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縁の下に咲く花達  作者: 光希 佳乃子
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第2章


翌日。


約束の時間よりもかなり早くMTVのTV局に行くと、控室には既に桜さんと憲一さんが来ていた。


「おはようございます」


「おはよう青木!」


「おはよう、青木君」


桜さんと憲一さんとそれぞれ、挨拶を交わした。


収録開始時間にはまだかなり余裕があるけど、桜さんの身支度はすっかり整っていて収録開始待ちのようだった。


しまった、遅刻したか?と思って時計をちらり、と見たけど、集合時間よりもまだずいぶん早く、彼女たちより遅く来たことを咎められるような時間ではなかった。


「遅刻じゃないから大丈夫よ」


俺の時計を見る仕草を見て、桜さんは、いつもの、のんびりのほほんとした笑みを見せてくれた。その笑みだけで、周りの空気が暖かいものに変わる・・・


「桜さんたちは早いですね」


「うん、珍しく道が空いてたんだ」


桜さんの家からここまでは、車で一時間程かかる。渋滞に巻き込まれると遅刻する恐れがあるので、いつも想定よりかなり早く家を出るらしい。


でも、こんな雑談ばっかりしてる場合ではない。憲一さんは、スタッフさんに呼ばれて控え室を出て行った。俺もそろそろ仕事を始めよう。


「それじゃ、そろそろスタッフさんに挨拶に行きましょうか?」


「はい」


俺の言葉に 桜さんはそう返事をした。そして立ち上がると 、ん〜〜と伸びをした。そして、歳不相応なほど童顔を収め、代わりに、ピアニスト叶野桜の、クールで大人びた表情に変わった。


彼女がピアノと向かい合うとき、舞台に上がるときは、いつもこの表情になる。あの童顔で可愛らしい雰囲気は何処へやら、今、目の前に居るのは、紛れもない“東洋の至宝”の異名を持つ“ピアニスト 叶野桜”だ。


桜さんはいつも、こうやって、オン、オフを切り替えているようだ。この変化を初めて見たとき、その変貌振りに返す言葉を失った。それ位、別人のようになる。


でも、あの幼い天然風味な桜さんも、目の前にいるクールな桜さんも、俺にとっては同じ、桜さんだ。


俺はそれを見て取ると、彼女と一緒に控え室を出た。




スタッフと共演者に挨拶してまわり、一番最後に、「ERIS」の楽屋の前にたどり着いた。


「ERIS」のメンバーと撮影現場で顔を合わせるのは、これで二度目だ。


一度目は、1年前・・・俺が桜さんの付き人兼マネージャーになって、一番最初のスタジオ収録の時。あの時も、こうして挨拶に行ったけど、俺の方が舞い上がって、どんな話をしたかさえうろ覚えだ。


憧れの「ERIS」に初めて会って、まともに仕事が出来ず、憲一さんに助けて貰ってばかりだった。


でも、今は・・・舞い上がることもなく、ちゃんと仕事が出来る・・・と思いたい。


「ERIS」の控え室の前に立つと、俺は大きく息を吸って、吐いた。


コンコン・・ノックすると、聞き覚えのある声で、「どうぞ」と返事が聞こえた。


「失礼します」


そう言いながらドアを開けると、桜さんの控え室よりも倍くらいスペースのある控え室に、憧れの存在が寛いでいた。


「ERIS」の6人が!


「あ、青木さん、おはようございます」


「おはようございます。今日はよろしくお願いします!」


「よろしくーっす!」


「久しぶりですね!桜さんも青木さんも!一年ぶり・・・ですか?」


「うん、そうなりますね」


「あ、でもマナトと桜さんとはよく会ってるのか?」


「そうでもないですよ。私この前までコンサート漬けで、禁酒中だったから飲む余裕なかったですし」


「また飲みましょうよ!」


6人がそれぞれに挨拶を交わした。それまで楽屋ではそれぞれ、本を読んだり携帯を弄ったり、はたまた鏡の前で振り付けの確認をしたりしていたようだったけど、俺たちが来たことで、みんなそれを中断したようだった。


「桜さん!」


その中の一人、「ERIS」リーダーのマナトが、親しげに桜さんに近づいてきた。


「今日はよろしくお願いします」


「あ、こちらこそ」


マナトは、茶色い髪に、整った王子様風の、万人が認める程のイケメンだ。「ERIS」の中では作詞作曲を手がけ、メインボーカルを務めることも多い。この整った顔立ちで、静かな歌は無論、時としてアップテンポな、ロック調な曲を歌い上げる姿は、見ていても聞いていても凄みがあって鳥肌が立つ。


他にもシリーズになっている連続ドラマにも毎年出演している。「ERIS」の中では一番テレビに出る頻度が高い。


そして・・・この「ERIS」の中では1番、桜さんと仲が良い。本人達は“飲み友達”と言っている。


「この後、打ち合わせですよね?」


「ああ。また、桜さんとコラボ出来るの、楽しみにしてる」


「こちらこそ」


桜さんは、ピアニストの表情のまま、マナトと向かい合って話している。イケメンなマナトと、ピアニストの顔をした桜さんは、とてもお似合いに見えて・・・イライラした。


(あーあ、まただ・・・)


桜さんが、マナトに・・・いや、男と仲良く話しているのを見ると、最近本気で気分が悪くなる。


ただ、挨拶しているだけなのに、それは同じだった。


(一応付き人俺なんだから、桜さんに近づくときは俺に一言言ってからにしろよ!!)


喉まで出かかった理不尽な言葉を必死で飲み込みながら、桜さんを控え室から連れ出そうとして・・・


「あ、CDにする曲のアレンジ、仕上がったんですけど、収録の後、打ち合わせの前、お時間があったら、ちょっと聴いて貰ってもいいですか?CDにして持って来てるので・・・」


・・・そういえば、昨日桜さんが、「打ち合わせ前までにマナトさんにアレンジを聴いて欲しい」と独り言の様に言っていた。彼らのスケジュールを聞いてくることもなかったし、俺もさほど気にもとめていなかった。


イライラに駆られてすっかり忘れていた。


すると、マナトが嬉しそうに乗り出してきた。


「あ、もう仕上がったんですか? 聴いてみたいです!あの曲・・俺が作ったんです。桜さんがどんな風にアレンジしてくれたか、すっげー楽しみにしてたんだ!」


面白いように食いついてきている。


「やっぱりあの曲、マナトさんの作った曲だったんですね!なんか、音がマナトさんっぽかったので、もしかしたら・・・って思って。


アレンジ幾つか作ったんです。どれがいいか、聞いて欲しかったんです!」


桜さんは嬉しそうな笑顔だ。さっきまでのピアニストのクールな表情に、少しだけ、可愛らしい笑顔が混ざって見えた。


そういうことは、事前に俺に言ってくれ!これでも俺、マネージャーだぞ? 喉まででかかったその言葉は、マナトの言葉でかき消された。


「うわ、じゃあ、後でじゃなくて、今聴きたいなぁ・・・あ、そう言えば向こうの部屋に確かピアノがあったから、ちょっと弾いて貰ってもいいですか?」


「え?今??」


桜さんがうろたえた顔をした。それは俺も同じだった。時間があるとはいえこれから収録なのだ。収録前に、別の曲を演奏させるのはどうかと思う・・・いくら桜がプロでも・・・


でもマナトは、そんな桜さんの返事を待たずに、桜さんの腕を掴んで控え室から出ようとした・・・


「桜さんっ」


慌てて桜さんを止めようとしたけど、彼女を止めるのにちょうど良い言葉が見つからない。収録の時間が本当に迫っていればそう言えば済むけど、収録開始まで、準備の時間も含めてまだ時間はたっぷりある。彼女達が他の部屋で曲の打ち合わせをしても・・・差し支えないのだ。


ただ、俺が・・・嫌なだけで・・・


「おいマナト!」


メンバーの一人、リュウが、冷静な声でマナトに声をかけた。リュウは、鏡の前で振り付けの練習をしていたメンバーの一人だ。メンバーで一番沈着冷静で、背が一番高い。ガテン系というか、みるからに肉食系男子だ。


女性人気、という点では、マナトに引けをとらない。けど、イケメンなマナトとは違う、異性を虜にする独特な色気というか、フェロモンを持っている人だ。さらにメンバーで一番ダンスセンスが良くて、「ERIS」のダンスの振り付けは、リュウが担当している。


「辞めとけ。青木さんが困ってんぞ!」


リュウはマナトの顔を見ながら、少し怒ったような、呆れたような顔をしている。


「それに、これから振り合わせだぞ。桜さんとじゃれるのは後にしろ」


その声は、少しイラついているのか、疲れているように聞こえた。そういえば、リュウは、1年間に会った時とずいぶん雰囲気が変わった気がする。


イメチェン、とかそう言った感じではない。余裕がないというか、覇気がない感じだ。以前にはあった、男っぽい独特なフェロモンがあまり感じられなくなっていた。


「そうだ、マナト!抜け駆けは駄目だぜ」


「ずるいぞー俺も桜さんとラブラブしたいのに!」


俺の物思いを打ち消すような、少し軽い声が飛び込んできた。


リュウに合わせるようにそう言ったのは、ケータとリン。二人ともソファに座ってそれぞれ携帯を弄ったり本を読んだりしていた。ケータは明るくて元気なキャラで、メンバーの中では童顔で小柄だ。小柄、といっても、それでも桜さんよりもずっと背が高い。


リンはラップ担当で、甘くて低い声が、女性ファンに人気だ。あの声で囁いたら、落ちない女はいないだろう・・・と言われている。


「そうだな、今日集合が早かったのは振り合わせの為だろ?もう振り付けの先生くる頃だよな?チェックしてもらう約束だからな」


鏡の前で、さっきまでリュウと一緒に振り付けの練習をしていたナオキとタイキが、タオルで汗をぬぐいながらそういった。この二人は、ダンスのキレが良くて、ステージやPVでも、リュウと共にそのレベルの高いダンスを披露している。リュウとナオキ。タイキの3人のダンスレベルはプロのダンサー並だ。


・・・と、「ERIS」のことを語っているけど、俺自身、まともに話したことがあるのは、マナトとリュウだけだ。しかも、俺がファンだということは、立場上、話していない。ここで、私情を挟むのは良くない・・・とは憲一さんに言われていることだった。


それでも、リュウが、マナトの暴走?を止めてくれたことをありがたく思い、リュウには軽く黙礼すると、リュウはふっと、俺にしかわからない程度に笑った。


(かっこいいよなぁ・・・)


実際に会うまでは、「ERIS」のダンスパフォーマンスの上手さとか、歌とかが好きだった。でも、こうして時々、仕事で向かい合うようになってからは、この人達の性格とか、さっきみたいなさり気なく助けてくれるかっこよさに惚れ込んでいた。


男の癖に男に惚れ込む・・・自然にそう思わせてしまう、それも「ERIS」のメンバーの魅力だ。


「それじゃ、今日はよろしくお願いします」


俺と桜さんはそう言いながらお辞儀をして、部屋を出ようとした。


すると・・・


(コンコン!)


ドアをノックする音が聞こえた。


どうぞ、とマナトが言うと、ドアが開き、「ERIS」のマネージャーが入ってきた。


「あ、青木さん、叶野さん、おはようございます!今日はよろしくお願いします」


「こちらこそ、よろしくお願いします!」


お互い、社交辞令的な挨拶を交わすと、ERISのマネージャーさんはメンバを一通り、見た。


「振り付けの先生が来たから、振り合わせ、始まるぞ」


その言葉に、それぞれが返事を返し、ぞろぞろとリハーサル室から出て行った。俺と桜さんも、彼らと一緒に部屋を出た。


彼らが振り合わせをする部屋と、桜さんの控え室も同じ方向なので、自然、一緒に廊下を歩くことになった


そして、とある収録スタジオの前を通りかかった時・・・


「あ、桜さんだ!」


突然、名前を呼ばれて、桜さんはその声の方に振り向いた。


その視線の先には、次の“敵”が佇んでいた。


「あ、シン君!、明日香さん!」


桜さんは再び、嬉しそうににこっと微笑んだ。


「桜さん!久しぶりですね!」


俺たちに目の前には、スラリとした長身と、鋭い意志のある目をした男と、華やかな空気感をまとった、これまた長身の美女が立っていた。


シン君、と桜さんが呼んでいたこの男もまた、整った顔立ちをしている。「ERIS」の、イケメン、マナトと、肉食系なフェロモン男のリュウをたして2で割った雰囲気だ。


女性の方は、明日香。モデル・・・グラビアアイドルとかのモデル、ではなく、れっきとしたファッションモデルだ。桜さんとは対象的な、スレンダーでスタイル抜群な美女だ。


「ERISとコラボなの?」


「うん。これから収録なの。明日香さんは?ドラマ?」


「ううん、今日はバラエティ。ドラマの番宣だから、シンも一緒なの」


明日香さんと桜は、マナトさんの紹介で知り合った友達だ。噂では、「ERIS」のリュウと付き合っている・・・と言われているけど・・・実際のところは解らない。


「おう、俺の分まで宣伝してきてくれ!」


マナトは笑顔でシンと明日香さんに言うと、二人は笑顔でそれに答えた。シンとマナト、明日香さんの3人は、シリーズ物の刑事ドラマにレギュラー出演している。


「ERIS」のリュウとマナト、そして今現れたシンの3人は、この業界でも有名な飲み友達、と言われている。


そして・・桜さんも、このシンさんとは親しいらしい。憲一さんも交えての飲み友達・・・らしい。つまり、シンさんと桜さんの友人関係は、憲一さん公認している、ということだ。


正直、面白くない。


あの憲一さんが、なんでこんな男を公認しているのか、未だに謎だ。


このシンさんは、少し前まで、いろんな女性との噂の絶えない人だった。ドラマに出演するたびに、その共演女優との熱愛報道がとりだたされたり、モデルの何某と一緒に部屋にはいるのを目撃されたり・・・


こんな男と一緒にいて、万一桜さんがそんな熱愛報道の餌食にされたら・・・考えただけで恐ろしい。


げんに、シンさんは以前、桜さんと、とあるプロ野球選手と泥沼な三角関係の噂になったことがある。その時は、奇跡的に大事には至らなかったが。当時俺はまだ付き人になる以前だったけど、あれで桜さんが、少なからずダメージを受けたことを知っていた。そう、それで精神的に不安定になって入院までしたのだ。


その報道の真相は、社員である俺たちにさえ、報道されたこと以上の事は伏せられていて、未だに真相を知っている人は少ない。


そんなことがあったからこそ・・・俺は桜さんを、根も葉もない熱愛報道なんかに晒したくない。まして、スキャンダルや熱愛報道が逆に人気につながってしまうような男性芸能人と桜さんを近づけたくないのだ・・・


「桜さんも、今度、また飲まないか?」


シンさんが、明日香さんと楽しそうに話している桜さんにそう言った。


「ええ、是非」


彼女は笑顔で答えた。社交辞令とも本気とも取れない、曖昧な受け答えだった。


瞬間、また、訳の解らない感情でイライラが湧き出てきた。


俺のあずかり知らない、桜さんの交友関係に、嫉妬に近い感情を持て余し気味だ。


「そういえばリュウ、最近なんか元気ないよね?どうかしたの?」


不意に明日香さんに話を振られて、リュウはハッと一瞬顔色を変えた。


そういえば、以前にリュウと会った時は・・・もう1年も前だけど・・・リュウは、もっと笑っていた。気さくに俺に話しかけてきていた。


でも、さっき控え室に挨拶に言った時は・・・笑顔が全くなかった。俺は単純に疲れているのかと思ったけど・・・


「いや、何でもない」


「そう?ならいいんだけどさ・・・何かあったら、話して?」


明日香さんは心配そうな、少し潤んだ目でそう言った。


やがて、それぞれの収録や振り合わせの時間になり、廊下での雑談は終了した。


「じゃ、桜さん!またメールするね!」


「あ、はい!収録頑張ってくださいね!」


「桜さん、またね~」


桜さんにそう言われながら、シンさんと明日香さんはスタジオへ入って行き、「ERIS」のみんなも去って行った。


廊下には、俺と桜さんの二人だけになり、急に静かになった。


「桜さん・・・あんまりマナトとかシンと親しげにしないでください。


ファンに見つかったら大変だし、週刊誌に知られたりしたら大変ですよ!」


二人きりになったところで、俺は、既に定型句となってしまった言葉を桜さんに言った。いいながら、まるで俺は小姑みたいだ、と、半ば自分が嫌になりそうだった。


「ん、わかってる・・・」


桜さんは、あのいつもののほほんとした柔らかい笑顔でそう答えた。


「でも、シンさんは私の・・・」


桜さんがそう言いかけた時・・・・


“♫~~~~”


聞き覚えのあるクラシックナンバーの電子音が周囲に響いた。桜さんは慌ててポケットをまさぐって携帯を取り出した。


あの曲は桜さんの携帯の呼び出し音。そして曲から察するに・・・事務所からだ。


その途端、妙だと思った。いつも、事務所から桜さん宛に連絡がくる時は、だいたい俺か憲一さんの携帯に連絡が入る。桜さんが仕事中だと出られないからだ。


桜さんは電話に出た。


「はい・・・桜です・・・あ、はい・・え?青木君ですか?はい・・・」


俺?


話の中に俺の話が出てきて、俺は、桜さんの顔を見た。桜さんは苦笑いしながら、携帯を俺に差し出した。


「事務所の五十嵐さんから。青木君、携帯、事務所に忘れたでしょ?デスクで、朝から携帯がなりっぱなしですって!」


え!俺の携帯?


そういえば、朝からやけに俺の携帯、静かだと思っていたけど・・・


「もしもし、青木です・・・」


桜さんから携帯を受け取り、電話に出ると、受話器の向こうから聞き慣れた五十嵐さんのマシンガントークが聞こえた。



『あ、青木君!貴方携帯デスクの上に置きっ放しよ!仕事用の携帯会社に忘れてどうするのよ!』


俺は言葉を失った。


今日は、打ち合わせ書類だけは絶対忘れないように・・・と思っていたけど、まさかそれで携帯を忘れるとは・・・・何て失態だ。


「すみません、すみませんっ!」


俺はひたすら、平謝りした。


『いいけどさ、とりあえず今MTVでしょ?事務所の手すきの人に届けさせるわ』


「分かりました。あ、局への入り方分かりますよね?」


『大丈夫よ!ちゃんと通行証も持たせるわ!楽屋はどこ?』


俺は、桜さんの楽屋番号を教えると、1時間以内に届けるから!という言葉と同時に通話が切れた。


俺は携帯を桜さんに返した。桜さんは苦笑いしている。


「ま、いいか・・・」


携帯を受け取りながら、桜さんは呟くように言った。


「・・・何がですか?」


「さっき、私が言いかけた事・・・」


そういえば、電話がなる前、桜さんが何か言いかけていた。


「何の話・・・でしたっけ?」


「・・・いいや、また今度で」


「???何ですか?」


「何でもない」


「何でもないって!気になるじゃないですか!」


俺は必死で食いついたけど、桜さんはそれ以上、教えてはくれなかった。その代わり。


「さて、じゃ、私もそろそろ指ならし、始めるかっ!」


ぐっと伸びをして、ふにゃり、と柔らかく笑った。


「え? もうですか?」


時計を見ると、まだ収録まで時間はある。今から慣らしをするのは早すぎる。・・・もちろん、慣らしをする為のピアノの準備はもう出来ているが。


「マナトさんが・・・」


桜さんは小さい声で呟いた。


「マナトさんや・・・ERISのみんなが振り合わせの練習を始めてるのよ?私が何もしないで彼らの仕上がり待ってるなんて、彼らに失礼!でしょ?


彼ら以下にだけはなりたくないわ。


彼らが戦闘準備を始めたなら、迎え撃つ準備・・・始めないと、ね?」


一瞬、いたずらっ子のような笑みを浮かべた彼女は、そう言うと、あのピアノの前に座る時の表情になった。


孤高のピアニストの表情に・・・


彼女が本気になった証拠だ。


「じゃ、このままピアノの前の部屋に行きましょうか?」


「うん」


俺と桜さんは、その足で指慣らしの為の、ピアノのある部屋へと向かった。


桜さんの戦いが、始まる・・・





それから1時間後。


憲一さんの携帯が鳴った。憲一さんが出て、二言三言話をすると、憲一さんはその携帯を俺に差し出した。


「大西さんからだ」


苦笑いと共にそう言われて、俺は慌ててそれを受け取った。


「もしもし」


“もしもし、大西です”


「大西さん!」


“携帯、届けに来たんですけど・・・何処に行けば会えますか?”


大西さんは、事務所に勤めて日も浅いし、事務仕事しかしていないから、現場とかテレビ局の事、殆ど知らないらしい。


「今、どこにいますか?」


“関係者口入ってすぐのエントランスです”


「じゃ、俺すぐそこに行きます!」


俺は携帯を憲一さんに返して事情を話して、控え室を後にした。


「もうすぐ収録始まるから、入ってくるときは気をつけろよ」


「はい!」


足早にエントランスへと向かうと、エントランスの隅の椅子に、所在なげに座っている女性がいた。


彼女だった。


「大西さん!」


そう呼びかけると、大西さんは俺に気づいて、俺の方に軽くお辞儀した。その手には、ワインレッドの真新しい携帯がしっかりと握られていた。一目で彼女のものだ、と想像がつく。シンプルな携帯だった。


「お仕事中、申し訳ありません」


「謝るのは俺の方だよ。携帯忘れたのは俺だったんだからさ」


俺がそういうと、大西さんは、俺に携帯を手渡した。


「結構呼び出されてたみたいですけど・・・お友達、多いんですね」


「いや、仕事絡みだよ」


これは嘘ではない。だから持ち歩かないと連絡が取れなくなって困るのだ。


「ありがと、助かったよ!」


そういうと、彼女は楽しそうに笑っている。


「今事務所にいる人、全員じゃんけんでここにくる人決めたんです・・・私負けちゃって・・・」


俺は、思わず吹き出した。それをやっているみんなの様子が目に浮かぶ。退屈な事務仕事を抜け出す絶好のチャンス、きっとみんな、ここに来たかったに違いない。


「そうだ!この後予定は?」


「このまま事務所に戻りますけど・・・急ぎの仕事は特にないです」


「それじゃ、良かったら収録、見ていかないか?」


「え?」


俺の提案に、彼女は少し困ったような顔をした。それに構わず、俺は言葉を続けた。


「この仕事するなら、一度くらい現場見ておいた方がいいよ」


これは、本音だった。


でも、同時に、一瞬、社長が言っていたことが脳裏をよぎった。


“大西さんは、絶対に、現場には連れて行かないように”と。


でも、せっかくテレビ局まで来てくれたのだし。いくら事務職でも、舞台裏や、収録現場の事を知っていないと困ることも多いのだ。


この仕事をする者としての考えを、最優先してしまった。


「でも・・・・」


「今日、桜さん、“ERIS”とコラボなんだ。大西さん、“ERIS”って知ってるか?」


俺がそう聞くと大西さんは首を横に振った。


「名前位しか・・・あんまりテレビとか見ないから、最近のアーティストさんとか、よく知らなくて・・・」


「じゃ、尚更!一度見てみるといいよ。きっと好きになる・・・」


つい、俺自身が好きだから、俺の気持ちを押しつけてしまった感が強かった。それを感じたのは、大西さんが、唖然とした顔で俺を見ている、その視線を感じたときだった。


「あ・・・ごめん!俺・・つい夢中でっ」


よく考えれば、大西さんが好きな芸能人とか、そういったことを俺は全く知らなかった。それに、大西さん自身は、今までのやりとりから、こういった事に疎いように感じた。


それでも・・・仕事にかこつけて、俺の好きな事、知って欲しいと思った。もしかしたら、随分自分の趣味を押しつけていたのかも知れない。


「・・・じゃ、少し、見て行きます」


大西さんは、にっこり笑いながら、そう答えた。最近、彼女の笑顔が、随分自然になってきたような気がして、素直に嬉しくなっていた。


「よし、じゃ、行こうか?」


俺は大西さんを連れて、収録スタジオへ向かった。





収録スタジオでは、今まさにリハーサルが始まろうとしていた。


憲一さんに事情を話して、彼女の収録見学の許可を貰うと、俺は彼女と一緒に邪魔にならないところで収録を見た。


収録は二曲。“ERIS”の新曲と、桜さんとのコラボ曲だった。新曲の方はアレンジはせず、オリジナルで収録する。


新曲は、“ERIS”らしい、アップテンポの歌と派手なダンスパフォーマンスの曲で、この番組で初オンエアされるものだった。


番組オンエアはまだ先だし、発売はまだもっと先だし、勿論俺も聴いたことがない。それを、発売に先立ってこうして聴けるのは、ファンとしてはこの上なく嬉しい事だ。


(やーっぱりかっこいいよなぁ・・・)


“ERIS”のパフォーマンスは、想像以上に格好良かった。さっきまで、控え室でリラックスしていた人達とは別人のようだった。歌って、ダンスパフォーマンスをして・・・その全てが、引きつけられるものだった。


テレビでは感じられない、息づかいとか汗とか、独特な体温、そしてテレビとは違う距離感とアングル、ライティング・・・その全てが、ファンでもある俺にとっては、言葉にならない程凄かった。


ところが。


俺が仕事を忘れて夢中になっている横では。


大西さんの様子がおかしくなっていた。


それに気づいたのは、収録前のリハーサルが始まってすぐだった。


彼女の目は、今までになく真剣そのもので、その視線は、“ERIS”のメンバーに釘付けになっていた。


最初は、ただ見とれているのかと思った。でも、そんな生易しい物じゃない、と気づいたのはすぐだった。


現場は薄暗くてはっきりとは判らなかったけど。


大西さんの顔色は蒼白で、表情はなかった。


そして、彼女の唇が、


腕が


肩が・・・


がばたがと震えていた。


やがて、その目からは大粒の涙が溢れ・・・


やがて彼女は俯き、がくり、とその場に倒れ崩れた。


「っ!おいっ!」


驚いた俺は、リハ中なのにもかかわらず声を上げてしまった。と同時に、崩れる彼女の身体を支えた。


「どうしたんだよ?」


彼女の身体を、近くの椅子に座らせて、異常なほど汗ばんでいる彼女の額をハンカチを充ててあげた。


「・・・ごめっ・・・私・・・・」


彼女は苦しそうに俺を見上げた。俺は、彼女に気づいて騒ぎ出しそうな周囲のスタッフに目配せすると、現場の外に彼女を連れだした。


今が収録本番ではなく、単なるリハーサルだったのが救いだ。収録中じゃ、無闇にスタジオの外になど出られない。


スタジオを出た俺と大西さんは、そのまま近くのベンチに腰掛けた。


相変わらず、彼女の身体はがたがたと震えているし、顔色は真っ青だった。


そのまま彼女をベンチに横にして寝かせ、俺はその側に座っていた。


「っ・・・ごめんね・・・私・・・」


意識がもうろうとしているのか、うつろな目で俺を見ながら、まるでうわごとのように言った。


「いいって!そんなこと!・・・何か飲むか?」


俺がそう聞くと、彼女は首を横に振った。


「大丈夫・・・大丈夫だから・・・」


「そう・・・か?」


実際、全然大丈夫には見えない。でも、彼女は俺の心配をよそに、ふらつく足で立ち上がった。


「おいっ!」


「・・・・事務所に、戻ります・・・」


「平気か?もう少し休んでいけよ?」


正直、今の彼女をこのまま返すのは心配だ。でも、彼女は首を横に振った。


「私は平気だから・・・タクシーで帰ります・・・色々ありがとうございます」


そう言って立ち上がり、俺にお辞儀すると、まるで逃げるようにその場から去っていった。


俺は止めることも出来ないまま・・・彼女の背中を見送った。


(一体どうしたんだ?)


いくら考えても。


答えなど見つからなかった・・・




しばらく考え込んだけど、答えなんか見つかるわけもなく。


収録が始まってしまえば、現場には俺が居なくても収録は進むし、まして今は、桜さんのピアノの収録というわけではなくERISのみのパフォーマンス中で、俺が現場にいなくてはいけない、という危機感もない。それに、現場には憲一さんがいるし、早く戻らなきゃいけない、という訳でもない。


それをいいことに、彼女が横になっていたベンチに座りながら、ぼんやりと考えていた。


「あ、青木さん!どうしたの?」


突然、そう声をかけられて顔をあげた。


ここで明日香さんとシンさんが立っていた。ちょうど収録の合間の休憩時間なのか、二人でスタジオから出てきたところだったらしい。


「明日香さん・・・シンさん・・・」


さっき、“ERIS”のみんなと廊下で偶然会った、あの二人だ。


「どうした?今、桜さん収録中だろ?」


シンさんは怪訝そうだった。


「いや、実は・・・」


俺は事の次第を二人に話した。同じ事務所の人と一緒に収録を見ていたけど、その人が突然倒れたこと。今、帰った事・・・


「あ、もしかしたら!」


すると明日香さんが、不意にポケットから何かを取り出した。


「これ、もしかしてその人のかな?


さっき、そこのトイレで知らない人とぶつかっちゃって。その人が落としてったの。その人、なんか顔色悪かったし・・・落とした携帯は誰のか分からないし、どうしようかと思ったんだけど・・・」


彼女の手元には、真新しい、見覚えのあるワインレッドの携帯があった。


「それ・・・」


間違えない。彼女の携帯だった。飾りっ気のないシンプルな携帯・・・ついさっきまで、彼女の手にあった物だった。


俺は、手元に戻ってきた自分の携帯から、ついさっき手にいれた彼女の携帯番号に電話してみた。すると、その携帯が、控えめな着信音を鳴らし始めた。ディスプレーには、“青木隆哉”という俺の名前まで表示され、俺の番号が彼女の携帯に登録されていることを物語った。


「彼女のです!間違えないです!」


「そっか。じゃ、届けてあげてもらえますか?」


俺は快くそれを引き受け携帯をポケットに突っ込んだ。


「ところでさ、収録は?」


シンさんが、桜たちの収録スタジオのドアを見ながらそう聞いてきた。いつの間にか、ドアの“収録中”を表すライトが消えていた。


「さっきまで“RRIS”の新曲のリハやってました。そろそろ終わる頃だと思います。シンさん達は、収録は?」


「今、スタジオのセットチェンジで休憩中。桜たちの収録、観に来たんだ」


「・・・暇なんですか?」


思った事を正直に口に出してから、思わずしまったと思ってしまったが、もう遅かった。俺の言葉に明日香さんは笑いだし、シンさんは軽く肩を竦めた。


「シンさん、言われてるわよ。なぁに?ライバル出現?」


明日香さんは、どうやらツボにはまったのか、俺の言葉にけらけらと笑っている。その笑顔は、テレビドラマでもグラビアでも見られない笑顔だった。


一方俺はと言えば、怒られるかと思い、内心びくびくしていた。けど、普段、シンさんと桜さんがなれなれしく親しく話している様子を見てイライラしている俺としては、これくらい言ってやりたくもなる。


ところがシンさんは、そんな俺の嫌味など全く意に介さないかのように、笑った。その笑みは少し色っぽい、軽く色仕掛けをかますような表情だった。


「そりゃあ、こういう時間の努力を惜しんだら、堕ちる女も堕ちねぇよ」


「桜さんを堕とすつもりですか?」


「それを決めるのは俺やお前じゃない。桜さんだ・・・んな訳で、収録見学してくな・・・あ、プロデューサーと憲一さんの許可は貰ってるから」


シンさんは、じゃーな、と俺に手を振ると、まるで関係者のような顔をしてスタジオへ入っていった。そして、それについて行くように明日香さんもスタジオへ入っていった。


一方、俺はと言えば、シンさんに対するイライラを必死で収めながら、俺以上に関係者面して入って行く二人を追うように、スタジオへと入っていった。



スタジオでは、「ERIS」のメンバーが収録したばかりのパフォーマンスの映像を、それぞれモニターチェックをしていた。


けど、みんな、何処か暗くて、すっきりしない顔をしていた。


俺は「ERIS」のスタッフの間をすり抜けて、スタジオの端にいる桜さんと憲一さんに近づいた。


「おうっ、大西さん、どうだった?」


憲一さんは心配そうな表情で俺に聞いてきた。


「帰りました。体調悪いみたいでしたけど・・・」


「そうか・・・顔色悪かったし、心配だな」


憲一さんは顔を曇らせた。その横では桜さんも、少し表情が暗かった。


「収録は?どうかしたんですか?」


「今、中断中。お前が居ない間に大変なことになってたんだ」


声を潜めながら、憲一さんはそう言った。


「何があったんですか?」


俺が現場から離れている間?


憲一さんは俺の耳に、そっと囁くように言った。・・・周囲を気遣うように・・・


「“ERIS”のリュウが、NG連発したんだ」


「え・・・?リュウが?」


思わず声を上げそうになった。


「お前が出てった後にな。珍しいだろ?」


珍しい、なんてもんじゃない。


“ERIS”のメンバーはプロ意識がもの凄く高い。収録でNGを出す、なんて滅多にない。大体が本番一回でOK貰える。


中でもリュウのダンスに対する意識はメンバー随一だ。そのリュウがNGを連発するなんて、あり得ない。


「・・・何があったんですか?」


「お前が出て行く前までは、いつも通りのパフォーマンスだった。お前が出て行った後、タイミングがズレまくった。さっきの収録では、パフォーマンス中にケータと接触した。


怪我はないけど、二人とも転倒してな。今、それの怪我の処置中だ」


今日は収録、押しそうだな、と、憲一さんは呟いた。


俺は“ERIS”のメンバーに目をやった。メンバーはモニターを見ながら渋い顔をしている。


俺は、そっと彼らの所へ行ってモニターをそっと覗き込んだ。


キレのあるダンスと歌のパフォーマンスを、モニターの中で繰り広げている・・・けれど、リュウのダンスだけズレているし、いつもと表情も違う。顔色が悪い、というか・・・そう、動揺している感じだ。俺自身、“ERIS”のパフォーマンスは幾つも見ているけれど、リュウがここまで崩れているパフォーマンスは初めて見た。


ディスプレーから少し離れた所にはケータとリュウが椅子に座っていた。接触した際に転んでぶつけたのか、腕や膝にアイスノンをあてている。


見たところ、大事ではないみたいだったので、ほっとした。でも、すぐにダンスパフォーマンスを再開するのは無理だろう。少し、休ませてあげないと、ぶつけた腕や足の負担が大きいだろう。


「どうして・・・」


思わず呟いた言葉に、答える声は何もなかった。


足の処置を終えたリュウは、ため息をつきながら、ディスプレーを覗き込んだ。ディスプレーに接触シーンが映し出されると、暗い顔で顔を伏せ、側にある隅に椅子にどかり、と座り、持っていた水を飲んだ。


ため息をついて、どこか辛そうに項垂れた。


「どうしたんだ?」


リュウに、“ERIS”のマネージャーが近づき、心配そうにそう聞いた。けどリュウはそれに答えず、首を横に振った。


「リュウ、疲れてるんじゃないの?」


見学に来ている明日香さんも曇った表情でリュウの顔を覗き込んだ。


「・・・何か、悩んでるの?私で良かったら、相談に乗るよ?一人で抱え込まないで?」


小さな声でそう言っているのが耳をかすめた。


(そういえば、この二人、つき合ってるんだっけ?)


以前から、そんな噂があった。


「・・・・・・」


周囲の言葉に返事もしないまま、項垂れるリュウに、みんな返す言葉を失った。


「青木くん、ちょっといいか?」


突然、耳元で小さい声で呼ばれた。反射的に振り向くと、そこにはマナトさんが立っていた。


彼は、俺を手招きするようにスタジオの隅へと向かった。


「何ですか?」


仕事の話か、このあとの打ち合わせの話か・・・そう思って身構えたが、彼の表情は、そう言ったことではない事を物語っていた。


「こんな時に悪いんだけどさ・・・青木君」


マナトの顔は真剣そのものだった。つられて俺の顔も真剣になった。


「さっき、青木君の横にいた女の子・・・誰?」


「誰って・・・うちの事務員ですよ?」


一瞬、「手、出さないでくださいよ!」と言いそうになって、さすがにそれは辞めておいたが。そんな冗談が通じるような空気ではなかった。


「・・・名前・・・もしかして・・・七海ちゃん、とか言ったりする?」


「知ってるんですか?大西七海さん・・・先日からうちの事務所で働いてるんです。現場担当じゃないんですけど、忘れ物、届けにきてくれたんです」


マナトさんが大西さんの名前を知っているのは意外だった。けど、マナトさんの表情は、知り合いに会った、という単純なそれには見えなかった。


もっと違う・・・何かを知っているような・・・


「・・・もう・・・帰ったのか?」


「そ、そうです。なんか具合悪くなっちゃったらしいです。彼女がどうかしたんですか?」


俺がそう聞くと、マナトは迷いながらも、首を横に降った。


「いや・・・いいんだ・・・ありがと」


マナトはそれ以上何も言わず、足早にスタジオの外へと去っていった。それはまるで、さっき帰って行った大西さんを追いかけているように見えた。


マナトさんと大西さんは知り合いなのか?


そういえば・・・この前事務所に来た大沢さんも、大西さんとは知り合いだったみたいだし(腕の怪我の事故がきっかけで知り合った、って言ってたけど・・・)さっきのマナトさんの顔も、ただの知り合いに会っただけにしては、様子が変だった。


「何なんだろ・・・」


さらに思い起こしてみると。俺は、大西さんの事を、何も知らない。


以前勤めていた職場の事とか、以前何をやっていた、とか・・・


ただ、隣に座っている、同じ職場の女性。それが俺にとってはすべてで、それ以上のことを、俺も知ろうともしなかった。


マナトと知り合いなのか?一体どこで知り合ったんだ?


俺が知っている限り、彼女は芸能人にはとても疎いし、無縁のように見える。関わっている気配さえ、ない。


そんな彼女とマナトが知り合い、なんて、ちょっとつながらない感じだ。


マナトが出て行ったドアをただ、見つめていた。




結局、スタッフ達と相談して、“ERIS”の新曲の収録は後回しにして、桜とマナトのセッションを先に収録することになった。


接触したケータとリュウの打ち身は大事には至らなかったが、 少し休んだ方がいい、との判断からだった。


幸い、大きなスタジオセッティングの移動はなく、ピアノを少し、移動する程度で済みそうだったので、そうすることになった。


「桜さん、準備いいですか?」


スタッフの呼びかけに桜さんは笑顔で答えると、衣装の上、肩に軽くかけていた大きめなストールを俺に手渡し、軽く笑った。


「じゃ、ちょっといってきます」


「いってらっしゃい」


そう言うと、今度は彼女は憲一さんの顔を見上げた。憲一さんは背が高いので、小柄な桜さんが彼の顔をみると、見上げるような視線になる。


「ちゃんと、聴いてて?」


「ここで、聞いてるよ」


一瞬、憲一さんと桜さんの間に、妙な空気が流れた。それは、他の誰もが壊せないような、神聖な空気感・・・


約束されたような言葉を交わして、お互い、軽く笑顔を交わした。


桜さんと憲一さんは、家が隣の幼馴染で、憲一さんのお母さんは、桜さんのピアノの師匠・・・という間柄。他のスタッフや友人関係よりも、ずっと間柄は濃くて、深い。


二人の間にしかない、暗黙の約束のように、あの言葉を交わし、桜さんはピアノの方へ行き、スタッフに挨拶をしてから、ピアノの前に座った。


いつの間にか、憲一さんの横には、収録見学に来たシンさんがいて、二人で何やら小さい声で話していた。その声は俺の方には聞こえないけど・・・


いつの間にか、そんなこと気にならなくなっていた。


それは、ピアノの前で演奏準備をしている桜さんのせい・・・


ピアノの前に座り、軽く鍵盤に触れながら、目を閉じた。そして、深く深呼吸をすると、少しだけ上を見上げる。それはまるで何かに祈っているような神聖な表情で、心の何処かがひどく揺さぶれる。


やがて、静かにゆっくりと目が開いた。


その目は、さっきまでの桜さんとは違う、“東洋の至宝 ピアニスト叶野桜”の表情だった。


「うわ、桜さん、本気だ・・・」


「当然だろ」


俺の呟きに、シンさんが呟きで答えた。


「クラシックの舞台だろうが、ミュージシャン相手の伴奏だろうが、彼女にとっては同じ舞台で、本気だ・・・そうだろ?



シンさんが解ったような口をきいてきたので、俺はそれ以上、何も言わずに頷いた。


このシンさん、お調子者だし女性との噂の絶えない遊び人っぽい人だけど、桜さんのことはちゃんと見て、理解している。


これだから・・・俺はこの人が桜さんの側にいてイライラしても・・・・一心不乱に嫌いになれないんだろうな・・・ひょっとして、憲一さんがこの人が桜さんの飲み友達でいる事を公認している理由も、こうやってちゃんと理解しているからかもしれない・・・


彼女を、まっすぐな目で見つめているシンさんを見ながら、そんなことを考えた。


やがて、準備が整ったマナトもスタンバイした。


マナトと桜さんは、どちらからともなく目で挨拶した。全てがわかっているかのように。


お互い以外、入れない空気になる。


「それじゃ、リハーサル始めます!」


スタッフのその声と同時に、スタジオは二人の場所となった・・・




スタジオに、桜さんのピアノの音が響き渡る。


優しくて、少し切ないメロディーは、いつもクラシックの舞台で弾いている曲とは、一味違う。


普通の人が聴いたら、クラシックのピアノ曲は敷居が高すぎて、難しい音楽かも知れない。


桜さんがクラシックピアニストなのにもかかわらず、クラシックファン以外の人にも愛され、ファンが多いのは、こんなところにもあるのだろう。


既存のJーPOPを、その魅力を引き出すアレンジをして、演奏する。アレンジを加えた後の作品は、どこか懐かしくて、クラシックピアノの匂いがするのだ。それは、人々の心の何処かに、優しくて共鳴して、共感させる・・・


スタジオの中に、独特な空間を作り上げてしまう・・・


そして、その独特な空間の中央に今いるのは、桜さん本人と・・・マナトだけ。


本当なら、これから収録する曲は、もっとアップテンポな曲で、いつもは“ERIS”がダンスパフォーマンスをしながら歌う曲だ。


それを、桜さんはゆったりとした曲にアレンジして、マナトもバラード風に歌い上げている。


こう言ったスローテンポな曲は、“ERIS”のナンバーには殆どない。


スローテンポな曲はワンコーラスで一旦終わり、桜さんはそこで、一気に曲風を変えた。


ジャズ風の独特なリズムをダイナミックに弾き上げ、今までとは打って変わったものに変えた。


それでもメインのメロディーは変えず、マナトはそれに合わせて、さっきとは対照的に、激しい・・・いつもの“ERIS”のように歌った。


「・・・・・」


静かに始まった曲とは正反対に、激しい雰囲気で曲は終わった。


最後の和音を弾き終えたあと、桜さんは、同じように歌い終わったマナトの方を見た。


マナトは額に汗を光らせながら、マイクをおろし、桜さんと視線を合わせ、どちらからともなく笑っていた。


それは、同じ舞台に立っている人同士にしかわからない連帯感のようなものだろう・・・


こういうシーンを見るにつけ、自分自身がもどかしい気持ちになる。


どうして俺は、音楽家や歌手ではないんだろう?


もしも歌手だったら、演奏家だったら・・・桜さんと同じ舞台に立って、この同じ空気を共有出来るのに。


この人と同じ所で、同じ高さで、同じものを見てみたい・・・それは、俺が桜さんの付き人兼マネージャーになってから、ずっと思っていたことだった。


桜さんと一緒に、同じ場所に立ってみたいと・・・


叶わぬ望みだけど、そう思わずにはいられない。


そして、そう思うようになってから・・・桜さんの周囲にいる人に、イライラするようになっていった。マナトやリュウ、シンさん、あの大沢さんにさえ・・・


あのイライラは、仕事柄ではない。桜の付き人だから、桜に近づいてくる男を追っ払っているわけではない。純粋に・・・・俺が嫌だからだ・


俺の知っている桜さんとは違う彼女の顔を知っている人に、一緒に同じ場所に立てる人に・・・どろどろとした嫉妬心を抱くようになっていった・・・


もっともこれは、誰にも言えない、誰に話すつもりもない、俺だけの話だ。


俺は、胸の内の醜い嫉妬心を、流れている桜さんの音楽で浄化しながら、スタジオの端で収録を見つめていた。






その後の収録は、滞ることなく終わった。


桜とマナトのセッションの収録は、NGはなく、一発OKを貰った。


その後、接触から立ち直ったリュウとケータ、“ERIS”のメンバーが、新曲の収録を開始した。それも、大きなNGもなく終わった。


でも、心なしか、リュウはどこか心ここにあらず、といった雰囲気だった・・・ように見えた。


この時、俺が気づくべきだったのかも知れない。


リュウが、NG連発したのは、大西さんが現れてからだった、という事。


“ERIS”のメンバーを見た途端、大西さんの顔色が悪くなった事。


そして、マナトが大西さんの事を知っていたこと。


・・・・それらの現実の意味を・・・


でも、このときは、俺はまだ、これらの意味に全く気づかなかった。


気づいていたら、もしかしたらあんな悲劇、起きなかったかもしれない。


少し考えれば、判ることなのに・・・それらが全て、繋がっていた事だと・・・

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