・・見ないのね。
だから、芸能人とか、最近の流行のJ-POPって全然知らないんだ。
だから・・・“ERIS”の事も、リュウのことも、知らなかったの」
少し寂しそうに笑いながら、そう言っていた。
“テレビを見ない”
俺にはちょっと信じられなかった。
俺は、それほどテレビ好き、という訳ではない。それでも全く見ない、という事は・・・まずあり得ない。
見るわけでもないのに、テレビをつけっぱなしにしていることだって、ある。
兄が夜勤でいない時など、部屋で一人で居ると、部屋が静かすぎて耐えられなくなることもあるからだ。
でも、俺の常識が当てはまらない女・・・それが、七海さんだ。
彼女は、コーヒーを一口飲むと、ラグに座る俺の隣に、腰掛けた。
肩が触れるかと思う程の距離に、一瞬どきっとしたけど、彼女にしてみれば、何の意識もしていない動きだったみたいだ。
「彼とはね。
合コンで知り合ったの。
会社の先輩が設定した合コンでね。
私は本当は、出席するつもりはなかったの。
ただ、女子同士の飲み会だから、・・・って言われて参加したら、合コンだったの。
私、高校まで、女子校で、大学は共学だったけど、男子の少ない学科だったから、男の人って、苦手って言うか・・・あんまり話したことも接したこともなかったの。
しかも・・合コンって初めてで、どうしていいか判らなくて・・・
ろくに話も出来ないまま、気がついたら、独りになっていたんだ。
隙を見て帰ろうかと思ったんだけど。
近くを見たら、私と同じ様に、隅っこに追いやられるようにしていた男の人がいたの。
それが、リュウだったの。
彼も、私と同じように、お友達に連れられてきた、異性が苦手な人なのかな?って思ったんだけど。
合コンに来ていた他の女の子は、とっかえひっかえ、その人にアプローチしてた。でも、彼は興味がないみたいで、適当に受け答えしてた。
私、気がついたら、合コンで盛り上がる会社の先輩達や、他の男の人よりも、彼の事ばっかり見てて・・・
合コンが終わる頃、彼に話しかけられたの。
よっぽど私、彼のことガン見してたみたいでね。
“何見てんだよ?”って・・・凄い不機嫌に言ってた。
怖くて、私何も言えなかったわ・・・
それが、始まりだったんだ」
彼女の表情が、柔らかく笑っていた。
「合コンの後、なんとなく、売れ残り同士、二人でお茶して、世間話して、メアド交換して・・・その日は終わったの。
それから、お礼のメールしたり、世間話をメールでしたりするうちに、逢うようになって・・・
つきあい始めたの。
でも、彼、普段、どんなお仕事している、とか、教えてくれなくてね。
休暇も不規則で、日曜日に会えることはなかったの。
だから、彼に会うのは・・・平日の夜遅くばっかりだったの。
外で一緒に出歩くこともなくて、私の部屋や彼の部屋で・・・
不思議だったし、本気じゃないのかもって思ったけど・・・私の方が、彼のこと、好きになってて・・・それを問いただすことなんか、出来なかったの。
嫌われるのが怖くなってた。
今、目の前にいる彼、それが私の知っている彼の全てで、それ以外の彼を知るのが・・・怖かったの」
そこまで言うと、七海は深いため息をついた。
そして、寂しそうな目をして、再びコーヒーを飲んだ。
想い合っている恋人同士だったのに・・・
なら、どうして・・・・
「別れたのか?」
俺が聞くと、七海さんは首を横に振った
「私、何ヶ月か前から、ストーカーとか嫌がらせを受けるようになって・・・逃げ出したの。
今、会社に届いているような脅迫状が、立て続けに届くようになって・・・変な人につけられて・・・
その原因が、リュウらしかったの。
それで・・・辛くて、怖くて・・・」
「どうして?そんなに辛かったなら、リュウに言えば良かったじゃん!」
彼女は首を横に振った。
「彼が芸能人だって知ったのは、この間・・・青木さんと収録を見学したときなの。
その時まで、私、ストーカーや嫌がらせの原因、全く心当たりがなかったの。
あの頃は、ただ、リュウの元恋人とか、そういった人がいて・・・その人からの嫌がらせかなぁ?・・・って想像していただけなの。
そういう人の存在を・・・私、どうしても彼に聞けなかったの。・・・怖くて・・・」
「怖い?」
俺が聞き返すと、彼女は力なく頷いた
「彼を・・・疑うようなこと、聞きたくなかったの。
ただでさえ、滅多に会えない人だったから。
会えたときは、ただ・・・彼と向かい合っていたかったの」
彼女が言うことも、判らなくはない。
でも・・・
「それにね、
私がストーカー被害受けてるって彼が知ったら・・・面倒に思うのかな? とか、思っちゃったの。
それなのに・・・彼のよりも、嫌がらせメールの内容を信じちゃったの」
「嫌がらせメールの内容?」
彼女は頷いた。
「・・・“お前なんか所詮遊びだ”“さっさと別れてしまえ!”」
七海さんは泣きそうな顔でそう言った。
「彼が・・・二股かけているのかな?って思ったの。
そう思ったら・・・私、耐えられなかった・・・
でも、何にも問いただせなかったの。
相手の人にすごい嫉妬して・・・彼のことも詰ってしまいそうで・・・
怖かったの。
彼の事を詰ることもそうだけど。
彼が私の事、愛想尽かしてどっかいっちゃうのも・・・・
彼を失うことが、怖かったの・・・・」
彼女の泣きそうな声だけが、部屋に悲しく響いていた。
「それでも・・・さ。
実際、七海は襲われて・・・彼の前から居なくなることになったんだろ?同じじゃないのか?」
俺がそう聞くと、彼女は頷いた。
「・・・結局私・・・彼から逃げ出したの。
彼のこと大好きだったのに、襲われた事が怖くて・・・
結局逃げ出して・・彼まで傷つけてしまったのね・・・」
彼女は項垂れるように、そう言った。
項垂れ、俯く彼女は、泣いているようにも見えた。
「私は・・襲われたのが、怖くて・・・怖くて・・・
彼から逃げられれば、襲われることもないって、思ったの。
彼のこと、大好きだけど、襲われるのも、痛い思いするのも、嫌だったの・・・
結局・・・全てから逃げ出したの・・・」
肩を振るわせて、声を殺して泣いている彼女に、俺は声をかけることが、出来なかった。
その姿を見るだけで、判ってしまった。
七海さんは・・・今でも、リュウの事を、本当に好きなままだ・・・
好きで、好きで・・・多分、彼との時間が止まったまま。
それが、痛いほど判ってしまった。
堪らない。
もう、辞めてくれ。
そんな奴、やめてしまえ。
逃げ出したなら、もう奴のことなんか、見ないでくれ!
そんな奴辞めて、・・・俺にすればいいのに!
俺だったら、そんな悲しい思い、絶対にさせない。
笑顔に・・・させてあげられるのに。
「辞めろよ・・・そんな奴」
別に、リュウを否定するつもりはない。俺だってリュウの事は好きだ。尊敬しているし、憧れてる芸能人だ。
でも、七海さんが襲われるきっかけを作ったのがリュウだったのだとしたら・・・
許せないだろ?
まして、七海に悲しい思いをさせているのなら、あの男なのだとしたら。
「辞めろよ」
「青木・・・さん?」
突然そう呟いていた俺を、彼女は不思議そうに見つめた。
「七海さんが、さ。
あんなに辛い目に遭ってるのに、知らないとはいえほったらかしなんて・・・絶対おかしいだろ?」
「だって、彼・・・芸能人なのよ?
あのころは知らなかったけど、今考えると・・・
あの人のファンとか、事務所の人とか、そういった人かも知れないんだよ?
彼の事、応援している人かもしれないんだよ?」
「だからって、一人で我慢するなんておかしいだろ?
七海さん、こんなに傷ついてんのに、泣いてんのに、リュウは七海さんg苦しんでることに気づかないで、ほったらかしなんだろ?
絶対おかしい!」
気がつくと俺は、コーヒーカップを置いて、七海さんの両肩に手を置いて揺さぶっていた。
「・・・俺だったら、絶対こんな思い、させない!」
そこまで言うと、俺は改めて、彼女の顔をじっと見つめた。
彼女は驚きを隠せないような表情だった。
「俺・・・七海さんが、好きだ」
いいながら、心臓が痛くなりそうだった。
鼓動が、至近距離にいる彼女にまで聞こえてしまいそうだ。
「だからっ・・・」
だから?
だから、リュウなんか辞めて、俺にしろと・・・
リュウの事をまだ好きな彼女。そんな彼女に横恋慕しているのは、俺の方・・・
叶うはずのない相手だ。
でも。
七海さんは、泣いていた。
好きな奴が目の前で泣いているのに、それをほっとけるわけ、ないだろ?
七海さんが、好きなんだ!
彼女は、驚いた顔をして、両目を見開いた。
一瞬で涙が引いてしまったのか、その目で、俺をじっと見つめた。
“嘘でしょ?”彼女の目はそう言っていた。信じられない、そう言いたげに・・・
そして俺も、彼女から目を逸らさなかった。
それは数秒なのか、もっと長い時間だったのか、分からないが。
まるで追試の結果を先生の口から聞く瞬間みたいだった。
重苦しい、空気だった・・・
そして・・・
「・・・帰って・・・」
その重苦しい空気を壊したのは七海だった。
彼女は、ぽつりと言った。
「七海さ・・」
「お願いだから、帰って!」
俺から目を逸らし、俯いたまま、そう叫んだ。
「お願い・・・だからっ!・・・・」
苦しそうにそう言いながら、彼女は泣き崩れた。
それ以上、俺はかける言葉を失った。
「・・・ごめんな・・・」
一体俺は何に対して謝ってるんだろう?
思いを伝えたことか?
彼女の気持ちを無視したことか?
両方、かも知れない。でも・・・
これだけは譲れない。
「・・・俺、本気だからさ」
そう、本気だ。
俺は、七海さんが・・・・好きだ。
彼女の部屋を出てから、俺は何処ともなく街をぶらついていた。
帰る気にもなれず、どこかで飲む気にもなれず、正直、どこをどう歩いていたのかさえ、覚えていない。
正直、今日告白するつもりは、なかった。
でも、あんな姿を見てしまったら・・・黙っているなんて、無理だった。
彼女の悲しみにつけ込むみたいで、良い気分ではない。
それでも、俺が・・彼女を笑顔にしてあげたかった。
その気持ちに、嘘はなかった・・・
でも・・・彼女にしてみれば、自分の心の弱みにつけいる嫌な奴だったのかも知れない。
あんな風に、七海さんに拒絶されたことなんか、今までなかった。
そりゃ、今までは仕事上の付き合いの方が多かったわけだし、あんな風に拒絶されるような事を今までしていなかったから仕方ないけど。
・・・どうしようもない程、胸が痛かった。
「帰って」
あの言葉は。
拒絶の言葉にしか感じられず。
ただ、打ちのめされた気分だった。
行くあてもなく、ただ通りをぶらついていた。
ショック、とか、悲しい、とか。そんなもんじゃない。
そんな気持ちさえ、沸いてこない。
心の中の全てを根こそぎもぎ取られたような気分だった。
ただ、何もなかった。
気がつくと、あれから随分時間が過ぎていた。
今日は定時で上がって、そのまま七海さんのマンションへ行った。
そこで話して、外に出て・・・・気がつくと、通りには酔っ払いや、これから二次会へ向かう集団や、幸せそうに笑う恋人同士が歩いていた。昼間とは明らかに違う客層だ。それだけでも、あれから随分時間が過ぎたことを物語っていた。
多分もう少ししたら、この人もまばらになるのだろう。
その時だった。
「ドッ!」
俯いて歩いていた俺は、前に誰か居るのに全く気がつかなかった。
派手にぶつかり、俺は尻餅をついた。
「おいっ!」
尻餅をついた俺に、誰かがそう声をかけた。
相手は酔っ払いか? ふっと不安が過ぎった。
ひょっとしたら絡まれるか・・・相手に怒鳴られるのを心のどこかで覚悟した。
「・・・・青木君・・・?」
ところが。
思いもよらない声で、思いもよらなく名前を呼ばれた。
「・え?・・・」
聞き覚えがある、なんて生易しい物じゃない。
でも、そう思うのと同時に、この人が今、こんな所にいるわけがない、という思いの方が強かった。
こういった繁華街が全く似合わない、あの人の声だったから・・・