第5章
プロジェクトの予定は、滞りなく進んでいる。
「ERIS」とのレッスン、打ち合わせとも平行して、メディアにも正式に情報解禁となった。
それに伴って、雑誌の取材、PV撮影、テレビの音楽番組の出演なども多くなった。
今まで、ドラマの演奏ピアニストの仕事や、クラシックの音楽番組、レギュラーで伴奏している音楽番組でテレビの出演経験はあるけど、J-POPアーティストと一緒に、レギュラー出演している番組以外の音楽番組に呼ばれたことはない。
勿論、「ERIS」と一緒だし、声援の大半は、桜さんではなく、「ERIS」に向けられた物だったけど・・・
でも、ひとたび演奏が始まると、桜さんに対する視線も違う物へ変わっていった。その空気の変わる瞬間を感じることが出来ると、快感だった。
桜さんのピアノが、「ERIS」の添え物などではなく、対等な音楽パフォーマンスとして受け入れられているのが手に取るように判るから。
マネージャーの俺達にとって・・・いや、このプロジェクトに関わっている桜さんのスタッフにとっては、この上ない快感だろう。
ただのクラシックピアニストではなく、もっと違うピアニストとして、周囲に認めて貰うのは、付き人兼マネージャーとしては、嬉しい限りだ。
そんな仕事の合間でも。
七海さんの事が心配で仕方がなかった。
仕事で現場に出ることが多くなり、七海さんの横で事務仕事をする日が少なくなっていった。
また、脅迫状が届けられていないか?
襲われたりしていないか?
考えるだけで、心臓の辺りが冷たくなる感覚だ。
五十嵐さんや、事務所の他のスタッフにそれとなく頼んで、何かあったら知らせて欲しい、と頼んで置いた。
頼んだ人達は、俺のそんな行動を苦笑いしたり、辛かったりしたけど、
俺は、七海さんが襲われた、あの現場に居合わせた、いわば第1発見者だった。
もう、あんな現場、二度と見たくない・・・そんな気持ちもあったせいか、事務所の人達も、それに気づくと、何も言わずに協力してくれた。
協力してくれた理由のもう一つは七海さん自身の性質もあったのかもしれない。
入社して何ヶ月か過ぎたけど、事務所の人達とも上手くやっているみたいで、ずいぶん仲良しな女子も出来たみたいだ。
仕事もしっかりしているし、ミスも少ない。仕事効率も随分上がったみたいで、先輩達の受けも随分良い。
そんな彼女の為人もあったのだろう・・・
何日か、現場や桜の取材同行で事務所に戻らなかった、そんな仕事明け。
久しぶりに事務所で過ごす日が来た。
今日は、収録も打ち合わせもなく、桜さんは、外の音楽教室の講師の仕事で、事務所にはいない。
何人かの演奏家さんが、事務所に来てスケジュール確認したり、打ち合わせしたりしているのを横目に見ながら、俺はたまったデスクワークを片付けた。
今日は1日、事務所の七海さんの横でデスクワークをする。
七海さんは相変わらずだ。
あの日襲われた時の怪我も、すっかり癒えているようで、ほっとした。
でも、きっと見えない傷・・・心の傷ってやつは、癒えないままなんだろうな。
横目で、彼女に気づかれないように見ながら、そんなことを想像した。
だって・・・
七海さんのデスクの電話が鳴る度に、相変わらず彼女はびくっと、肩を振るわせて怯えている。
郵便物が来る度に、一瞬だけど、顔色が悪くなる。
「・・・・・」
そんな一瞬の感情の揺らぎを、俺は見逃さなかった。
彼女に聞きたいことは沢山あった。
今でもリュウの事を好きなのか?
俺のこと・・・どう思ってる?
何を知ってるんだ?
・・・・・でも、言葉にさえ、ならないのは。
聞いてしまったら、今の俺と七海さんの関係さえ、崩れてしまいそうだから。
それくらい、俺達の関係は脆いから。
せめて今は、彼女に信頼されている存在、同じ職場の同僚、という立場だけでも、守りたかったから。
余計なことを知っている存在、という目で、見られたくなかったから・・・
昼休み。
彼女をメシに誘おうと思ったら、隣には、七海さんと仲良しな女子社員がやってきた。
どうやら一緒にメシに行くらしい。
俺自身、最近は現場での仕事が多かったせいか、七海さんと一緒にメシどころではなかった。その間に、ああやって、他の女子社員とメシに行けるなら・・・少なくとも彼女が危険にさらされることはないだろう。
その状況に少し寂しく思う反面、彼女が笑顔で居るから、と半ば自分を納得させた。
「青木!メシ行くか?」
ちょうど打ち合わせから戻ってきた憲一さんが、事務所で立ち尽くす俺に、声をかけてきてくれた。
「あ・・・はい!」
そう言いながら、俺は慌ててポケットに財布と携帯をつっこんだ。
「なんだ?七海さんに振られたか?」
「ちがいますよ!」
からかってくる憲一さんに、少しムキになって答えてしまった。こういう所は、まだ俺もガキだ。
二人で事務所を出て、向かう先は、よく行くランチカフェ。
ここのコーヒーは絶品に美味しい・・・とは、憲一さんの言葉だ。
俺はと言えば、コーヒーの味など良く判らない。事務所の自販機や給湯室で淹れるコーヒーも、カフェのコーヒーも、インスタントも、何処で飲んでも同じだと思っていた。
でも、あのランチカフェのコーヒーは、とりわけ美味しい、と思うわけでもないのに、自然と2杯目を貰ってしまう。無意識な中毒、と言うのかも知れない。美味しい、とはそういうことなのかも知れない・・・
そのランチカフェは、事務所からほど近いとこにあって、俺達は通りを並んで歩いていた。
その通りの反対側には、七海さんと女子社員が、楽しそうに談笑しながら歩いていた。俺達が行こうとしているカフェとは違う場所へ向かっているようだった。
そんな通りの片隅に・・・
「???」
ここの通りは、国道やメインストリートとも少し離れていて車もあまり多くない。
路駐している車も少なく、通り抜ける車も少ない。
車よりもむしろ歩道を歩く人の方が多い道路だ。
そんな道路に、一台の車がハザードを出して停まっていた。
一般乗用車とは違う、黒い、大きめなワゴン車だった。7,8人位、乗れそうな、3ナンバーの車だった。
珍しい、と正直にそう思った。
ここに、あんな風に車を停まっている事など殆どないからだ。駐車禁止区域な上、警察の路駐の取り締まりが定期的に行われている道路だ。
その車は、七海さん達の少し後ろに停まっていた。
そして、七海さん達が先の角を曲がると、ゆっくりと動き出し・・・彼女達の向かった方へと車を走らせていった。
それはまるで、七海さん達を尾行しているような・・・
「・・・青木・・・」
名前を呼ばれて、慌てて憲一さんの顔を見ると、憲一さんもまた、俺と似たようなことを考えていたようだ。足早にその曲がり角に向かい、信号のない横断歩道を渡り、彼女達に追った。
七海さん達は、通りの一角にあるイタリアンに入っていった。車は、それを見届けるようにして、その場から走り去っていった。
「・・・・勘違い、だったんですかね?」
俺も憲一さんも、あの車が怪しいと思った。あの車が、七海さんを尾行しているように見えたのだ。
「でも、ま、勘違いだったらそれに越したことはないよな?」
あんな事件があったせいか俺も憲一さんも、周囲に異常に敏感になっているようだった。
「さて、メシだ、メシ!」
俺達はきびすを返して、ランチカフェへと向かった。
女子達と比べて、俺や憲一さんは、とにかくものを食べるのが、早い。
女子達は、例えばパスタランチを平らげるのに、お喋りしながら、のんびり食べるようだけど。
仕事柄、普段から昼飯を食べる時間が限られている事が多いせいか、俺も憲一さんも、メシを食うのが早い。
そういえば彼女とランチをするときは、彼女がゆっくりたべるせいか、意識してゆっくり食べていた。
ゆっくり食べて、とりとめのない話をして・・・俺達とは違う早さで時間が過ぎてゆく。食べるのはゆっくりなのに、話す事は多い・・・不思議な時間の進み方だったな・・・
そんなことを思い出しながら、俺は久しぶりに自分のペースでランチプレートを平らげ、コーヒーをおかわりして、世間話をして、時計を見ても、まだ昼休みは半分程残っている。
「戻るか?」
「そうですね」
そう言ったのは、別に事務所に用があるわけではなく、昼休みのせいで混雑していて、席が空くのを待っている客が目立ち始めたからだ。
さっさと会計を済ませて、店を出て、事務所までの道をのんびり歩いて戻った。
そして、事務所のある通りにさしかかったときだった。
事務所の前に、さっきの黒いワゴン車が、また停まっていた。
まるで、何かを待っているように・・・
俺と憲一さんは、どちらからともなく顔を見合わせた。
憲一さんは、ポケットからそれとなく携帯を取り出すと、そのワゴン車の車種とナンバーを携帯カメラで撮った。
車種とナンバーが判れば、持ち主を割り出せるからだ。
そのまま、何食わぬ顔をしてそのワゴン車の横を通り抜け・・・さり気なく車の様子をみた。
そのガラスは真っ黒で、中までのぞき込めるようなガラスではなかった。当然、中に誰が居るのかさえ、判らない。
運転席も、誰も乗っていなかった。
そのまま俺達は、事務所の入っているビルに入り、ホールを抜けて、エレベーターホールへと向かった。
エレベーターホールの片隅には、このビルに入っているテナントや事務所用の郵便受けが設置されている。
いつもここは、事務の五十嵐さんやスタッフが、ここを通ったときに確認することになっていた。
その郵便受けの側には・・・
「おい、青木っ!」
憲一さんの小さい声が、俺の耳をかすめた。
その郵便受けの所には、見慣れない男が立っていた。
その手には見覚えのある茶色い封筒が握られていて、まさにそれを郵便受けに入れるところだった。
それを見つけた途端、憲一さんは、つか、つかっとその男に近づいていった。俺も慌てて憲一さんの後を着いていった。
「おいっ!」
いつもより低い、脅しかけるような声が、人気の少ないロビーに響いた。
その男は驚いた様にこちらに振り返り、次の瞬間、俺と憲一さんを突き飛ばすように駆け出した。
ばさっ!と、その男が持っていた茶封筒が床に落ちたけど、それには構わず、そのままビルの外へと走っていった。
「あっ!おいっ!!」
「待て!!」
そう叫んでみたけど、それで待つわけもない。
考えるよりも先に、身体が動いていた。俺はその男の背中を追いかけていた。
「青木っ!」
後ろの方で、憲一さんの声が聞こえたけど、それは聞かないフリをした。
今、走ればもしかしたら間に合うかも知れない。
なまじ憲一さんが追いかけるよりも、俺の方が追いつく可能性が高い。
足には自身があった。陸上をやっていたわけではないけど、子供の頃からスポーツが好きで、サッカーや野球ばかりやっていた。今も、不規則な休みの日にはフットサルをやっている。
さすがに、「ERIS」のメンバーみたいに専門のトレーナーについてトレーニングしているわけではないし、あのメンバーに体力的には全く及ばない。
それでも、学生時代から鍛えた体力は勿論今でも生きていて、力仕事が多いステージスタッフも、体力勝負となる裏方仕事も難なくこなせる。足の早さだって・・・
あの男は、表通りを走っていた。俺はその背中を追いかけ・・・その男はあの黒いワゴン車の側まで駆け寄った。そしてまさに今、そのワゴン車に乗りこもうとした時
「待てっ!」
追いつき、伸ばした俺の手が、その男の腕をぐっと掴んでいた。
次の瞬間、俺はその掴んだ腕をぐいっとひっぱり、車から引き剥がした。
「っにすんだよっ!」
「お前に聞きたいことがある!」
「離せっ!」
「じゃ、なんで逃げるっ!」
「関係ねぇだろっ!」
俺達が不毛なやりとりをしている間に、憲一さんがこちらに走ってきた。
「青木、大丈夫か?!」
憲一さんの後ろには、社長がいた。その手には、さっきこの男が落としていった茶封筒があった。
その二人がこちらに来た、と気づいたワゴン車は、急発進して去っていった。
一瞬、追いかけようとしたけど、この男の腕を掴んだままの俺には、なすすべもなかった。けど、憲一さんがこの車のナンバーを車種を携帯で撮っていたから問題はないだろう。
「開けるぞっ!」
その言葉と同時に、社長はその封筒を開けた。中には・・・あの、七海さんへの脅迫状があった。
「話を、聞かせてもらおうか?青木、連れてこい」
その言葉に、男の顔色がさっと変わった。そして、事務所へ戻るぞ、と言う社長に促されながら、俺はその男を連行していった。
いつしか、昼休みは終わっていて、事務所は通常業務に入っていた。
社長と憲一さんと俺が、見知らぬ男を連行して戻ってきた事で、事務所内は一瞬空気がざわついた。
それに構わず、社長は使っていない会議室へと入って行き、俺もその男の腕を掴んだまま、会議室へと入っていった。
憲一さんは、「電話するところがあるから」と言って、会議室から出て行った。
そして社長は、
「悪いけど、青木は席を外してほしい」と言い出した。
「でもっ!」
「仕事に戻れ。あとは、私と憲一でどうにかする」
一歩間違えれば“業務命令”と言われそうな口調に、俺は反論できなかった。
「・・はい・・・」
返事だけすると、俺は会議室から出た。
なんとなく、仲間はずれにされたような寂しさと、行き場のない憤りだけが、俺の中に残った。
落胆したまま席に戻ると、七海さんが、心配そうに俺を見上げていた。
「何か・・・あったんですか?」
その言葉に、一体どうやって答えて良いかわからず、俺はただ、苦笑いしかできなかった。
俺に出来ることは、何もないんだろうか?
彼女に・・・七海さんに・・・笑顔になって欲しい。
俺の側で、笑っていて欲しい。
一瞬、リュウの顔が過ぎった。
リュウとつき合っていた、七海さん・・・
あんな奴辞めて・・・俺にすればいいのに。
俺だったら、絶対に七海さんに、悲しい思いなんかさせない。
守ってみせるのに・・・
「どうか・・・したの?」
不思議そうな顔をした。
「何でもないよ」
彼女に聞きたいことは、沢山あった。
リュウの事、彼女のこと・・・
でも、何一つとして言葉にならないままだった。
ただ、“なんでもない”としか言えず、俺は事務仕事に戻った。
結局その日は、あの男に関する情報は、何も得られなかった。
憲一さんが、定時になるといそいそと会社を出て行った。
あの男と社長は、定時間近まで会議室で何やら話をしていたけど、その間、誰もその部屋には近づかなかった。
次の日、七海さんは会社を休んだ。
何かあったのか、その理由は、五十嵐さんや事務員、勿論俺にも知らされなかった。
もうすぐ、桜さんと「ERIS」のCDレコーディングがある。
スタジオレコーディング・・・場所は、桜さんがレコーディングにいつも使っている場所だ。
今回のプロジェクトにあたり、桜さん達が出した条件の一つが、「レコーディングは、いつも使っているスタジオを使いたい」という事だった。
クラシック音楽をレコーディング出来るスタジオは、J-POPのレコーディングスタジオとは条件が違う。
質の良い、桜さんが弾き慣れたピアノがあって、天井はなるべく高いところが良い。他にもいくつか条件があるけど、その条件を満たしているスタジオはそう多くない。
コラボする以上、自分のピアノの音に妥協したくない、というのが、桜さんの主張だった。
幸い、そのスタジオは、そう多くはないけどJ-POPのレコーディングスタジオとしても使われているところだったので、たいした問題はなかった。
むしろプロジェクトだけを見れば、順調に進んでいた。
・・・順調ではないのはむしろ・・・・・
むしろ・・・
「青木君、社長がお呼びです」
明日の準備で走り回る俺を、五十嵐さんが呼び止めた。
「社長が?」
昨日のことだ!瞬間的にそう思った。
「判った、すぐ行きます」
俺は、そのまま社長室へと向かった。
「失礼します」
ドアをノックして、社長室に入ると、社長が苦い顔をして俺を待っていた。
「・・・来たか。話がある」
明るい話で呼ばれたわけではない、という事が、その空気で感じた。
「社長、昨日のあの男・・・何者だったんですか?」
聞きにくい空気だったけど、聞かずには居られない。俺が今、ここに呼ばれた理由も、その話に違いない、と思っていたから。
「その事なんだが・・・」
社長は重い口を開いた。
「昨日のことも含めて。今後・・・ストーカー事件と七海に関して、一切口外しないでくれ」
「はい?」
一瞬、何を言っているのか、判らなかった。
「・・・仰ってることが、判らないのですが・・・」
「言葉のままだ。これ以上、この一件を大ごとにするな、という事だ」
「・・・どうして・・・ですか・・・」
大事にするな?騒ぎにするな、と言うことか?
七海さんはあんな酷い目にあったのに? 大怪我したのに?
犯人を突き止めるな?という事か?
そんなこと・・・
「話は、それだけだ・・・」
「ち、ちょっと待って下さい!」
まるで、この話を強制終了するような社長の口調に、俺はあわててストップをかけた。
「納得出来ません!
どうしてですか?
そもそも、彼女がこの会社に来たのは、彼女を守るためじゃないんですか?
それなのにどうしてっ!」
「彼女は今日付で退職する。
本人も、家族も了解済みだ」
「だから、それがどうしてなんですか?」
俺は社長に詰め寄った。
納得なんか出来ない!
一体どうして?
そうせざるを得ない事情があるんだとしたら、それは一体何なんだ?
社長は何も言わない。俺はそれでも、社長から目を逸らさなかった。
重たい沈黙は、数秒だったのか、それとも長い時間だったのか、俺には判らなかった。
“コンコン”
ドアをノックする音で、その沈黙は中断し、社長は「どうぞ」と返事をした。
「失礼します」
入ってきたのは、憲一さんだった。憲一さんは、つかつかと俺の側に立った。
「社長・・・説明、した方が良いと思います。
社長が、彼女一人守れなくなった理由と、圧力の事・・・
そうじゃないと、青木は納得しません」
「圧力?」
俺は憲一さんに、聞き返した。憲一さんは、苦い顔をして頷いた。
「あのワゴン車の持ち主を調べたんだ」
一瞬、心の何処かが冷たくなるような錯覚に陥った。
「・・・どこの・・・車なんですか?」
「・・・名前は言えない。
芸能プロダクションの、タレントの移動用の車だ。
圧力は、芸能界と、テレビ業界に強い関わりをもつ・・・暴力団」
「暴力団?」
思わず聞き返した。憲一さんは頷き、社長は溜息をついた。
「敵に回したら、こっちが潰されるだろう。
七海も、七海の両親も、了解済みだ。
この一件で、この会社に何かがあれば・・・
ここのスタッフが路頭に迷う恐れがある。
七海一人を守るために、スタッフ全員を犠牲には出来ない」
社長は、苦しい表情のまま、そう断言した。
小規模とはいえ、音楽事務所一つを潰すことが出来るような権力を持つ存在。
そんなのが存在する、という事は、頭では知っていた。
でも、実際、そんなものが絡んでいるとは思わなかった。
・・・・・結局・・・
社長の判断は、社長として、間違っていない。
七海さん一人を守って、会社一つ潰してしまったら、ここに勤めているスタッフ全員が、路頭に迷うことになる。
中には、家族を養っている人だって、いるのだ。
それだけは、絶対に避けないといけない・・・
でも・・・それじゃ、七海はどうなる?
誰が七海さを守るんだ?
こんな所で、会社から放り出されたら。
また七海さんは・・・襲われるんじゃないのか?
酷い目に遭わされるんじゃないのか?
そんなの・・・・
あんまりだ!
社長室から出た俺と憲一さんは、そのまま廊下に立ち尽くした。
「青木・・・」
小さい声で、憲一さんが俺の名前を呼んだ。
「仕方ない事だ」
そう言って、肩に触れる憲一さんの手に、俺は力なく視線を移した。
「わかって・・・います・・・」
七海さんの事で、会社を頼るのに限界があることくらい・・・判っている。
それでも・・・
俯きながらも、諦めきれなかった俺は。
心の何処かで出来ることを捜していた。
どうしたらいいんだ?
どうしたら、会社を巻き込まずに、彼女を守れるんだ?
彼女を・・・彼女を・・・・
席に戻って仕事を再開した。
書類に目を落としながら、内容なんか入ってくるわけもない。
もうすぐレコーディング。それが終われば、また次のスケジュールがある。
本当なら、七海さんの事なんか考えるべきではない。桜さんと“ERIS”のコラボとそのプロジェクトのことを考えなきゃいけないはずなのに。
俺の心は、
桜さんの事を押しのけて、
七海さんの存在が支配していた。