表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
縁の下に咲く花達  作者: 光希 佳乃子
4/31

第3章

あの収録の翌日。


俺は、事務所で大西さんと再会した。


大西さんは、いつも通り、ぎこちなく笑っていた。


「昨日はありがとう、お陰で助かった」


「・・・いえ・・・・」


「昨日、あの後、平気だった?具合悪そうだったしさ・・・」


「あ・・・大丈夫です!単なる貧血です。それに・・・収録現場って、なんか空気が違って、空気にあたっちゃったみたいですっ」


「ああ、判る。俺も収録現場に初めて入ったとき、周りの空気について行けなくなったから、さ」


ぎこちなく笑う大西さんに、俺は話を合わせながら、いつも通りに接した。思ったより顔色もまともだったし、もう平気みたいだったので、心底安心した。


事務処理をする手も、いつも通りで、作業が遅いとか滞ってる様子もなかった。


その姿を見て少しホッとした俺は、昨日明日香さんから託された携帯をポケットから取り出した。


あの直後、俺は携帯の電源をオフにした。万一鳴ったりしたら、気になって仕方ないからだ。


「ほら」


そう言って、俺はそれを大西さんに手渡した。一瞬、彼女は不思議そうな顔をして俺を見上げた。


「携帯。昨日テレビ局で落とさなかったか?」


「そういえば・・・夕方から携帯が静かだなって・・・落としてたんだね・・・」


「心当たりある?」


俺がそう聞くと、彼女は少し、考え込んだ。そして・・・


「青木さんと別れた後、トイレで化粧、直したんです・・・その時誰かにぶつかったっけな・・・」


「多分その人が拾ったんだ。

これ届けてくれた人、ちょっとだけ知り合いだったから、さ」


ほら、と差し出した携帯を、彼女は受け取った。


「ありがとうございます」


「あと・・・俺、一回だけその携帯に電話したからさ?」


そういうと、彼女は携帯の電源を入れた。そして、その画面を見て、一瞬表情を曇らせた。


「・・・あ・・・本当だ。でもでもどうして?」


俺と大西さんは、一緒に昼を食うようになってからメアドと携帯番号を交換した。同じ職場の人間だし、連絡先を知っていても問題ないだろうと思ったからだ。実際俺はここの事務所のメンバー全員の携帯番号とメルアドは知っているし、職場の人たちもそれぞれお互いメアドと携帯番号は知っているはずだ。これが意外とよく使うのだ。


「拾ったのが桜さんの知り合いでさ、届けてくれたんだ。で、本当に大西さんのか確認したくてさ、電話してみたんだ。大西さんの番号に電話して、この携帯が鳴れば、大西さんの、って事だろ?」


「あ、そっか・・・」


「拾ってくれたのが、桜さんの友達で良かったよ」


明日香さんと俺は、そんなに深い知り合いというわけではない。けど、桜さんとは仲が良くて、昨日みたいにテレビ局で接近遭遇することも多い。顔見知り程度だが。


「そうですか・・・その人にもよろしくお伝え下さい」


「伝えとくな」


そういうと、俺は早速仕事を開始した。昨日の収録後の打ち合わせの内容を見直しながら、スケジュールの確認っと。


“ERIS”のメンバーとの打ち合わせとレッスン、レコーディング・・・そして、発売日前の各音楽番組への出演と宣伝・・・・


普通のピアニストとは違うスケジュールで動く・・・普段からCDを出しているミュージシャンにとってはいつものことかも知れないが、桜さんにとっては全く未知の世界だ。


(乗り切れるのかなぁ・・俺・・・)


スケジュールと書類を見ながら、不安に駆られそうになる。今までとは勝手の違う仕事、いつもと違う仕事相手・・・いつもとは違う・・・


「大西さん」


煮詰まっていると、突然、大西さんを呼ぶ声が聞こえた。見ると、もう一人の事務の五十嵐さんが立っていた。五十嵐さんは、三十歳半ばで、結婚していて一児の母親だ。未婚女性が多いこの職場の中で、唯一の既婚女性だ。


いつも、明るく笑っていて、どんなトラブルも困難も“どうにかなるわよ!”と言ってケラケラと笑っているような人だ。


けど、その五十嵐さんの表情が、今日は暗い。落ち込んでいる、という感じではなく・・・戸惑っている感じだ。


「どうかしたんですか?」


大西さんが五十嵐さんに聞くと、五十嵐さんは、手元に封筒を持っていた。


それは、普通の手紙のサイズの封筒で、シンプルな茶色い事務封筒だった。そして、切手も貼っていない。ただ、「TMO音楽事務所 大西七海様」とだけ書かれていた。


「大西さん宛なんだけど・・・ちょっと変なのよ、これ・・・」


住所が記されていない封筒・・・これは、郵便屋さんが届けた物ではなく、直接、この事務所のポストに投函されたことを表している。しかも、宛名は大西さん宛・・・差出人の名前は書いていない。


「とりあえず・・・さ。開けてみてくれない?妙な手紙だったら速攻処分するけど・・・受取人以外が、開封するわけにはいかないでしょ?」


五十嵐さんに言われて、大西さんは、その手紙を恐る恐る、手に取った。その指先は、心なしか震えているようにみえた。


「・・・開けてやろうか?」


いつの間にか顔色まで真っ青になっている大西さんに、俺はそう聞いてみた。けど、彼女は首を横に振った。


「だ・・・大丈夫・・・」


そう言いながら、ぎゅっと目を閉じながら封を手で開き、中から手紙を引っ張り出し、開いた・・・


するとそこには・・・


「・・・なにそれ・・・」


「気持ち悪い・・・」


手紙には、ドラマに出て来るような、雑誌を切り抜いて貼り付けた文字が散らばっていた。


文面はシンプルそのもの・・・


たった一言。


“リュウに近づくな”


それだけだった。


・・・・・・・


「なんだよ、これ!」


一瞬の沈黙の後、その沈黙を壊したくて、いつもより大きな声でそう言っていた。


「リュウって・・・“ERIS”のリュウ? 大西さん、リュウと知り合いなの?」


「し・・・しらないっ!」


彼女は首を横に振りながら、まるで何かから逃れるほどはっきりと首を振りながら、そう言った。でもその顔は蒼白で、今にも泣きそうだった。


無意識か、意識してか、彼女の手は、自身の腕に触れ、さすっているようだった。その腕の袖の中には、いつか見たあの派手な傷痕がある筈だ・・・


「・・・・・・・」


リュウ・・・“ERIS”のリュウなのか?


そういえば、昨日の収録の時のリュウの不調は、彼女が現場で見学して、そして現場から出ていった後からだ。


マナトが、大西さんの事を聞いていたのは、あの現場でNG連発の直後だった。


関係・・・あるのか?


大西さんは、持っている手紙を、ぐしゃ、っと握りつぶし、そのままシュレッダーにかけた。まるでその手紙のもつ“現実”から逃れるように・・・


その姿は、俺達が知っている大西さんの姿とはあまりにもかけ離れていて・・・・俺と五十嵐さんは顔を見合わせた。



やがて、大西さんは何もなかったように仕事を再開したけれど、その事務処理のスピードは、さっきとは比べものにならないくらい、遅かった。


リュウと、知り合いなのか?とか。


何があったのか?とか。


聞きたいことは沢山あったけど。


それら、何一つとして、俺は聞けなかった。


聞けない言葉達を胸の内に隠しながら、俺も仕事を再開した。


俺の斜め向かいの席に座っている憲一さんは、何故か、俺以上に心配そうな顔で、それらの一部始終を見つめていた。




大西さん宛の手紙は、それから毎日届いた。


いつも同じ、茶色い事務封筒に、個性のない、パソコンで打ってプリントアウトした住所と名前・・そして、差出人が書いていない、彼女宛の「脅迫状」のような手紙。


大西さんは、それ以来、封を開けずにシュレッダーにかけて捨てた。そして何食わぬ顔をして仕事をしていた。


でも、その表情は、日を重ねる事に疲れを背負い始め、だんだん笑わなくなっていった。


今までは、ぎこちなく、不器用に笑っていたし、時々見え隠れする素敵な笑顔は俺の心をも明るくしてくれたはずなのに。それさえも見えなくなっていった。


一緒に昼食を食べに行っても、それは変わらなかった。


以前以上にぎこちない作り笑いと、疲れたような表情は、俺の心配を煽るには充分過ぎた。


「大丈夫だから、そんな顔しないで」


どうやら俺は、よっぽど不安げな顔をしていたらしく、昼食を食べるべく入った定食屋で、彼女にそう言われた。


「・・・何かあったら言うんだぞ?」


「大丈夫よ。心配しないで」


それ以上のことを、彼女は言わなかった。


「これ以上・・・何かあったら・・・」


「大丈夫!本当に青木さん、心配性ですよ!」


「心配だよっ!」


思わず声を荒立てていた。


だって平気なわけないだろ?


あの、最初に大西さんが手紙を受け取ってから、もうすぐ1週間になる。あの手紙を受け取るようになってから、日増しに彼女は覇気が無くなっているのだから、笑顔が消えかかってるんだから。


俺の心配が現実になったのは・・・この会話を交わした日の夜だった・・・・





午後は、現場スタッフとの会議と、桜さん、憲一さんとの打ち合わせが立て続いて、俺は会議室に缶詰になった。


それらがすべて終わった時は、終業時間をとうに超え、外は真っ暗だった。


事務所でも、残っている人など殆どいなかった。


大西さんも、帰った後なのか、 隣の席も空席だった。暗い夜道を極端に嫌がる彼女のこと。きっと終業時間と同時に帰ったのだろう・・・と勝手に思っていた。


もしも残業していたら、一緒に帰ろうと思っていた。あの脅迫の手紙が事務所に来るようになってからというもの、俺は以前よりも意識的に彼女と一緒に帰るようにしていた。


彼女の嫌いな暗い夜道。万一そんな所で彼女の身に何かあったら・・・考えただけで心臓の辺りが痛くなる。


俺は、会議の資料に目をやり、その内容をまとめた。そして資料の中から、もう必要のない、捨てなくてはいけないような内容のメモ類をまとめてシュレッターにかけるべく、席を立った。


「あれ?」


不意に俺の目は、彼女の席の足元にある小さなゴミ箱に目が行った。そういえば彼女はいつも仕事が終わると、ゴミ箱の中も綺麗にしていたっけな・・・・


でも今日は、その彼女のゴミ箱に、ぐしゃぐしゃにした紙くずが一つだけ、捨ててあった。


茶色いゴミは、事務封筒のように見えた。


「・・・・・」


数日前、大西さんに届いていた脅迫文。あの封筒と似ているような気がした。


俺は思わずその紙くずを拾って、丁寧に広げて見た。案の定、それには住所など書いていなくて、この事務所の名前と、“大西七海様”とだけ書かれていた。


それを見た途端、背中の辺りが冷たくなったような気がした。心なしか、俺の腕まで震えてきた。


その震える腕で、彼女宛のその手紙を広げた。


「っ!なんだよ!これ!!」


その手紙は、今度はパソコンで書かれた文字だった。それには、以前よりも少しだけ長い文章が綴られていた。


『私の警告を無視したな。

これが最後の警告だ。

さっさとリュウと別れろ。

お前の存在が目障りだ。さっさと消えろ!』


差出人のわからない、脅迫状。


「・・・・・・」


これは、俺宛のものではない。


そんなことわかっている。


それなのに、腕の、体の震えが止まらなかった。


わけのわからない恐怖で、身体中が震えた。


当事者でない俺でさえ、こんなに恐怖に駆られるのだ。


当事者の大西さんのことを考えると・・・彼女の恐怖はこんなもんじゃないだろう。


この手紙を見て、一体彼女は何を思って・・・何処にいるんだろう・・・


どこに・・・!?


その瞬間、俺は息を飲んだ。


「おいっ!大西さん、いつ頃帰った?」


残っている人に聞くと、その人は少し考え込んだ。


「青木さん達の打ち合わせが終わる、少し前ですよ?・・・今から30分位前かなぁ?」


30分?ったったの?


打ち合わせが終わるちょっと前まだ、ここにいたのか?


てっきり終業と同時に帰ったと思っていたのに!


そんな時間までいたなら、どうしてもう少し待っててくれなかったんだ?


30分前って言ったら、もう外は真っ暗だし、比較的治安の良い地域とはいえ、不審者だって増える時間だ。


あんな脅迫を受けている彼女が、こんな夜遅い、暗い夜道を一人で歩くなんてっ!危険すぎる!!


俺は急いで帰り支度を整え、挨拶もそこそこに事務所を後にした。


今まで感じた事も無い程の胸騒ぎと嫌な予感しか、感じなかった・・・





事務所から駅までの道すがら。


歩くのももどかしくなって、気がつくと、駅までの道を走っていた。


時間ももうずいぶん遅くて、人もまばらだった。


いつも・・・ここ何日も、残業の時は大西さんと一緒だった。


だからあまり気にしなかったけど・・・一人でこの時間、この道を歩くと、たったそれだけなのに、ひどく怖い。


まして、彼女は俺よりも年下の女。きっと今の俺以上に、怖いにちがいない。


暗い夜道が怖い、と言っていた彼女。何もなければそれでいい。でも・・・


何もなければ、“昨日こんな事があったんだぜ?”と、彼女にランチの時にでも話して、笑い話にでもなればいい。


でも・・・・そうじゃなかったら・・・?彼女に万一のことがあったら?


事務所の前の道でさえ、普段は人通りが多いはずなのに、今日に限って閑散としていた。


そして、事務所と駅までの距離の、丁度中間点位間で差し掛かった時・・・


歩道に、何か黒っぽい、大きなものが落ちていた。


ちょうどそこは、街灯の死角になっていて、そこだけ暗く見えた。


「・・・・」


俺はそっと近づいて、その落ちている“何か”に、そっと手を触れた。


「っひっ!」


それが“何か”わかった瞬間、俺は情けない声をあげていた。


人が・・・うつ伏せになって倒れていた。


黒い長い髪はぐしゃぐしゃになっていたし、着ている服も所々引き裂かれていて、しかも裸足だった。


汚れた身体の所々に、殴られたような痣や、ナイフで刺されたような傷があった。


けど。


見間違えであって欲しい。他人の空似だと思いたい!


さっきまでの嫌な予感が、外れていて欲しい!!!!


でも、そんな、祈りにも似た想いとは裏腹に、目の前の女性は・・・


見間違える訳ない!ここ何日も、隣で仕事をしている彼女を、俺が見間違えるわけがない!


「おいっ!しっかりしろ!・・・大西さんっ!」


彼女を抱き起こして揺すってみたけど・・・返事はなかった。意識を失っているのか、ピクリとも動かなかった。


抱き起こした彼女の身体は冷たくて、一瞬死んでいるのかと錯覚を起こすほどだった。


俺は着ていたスプリングコートを彼女の身体にかけてあげて、携帯を取り出した。


救急車を呼ぶために。


そして、自分の携帯をポケットにしまおうとして、不意に、彼女の倒れているすぐ手元に落ちている携帯を見つけた。


暗くて分からなかったけど、見覚えのある色と形だった。


真新しい、飾り気のないパープルカラーの携帯・・・大西さんの持ち物だった。


俺は、一瞬躊躇してから、その携帯を開けた。


携帯はロックされておらず、開けた途端、いきなりメールの文面が見えた。


それを見た途端・・・俺は怒りでその携帯を握りしめた。


【警告を無視するからだ。

ごちそうさま。

これで二度とリュウには会えないだろう。

いい気味だ。

お前みたいな汚れた女、リュウが相手にする訳がない

二度と姿を現すな! 】


「なんて・・・・事・・・・」


それを読んだ途端・・・


このメールを送った奴も、彼女をこんな目に遭わせた奴も、全員ぶっ殺してやりたかった。


そんな思いを抱えながら、冷たいアスファルトに倒れたままになっている大西さんを、そっと・・・・抱きおこして、抱きしめた。


彼女の身体は冷え切っていた。その身体を、少しでも、俺の体温で、温めたかった。


辛いのは、痛いのは彼女のはずなのに。


涙が止まらなくなった・・・


「誰がこんな事っ!!!!」


怒りで、声さえまともに出ず、出した叫びだって、言葉になっていなかった。





救急車の音が、辺りに響き始めた。だんだんと大きくなって行くサイレンの音を聞きながら、俺はやっと、冷静さを取り戻した。


そして、そのサイレンが、これ以上ないほど大きく聞こえたかと思うと、突然ぴたりと止まった。


気がつくと、俺達のすぐ側には救急車が止まっていた。あの独特な赤いライトの点滅が、暗い道でやけに明るく見えた。


救急車の中から、担架を持って出てきた救急隊員に事情を話すと、彼女を担架に乗せて、救急車に乗せた。俺もその後を追うように救急車に乗りこんだ。


そして、救急隊員に、搬送先の病院の名前を告げられたとき・・・俺は、とある病院を指定した。


「区立総合病院に搬送できますか?」


この病院には兄が勤務医として勤めている。たしか今日は夜勤で今、病院に詰めているはずだ。


救急隊員がすぐに手配してくれて、すぐにその総合病院へと向かった。




病院に到着すると、そのまま救急患者の処置室へと通された。俺は付き添っていたけど、中には入れて貰えず、廊下のベンチに座ったまま・・・ただ時間だけが過ぎていった。


やがて、処置室から白衣を着た医師が出てきた・・・


「よう、隆哉」


医師の顔は複雑そうだ。今の立場は医師とその患者の付き添い。だけど。実はこの医者は俺の実の兄だ。


青木友哉。ここの外科医だ。


俺は兄のマンションに居候しているので、実際毎日顔を合わせているが、兄は夜勤も多いので、ゆっくり顔を合わせる事は稀だった。それだけに、こんな形で顔を合わせるのはお互いに気まずいものだ。


でも・・・俺にとって1番信頼できる医者が、この兄だった。


「お疲れ、兄さん。忙しいのにごめん。仮眠中だったんだろ?」


「いいって、仕事だ」


そういって、少しだけ笑った。でもその笑みは一瞬だけで消えた。今はそんな場合ではない。


「どういう状況だったんだ?」


そう聞かれて、俺は知ってることを全て話した。数日前から届いている脅迫状の事、俺は残業で、仕事が終わったときには彼女はもう居なかったこと。不安になって後を追ったら、彼女が倒れていたこと・・・


「・・・病院から、警察にも、連絡するか・・・」


俺は頷いた。脅迫状の事にせよ、実際に襲われた事にせよ、警察に届けるべきことだ。


「でさ、彼女の容態は?」


俺がそう聞くと、兄さんは軽いため息をついた。


「刃物で何カ所か、刺されている。あと、打撲・・・これは多分、殴られた跡だな。


傷や打撲の数からして・・・相手は複数。それで・・・言いにくいんだけどさ・・・」


そこまで言うと、兄は俺の顔をじっと見つめた。


「なんだ?」


「・・・お前はさ・・・あの彼女とつき合ってるのか?」


それは、興味本位に聞いているように聞こえなかった。が、そう聞かれた途端、心臓が前触れもなく跳ね上がった。


「いや、そういうわけじゃ・・・彼女は職場の後輩でっ・・・」


慌ててそう答えたけた。本当のことだ。彼女とは別に・・・そういう仲ではない。


そりゃ、一緒にランチを食べたり、残業の時は一緒に帰ったりするし、席は隣だから仕事の話はする・・・確かに仲は悪い方ではない。でも・・・恋人とか、特別な仲ではない。


「そう・・・か・・・・」


「一体何なんだよ!彼女、どうしたんだ?」


思わず俺は兄の両肩を掴んで揺すった。兄はその俺の腕を止めた。


「落ちつけ!」


低い声だった。でも、その声で・・・何となく判ってしまった・・・事態が、俺が考えている以上に、深刻だと言う事に・・・


彼女を見つけたから、ずっと感じている、嫌な予感・・・その予感が、的中するような、気持ち悪さ・・・


どうせ的中するなら、もっと楽しい予感だったらいいのに・・・


「・・・彼女・・・強姦されてる・・・多分、複数で・・・よってたかって・・・」


聞かされた瞬間・・・目の前が真っ暗になった。


「それ・・・どうしてっ・・・・」


「それに、これが・・・初めてじゃないんだ・・・」


「どういうことだよ?」


兄は、更に言いにくそうに何かを口ごもっている。


「まだ・・・何かあるのか?彼女、一体・・・」


上手く言葉にさえ、ならなかった。


「教えてくれ!彼女・・・今まで何されたんだ?どんな仕打ち受けてるんだ?」


兄がここまで言いにくそうにする事なんて、よっぽどな事だ。単なる怪我の状態を付添に話す・・・それだけでは済まない何かが・・・彼女にあるのだろう。


「・・・ゆっくり話すか?こっちに・・・」


「彼女、平気なのか?」


当直医が急患の患者を放置して処置室から出て行くのは問題ではないのか?


「ああ。怪我の処置はもう終わった。今は精神安定剤で眠ってる。念のため、今夜は入院してもらう・・・あと、病院から自宅の方にも連絡した。家族もこっちに来るだろう・・・


それとは別に・・・話がある」


兄はそういうと、処置室の隣にある部屋に俺を通した。そこは、一見、普通の診察室のように見えた。医師の座る椅子と、患者の座る席・・・兄と俺は、それぞれの場所に座った。


「実は・・・一ヶ月位前、あの子・・・ここに担ぎ込まれたんだ。


今日みたいな、深夜に、さ」


兄の言葉に、俺は、無意識に息を呑んでいた。


「今日と同じ。酷い暴行と・・・強姦。怪我は、腕に刃物で切りつけられていた。まだ、腕には傷が残ってるはずだ」


その瞬間、彼女が入社した日に見た、あの腕の傷が脳裏を過ぎった。


「以前にも襲われてんのか?」


「ああ。その時も警察に通報したけど、目撃者皆無。未だに犯人は見つかってない。・・・まあ、最近はこの辺も物騒になってきたしな・・・」


彼女に届いた脅迫状・・・今回はその相手に襲われたとして。じゃ、以前襲われたのは?


「今回の犯人と、以前襲った犯人が、同じ人って可能性・・・あんのか?」


「前に襲った奴もまだ見つかってない。だから、その可能性はあるな。警察に捜査して貰わないと、何とも言えないな・・・」


同時に兄さんの手元の内線電話が鳴り響いた。兄はそれを取ると、二言三言、話をして切った。


「警察が、明日、大西さんの事情聴取の為に来る。お前の個人情報も、警察に教えたから、会社に警察が来るかも知れない」


「判った。・・・それと、ご両親は?」


「今、こっちに向かってるらしい。お前も、ご両親が来たら、帰っていいぞ。

後のことは引き受ける」


「判った・・・・でも・・・兄さん」


帰って良い。そう言われたけど、一度くらい彼女の顔を見て帰りたい。


「大西さんに、会えないかな?・・意識内のは判ってるけどさ・・・」


俺の言葉に、兄さんは頷いた。


「いいよ。477号室にいる。行き方・・・判るな?」


俺は頷くと、立ち上がり、ドアへと向かった。


「兄さん、いろいろ・・ありがと」


「気にするな。これも仕事だ・・・でも・・・隆哉?」


兄さんは少し顔を曇らせた。


「何だ?」


「・・・大西さんは・・・お前の、その・・・大切な人なのか?」


腫れ物に触れるような、とはこういう言い方を言うのかも知れない。今までの兄さんの言葉遣いとくらべたら、幾分優しい感じがした。


俺は首を横に振った。


「会社の後輩だ。・・・それだけだ」


そう、それだけ・・・別に・・・好きとかではない。


「それにしちゃ、お前の顔・・・普通じゃないぜ?」


「普通じゃないか?」


そう聞き返すと、兄さんは大きく頷いた。


「お前がそんなに血相変えてる顔、初めて見たぜ?」


「目の前であんな姿で倒れてりゃ、だれだって驚くだろ?」


それ以上俺は何も言わず、部屋から出た。


何も言わなかったわけではない。これ以上、兄さんに大西さんのことを言われたくなかったのだ。


大西さんのことを言われると、彼女をあんな目に遭わせた奴に対する怒りしか出てこない。


その怒りを収める事が出来ないまま、俺は兄さんに言われた病室へと向かった。


そっとドアを開けると、薄暗い病室だった。


その窓側に設置されているベッドに、大西さんが横たわっていた。


服はぼろぼろだったからか、緩やかな処置服を着ていた。


腕にも顔にも、テーピングがされていて、それだけでも酷い怪我をした事を物語っていた。


そっと、ベッドの側に近づくと・・・


「・・・青木さん・・・?」


掠れた声が、聞こえた。見ると大西さんの目が、薄く開いていた。


「気分は?」


そっと、聞いた。答えなんか、期待していない。でも、話しかけずには居られなかった。


「・・・痛い・・・」


「酷い怪我だったからな」


怪我だけじゃない。


彼女が負った怪我は、きっとこんな表面の、治癒してゆく怪我なんかより、心の怪我の方がよっぽど酷いんだろうな・・・


「もうすぐ、ご両親も来るみたいだから・・・」


「ん・・・」


俺の言葉に、彼女は曖昧に答えた。それは、以前までのぎこちない笑顔とも、あの明るい笑顔とも違った。


作り笑い以下の・・・今にも泣きそうで、笑顔にさえなっていなかった。


その表情が、酷く胸に突き刺さった。


「ねえっ・・・」


不意に、彼女の手が伸びてきて、俺の手を力なく掴んだ。


「何だ?」


「お願いっ・・・少しでいいから・・・」


その声は、今にも泣きそうで、切なくて、今にも消え入りそうだった。


「側にいてっ・・・お願い・・・一人にしないで・・・」


その腕は、がたがたと震えていた。それだけで、彼女がどれだけ怖い想いをしたのか・・・そしてその想いを、たった独りで必死に耐えてきたに違いない・・・


暗い夜道が嫌いだと言っていた、電話が来る度に腕が震えていた。脅迫状が来たときも、酷く怯えていた・・・どうしてもっと早く気づいてあげられなかったんだろう。


一人で、耐えていたことに・・・彼女が、何か大変なことに巻き込まれている、という事に・・・


「なんで・・・何にもいわねぇんだよっ」


たった独りで耐えてきた、彼女。


その小さな背中を、震える肩を・・・


抱きしめてあげたかった。


「言ってくれよ・・・全部・・・そうしたら・・・」


言ってくれたら俺は彼女を助けられたのか?それは判らない。


でもそれ以上に、こんな大切な事を、一番近くにいた俺に話してくれなかった、憤りにも似た想いと。


守ってやれなかった、という自分の非力さ、


職場で1番側にいたのに、頼られていなかった、という、失望にも似た想い・・・


彼女の伸ばしてきた腕を、両手で握り替えした。その細くて白い指に、俺の指を絡めながら・・・


その全ての想いをひっくるめて、


彼女を守りたい、と思った。


彼女を苦しめる、全てから、彼女を守りたい。


そして、また、あの笑顔を見せて欲しかった・・・




やがて、ご両親が病室に入ってきた。


血相を変えて入ってきたご両親に、軽く挨拶だけして、俺は病室から出た。ご両親も、俺どころではなかったのだろう。


病室を出て、エレベーターの方に向かって歩いた。


廊下は、病室より少し、明るかったけど、昼間の病棟の明るさほどではなく、当直のいるナースステーションの部屋だけが、不自然に明るく感じた。


そのナースステーションの側に、人影が見えた。


こんな深夜、面会時間なんかとっくに終わっている。それなのに人がいるなんて、それだけで妙だった。


近づくと、何やら看護士さんとやりとりをしていた。見るともなく、その人の横顔に目をやると・・・


一瞬、信じられなかった。


知っている人が、そこにいたから・・・そして、ここにいること自体が、ありえない筈の人だったから・・・


「・・・大沢さん・・・?」


その人を呼んでみた。


すると、その人はこちらをくるりと振り向いた。


俺は一体、どんな顔をしてこの人を見ていたんだろう。きっと、凄く驚いて彼を見てしまったのだろう。


驚きで、名前以外の言葉さえ、出てこないほどだった。


大沢さんと大西さん、接点らしい接点が見当たらないから・・・


確かに、この前、大沢さんと大西さんが社内で会ったときは、お互い知り合いみたいだったし、大西さんも、以前の事件?の時に大沢さんと知り合ったって言っていた。


実際、あの大西さんと大沢さんが知り合い、というのも、何処かそぐわない。偶然以外の接点など思いつかないほどだ。


それにしたって、彼女が事故に遭ったのはほんの数時間前。情報が大沢さんの所に行くのが、早すぎる!


けど大沢さんは、いつも通りの、口元だけの笑顔を浮かべて俺を見ていた。


「・・・やあ、こんばんは。青木君」


「ど、どうしてここにいるんですか?」


「・・・大西さんの事、連絡を貰ってね。直接会って話が聞きたかったんだ・・・」


静かな声で、そう言っていた。


「どっかからそんな情報が入ったんですか?だって・・・ついさっきですよ!」


大沢さんの落ち着いた声とは対象的に、思わずそう叫んでいた。


「青木、声がでかい。ここ病院だぞ」


そうたしなめられて、俺は思わず手で口を抑えた。ナースステーションの看護士さんが、少し冷たい目で俺を睨んでいる。


けど、大沢さんはそれ以上何も言わなかった。


大西さんはついさっき、病院に運ばれたばかりなのに、この事は警察にしか話していないはずなのに!どうしてこの人が知ってるんだ?わざわざこんな時間に病院にかけつけるんだよ?


「愚問。

それじゃ、な」


全ての問い・・・大沢さんは、俺の存在とか、今の時間とか、他の様々な事、全くお構いなしに、病室の奥へと歩いて行った。


時間も時間、本来ならこんな非常事態でない限り、面会なんか出来ないはずなのに。ナースステーションの人も、彼を咎めることがなかった。


「愚問って・・・

一体何だよ!」


呟きは、静かな病棟の廊下に響いて聞こえた。


まるで、全ての事の、蚊帳の外に置かれているような、たとえ守りたいって思っていても、それを拒絶されているような、嫌な気分になった。





翌日。


会社では、大西さんが襲われた事件で持ちきりだった。


この事務所の近辺は、比較的治安が良くて、誰かが襲われる事なんかなかった。


それだけに、こんな事件が身近に起きた、という事で、社内に不安定な空気が流れ始めているようだ。


特に、女性社員の動揺は計り知れない。唯一平然としていたのは、女性の仲で唯一の既婚者、五十嵐さんだけだ。


「こんな既婚の年増、襲う馬鹿はいないでしょう!」


五十嵐さんはそう言い切った。


「年増って、まだ三十ちょっとでしょ?それに、何かあったら大変ですよ!」


「私のことより、若い子達の方が心配よ!みんな嫁入り前よ!しばらくは、定時で上がれるようにしてね」


「それじゃ、仕事量減らしてくださいよ五十嵐さんっ!今、月末でてんやわんやなんだから!」


「それは社長に言って!」


女子社員達の、冗談とも本気ともとれる会話を聞き流していると、桜さんと憲一さんが事務所に入ってきた。


「おはようございます!」


桜さんにみんなが挨拶をすると、桜さんは俺の姿を見つけて小走りに近づいてきた。


「おはようございます、桜さん」


「おはよう、青木君・・・話聞いた。昨日、大変だったんだって?」


「はい・・・大西さんが・・・」


俺が言いかけると、桜さんが頷いた。


「夕べ、大沢先輩からメールもらって、びっくりしたの」


ここでも大沢さん・・か。あの人は一体何処でこの情報を拾ったんだろう?


桜さんの口ぶりから、桜さんが教えたわけではなさそうだし、一体・・・


「それでね、そのことで、午前中、大沢先輩が来るから、来たら憲一さんに知らせてくれる?」


「あ、判りました。でもなんで・・・」


そもそもなんで、この一件に大沢さんが絡んでるんだ?あの人には関係ない筈なのに。


なんか蚊帳の外みたいな気分がして、少し嫌だった。


昨日まで、あんなに近くにいた大西さんなのに、今は、俺だけが1番遠くにいるような、少しもやもやした気分だった。


「ねえ、桜さん・・・大沢さんって一体・・・」


何者なんですか?


どうして、大西さんの事件を知ってるんですか?誰が教えたんですか?


そんな全ての問いをぶつけようと口を開いたとき・・・


「青木!社長が話があるって」


憲一さんが、突然声をかけてきた。俺は慌てて席を立った。立った瞬間、座っていた椅子が、ガタン、と音を立てた。


「昨日の事件の話、聞きたいんだってさ」


「あ、はい。すぐ行きます!」


俺はデスクの上の書類を手早く片付け、軽く身なりを整えてから、社長室へと向かった。




社長室には、社長が一人で俺が来るのを待っていた。


「失礼します」


「ああ、忙しいのに悪いな・・・座ってくれ」


そう勧められて、俺は来客用の応接セットのソファに腰掛けた。


この部屋には殆ど入ったことがない。このソファも、初めて腰掛けた。思った以上にふかふかだった・・・・けど、今はその座り心地を楽しんでいる場合ではない。


「昨日の大西さんの件なんだが・・第一発見者は君だったんだってな」


「はい」


俺は正直にうなづいた。


「悪いが・・・その時のこと、聞かせてくれないか?」


社長に勧められるまま、俺の向かいに座ると、昨日の事件の詳細を話した。


数日前から、大西さんに届いていた脅迫状の事、


昨日、帰りが遅かったこと。


心配になって、帰り道を走ったら、彼女が倒れていたこと・・・


そして、携帯に残っていた、彼女宛の脅迫メールの事も・・・


全ての話を終えると、社長は大きくため息をついた。


「社長・・・大西さんは、どうして脅迫なんかされてるんですか?


社長は、何かご存知なんですか?」


「・・・・・・」


社長は、俺の顔を見ながら、俯きがちに何かを考えているようだった。


「大西さんから聞きました。


大西さんのお父さんと社長は知り合いだって、そのツテでここに就職したって言っていました。


彼女がここに来る前に何があったか、社長は何かご存知なのですか?」


昨日、病室で、不安な顔をして俺の腕に縋ってきた彼女を、


本気で守りたいって思った。


でも・・・一体どうやって?何から?どうしたら守れるんだ?


そんな答えが何処にもない。


でも、社長なら・・・何か知っていそうだった。以前から彼女を知っている、そして事情をしっている社長なら!


「お願いします!

彼女のこと、何でもいいんです!教えて下さい」

そう言って、頭を下げた。


「しかし・・・なあ・・・」


社長の口は堅い。


社長の事だ。無闇にもったいぶって話そうとしない訳ではないだろう。


大西さんや俺の身の安全とか、社員のプライバシーとか、そういった事も考えて、言おうとしないのだろう。


だから、俺は切り札を切る事にした。


「俺・・・昨日の事件の第1発見者なんです!

あんな所目撃して・・・何も知らないなんて嫌なんです!

もう、目の前で仲間があんなひどい姿になってる所なんか、見たくないんです!」


今で脳裏に焼き付いている。血だらけの大西さんがぼろぼろになって倒れているシーン。


思いだしただけで寒気がする。寒気だけじゃない。何とも言えない、無力感・・・


抱き上げた彼女の、ぐったりとした身体の重たさが、腕にも残っているのだ。


もう、あんな想い、二度とゴメンだ。


ましてや、どうしてあんな事になったのかさえ、知らされないのはもっと嫌だ!


「お願いします!社長!!」


俺はもう一度、社長に頭を下げた。


「彼女について、事件について・・知ってること、教えて下さい!!!」


もう、藁にも縋るような気分だった。


「・・・・・・」


しばらく、社長室には重たい沈黙が走った。


社長は、しばらく、頭を下げたままの俺をじっと見つめていた。


それは、何か考えているような、心の何処かで何かの決心をしているようにも見えた。


そして・・・社長は、迷いながらも、重たい口を開いた。


「・・・判った。

でも、他言はするな」


社長はため息と同時にそう言うと、一息ついてから、ゆっくりと口を開いた。


「七海さんは・・・

尚子の、橘尚子の友達の・・・娘さんだ」


橘尚子・・・とは憲一さんのお母さんだ。ピアニストで、この事務所に所属しているピアニストだ。


桜さんの師匠にあたり、日本のクラシック業界の重鎮と言われている一人だ。


俺がここに就職する前、大学生の時、ここの事務所のアルバイトで、橘尚子のコンサートスタッフをやったことが何度もある。


「七海さんのお父さんはジャズピアニストで、尚子とは、仕事上もプライベートも親しい。そんな経緯で、私も七海さんのお父さんとは親しくさせて貰っている。


家族ぐるみで付き合いがあってな。


私には娘がいなかったから、七海さんのことは、実の娘のように思っていた」


不意に、社長の表情が柔らかくなった。


「七海さんは・・・子供の頃から内気で大人しくてな。年の離れたお姉さんの後ろに隠れているような、シャイで目立たない子だった。いつも、人の影に隠れているような子だったけど、暗いとか、陰気な様子はなくて、いつもニコニコ笑っているような子だった」


ふっと、そんな彼女が目に浮かび、自然、俺も心がほぐれた。


彼女も、俺の隣の席で、ぎこちなくだけど、笑っていたから・・・


「七海さんには年の離れたお姉さんがいて、桜と同じ高校の二年先輩だったんだが・・・数年前、新婚旅行先で事故に巻き込まれて、旦那さん共々、亡くなった。七海さんが大学生の頃だった。


そんなこともあったせいか、七海さんの両親は、彼女に対してちょっと過保護で、神経質になっていた。


大学を卒業して、一般企業で、普通に働く真面目で平凡なOLになった。


素直でおとなしい、誰かから恨まれる事もない。浮ついた噂一つない娘だった。


お父さんの音楽の才能を受け継いだわけではなく。華やかな舞台などには縁のない、堅実な世界を普通に生きてきた子だった」


社長の表情が、少しだけ和らいだ。


「就職して、親元を離れて暮らし始めたけど、相変わらず地味に、静かに暮らしていたみたいだ・・・


でも・・・・去年の、今頃だったか・・・


ある男と付き合い始めた」


「・・・男、ですか?」


社長は頷いた。


大西さんと、男?


全く繋がらなかった。


そりゃあ、彼女は外見だって悪くはない。素直な知的美人といった雰囲気だ。社長の話じゃかなり晩生みたいだけど・・・軽々しく男と付き合っている彼女の姿が全く想像できない。


そう・・・男の匂いが全くしないのだ。


普通、異性とつき合っている人間は、男女問わず、独特な異性の匂いがする。それは例えば色気であったり、ちょっとした身のこなしだったり、そういった物だ。その匂いの強い、弱いはあるけど・・・彼女からはそう言った匂いが全くしなかった。


でも、そう思う反面・・・


脅迫状にあった“リュウ”という名前。


“リュウと別れろ”という言葉。


“ERIS”のリュウと、彼女はつき合っていたんだろうか・・・?


俺の思いに関わりなく、社長の言葉は続いた。


「どこで知り合ったかも解らない。接点も繋がりもない男だ。大方どこかでナンパでもされたのだろう、と思ってたのだが、彼女の性格上、ナンパされたからといって、その男にほいほいくっついて行ったり、ましてやそんな男と付き合うなんて、あり得ないことだった。


どういう経緯かは全く解らない。


気がついた時には、もうすでに付き合っていたらしい」


・・・余計に、想像がつかない。あの大西さんが、見ず知らずの男と簡単に深い仲になるなんて・・・想像の外だ。


彼女と何度かランチしたり、一緒に帰ったりもしたけど、そういった色めいた話は皆無だった。色仕掛けされたこともないし、俺が彼女に色仕掛けすることもなかった。・・・まあ、その気も全くなかったけど・・・


「でも、・・・その男とつきあい始めてから、いい意味で七海さんは変わった。


それまでは、地味で大人しい子だったけど・・・楽しそうに良く笑うようになった。人見知りな傾向があったけど、以前より少しずつだが、社交的になっていった。


きっと、その男の影響だな、と私達は思った。実際、その頃の七海さんは、幸せそうだった」


一体誰なんだろう・・・心のどこかで、その男に思いを馳せた。


あの七海さんがそこまで惚れ込む男・・・内気で大人しかった彼女を変えた男・・・


彼女の心に触れ、彼女のあの指先が触れ、抱きしめた存在。全てを許した存在・・・


誰か判らない。でも、その見知らぬ男に、妙な嫉妬を感じた。


「・・・二人の仲は、順調に見えた。


ただ、その男には・・・七海の他に、他に深い仲の女性がいたらしい。・・・まあ、そのことに彼女の両親が気づいたのは、もっとずっと後になってからなんだけどな。


七海さんは、その男とつきあい始めてから、たびたびストーカー被害に遭っていた。


彼女の手元には、嫌がらせとも思える手紙やメールが多数、届くようになっていた。


もともと、七海さんは、信頼できる友人知人以外には、メルアドや住所を教えたりしない。


それなのに、メアドも、住所も、ばれているかのように、嫌がらせの手紙やメールは、とどまるところを知らなかったらしい。


七海はどんどん疲弊して行ったが、その理由を、両親にさえ話さなかった。恋人や友人にさえ、迷惑をかけると思ったのか、一人で抱え込む道を選んだ」


「彼女らしいです」


俺は、ぽつりと言った。彼女も、俺には、大切な事を何一つとして話してくれなかった。


それは、今思い起こせば、俺に余計な心配をかけないため、彼女の優しさだったのかも知れない。


「・・・彼女がここにくる少し前。


残業で退社が遅くなった七海さんは。


会社から出て、駅へと向かう途中の道すがら、何者かに暴行された・・・」


社長は、ぽつりと、小さい声で言った。


それは、昨日、病院で兄さんが言っていた言葉と、リンクした。


(2週間前、同じように襲われて、彼女が病院に運ばれてきた・・・)


「その時は・・・大沢さんが偶然、道に倒れている彼女を見つけて・・・救急車を呼んでくれた・・・そう、昨日の君みたいに、ね」


そんな・・・それじゃあ・・・彼女は・・・


「事情を知った七海さんの家族が、私を頼って、この会社に・・・半ば避難させるように入れたんだ。

その時、既に、七海さんの家にも、職場にも、嫌がらせの手紙が後を絶たなかったから・・・

一人暮らししていた家も引き払い、会社も辞めざるを得なかった・・・」


そんなことがあったのか・・・


「それが・・・私が知っている七海さんの全てだ。

彼女がこの職場に居ることは、家族以外、誰も知らない。

もちろん、七海さんとつき合っていた恋人にも・・・何も知らせていないはずだ。

携帯電話も、機種も番号番も変更させた。

脅迫メールが彼女の所に届かないように、な。

そうしないと、精神的に疲弊していた彼女のこと・・・これ以上追い詰められたら・・・」


事情を知って・・・


気がついたら、俺は泣き出しそうになっていた。


そして・・・


そんな過去を背負いながらも笑っていた彼女の笑顔がふっと脳裏に過ぎった。


ぎこちない笑顔だったけど・・・


どんな思いで、笑っていたんだろう?


酷い事故に遭って、彼氏と引き剥がされて、離れた所で出会った男相手に。


どんな思いを抱いていたんだろう?


想像も付かない・・・



でも、それでも・・・・




前の彼氏が誰だろうと。


ストーカーの正体が何だろうと・・・


俺が彼女の笑顔を、守りたい。


そう思った・・・・・・


もしかしたら、それは、同情だったのかも知れない。


昨日、もしももっと早く彼女と合流出来ていたら・・・という気持ちももちろんある。


でも、そんな、彼女への全ての感情を全部ひっくるめて。彼女に対して思うことは・・・


“守ってやりたい”


という明確な想いだった・・・






社長室を出て、席に戻ると、みんな仕事に取りかかっていた。


桜さんもレッスン室に籠もっているようだ。今日は、午後から教室レッスンの講師の仕事があると言っていたので、午後には居なくなるだろう。


五十嵐さんも、書類を書いたりパソコンディスプレーを見たりと、忙しそうだった。


・・・不意に、隣の空席に、目がとまった。


いつもなら、ここに大西さんがいて、仕事をしている横顔が見れたはずなのに・・・


席が隣だからといって、仕事中そう沢山話をする訳ではない。お互いデスクワークが多い方なので、雑談しているヒマなど無い。それに俺だって、現場に行ったり打ち合わせや会議に出たりで、この席にいるのは1週間のうちの半分程だ。


彼女が居ても居なくても、それほどでもない・・・そう思っていた。


それなのに。


この喪失感は何だ?


ぽっかりと胸に穴が開いたような・・・なんて言葉があるけど、そんなもんじゃない。


喪失感と、虚無感・・・心の内側から、冷たくなってゆく感覚が・・・


「・・・・・・」


俺は軽くため息をついた。その心の感触全てを外に出してしまいたかった。


ふっと思い至って、俺は彼女のデスクの下のゴミ箱に目をやった。そこには、昨日彼女が捨てた、あの脅迫状があった。


ぐしゃぐしゃになっている脅迫状を拾って、デスクの上に、もう一度広げてみた。


すると、パソコンで書かれている、あの文字がデスクに並んだ。



『私の警告を無視したな。

これが最後の警告だ。

さっさとリュウと別れろ。

お前の存在が目障りだ。さっさと消えろ!』



“リュウ”・・・


まさか、“ERIS”のリュウなのか?


一連の脅迫状に出てきている、“リュウ”という名前。


この名前を見た時、俺は“ERIS”のリュウの事かと思った。それ以外に思いつく男なんかいない。


でも。あの芸能人の“リュウ”と、そういった業界に全く興味のない大西さん。


二人の接点が見つからない。



それに・・・何て言ったらいいのか・・・


仮にこの二人が、恋人同士だとしても・・・


この二人の組み合わせがあまりにも、不釣り合いなのだ。


肉食系の、女性にもてるルックスと、独特な男っぽさ、色っぽさを持っていて、遊び人風で押しが強いが、人一倍ストイックで自分に厳しいリュウと。


控えめで大人しい、あんまり遊んでそうには見えない、晩熟な大西さん。


・・・正反対すぎて、かみ合わないのだ。


好きな物も、趣味も全く真逆に見える。おおよそ、リュウが好きな事・・・例えばダンスだったり洋楽だったり、流行のストリートファッションとか、ごついゴールドの装飾品とか・・・と、大西さんが好きそうな、清楚なスーツや、シンプルなライトカラーの私物は、どう考えても相容れない物のように見えた。


「・・・あり得ないよなぁ・・・」


結局、そういう結論にたどり着いた。


ありえない。リュウと、大西さんが恋人同士だなんて・・・なんか違う気がする。


それじゃあ、この“リュウ”って一体誰だ?


俺達の知らない、“リュウ”という人間がいて。俺達の預かり知らない場所で脅迫を受けているのか?


・・・いくら考えても、それ以上先には進めず、俺は頭を抱えながら項垂れ混んだ。




仕事なんか身に入るわけもなく、山積みの仕事は全く減らない。


ディスプレーと書類を眺めているが、手は全く動かなかった。


そんな中。


受付の辺りで人の気配がした。俺の席は、事務所の入り口に1番近いところなので、自然、客が来ると俺が対応することが多い。


対応すると、そこには大沢さんが立っていた。


「大沢さん・・・」


「こんにちは。叶野と憲一さん、いるか?」


ただでさえ、仕事が進まないは、昨日のことでイライラしているはで、俺の機嫌は最高に悪かった。


正直言ってしまえば、対応したくない。速やかにお引き取りしてほしい。でも、そんなことが、この人に対して、まかり通る訳がない。


それに、この人には聞きたいことが沢山ある。


大西さんの事、昨日の病院でのこと。


もしかしたら、大西さんの事を、何か知っているのかも知れない。


「レッスン室にいます。憲一さんは・・・」


確か今、別の打ち合わせ中の筈だ。時計を見れば、もう打ち合わせも終わるはずだ。


「もう、打ち合わせ、終わるはずなので、ちょっとお待ち頂けますか?」


一応、丁寧な言葉遣いを選んだ。


「じゃ、叶野のいるレッスン室で、待たせて貰うな」


彼は俺の返事を待つことなく、迷うことなくレッスン室へと廊下を歩いて行った。


もう、誰も咎めない。それくらい、彼の動きは自然で、馴染んでいる。


色々悩んで、不自然になっている俺の方が、まるで部外者のようだった。


俺は思わず、レッスン室へと向かう大沢さんの背中を追いかけた。


「大沢さんっ!」


大沢さんを呼び止めたくて、まるでたたきつけるように大沢さんを呼ぶと、大沢さんは足を止めて、振り返った。


「なんだ?」


少し呆れたような視線で、俺をまっすぐに見つめた。一瞬、その視線が鋭くて怖くて、足が竦んだ。攻撃的な視線ではない、俺を拒絶しているわけでもない。それなのに・・・


・・・いや、違うか。


この人が受け入れているのは、桜さんだけ・・・そう感じた。


この人の内側、心の一番深いところに入り込めるのは、桜さんただ一人だけで、それ以外の人を見る視線が・・・この視線だ、ということか


「・・・・・昨日・・・どうして病院にいたんですか?」


「どうして?とは?」


「大西さんとは・・・知り合いなんですか?」


大沢さんは、彼女が事故に巻き込まれたとき、家族同様、真っ先に病院に足を運んでいた。・・・単なる浅い友達で、そこまでするとは思えない。という事は、大沢さんと大西さんの関係って一体?


「青木さんには・・関係ない事だ。首を・・・突っこまない方がいい」


「か、関係ないって! 大西さん、襲われたんですよ!」


思わず俺は口走った。でも、大沢さんは表情一つ変えないままだった。


「彼女が襲われたことと、俺が叶野に会いに来るのは、別問題だ」


それは、俺の今の、桜さんへの感情と大西さんへの感情を見透かしているようで、俺の内面が軽く抉られたような気分だった。


彼は、それ以上俺に構うことなく、きびすを返して、レッスン室へと向かった。


そのドアまであと少し・・・彼が手を伸ばせば、そのドアノブに触れられる・・・そんな距離だった。


今彼を止めないと・・・



止めないと?


俺が今、大沢さんを止めたいのはどうしてなんだ?


桜さんと二人きりにさせたくないからか?


二人が向かい合っているところを見ていると、イライラするからか?



だったら一言言えばいい。


これ以上桜さんに近づくな、と・・・



でも・・・そんなこと言えなくて。


その代わりに出てきたのは・・・



「大沢さん、大西さんの最初の事故の、第1発見者だったんですよね?」


「・・・ああ」


大沢さんは、こちらを向くと、静かに頷いた。


「その時の話、聞かせてくれませんか?」


少なくとも、俺の問いかけは、大沢さんを桜さんに遭わせるのを遅らせる口実・・・などではなかった。


今は、桜さん云々の事よりも、大西さんの事が知りたかった。


この人だったら、何か手がかりを握っているような気がしたからだ。


いや、絶対に知っている筈だ!


けれど、大沢さんは、俺を一瞥してから、軽くため息をついた。


「話す事はない」


その声は、まるで氷の刃のように冷たく、胸に突き刺さった。


「・・・人が襲われたんですよ!」


「それをお前に話す義理はないはずだ。お前が・・・大西さんの事を守りたいならそうすればいい。

俺には関係ない事だ」


「でもっ!」


「俺は、守るべき人を守っている。

俺にとって・・・叶野桜以上に大切な存在など、ない。

だから、いざとなったら叶野桜を守ることは出来る。

でも、お前やお前の大切な者の事まで守ってやる余裕はない。その義理もない」


にべもなく、そう言い放った。


「た、大切って・・・」


ああ、この人も・・・


この人も、シンさんと同じだ。


桜さんのことが、凄く好きなんだ。


「・・・・大沢さんが・・・叶野さんを守ってるって言うんですか?」


一体何をしてるんだよっ!


時々桜さんに会いに来るだけのお前がっ!


喉まで出かかった言葉をやっと飲み込んだ。


「・・だから・・・俺の保護下で・・・」


そう言いかけて、彼は一瞬、言葉を止めた。まるで、言い過ぎた、といった顔をしたが。それはほんの一瞬で。


彼は、それ以上、何もなかったようにレッスン室にノックもせずに入っていった。



その後ろ姿に、一瞬イラッとした。


本気で、あの背中を蹴り倒したい、と思った。


あの人は、マネージャーの俺を無視して、いつも好き勝手に桜さんの側にいる!


いい加減にしてくれっ!



でも・・・


そんな想いに駆られながら。


それ以上に。


今、俺の心を支配していたのは、大西さんの事だった。


桜さんに近づく大沢さんも腹立たしいけど。


大西さんの事が気がかりだった。



大西さんとつき合っていた男や、彼女をあんな風に傷つけた人間に対する怒りの方が、よっぽど強かった。




やり場のない怒りを収められないまま事務室に戻ると、打ち合わせを終えた憲一さんが事務所に既に戻っていた。


「青木っ。大沢さんが来てるのか?」


「・・・はい・・・今、桜さんのレッスン室にいます・・・呼んできますか?」


何食わぬ顔をしていった・・・つもりだった。でも憲一さんは俺を見ながら、軽く苦笑いした。


「いや、いい。大沢も、桜に用があるんだろ?」


「用って・・・一体何なんですかっ!」


怒りと苛立ちのまま、それを憲一さんにぶつけた。


「・・・気に入らないか?あの男・・・大沢のこと・・・」


心なしか、憲一さんの声は冷静だった。


「いえ、別に・・・そういうわけじゃないです!

でもあの人、こうしょっちゅう我が物顔にここに来て桜さんと・・・一体何話してるんですか?こっちは勤務中なんですよ!」


正論を振りかざして苛立ちを憲一さんにぶつけた。


「お前が騒いでる理由は、それだけじゃないだろ?

廊下であんだけ騒いでおいて、それか?」


「・・・聞いてたんですか?」


「聞こえてきた。打ち合わせ中にな・・・スタッフみんな、笑い堪えるのに必死だったぞ」


「・・・・・・」


返す言葉が、見つからなかった。恥ずかしくて返す言葉さえ、ない。よりにもよって、あれを聞かれたのか・・・


大沢さんが桜さんの側にいる、という嫉妬と、大西さんのことを知っているはずなのに、話を聞かせてくれない、という苛立ち。


それをぶつけていた、ということ、憲一さんはお見通し、というわけだ。


「・・・すみません・・・」


もやもやした気持ちのまま、非を認めて頭を下げて謝ったけど、憲一さんからは咎めるような言葉は出てこなかった。


「大沢さんにも桜にも、何か思うところがあるみたいだから。そっとしておこう。何かあれば、俺かお前に話すだろう。それがないって事は、話すほどの事がまだ起こっていない、って言う事じゃないのか?」


「・・・・え?」


一瞬、何のことを言っているのか、判らなかった。


「あるいは、まだ俺やお前に報告できるだけの事が、固まっていないか・・・

ま、ゆっくり待ってみろ」


意味不明な言葉達を残して、憲一さんは席へと戻っていった。


「・・・・・・」


正直、言葉の意味が判らなかった。


何かあれば話してくれるのか? その“何か”ってのは何なんだ?


今、俺が大沢さんから聞きたいたいことは、大西さんの事だけだ。



「青木君、青木君!」


デスクに戻り、もやもやした気持ちを持てあましていると、五十嵐さんが俺に駆け寄ってきた。


「・・・どうしたんですか?」


一瞬、仕事の話かと思って身構えた。


「・・・青木君さぁ、大沢さんの正体、知ってるの?」


「正体?」


俺がそう聞き返すと、五十嵐さんはうん、と頷いた。


「・・・何です?」


正体、なんて意味深な事を言われて、俺は思わずその話に喰いついてしまった。


「・・・桜さんが、大沢さんの事を“先輩”って呼んでるのは知ってるよね?」


俺は頷いた。


そう、桜さんは、大沢さんの事を、「大沢先輩」と呼んでいる。かならず敬語で話しかけるし、あの人に逆らうことは絶対にない。


ある一定の敬意を持って接している感じだ。


「あの人、桜さんの、高校時代の先輩らしいよ」


「それは知ってますけど?」


そういえばさっき、大西さんのお姉さんも、さくらさんと同じ高校で、先輩だってって言ってたっけ?


「かなり親しい仲だったみたいだよ?

あ、でも、つきあってた、とかじゃなくて、桜さん、本当に、大沢さんの事尊敬してたらしくってね、大沢さんも、後輩として桜さんを可愛がってたみたい」


ある意味両思い的な? と五十嵐さんははしゃいで笑っている。


成程ね。俺は頷いた。


それで桜さんはいつも、大沢さんに対する接し方が他の人と違うのか。妙に納得した。


俺が真剣な顔をしているせいか、五十嵐さんも笑顔を収めて話を続けた。


「それでさぁ、青木君。

“MTVの情報屋”のこと、聞いたこと、ある?」


“MTVの情報屋”。


突然、話がぶっ飛んだような気がした。


それでも、五十嵐さんからそのワードを聞いた途端、俺は言葉を失った。


知らない訳がない。芸能関連の、あるいはMTV絡みの仕事をしていれば、嫌でも耳に入って来る、都市伝説的な話だ。


“MTVの情報屋 ”


この男は絶対に敵にまわしてはいけない。この男は、情報と噂だけで芸能人や著名人を業界から追放出来る力とネットワークを持っている。


事実、この男を敵にまわして、芸能界で生き抜いた人間は誰もいない、とまで言われている。


ただし、この男を味方につければ、どんな情報でも数時間とかからず整えることが出来る。情報料金は法外だが、その情報の質と正確さは保証付き。


高い情報料を支払ってでも「潰したい」ライバルがいるのなら、この男に頼むと、確実だろう。


でも、この情報屋が誰かは、俺は知らない。正体など、考えたこともないほどだ。


一部の噂では、個人の異名などではなく、そう言った情報を扱っている非合法な集団なのでは?とまで言われている程だ。


ただ、芸能人なら、あるいはその関係者なら、この人間の正体を知っている、という。


謎の情報屋・・・


「その情報屋が、大沢さんだって噂だよ」


五十嵐さんの言葉に、俺は返す言葉を失った。


「以前、桜さんと、プロ野球選手と、女子アナとの泥沼関係が週刊誌に載った事があったでしょ?


あれも、裏でその情報屋が・・・つまり大沢さんが動いていた、って噂だよ。


大沢さんが、桜さんがあんまり巻き込まれないように、裏工作した・・・ってさ」


・・・週刊誌の事件。


あれはまだ、俺がコンサートスタッフをやっていた頃。


桜さんが、週刊誌に取り沙汰された。


内容は、とあるプロ野球選手と、MTV所属の女子アナとの泥沼三角関係。


記事によれば、そのプロ野球選手と桜さんは、高校時代からの、10年越しの恋人同士だったが、彼は、その女子アナとも交際していた。二股、って奴だ。


桜さんが、選手の部屋に行った時、たまたまその女子アナと永井選手が一緒にいるところを目撃してしまい、そのまま桜さんは、ショックで入院してしまったとか・・・


もともと、以前からその選手と女子アナは、様々な目撃情報や熱愛報道もあった。選手はその報道を否定していたけれど、業界の間でも、結婚秒読み、とされる程の公認の恋人同士だった。また、その選手が所属する球団と女子アナが所属するMTVも同じオーナーが経営する同族会社、この熱愛を歓迎する空気があった。


その選手は、高校時代から付き合っている女性がいて、女子アナとは付き合っているわけではない・・・とインタビューで発言していた。でも、永井選手の周囲にはそんな女性、全くいなかったので、デマとされていた。


その高校時代からの恋人が、桜さんだ、と暴露し、さらに、彼の部屋での遭遇、修羅場といったスキャンダルだった。


・・・そのプロ野球選手と女子アナはひどいバッシングを受けた。けれど、桜さんは・・・「二股かけられたかわいそうな女」「騙され続けていた」「相手の不倫を知っていて、それでも何も言わずに(プロ野球選手の彼を)想い続けた健気な女」と、同情の声が寄せられた。


やがて、桜さんが退院する頃には、その選手と女子アナの泥沼恋愛の続報だけが延々と流れ、桜さんに関してだけは、まるで何もなかったように静かだった。


本来なら、そんなスキャンダルに巻き込まれたら、周囲は悪いイメージを持つ。それが今後の音楽活動に悪影響を及ぼすと思っていたが・・・そんな事態にはならなかった。


俺がまだ大学生で、ここでバイトをしていた頃のことだけど、その騒ぎを一般の人とは違う場所で見てしまったせいだろうか? スキャンダルやゴシップ記事が、芸能人やそれを生業としている人にとって、どれだけ危険で、命取りになるか、ということを思い知った。


だからこそ、今も桜さんには気をつけて欲しいのだ。彼女自身の交友関係が、場合によったらとんでもないスキャンダルを呼び寄せる可能性があること、ぞれによって、演奏と関係なく、ピアニスト生命が命取りになるかも知れない、という事に・・・


「じゃあ、桜さん絡みの他の報道も、大沢さんが絡んでる、ってことですか?」


「桜さんを助ける方向にね。在学時代も親しかった、かつての後輩を助けてあげた・・・って考えると、辻褄が合うでしょ?」


もしも、五十嵐さんが言うように、大沢さんが“MTVの情報屋”だったら、あの人が、桜さんを守っていたのかも知れない。情報で人を陥れることの出来る人間だ。その逆だって出来る筈だ。


「それじゃ、大沢さんが、桜さんによく会いに来るのは・・・」


もしかしたら、桜さんに、情報伝えに来てるのだろうか?


でも、それだったら、メールでも電話でもいい筈だ。わざわざ職場に顔を出して直接会って伝える必要があるのか?


考えたところで、答えが出るわけもなく、俺は煮詰まった頭のまま、書類と向かい合った。



桜さんがレッスン室から出て来て、事務室に顔を出したのは、それから随分時間が過ぎてからで、彼女は憲一さんになにやら話をすると、今度は二人して事務室から出て行った。


今度は3人で大沢さんと話しているんだろうな・・・そう思った途端、それに呼んで貰えなかった自分が少し惨めになった。


でも、それ以上に、デスクワークに手こずり、・・・そんな余裕、なかった。それが余計に腹立たしかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ