第4章
もやもやした心のまま、気がつくと季節は巡っていた。
大西さんがこの事務所に入ったのは、確か春で、スプリングコートを纏う季節だった。
彼女が襲われ、入院している間に、気がつくと、そんなコートが荷物にしかならなくなっていた。
あの日、倒れていた彼女にかけてあげたスプリングコートには、微かに彼女の血が付いていた。
それを、俺はクリーニングにも出せず、部屋の片隅に、ハンガーにつるしてあった。
それを見る度に、あの日の事が鮮明に蘇る。
もしも、もう少し早く事務所を出ていたら。
もっと、彼女に気を回していれば
あの事件を防げたかも知れない。
彼女をあんな目に遭わせずに済んだかも知れないのに・・・
後悔だけが、心を支配していた・・・
そんな後悔に苛まれながら、1週間が過ぎた。
怪我も落ち着き、ようやく大西さんが職場に復帰してきた。
社長や、事務所の他の人達に、復帰の挨拶をしてまわり、その最後に、俺の所に来てくれた。
通り一遍な、復帰の挨拶をすると、俺は自然に、顔が綻んだ。
彼女の怪我が完治したこと、復帰したことが、自然に嬉しかった。
「久しぶり、もう、平気か?」
「ん、怪我も治った。・・・いろいろ、ありがとう」
「いや」
「それから・・・迷惑かけて、ごめんなさい・・・」
それは、あの日、俺が彼女を助けたことを指しているのだろう。
「いや、いいんだ・・・」
謝らないでくれ、頼むから。
助けられなかった自分が、惨めになる。
その惨めな思いから目を逸らしながら、俺は彼女に言った。
「帰り・・・しばらく、一緒に帰ってやるよ」
「え?」
「また、襲われたら大変だろ?」
「・・・・・・・」
大西さんは何も言わず、怪訝に俺の顔を見ていた。
「いや、ほらっ!
最近この辺も物騒さしさ。社長も、一人で帰るなってみんなに言ってたしさ。
それにっ、大西さん、暗い夜道嫌いだって言ってたし・・・あの事故の前も、一緒に帰ってただろ?
それ、引き続き・・・さぁ・・・」
一瞬、何か不快な思いをさせてしまったような気がして、慌てて言葉を重ねたけど、言葉を続ければ続けるほど、しどろもどろになってゆき、不自然になっていった。
おそるおそる、彼女の顔を見ると、目を丸くして俺を見上げている。少し唖然としているようだった。
取り繕うように言葉を続ける俺を、呆れているというか、呆然として見ているようだった。
「・・・大西さん、聞いてる?」
リアクションがなくて、重ねた言葉以上に不安になった俺は、おそるおそる、彼女に聞いてみた。まるで、学校で先生から出された口頭試験の答えを待つ生徒みたいだ、と思った。
俺の答えが、正解かなんか、俺には判らない。
その答えを握っているのは、目の前にいる大西さんだけだ。
頼むから・・・断らないでくれ・・・
心の中で祈るように願っていた。
その祈りが通じたのか、彼女は少しだけ、ほんの少しだけ、笑った。
以前から、彼女の笑みは少しぎこちないものだったけど。今日の笑みも、事故前の笑みと変わらなかった。
「じゃあ・・・お願いします」
そういうと、大西さんはすっと、頭を下げた。
「ああ・・・ああ!」
「・・・迷惑かも知れないですけど・・・それでもいいですか?」
「迷惑なわけないだろ?」
迷惑どころか・・・
迷惑どころか?
・・・その言葉の先に出てきた物は・・・・
こんな状況な時にあるまじき想いだった。
不謹慎きわまりない。
彼女と一緒に帰る約束をこぎつけて、
嬉しいだなんて・・・・
こんな、彼女が襲われた直後なのに。
大西さんの事が、
好きだなんて・・・
彼女の傷につけいることなんか、出来るわけない。
やばい・・・
顔がにやけそうだ。
そんな想いを、必死で隠しながら。
「それじゃ、帰りにな。残業とかになったら、教えて?手伝うから」
と、いつもと変わらない平静を装って言うと、何もなかったように席に座り、仕事を再開しようと、資料を開けた。
「青木さん・・・ありがと」
俺の横顔を見ながら、そう言った彼女の言葉に、再び俺の顔はにやけそうになった。
不謹慎ながら・・・
俺は付き人兼マネージャー。
彼女は事務員。
俺は、事務所に居る時間の大半を、打ち合わせで過ごす。
更に、週に何度か、桜さんの付き人兼マネージャーとして桜さんの仕事に付きそう事になっている。そんな日は大西さんと一緒にいられない。
そんな日は、五十嵐さんや、他の事務スタッフに頼んで、彼女と一緒に帰って貰ったり、残業にならないようにしてもらったり・・・とにかく、彼女がまた襲われたりしないように・・・それだけが心配だった。
俺がそんなことを考えているのが伝わったのか、それとも他の事務スタッフが気を遣ってくれているのか、それは判らないが。
俺が外での仕事で、一緒に帰れない日は、彼女が帰宅すると俺にメールが入るようになった。
「無事家に付いたら、メールくれないか?」
約束後、最初の外での仕事の時、彼女にそう言った。彼女は呆れがちに“過保護すぎるよ”とぎこちなく笑ってそう答えてくれた。
そして、そう言いながらも、律儀にメールをくれる彼女が、言い表せないほど、愛おしかった。
単なる、「無事帰宅しました」という、一行にもならない文章で、こんなにも嬉しくなると、今まで思ってもみなかった。
それは、彼女が無事帰宅したから喜ばしいわけではなく、ただ純粋に、に、彼女からのメールが、嬉しかった。
そんなある日のこと。
今日は「ERIS」との打ち合わせと、曲合わせのため、「ERIS」の事務所に午後から行くことになっていた。
今回の「ERIS」とのコラボは、彼らの事務所では、失敗できない大きなプロジェクトとなっている。
それは俺たちの事務所でも同じこと。
ましてや、ミュージシャンとうちの事務所のクラシック演奏家の、ここまで大掛かりなコラボは初めてのこと。事務所内も今までと勝手の違う仕事に戸惑いながらも、精力的に準備に取り掛かっていた。
とはいえ、こちらとて初の試み、こうしたらいい、ああしたら良い、というマニュアルが全くない状態、文字通り手探り状態なのだ。
それでも、まめに「ERIS」の事務所の担当者と連絡を取り合い、コラボプロジェクトのスケジュールは決まっていった。
そして今日は、プロジェクトの打ち合わせの後、そのセッションのレッスンが、「ERIS」の事務所で行われる。
「ERIS」の事務所は、そういったレッスンをやるレッスン室や設備が、
うちの事務所よりも整っているのだ。
そんな事情で、午後には「ERIS」の事務所へ、桜と俺と憲一さん、それと数人のスタッフで行くことになっていた。
「桜さん、早めに昼、食べておいてくださいね」
午前中の仕事を終えて事務室に戻ってきた桜さんにそう言うと、桜さんは曖昧に笑って、軽く頷いた。
否定とも肯定ともつかないその雰囲気で、俺は、また桜さんの“悪い病気”が出ていることに気づいた。
「・・・食べましたか? 昼メシ」
「たっ・・・食べたよ?」
「何・・・食べたんですか?」
「何って・・・なんだっていいでしょ?」
俺は内心ため息をついた。
「駄目ですよ!ちゃんとメシ、食わないとっ!」
彼女の悪い病気・・・本番前に酷い拒食症になって、メシが全く食えなくなるのだ。
コンサート前など、数日、絶食状態になる事など珍しくない。さすがにまめに水分補給はしているせいか、命に別状が出たことはない。
桜はクラシックピアニスト。例えば“ERIS”のようなダンス・ヴォーカルユニットの様に、一回のコンサートで凄まじいカロリーを消費する・・・という事はない。それでも、クラシックピアノのコンサートは、見た目よりよっぽど体力も精神力も消費する。桜さん自身も、二時間から、下手すれば三時間にわたるコンサートで演奏する為の体力をつけるために、毎日ジョギングやウォーキングは欠かしていない。
それに加えて、演奏に関するストレスも、周囲が思う以上に重荷らしい。秋から冬にかけてのコンサートシーズンになると、殆ど食べなくなる。緊張とストレスで、食事が喉を通らなくなる。
以前、現地スタッフだったか、後援会のお偉いさんだったかが、無理に本番前に食わせてしまい、舞台直前に派手に吐いて大変なことになった。食わせた張本人は憲一さんに酷く怒られていたが。
それ以来、無理に食べさせることはなくなったけど、食べないと身体に悪いので、こうして声をかけるようにしていた。
でも、今までテレビの収録の仕事や、ましてその打ち合わせの仕事の前に拒食になることはなかった。
それなのに、このプロジェクトが始まってから、桜さんはまた拒食になっているようだ。
桜さん自身は「食べている」って言ってるけど・・・ほぼ毎日向かい合っているせいか、彼女の嘘くらい見抜けるようになってしまった。
とはいえ、無理矢理飯を食わせるのは禁物だ。また仕事前に吐くようなことがあったら大変だ。
“これはこれで、桜の個性だからさ。受け入れてやってくれないか?”
桜さんの拒食に関して、憲一さんにはそう言われ続けていた。
“拒食な事も、どっか間が抜けているのも、全部ひっくるめて、桜なんだ”
そう言われてしまったら、俺自身何も言えない。
それでも食べないなんて、身体に悪いだけななので、こうして言い続けていた。
「もうっ!・・・もうすぐ“ERIS”の事務所に行くんですよ?」
「ん、判ってるよ」
「打ち合わせ中にお腹がなったりしたら、恥ずかしいですよ!」
「大丈夫よ。そもそもお腹、空かないから」
彼女は、いつもどおり、のほほんと、のんびりした笑顔でそう言った。でも、その目は、どこか、暗いというか、元気がない。
きっと、今までとは勝手の違う今回のコラボの仕事が、少なかれどもストレスになっているのだろう・・・
「・・・・」
そのストレスを彼女の中に見つけてしまうと、俺も何も言えなくなる。
マネージャーとして、かけてあげたい言葉は沢山ある。小言だって沢山ある。
でも、どんな言葉をかけても、桜のストレスが軽くなることはない、という事は、このマネージャー業に就いてから、嫌と言うほど思い知った。
彼女自身が、このストレスと向かい合いながら、仕事をしているということ。そして、身体や心の中の何か大切なモノを、自らの手で削り取りながら、あのすばらしい演奏をしている、という事も・・・
「・・・お腹空いたら、言ってくださいね!軽い食べ物くらい、俺常備してますから!」
「いらないけど・・・ありがとう」
「食べなきゃ、それはそれでいいんです!俺の夜食ですから」
不毛な言葉のキャッチボールをしながら、俺はデスクで見直ししていた書類をまとめた。
まとめながら、ふと気がつくと桜以外の視線を感じて、視線の方に目をやった。そこには大西さんがいて、くすくす笑っていた。
「・・・何?」
「いいえ・・・ただ・・・」
大西さんは、笑いを収めて、少しだけ悲しそうな表情をした。
「叶野さんが、羨ましいです」
「は?」
「え?」
俺と桜さんは同時に素っ頓狂な声をあげてしまった。
「羨ましいって・・・どうして?」
桜さんが不思議そうに、大西さんに聞いた。
「ちゃんと、自分の事を見て、理解して、心配してくれる人が、桜さんには沢山居るからです」
にっこり、彼女は笑顔でそう言った。その笑顔は、俺が知っている彼女のどの表情よりも、何処か深くて影があった。
その影の正体を、俺はまだ知らなかったけど・・・
その表情を見ながら、桜さんが少し辛そうな表情をしていた。
それは、何かを知っているような表情に見えたのは、気のせいじゃないだろう・・・
「ERIS」の所属する事務所は、俺達の事務所から車で二十分位の所にある。
事務所ビルは、テレビ局からほど近い場所で、俺達の事務所よりも大きなビルだ。
所属タレントが多く、ミュージシャンとモデルが殆どだ。
入り口で名乗ると、すでに前の打ち合わせの時に顔見知りになった「ERIS」のマネージャー、杉崎さんが出迎えてくれて、事務所内に通してくれた。
杉崎さんは、40代半ばの、少し小太りの気の良い中年男性だった。にこにこと、いつも笑っている印象があるのは、憲一さんと似ているかもしれない。
「メンバーは今、トレーニング中なんです。でもすぐに会議室に集まりますので、少しお待ちください」
杉崎さんはそう言って、会議室に通してくれた。
「トレーニング中?」
俺がそう聞くと、マネージャーさんははい、と頷いた。
「事務所内に、専用のトレーニングジムがあります。午前中、メンバーはそこで各々、トレーニングなんです」
杉崎さんの話によると、「ERIS」のメンバーは暇さえあれば事務所内のトレーニングルームで、インストラクターについてトレーニングをしているそうだ。
ダンス・ヴォーカルユニットの「ERIS」。普段からしっかりとトレーニングをしておかないと、ライブや収録中の怪我につながって大変なことになるらしい。
「まるでアスリートみたいですね」
「うちの事務所に限らず、ダンスユニットのいる事務所は、どこも似たようなものですよ」
と杉崎さんは教えてくれた。
事務員らしい人が、コーヒーをいれてくれた。それを飲みながら、俺と憲一さんと杉崎さんは雑談を始めた。
今回のコラボプロジェクトに対する、「ERIS」の事務所側の意気込みや、メンバーのモチベーション。前回の打ち合わせの時に桜さんが持って行ったアレンジは、メンバーは勿論、事務所内でも評判がよい、と言うこと・・・
その話には、憲一さんが対応しているが、この会話を聞いているだけでも、今回のコラボが、とても歓迎されていることが垣間見えて、嬉しくなった。
「あ、そうだ!忘れるところだった!」
そんな雑談の最中、杉崎さんは思い出したように、そう声を上げた。
「マナトだけは、早めに切り上げて、今ヴォイストレーニングしています。彼から、桜さんが来たら、打ち合わせしたいから、ヴォイストレーニングのスタジオにきて欲しい、って言ってました。
前の打ち合わせの時に頂いた桜さんのアレンジを、聴いて欲しいって、言っていました。
申し訳ありませんが、桜さんはそちらに行ってもらえますか?」
「はい」
桜さんは、にこやかにそう言って席を立った。
「ヴォイストレーニングのスタジオは、407号室になります。4階の・・・」
杉崎さんは、そう言いかけると、一瞬言葉を止め、周囲を見渡した。周囲に案内できる事務員が居ないか捜したようだった。けど、手の空いている人が誰も居ないと判ると、一瞬考え込んだ。
「いいや、私がご案内します。
すみませんが、少しお待ちいただけますか?」
そう言って、杉崎さんは席を立った。体型の割に動きや身のこなしが素早く、無駄がないように見えた。
それでは失礼します、と言って二人で会議室を出てゆく後ろ姿を見送った。そして、ばたん、と、控えめな音でドアが閉まるのと同時に、俺はふぅ、と息を吐いた。
さすがに慣れない場所のせいか、なかなか俺自身緊張がうまく抜けない。
「きついか?」
一方、いつもと何ら変わらない憲一さんに、俺は無理して笑って見せた。この人は全部お見通しなのだろう。
「ま、慣れだな。場数踏めば慣れてくる」
「そうですね・・・」
そうだ、弱音ばかり吐いていられない。
よし! と、俺は深く深呼吸した。よく、本番前に桜さんがピアノの前に座って、やっている奴だ。
「まあ、打ち合わせが始まれば落ち着くだろ?もう少し、まってろ」
憲一さんはそう言って、さっき事務員さんが出してくれたコーヒーを1口、飲んだ。
俺もそれに倣ってコーヒーに口をつけ・・・ふっと会議室を見渡した。
会議室は、2,30人程入れそうな広さで、今日は、20人程の椅子が用意されていた。
そして会議室の隅には、ガラスのショーケースが設置されており、そこには沢山の受賞トロフィーや盾が飾ってあった。
それは、この事務所に所属するアーティストさんが受賞した音楽賞のものだった。
年末のショーレース、年度末のCDの売り上げランキング、オリコン・・・様々あった。
その量だけ見ても、この事務所がとても大きくて、実力のある芸能事務所だという事を無言で表していた。
それらを遠目に見ながら、ふう、とため息をついたとき・・・
ドアを控えめにノックする音が聞こえた。それと同時に、ドアが開き、会議室に誰かが入ってきた。
「あ・・・」
「こんにちは」
会議室には、「ERIS」のリュウが入ってきた。彼は、トレーニングウェアに身を包み、少し汗ばんだ身体をしていた。
「こんにちは。今日はよろしくお願いします」
俺と憲一さんは席を立ち、同時にお辞儀をした。
「あ、こちらこそ・・・よろしくお願いします」
リュウもそう言ってお辞儀した。そして、少し遠慮がちに、俺達の席に近づいてきた。
「??」
「青木さん?」
「は?はい!」
呼ばれて、俺は慌ててもう一度席を立った。俺の顔をじっと見つめるリュウさんの顔に、笑顔はなかった。
「ちょっと・・・話があるんだけど・・・お時間、貰えますか?」
そう言って、ドアの外を指さした。部屋から出ろ、彼の顔はそう言っていた。その顔には笑顔がなく・・・真剣、というより、少し追い詰められた、余裕のない表情だった。そして、拒絶できない空気を孕んでいた。
断れない・・・本能的にそう思った俺は、ゆっくり、立ち上がった。
「判りました・・・」
そう返事をすると、俺は憲一さんの方を見た。
「ちょっと行ってきます」
「あ?ああ。会議までには戻れよ?」
「平気ですよ。リュウさんも一緒ですからね」
俺はそのまま、会議室を出ようとしているリュウさんの後ろをついていった。
正直、俺とリュウは、二人きりで話す程、親しくはない。以前仕事をしたこともあるし、先日の打ち合わせの時にも顔合わせをしているし、この前の収録の時だって会っているから、全くの初対面ではない。
それでも、親しく話をする仲ではない・・・ただ一方的に、俺の方がファンなだけであって・・・
(まさか・・・大西さんのことか・・・?)
不意に、大西さん宛に届いた脅迫状やメールの文面を思い出した。
あの文面の中にあった、「リュウ」というのは・・・この人の事なんだろうか・・・?
もしも、そうだとしたら・・・・?
リュウと俺は会議室を出ると、エレベーターで4階まで来た。そこは、スタジオがある階らしく。重たそうなドアが沢山、あった。
防音設備は整っているらしいけど、それでも耳を澄ませると、微かに、部屋の中から声がするスタジオもある。
それでも、うちの事務所にあるピアノのレッスン室よりもよっぽど設備が整っている。
その中の一つ、今使われていないスタジオのドアを開けると、リュウに勧められるまま、その部屋に入った。
誰も居ない、片付いたスタジオだった。今まで誰かが居た形跡も、これから誰かが来るような様子もない。
人の気配も、空気の流れも感じない部屋だった。
“バタン!”
リュウは、スタジオの重たいドアを閉めると、そのまま鍵をかけた。
「・・・なんですか?」
その彼の動きを不審に思いながらも、俺はリュウに聞いてみた。リュウは、俺のすぐ側に来ると、まっすぐに俺の顔を見つめた。
威圧的ではない。どちらかといえば、落ち着きがない、どこか焦ったような表情だった。
「七海は?どこにいるんだ?」
突然彼の口から出てきた名前に、驚いた反面、心のどこかが冷静だった。
“七海・・?”
七海・・・・一瞬、誰のことを指しているのか判らなかった・・けど。
大西さんのフルネームは、“大西七海”。
間違えなく、リュウは大西さんの事を聞いているのだ。
「この前、お前と一緒にいた女だっ!」
詰め寄りながら、彼はそうたたみかけた。
「何処にいるんだっ!」
「今日は来ていません」
これは事実だった。大西さんは、今回のプロジェクトとは関係がない。
「そんなわけないだろっ!
それじゃ、どうしてこの前テレビ局にいた?
桜さんのスタッフじゃないのか?」
鋭い声が、まるで突き刺さるように聞こえた。
“違います!彼女は単なる事務員です”
そう言おうとした。実際喉まで出かかった。
でも・・・言いたくなかった。
それは、意地だったのかも知れない。
言ったら、彼女が、ここから居なくなってしまうような。
この男に取られてしまうような、
そんな危機感と焦燥の混ざったような気分・・・
「・・・そんな人、知りません」
言いながら、声が震えた。
嘘をついているから、ではない。
純粋に、そう口に出すのが、怖かった。
目の前には、あの「ERIS」のリュウがいる。
俺の大好きなダンス・ヴォーカルユニット「ERIS」のリュウが!
普通に考えれば、舞い上がって喜んでも、罰は当たらないはずなのに。
今、リュウをはじめとする「ERIS」は、俺にとって仕事相手。
俺はリュウ達の仕事相手のマネージャー兼付き人。そんな立場の俺が、ファンとして、この状況に浮かれるわけにはいかない。仕事は仕事。プライベートはプライベート・・・
それでも、憧れてやまない“リュウ”が、七海さんの事を知りたいなら、教えてあげたい。
けど、俺は、桜さんの所属事務所の社員として・・・
同じ事務所の従業員のプライバシーに関わることを教えるわけにはいかないし。
あんな酷い事件に巻き込まれた彼女の事を、無闇に話すわけにはいかない。
ましてや、彼女宛の脅迫状に“リュウ”という名前が書いてあった以上。
その“リュウ”本人に、彼女の事を話すわけにはいかない。
様々な思いが、俺の中でぐちゃぐちゃになっていたけど。
それでも、社会人としての立場、1事務所の従業員としての立場を最優先させた・・・つもりだった。
「知りませんし・・・知っていたとしても! 従業員のプライバシーに関わることを、教えるわけにはきません」
もしも憲一さんだったら、もっと毅然として対応できただろう。
俺の足は震えていたし、声もどこかうわずっていた。説得力の欠片もなかっただろう。
「おい、お前何様のつもりだっ?」
俺の言葉で、リュウの表情が変わった。焦りの色が濃くなり、さっきまで、微かに残っていた落ち着きが、完全に消えた・・・ように見えた。
次の瞬間、彼は俺に詰め寄り、胸ぐらを掴んで俺の首を締め上げた。
「っ・・・・・」
瞬間、息が出来なくなった。
脅しかける、なんて生易しい物ではない。彼の腕は本気で俺の首を締め上げていた。
「えっ? お前、何様のつもりだっ!、彼女の何なんだ?何であの時っ!彼女と一緒だったんだよっ!」
尋問されたが、俺は何も言わなかった。
だって、言えるわけがない!
彼女が襲われ、強姦されたこと。
彼女宛の手紙にあった、「リュウに近づくな」という手紙。
そして、この前、“ERIS”と桜さんの収録の時の事。
憲一さんが言っていた。彼女の様子がおかしくなった後、ERISのメンバーがNGを連発したこと。
そして、このリュウの態度。
間違えようがない。
「ERIS」と大西さんは・・・いや、リュウと大西さん、何か関係がある!
多分、今回大西さんが襲われたのだって、この人が絡んでいるに違いない!
そんな人に、大西さんの事を話せるわけがない!
「知らないです」
俺は、きっぱりと言い切った。
今、この人達に、大西さんの事を話してはいけない。
彼女の居場所を知らせられるわけがない。
本能的に、そう思った。
「知ってんだろ? 教えろよっ!」
リュウが、俺の胸ぐらを掴んで揺すった。
息が出来ない、苦しい・・・無理に息をしようとすれば、咳き込んで余計に苦しい。
「教えられるわけ・・ねえだろっ!」
それでも、苦しい息を最大限に使って、そう言い返した。
居場所を教えたら・・・また大西さんが襲われるかも知れない。
だったら!
言わないことで、大西さんを守れるのなら!
絶対に教えてやらない!!
たとえそれが、大好きな「ERIS」のリュウだとしても!!
「誰がっ!・・・ぉ前なんかに教えるかっ!」
絞り出すように、そう言い切った。
息苦しくて、視界さえも歪んでくる。そんな視界で、リュウの表情も怒りと焦りで歪んでいるように見えた。
もしかしたら、俺はこのまま殺されるかも知れない・・・心の何処かでそう思った。
その時だった。
「おい、リュウ!辞めろ!」
突然だった。
バタン、ドアが開く音が聞こえた。
次の瞬間、僅かに残った俺の視界の端で、俺を締め上げている腕に、居るはずのない第三者の腕が伸びてきた。
それと同時に、俺を締め上げる腕の力が抜け、俺がその場に落とされた。
“ドサッ”
そんな音と同時に俺は床に尻餅をつくように崩れた。
「大丈夫?」
聞き覚えのある声が、耳元で聞こえた。重たい瞼を開けて目の前を見ると、桜さんが、泣きそうな表情で俺を見つめていた。そして、倒れている俺を抱き起こした。
平気です、そう言おうとしたけど、止まっていた息が急に自由になった反動か、息を吸った途端、大きく何度も咳き込んで、返事どころではなかった。
咳き込みながら、リュウの方を見てみると、彼の腕を掴んで止めていたのは、マナトだった。
「マナト止めるな! こいつが絶対七海の居場所知ってるんだ!
それとも奴が、俺から七海を奪ったのか?」
感情的に騒ぐリュウに対して、マナトは冷静そのものだった。
「今は個人的感情を出す時じゃないはずだ。
青木さんを誰だと思ってる?
桜さんのマネージャーで、今回の仕事相手だぞ?
お前の暴力のせいで、今回のコラボ企画が中止になったらどうするつもりだっ!」
「そ、そうなれば、桜さんの事務所だってタダでは済まないだろっ!」
冷静に言うマナトに対して、リュウの感情は収まらないようだった。
リュウの言ってることは、ある意味正しい。
「ERIS」と桜のコラボに関しては、もうメディアに発表されていて、各方面から取材のオファーが来ている状態だ。1年前、初めてテレビの企画でコラボして以来、もう一度コラボを、という声と、そのCD化の要望が多かったのだ。これがお蔵入りとなれば、メディアや各方面に迷惑がかかる。それは、うちの事務所とて同じ事だ。
このプロジェクトのために動いたスタッフ、莫大な予算、桜さんのスケジュール・・・考えただけで怖い。
でも、マナトは冷静だった。
「違うだろ?困るのは桜さんの事務所だけじゃない。うちの事務所も損害被るぞ!
それだけじゃない。・・・これを心待ちにしている、「ERIS」のファンだって大勢居るんだぞ?
桜さんは、クラシックピアニストだから。今回のプロジェクトがポシャっても、それほど痛くはない。むしろ、彼女の本来の演奏の仕事に戻るだけだ。純粋なクラシックと桜さんのファンにとっては喜ばしいことだろう?
でも、俺達は違う。心待ちにしているファンを・・・裏切るつもりか?
俺達が今、こうしていられるのは、応援してくれているファンのお陰だろ?
そのファンの要望に応えるのが、今回のプロジェクトの第1目的の筈だ。
プロジェクトの意味を、取り違えるなよ」
マナトさんの声は、怒ってはいない。でも、感情を抑えたその声を聞くだけで、彼が“怒りを抑えて”言葉を発していることが、手に取るように判った。
リュウが感情的になっている以上、感情的に対応しても、火に油を注ぐだけだ。
感情を殺して、冷静に、正論で対応するのが、1番有効なのかも知れない・・・
マナトが掴んでいた、リュウの腕が、だらん、と力が抜けた。
「・・・悪かった・・・」
ぼそっと言ったその言葉は、俺に対してなのか、マナトに対して発せられたのか、判らない。
ただ、一瞬だけ見た彼の目は、さっきまでの熱っぽさも焦りも消えていた。
「シャワー浴びて、頭冷やしてこい!
会議は、少し遅く始めるように、杉崎さんには伝えておく!」
マナトは出て行くリュウの背中にそう言葉を投げた。その言葉に、リュウは一瞬だけ、頷いたような気がした・・・
「平気?立てる?」
桜さんは、俺に手を貸してくれて、立たせてくれた。
息苦しさも首を絞められた痛みも、随分楽になっていた。
「ああ・・・ありがとうございます」
助けてくれたことは、素直に嬉しかった。でも、自分が担当しているピアニストに危ないところを助けられるなんて、マネージャーとして失格だな、と、自分の不甲斐なさに涙が出そうになった。
情けない・・・それに尽きる。
1番近くにいると自負しながら、大西さんをあんな目に遭わせて。
一番近くで守らなきゃいけない桜さんに、こうして守られて。
俺は一体何をやってるんだ?
マネージャーって一体何だよ?
守るって、一体何を指して言うんだよ?
「間に合って良かったよ。
桜さんとの打ち合わせ終わって、スタジオから出たら、使われてないスタジオにリュウと青木さんが入っていったから。
嫌な予感、したんだ」
その後、リュウが、事務室に走って、このスタジオの合鍵を借りてきてくれたことを教えてくれた。俺は、もう一度、マナトさんに深く頭を下げてお礼を言った。
するとマナトさんは、慌てて首を横に振った。
「とんでもない!
俺の方こそ・・・リュウが暴走して、貴方に酷いことをした。リュウの代わりにおわびします」
そう言うと、マナトさんも深く、俺に頭を下げた。
「リュウの奴、二ヶ月くらい前から、つき合ってた彼女が行方不明になって・・・
それ以来、荒れてるんだ」
マナトさんがその言葉を言った途端、俺の中で、大西さんとリュウを繋ぐ糸が、見えたような気がした。
「・・・・それ・・・大西七海さん・・・ですよね?」
なるべく落ち着いて、マナトさんにそう聞いてみた。マナトさんは、俺の言葉に、はっとしたような顔をした
「一体何なんですか?
何が起こってるんですか?
どうしてっ・・・」
聞きたいことは沢山あるはずなのに、それは何も、言葉として出てこなかった。
俺が知りたいことは、きっとこの人も知っている筈なのに。
マナトさんは、驚くこともなく・・・俺の顔を見ながら頷いた。
「・・・教えてくださいっ!
彼女に何があったんですか?
どうして大西さんはっ・・・」
どうして彼女が襲われたんですか?
強姦されなきゃいけなかったんですか?
喉までその言葉が出かかった。
でも、言葉にならなかったのは・・・果たして話して良いのか、判らなかったから。
話す事で、また彼女が辛い想いをするのでは?という想いが脳裏を過ぎったから・・・
でも、このまま、何も知らないだけじゃ、俺は彼女を救えない。
もう、俺は彼女の泣き顔なんか見たくないんだ!
詰まった言葉のまま、マナトさんを見上げると、彼は驚くこともなく、笑顔の欠落した表情で、俺を見つめていた。
その表情を見て・・・何となく判ってしまった。
マナトは、全て、事情を知っている・・・と・・・
「会議室で話す。
・・・・立てるか?」
そう聞かれて、俺は頷きながら、桜さんの手を借りて立ち上がった。まだ締め上げられた首が痛かったけどそんなこと、もう気にならなかった。
それより、大西さんとリュウの事の方が、気がかりだったし・・・聞きたかった。
「桜さんも、橘さんも、事情は知ってるからさ。
会議室に橘さん、いるんだろ?
そこで事情、話すから。そっちに行こう」
マナトさんに促されて、俺と桜さんは、マナトさんの後について、そのスタジオから出た。
スタジオから出た途端、周囲に正常な空気が流れたような気がして、改めて、このスタジオは密閉された空間だったんだ、と思った。
そして、そんな密室でリュウと二人きりでいて、しかもあんな風に首を締め上げられていた事を思い起こして・・・思わず身震いした。
俺達はそのまま、桜さんの控え室へと行った。
俺とマナトさん、桜さん、三人で戻ってきたせいか、一瞬憲一さんの目が驚いたように見開いた。
憲一さんと何やら話をしていた杉崎さんが、俺達を見て、いつもの気の良い声をかけてきた」
「どうした?他のメンバーはまだなのか?」
そう言って近づいてきたけど・・・俺の姿を見た途端、固まった。
「あ、青木さん、どうかなさったんですか?首に・・・」
「え?」
杉崎さんは、“ちょっと失礼します”と言って首もとに指を伸ばしてきた。
「っ・・・つ!」
さっき締め上げられたとき、圧迫されていた箇所に、そっと指で触れた。その瞬間、酷く痛んだ。
「切れてますよっ!ここが・・・・何かあったんですか?」
リュウに締め上げられたときについた傷だろう。
直接首を絞められたわけでもないのに、服を掴んで締め上げられただけなのに、そんなはっきりと判る傷が残ったのか・・・どれだけ力一杯締め上げられたんだ・・・
俺は、杉崎さんに示された場所にそっと自分の指で触れた。途端にぴりっと痛みが走った。
「すぐに手当を・・・」
「杉崎さん、手当は後で良いからっ!ちょっと席外して貰えませんか?」
マナトははっきりとそう言った。
「でもっ」
「桜さんとマネージャーさん達に大事な話があるんだ。
まだ、会議は始まらないだろ?
リュウが少しトラブってるから、こっちに来るのが遅れる。
その間、少しで良いんだ。
桜さんとマネージャーさん達を貸して欲しいんです」
マナトさんの真剣な言葉に、杉崎さんは何も言わずに頷いた。
「話が終わったら、知らせてください。
あと、会議の開始は遅れる、と関係者には伝えておく。
なるべく早めに終わらてください」
杉崎さんは、納得いかない表情のままだったけど、それだけ言うと、会議室から出て行った。
俺達は、憲一さんの側に腰掛けた。
「どうしたんだ?」
憲一さんの表情にも笑顔がなかったのは、俺やマナトさんの表情が、いつもと違っているのに、気づいたからだろう。
「橘さんにも、青木さんにも、話しておきたいことがあるんです。
・・・大西七海さんについて、です・・・」
マナトさんは、そう言って、俺達の顔をそれぞれ、見ると、大きく深呼吸をした。
「マナトさん・・・七海さんとつき合ってた男って・・・やっぱり・・・」
「・・・やっぱり?」
俺は、一番知りたかった事を、マナトさんに問いかけた。
憲一さんは知っているようだった。彼女の名前が出ても、驚きもしない。
「“ERIS”のリュウ・・・なんですか?」
「そうだ」
マナトさんは頷いた。憲一さんはばつが悪そうに視線を外し、桜さんは・・・そんな憲一さんを見つめた。
やっぱり・・・リュウだったんだ。
あの脅迫状に書いてあった“リュウ”という名前は、“ERIS”のリュウの事だったんだ。
「リュウに聞いた話だけと、な。
七海さんは、リュウとつき合っていたんだ」
やっと、腑に落ちたような気分になった。
でも、そんな気持ちと同時に感じたのは、何処かもやもやした想いと、諦めに近い、喪失感・・・だった。
彼女が誰かとつき合っていた事は、社長に聞いていた。その誰か、が、顔が判らないからこそ、今まで平静を保っていられていたのかもしれない。
相手が判ってしまって・・・それが、俺が大好きな“ERIS”のリュウだなんて・・
俺の思いに関係なく、マナトさんは言葉を続けた。
「何処でどんな風に出会ったか、とか馴れ初めなんかは、知らない。
ただ、七海さんは、芸能界に疎くてな。殆どテレビやドラマなんか見ない子らしい。
リュウが、“ERIS”のメンバーだと、全然知らなかったらしい」
「え??」
俺には信じられなかった。
だって、“ERIS”は、凄い人気だし、テレビを1日見ていれば、CMでも歌番組でもかなり出ている。レギュラー番組も凄く多いし、知らない人なんか、いないだろう・・・“ERIS”っていうグループは知ってる。歌もパフォーマンスも見たことがあるはずだ。
でも、初めて、テレビ局で、俺が“ERIS”の話をしたときの彼女は、本当に知らない様子だった。嘘ついて知らない顔をしているようには見えなかった。
「ああ・・・多分、彼女の事だから、“ERIS”って名前は知っていたと思うんだ。
でも、“ERIS”のメンバーが誰だとか、そういうのは全然知らなかった。
実際、俺達、何ヶ月か前に、リュウに七海さん、紹介されたんだ。その時だって、彼女は俺達の顔を見ても、何の反応をしなかったんだ。
で、リュウも、「ERIS」という言葉は全く出さなかった。
リュウは、七海さんが、「ERIS」というグループを知らない事を承知で、つき合っていたんだろ・・・思う。
実際、そんな出会いだったらしい」
マナトさんは、そう言った。
そういえば社長も、似たようなことを言っていた。・・・何処の誰かも判らない男と、七海さんがつき合っていた、と・・・
「俺達も紹介してくれた時も恋人だ、といって、二人とも幸せそうな顔してた。
女友達が多くて、しょっちゅう女と遊んでる奴だったけど、七海さんとつき合い始めてからは、そういうこともなくなった。七海さん一筋だった。
でも、二ヶ月くらい前だったかなぁ?
突然、リュウの調子がおかしくなったんだ。振り付け間違えるし、歌詞も忘れるし・・・顔色も悪かった。
で、仕事が終わるとさっさと帰っちまって付き合いが悪くなった。
その時は気づかなかったけど、今思うと、その頃、七海さんが行方不明になったんだろうなぁ・・・」
「行方不明?」
俺は思わず聞き返した。
「ああ。
リュウの話だと、彼女は突然住んでいたマンションも引き払っていて、携帯の番号も変えて・・・姿を消したらしい。
それ以来リュウは、仕事が早く引けた日は、遊びにも行かず、ずっと七海さんを捜していたんだ。彼女が行きそうな所、好きだって言っていたところとか、彼女の職場の近くとか、ね・・・見つからなくて、最近は、諦めたみたいだったけどさ。
まさか、テレビ局のスタジオで再会するなんて想いもしなかっただろうけど、な」
ため息混じりにマナトさんは言った。
「・・・七海・・・さんは・・・ストーカーされて・・・襲われて・・・」
避難するように、実家に戻った、と言っていた。
「ああ。
桜さんからさっき聞いた。七海さん、ストーカー被害受けたんだってな。
リュウ、七海さん以外の女とつき合っていた、とか、リュウの別の女が七海さんを襲った・・・とかって言われているらしいけどさ」
そこまで言うと、マナトさんは言葉を止めた。そして、
「リュウの名誉のために言うけど。
リュウは、二股かけたり、そんなことはしていない。
確かに女友達は多いし、七海さんとつき合う前は、女遊びは凄かった。
けど、七海さんとつきあい始めてから、奴は変わった。仕事に対してもダンスに対しても、今まで以上に真摯に向かい合うようになった。奴が本当に惚れてたのは、七海さんだけだった。
俺もリュウも、七海さんが、ストーカーされてるなんて、全然知らなかったんだ。
ただ、彼女が居なくなったこと、心配して、身を案じてた・・・
そうしたら、桜さんの付き人やってる君の横に立ってるんだ。
俺だってびっくりしたぜ?
リュウなんか収録ほったらかして七海さん追っかけそうな勢いだったぜ?」
言葉を選ぶように、そう言った。
「大西さんには・・・脅迫状が届いていました。
リュウと別れろ。と・・・
多分、うちの職場に来る前から、その脅迫状を貰っていたんだと思います
それに・・・これ・・・」
俺は自分のカバンから、彼女の携帯を取り出した。
真新しいパープルカラーの携帯・・・
あの、彼女が襲われたとき、彼女の側に落ちていた。
あのまま、彼女に返し損なったまま、俺が持ったままだった。
そして、彼女に悪いと思いながらも、メールを見てしまったのだ。
本来なら、警察に届けるべきなのだけど、それさえ出来ないままだった。
それの電源を入れて、あの日、彼女に宛てられたメールを、マナトさんに見せた。
マナトさんに見せた携帯の画面を、憲一さんも桜さんも覗き込んだ。
【警告を無視するからだ。
ごちそうさま。
これで二度とリュウには会えないだろう。
いい気味だ。
お前みたいな汚れた女、リュウが相手にする訳がない
二度と姿を現すな! 】
今思い出しても、怒りでわなわなと全身が震え上がる。
「お前、これどうしてっ?」
「あの日、桜さんの側に落ちてた。警察に渡し損なったんだ」
「って、良いのかよ!これ、彼女がストーカー受けてた証拠だぞっ!」
憲一さんの顔に笑顔はなかった。それ以上に、メールの内容のせいで、マナトさんの眉間に皺が寄った・・・怒りを抑えているのは一目瞭然だった。
「とりあえず、さ。
それとなく、リュウの友達とか、調べてみるから。
七海さんに何かあったら、すぐ知らせてくれないか?
・・・七海さんが襲われたのが、もしも、リュウが原因だったら。
俺達にも・・・責任あるから、な」
絞り出すように、マナトさんはそう言った。その表情は、何処か決心したような顔だった。俺は慌てて首を横に振った。
「責任って・・マナトさんは悪くないですよ!」
そう言ったけど、マナトさんは首を横に振った。
「・・・七海さんは、さ。
リュウが“ERIS”のメンバーだって、知らなかったんだ。
リュウは、七海さんに、知らせようと思えば、そうできた筈なんだ。
いや、立場上、そうするべきだったんだ。
・・・でも、そうしなかったのは、教えたくなかったから、なんだ。
芸能人、“ERIS”のリュウ、ではなく、ただの“中野龍介”として、彼女と向かい合いたかったんだと・・・思う。
この業界に入ってから、俺達の周りに集まってくる人間ってさ、みんな“ERIS”に興味があって、それを利用しようとする奴だったり。俺も、リュウも、メンバーもみんな、それで結構しんどい思いしてて、さ。
リュウは、七海さんが、“ERIS”の事、全く知らないなら・・・知らないまま、ありのまま向かい合って欲しかったんだろうな。
・・・その気持ちは、俺も分かるんだ。
俺も、リュウと同じ立場だったら・・・知らせないと思う・・・知らせるべきなんだけど、な」
ぽつり、マナトさんはそう言った。
そして、その言葉で、何となくだけど、気づいてしまった。
リュウの、マナトさんの、“ERIS”であるが故の、孤独・・・
本来の自分ではない自分を見て、それを愛し、それに夢を重ねる人間・・・
それを、「ファン」と言ってしまえば、それまでだけど。
アーティストは、そのファンの期待に応えるべく、時として自分の愛や夢さえも犠牲にする・・・
結果、後に残るのは・・・言いようもない、孤独・・・
それはきっと、桜さんが抱え続けている“孤独”と繋がる物なのかも知れない。
たった独りで、舞台の上で、観客の要望に応えて、演奏し、耳の肥えた観客を魅了し続ける、桜さん。
その裏で、どれだけ自らを追い込み、ピアノと向かい合い続けているか・・・
レッスン室で、行き詰まって、発狂したような叫びを上げることも、ある・・・
本番前、拒食になるほど、自分の心を、身体を、追い詰める。
たった独りで・・・
代わってあげられるなら、そうしてあげたい程だ。
そして、桜さんの周囲にいる人も、彼女とは“ピアニスト叶野桜”として接するし、そう扱う。ピアニスト、という形容詞の裏で、彼女がどんな思いを抱えているかも知らずに・・・
ピアニストではなく、一個人、“桜さん”と向かい合っている人は、俺の知る限り、とても少ない。
俺だって、時々、桜さんと向き合っているのか、“ピアニスト叶野桜”と向き合っているのか、判らなくなる。
自分を自分として、接してくれる存在。・・・それは当たり前のことだけど、桜さんや、“ERIS”のような芸能人の周囲にいる人にそれを求めるのは、とても難しい事だ。
リュウにとって・・・七海さんは、そういう存在だったに違いない・・・
自分を自分として、認め、愛してくれる存在・・・それはとても貴重だ。
俺達は相談して。
ストーカーの犯人が分かるまで、もう少しだけ、リュウも含めた他の人達に、七海さんの詳細は秘密にする事にした。
ストーカーの・・・ひいては、七海さんを襲った犯人が、リュウの関係者だとしたら、リュウに七海さんの居場所を教えれば、犯人にその情報が流れる危険性もある。
もっとも、会社に脅迫状が届いている以上、そんなこと無意味かも知れない。犯人は既に、七海さんがどこに勤めているか知っているのだから。
七海さんの安全を守るために・・・仕方ない事だった。
ここで七海さんの自宅や、他の個人情報がばれてが公になって、また嫌がらせさせるようになったら、七海さんが可愛そうだ。
「とりあえず、俺も周りの奴、調べてみるから。
何か判ったら知らせるから」
「はい・・それじゃ、俺のメアド、教えときます」
俺とマナトさんは、それぞれ自分の携帯を出して、メアド交換した。
憧れの“ERIS”のマナトさんのメアドが、今手元にあるのに。
素直に喜べないのは・・・このメアドが、友達としてのメアド交換などではないから。
こんなことがなければ、きっと俺は有頂天になっているだろう。
そして、そんなことよりも俺の心を支配していたのは、彼女の事だった。
七海さん、まだ、リュウの事、好きなのか?
七海さんは、どう思ってるんだろう?
気がつくと、彼女への想いは募るばかりだった。
七海さんの心に・・・俺の入り込む隙間は、あるのか?
俺に、出来ることはないのか?
・・・・俺が、七海さんに出来ること・・・・・
「なあ、桜さん?」
今日の打ち合わせと曲の練習がおわった後、帰りのタクシーの中で、俺は隣に座る桜さんに聞いてみた。
「桜さんもさ、孤独に苦しむ事って、あるの?」
あの時、マナトさんが言っていた言葉が、心のどこかに引っかかっていた。
芸能人であるが故の孤独・・・周囲の期待に応えようとすればするほど、ミュージシャンやアーティストは、はたまた演奏家は・・・どんどん孤独になってゆく・・・
その孤独故に、リュウが、何も知らない七海さんを求めたのなら。
桜さんが孤独に駆られたとき、彼女が求める人は、一体誰なんだろう?
誰の腕の中で、孤独を癒すんだろう?
「マナトさんやリュウさんみたいな孤独を、桜さんも感じ続けていたんですか?」
俺がそう聞くと、何のことを話しているのか、桜さんは判ったみたいで、軽く頷いた。
「感じなかった・・・っていったら嘘ね。
子供の頃はずと感じてたよ」
そういうと、桜さんはぽつり、ぽつりと話してくれた。
「私・・・ジュニアコンテストで優勝して・・・その頃から天才ピアニスト、みたいに言われてた。
だからね、そういう、私の肩書き利用して近づいてくる人、一杯いたよ。
後援会の人達なんか、その最たる者だった。
私に金を出す見返りに、後援会の人間や、後援会と利害のある人達の、気にいるような演奏を強いられていたの。
最初のうちは、実力認められているみたいで、嬉しかったけど・・・・違った。
みんな、私の後ろに、利権とか、利害関係とか、そういう物を見ていたの。
だから、十代の頃は・・・自分の事、見失っていたよ?
私が舞台、失敗すると、後援会の人の利権とか利害とかがポシャることになるわけだから、ね・・・プレッシャーで、気が狂いそうだった・・・拒食症患ったのも、その頃かな?
ま、拒食の原因は、これだけじゃないけどね」
桜さんは寂しそうに笑っていた。
「今でも、それは変わらないよ。でも・・・あのころより随分マシになったよ?
私のこと、理解してくれる人も、あの頃と比べたら随分増えたし、オンオフ、切り替えられるようになったのよ?」
理解してくれる人・・・?
リュウにとっての、七海さんのような存在が、桜さんにも、いるということなのか?
誰なんだろう?
憲一さん?
飲み友達のシンさんやマナトさん?
それとも・・・大沢さん?
「桜さん・・・恋人、いますか?」
不意に、俺の口からこぼれ落ちた言葉に、桜さんは少し、驚いた顔をした。
そして一言。
「いるよ」
そう言うと、彼女は首に下げている鎖を引っ張り出した。細い銀色のチェーンには、銀色の指輪が通されていた。
ピアニスト、という仕事柄か、桜さんはあまりアクセサリーを身に付けない。指輪もブレスレットも、ネックレスさえも、好き好んで身に付けない。
演奏の時邪魔になると言って、最低限舞台本番の時に、衣装に合うものを嫌々つける程度だ。だから普段の桜さんの私服は、ほかの人と比べていたってシンプルに見える。
その桜さんが、唯一普段から身につけているのが、そのシンプルな細いチェーンだった。一見ネックレスのように見えるが、いつもそのペンダントトップは服の下に隠れていた。
そのチェーンに通されている銀色の指輪は、シンプルな結婚指輪のように見えて、心がざわついた。
「最初はね、ただの友達だったし、私も付き合ってた恋人いたし、全く相手にしていなかったの。でもね、その恋人が二股かけてて・・・ストレスで体も壊してたし、ボロボロだったの。
救ってくれたのが、彼だったの」
以前、桜さんと、プロ野球選手とMTVの女子アナとの三角関係が週刊誌に取り沙汰された。
俺がまだバイトをしていた頃だ。桜さんはその直後に入院してしまった。三角関係の修羅場のショックと、演奏で酷使しすぎた身体がボロボロになった末の事だった。
「あの・・・プロ野球選手の噂、本当だったんですか?」
てっきりデマだと思っていた。でも、桜さんはうなづいた。
「プロ野球選手の彼は、高校時代の後輩せ、あの頃までずっと付き合ってたの。でも、私、高校進学と同時にドイツに留学して・・・帰国した頃には、彼、プロ野球選手になってた。すれ違いが多くなってね・・・でも、長く付き合ってた惰性もあって、なかなか別れられなかったの。お互いが、お互いに負い目を感じて、下手に気を使ったり・・・大好きだったのに、お互いを理解するのが困難になっちゃってたの。・・・苦しかった。
そんな苦しみから解放してくれたのが、今の彼だったの。
彼の前だと、ピアニストとか、東洋の至宝とか言われている私じゃない、本来の叶野桜でいられるの。
感謝してるし、尊敬もしてる」
そこまで話すと、桜さんは軽く息を吐き、真面目な顔をした。
「だから・・・リュウさんの気持ちも、何となくだけど、理解できるんだ。
芸能人でもダンサーでもない、ありのままのリュウさんを受け入れて、愛してくれる人が、欲しかったんだと思う。
それが、七海さんだっただけのこと。
そういう存在ってね、私たちにとっては、とても大切なの。出会ったきっかけとか、お互いの立場とか、過去とか・・・そんなこと、関係ないの。
リュウさんが“ERIS”のことを隠して付き合っていたのも、解るんだ。
正体、ばれたら、七海さんの、リュウさんを見る目が変わってしまうかもしれない・・・そうしたら、今までの関係も崩れてしまう。七海さんが彼から去ってしまうかも知れない・・・それが、怖かったんでしょうね・・・
失う恐怖と隣り合わせのまま・・・つき合っていたのかも知れないわね・・・」
最後の方は、声が小さかった。
それは、もしかしたら・・・桜さんがさっき話していた、プロ野球選手との恋愛も、そんな「失う恐怖」と隣り合わせな恋愛だったのかもしれない。
タクシーの、助手席に座っていた憲一さんは、ちらり、と俺達を視線で気にしながらも・・・何も言わず、ただ、桜さんの話に耳を傾けていた。
何かを“知っている”目だったけど・・・俺はそれ以上、この話を続けなかった。