第1章
第一章
東京公演を大成功に終わらせた、週明け。
「おい、ちょっといいか?」
スタッフ全員が出社したところで、社長が全員に声をかけた。事務室には、事務員から現場スタッフまで、そう多くはないけれど勢揃いだ。
いつの間にか、社長の横には、若い女性が立っていた。
歳は・・・俺と同じくらいか、それより年下、といった所か。桜さんよりも年上に見えるけど、それは、桜さんが歳不相応に童顔だからだろう。
童顔な桜さんとは対照的で、知的美人と言ったところだ。でも冷たさはなく、幼さが少し残った雰囲気だった。
「今日から事務で入った、大西七海さんだ。先月辞めた平田さんの後任だ」
そう紹介された。
先月、経理担当をしていた平田さんが、出産で退職した。その後任がなかなか決まらず、今、日常的な事務業務は、通常2,3人でやっている所を、五十嵐さん、というベテランさんが一人でこなしていた。
でも人数不足は否めず、五十嵐さんが社長に泣きついていたのは、つい先日のことだった。
「基本的に大西さんは、事務と経理専門という事で、頼む。
絶対に、現場には出さないでくれ」
社長はそう断言し、周囲は少しざわついた。
「どうしてですか?」
スタッフの一人が不思議そうにそう聞いた。
なぜなら、ここのスタッフは、全員、事務も現場も、両方とも業務としてこなすからだ。事務員だから、といって現場の仕事を全くやらない、というのはあり得ないし、現場担当だから事務仕事を知らない、というのもあり得ない。
現場と事務、両方を知っていないと、この仕事は成り立たない・・・というのが社長の考えだからだ。
その社長が、彼女を一切現場に出さない、と言っている。。。スタッフから見れば不自然そのものだろう。
「・・・ちょっと事情があって・・・な」
その表情は、少し暗くて、それでも、それ以上の質問を認めないような強さがあった。
他のスタッフも、、それ以上何も聞けず、ただ社長に頷く事しかできなかった。
「よろしくお願いします」
そう言って、事務の席に着くと、事務の五十嵐さんから仕事の説明を受けていた。
彼女の席は、俺の席のすぐ隣だった。
長い髪をバレッタで後ろで一つに束ね、五十嵐さんと一緒に事務処理をしている。俺の席からは、そんな彼女の後ろ姿が見える。
すっと伸ばした背筋の後ろ姿に、一瞬みとれた。
「・・・どうした?」
近くを通った憲一さんにそう突っつかれ、俺は思わず首を横に振った。
「な、なんでもないです!!」
「そうか?ならいいんだけどさ。
もうすぐ打ち合わせだから、会議室行くぞ」
憲一さんに促されて、俺ははい、と慌てて返事をすると、用意してある資料を持って立ち上がった。
そして軽く頭を振って、頭を目の前にいる七海さんから、桜さんへと切り替えた。俺が今することは、七海さんに見とれることではない、桜さんのスケジュールと仕事の事だ。
そう言い聞かせながら、俺は憲一さんの背中を追いかけて事務所を出た。
広い会議室には、俺と憲一さんと桜さんの3人だけ、向かい合うように座っている。本当なら打ち合わせでこの会議室を使う事はない。けど、この時間帯、この会議室を使う予定が他になかったので、広くて1番綺麗なこの会議室を使わせて貰っていた。
「“ERIS”ですか?」
「ああ。所属事務所から正式にオファーが来た。幹部会議でもGOサインがでた」
「うわぁ・・・どっちも思い切りましたね」
「ERISの事務所側も、あの反響を無視できなかった、って事だな」
「確かに、あの反響は凄かったですからね」
“ERIS”とは、今人気急上昇中のJ-POPのダンス・ヴォーカルユニットだ。
6人組のユニットで、そのパフォーマンスも歌唱力も、他のJ-POPグループと比べて群を抜いている。人気も知名度も半端ではない。
毎年、全国でドームツアーを開催していて、その動員観客数は毎年記録的な数字を叩き出している。
かく言う俺も「ERIS」のファンだ。さすがにライブは行ったことない(そう簡単にライブチケットなんか手に入らない!)けど、1日、テレビを見ていると必ずCMやERISのレギュラー番組で見かける。
そして、憲一さんが言っているオファーとは、その「ERIS」の次の新曲を、桜さんの伴奏で6人がアカペラで歌う・・・というものだ。
「“Music World”で、ERISと桜がコラボしただろ? あれの反響、凄かったからなぁ」
「・・・あれですよね?問い合わせの電話で回線がパンクした時ですよね?」
“Music World”とは、週末の深夜やっている大人向けの音楽番組で、桜さんが定期的に伴奏者として出演している。
前半はゲストミュージシャンと司会のトーク。そして後半はそのミュージシャンがパフォーマンスをするのだが、その番組のルールというか、決まり事で、ミュージシャンは普段と違うアレンジ、編成で歌わなくてはいけない。
J-POPをジャズ風にアレンジしてみたり、ビックバンドの編成や、弦楽の生演奏の伴奏で歌ってみたりと、そのアレンジの質の高さや面白さにも定評がある、クオリティーの高い音楽番組だ。桜さんはその専属のピアノ伴奏やアレンジを引き受けている。桜さんだけでなく、伴奏で出演している弦楽の演奏家も、名の知られている若手の演奏会ばかりだ。
専属のピアニストに“東洋の至宝”や、優秀な若手プレイヤーを起用しているからか、ゲストに呼ばれるミュージシャンも、人気とか流行関係なく、質の高い、歌唱力のあるアーティストにしかオファーしない。業界の間でも、この番組のオファーを貰えるようになると、ようやく一人前、と言われるほどだ。
とはいえ、J-Popの伴奏やアレンジなんか、東洋の至宝、の異名をもつクラシックピアニストがやる仕事ではない・・・俺はそう思っていたし、桜さんの後援会のお偉いさんも、あまり良い顔をしてくれない仕事だ。
けれど、この番組の司会の女性とプロデューサーは、桜さんとは古くからの知り合いらしく、その縁で引き受けているんだとかで、桜さんは辞めるつもりは全くなさそうだ。
それに、『クラシックを知らない人に、私や、若い演奏家さんの楽器の音を聴いてもらういい機会でしょ?』と、言われてしまっては、俺も何も言えない。
まあ、そんなことは置いておいて。
何ヶ月か前、その“Music World”のゲストに“ERIS”が来て、桜さんとセッションした。
派手なダンス・パフォーマンスが売りの、今流行のダンス・ヴォーカルユニット・・・どう考えても、番組とは不似合いなゲストだった。
その“ERIS”が、売りのダンスを一切封印して、桜さんのピアノ伴奏のみで、いつも歌っているダンスミュージックを静かなしっとりとしたバラードにアレンジして、6人のアカペラで歌い上げたのだ。
その仕上がりは見事なもので、オンエア直後から、各方面から問い合わせが殺到した。この事務所でも、その対応に追われて大変な思いをした。問い合わせで電話回線がパンクしたほどだった。
かく言う俺も、その番組はしっかりと録画して何度も聴いた。元々、ERISの派手なダンスミュージックが好きだったけど、桜さんがアレンジしてバラード風に生まれ変わった曲を聴いた時の衝撃といったらなかった。
聴いた瞬間、そのすばらしさに鳥肌が立った。普段、ERISの曲を日常的に聴いている俺でさえ、その曲の生まれ変わり様は見事だと思った。
そのセッションを、ERISの事務所の上層部の方がとても気に入ったらしく、それをCD化したい、という話がその直後からあった。今回の話が、まさにそれだ。
「まあ、あの番組がきっかけだけど、コラボ企画がここまで現実化したのは、桜とマナトのせいだなぁ」
「わ、私のせい?なんでよ?」
突然話を振られた桜さんが驚いた様に憲一さんを見た。
「そうですよ!忘れたんですか?」
俺は呆れて桜さんを睨んだ。桜さんは、しまった、と言いたげに苦笑いした。それは、悪戯が発覚した子供みたいな顔だった。例えばこれを自分の彼女とかにされたら、きっと俺は怒れないだろう・・・可愛くて。
でも相手は付き人をやっているピアニスト。こういうときの対応にはいつも困る。
そして俺は、困りながらも、怒る、という選択肢を選んでしまうのだ。
・・・そう、あれは確か、某スタジオに、付き人兼マネージャーとして桜さんと一緒に訪れた日。
その日は、ERISと桜さんは初対面だった。けれど、ERISのメインヴォーカル、マナトと桜さんは以前からの“飲み友達”だったらしく、息ぴったりのセッションを周囲に聴かせて、スタッフ達を驚かせた。
そして、桜さんが、ERISの為、というよりもマナトの為に(渾身の)アレンジを書き下ろし、それを後日収録し、番組でオンエアしたのだ。
テレビでは、“マナトと桜の合作”なんて言ってた。実際、その曲はマナトが書き上げたもので、桜さんがアレンジをした。合作というのは間違えないけど・・・妙にもやもやして、腹立たしかった・・・
何となく、何となくだけど、桜の才能を、マナトに汚されたような気分になった。単なる、マナトに対すする嫉妬・・・だったのかもしれない。
俺の気持ちとは裏腹に、反響は俺達や制作側の予想を遙かに上回り、視聴者、ファンの間でも、問い合わせが殺到したほどだった。
収録後の、「打ち上げ」と称した飲み会にも、桜さんは出席を余儀なくされ、その会場でも、マナトさんと桜さんはすっかり意気投合し、“いつかまたコラボしたいですね”という話にまでなった。
その、酒の席での話が、今回現実になったのだ。おおかた、ERISの連中が所属事務所に掛け合ったのだろう。俺達の事務所サイドでは、こんな話全く出なかったのだから。
「大体、俺、マナトと桜さんがあの収録以前からの飲み友達だなんて初耳だったんですよ!」
「しょうがないでしょ!他の友達の飲み友達で、酒の席に呼ばれたりするとマナトさんがちゃっかりいるんだから!」
「一般公表してないだろう?」
「いちいち私の交友関係なんか公表する必要ないでしょ?私はアイドルじゃないんだから!」
「せめて俺たちにはあらかじめ教えておいてください!一応俺これでもあなたの付き人なんですよ!
桜さん、自覚してるんですか?
写真とか撮られてスクープされたら大変なことになるんですよ!
後援会の人達がまた文句言ってきますよ!」
そういったスキャンダルや報道で売っている芸能人ならともかく、桜さんは芸能人ではなく、ピアニスト。そういったスキャンダルが彼女にとってプラスに働くことは、まずない。スキャンダル一つで、彼女のピアニスト生命が絶たれる恐れがあるのだ。
まして、桜さんの後援会の面々は、揃いも揃ってそう言ったスキャンダルに関しては神経質だ。ちょっとした、桜さんの妙な噂・・・例えばちょっと外で誰かと飲んでいた、とか芸能人の誰かに口説かれていた、なんて噂が浮上すると、うるさく言ってくる輩なのだ。
『東洋の至宝と謳われているピアニストが、あんな芸能人ごときと付き合ってるんですか? 名声に傷が付きますよ!』
『そんな輩と付き合っているなんて、マネージャーの管理不行き届きではないのですか?』
以前、後援会のお偉方に嫌味ったらしくそう言われたことがある。
「私は芸能人でもアイドルでもタレントでもないのよ?そんな大袈裟よ。青木くんがそんなこと、気にすることないわよ」
ところが桜は、そんな俺の心配など全く気にかけていないみたいに、のほほんとと笑っている。
「桜さんは自分の立ち位置、わかってるんですか?」
「まあまあ、青木、それくらいにしておけ」
憲一さんが桜さんに助け船を出した。この憲一さんは、とにかく桜さんに甘い。
マナトと桜さんの関係を知っても、憲一さんは焦ることもなくその現状を受け入れた。この人、桜さんにどれだけ甘いんだ。
やれやれ・・・俺が桜さんの付き人になってから、何度、こんな会話を交わしただろう。
「東洋の至宝」なんて言われているトップピアニスト、叶野桜。でもピアノから一歩離れると、天然で、ちょっとぼーっとしている。注意力散漫で頼りなくて・・・ほっといたら、どっかの遊び人な男に喰わちまうんじゃないか? と心配になる。もうちょっと、自分の立場とか、周囲にどう見られてるか、とかわきまえて欲しい。
俺が桜さんの付き人兼マネージャーになってからというもの、そんな気苦労が絶えない。
結果・・・ついつい怒ってしまう。
「まあ、コラボは、もう決まったことだから。桜も飲み友達だからって、いちゃいちゃしないで、ちゃんとわきまえて仕事してくれ。
青木も、あんまり桜に当たるな。マナトはあれでも桜にとって数少ない理解者だ。大目に見てやれ」
憲一さんとにそう言われてしまったら、俺はこれ以上何も言えない。納得できない思いを隠しきれないまま、手元の資料に目を落とした。それには、この企画に関する日程が記されている。
「とりあえず来週、収録のあと打ち合わせがある。
桜、これ、今度の新曲の楽譜とデータ。目、通してアレンジしてくれ。内容は任せる」
来週、“MUSIC World”の収録でテレビ局に行く。その後に打ち合わせ、ということだ。
「わかった」
桜はそう返事をして憲一さんから渡された楽譜とデータを受け取り、楽譜に目を通した。
その他、いくつかのスケジュール確認があって、打ち合わせは終了した。
会議室を出ると、憲一さんは他の仕事があるから、と事務所を出て行った。桜さんは、楽譜とデータを持って、ピアノのある部屋へと入って行った。きっと、ERISの曲のアレンジをやるのだろう。
「レッスン室にいるから」
「わかりました。昼休みになったら声、かけますからね」
「ん、お願い」
今日、桜さんは教室レッスンの仕事も収録もない。コンサートも週末に東京公演をが終わって、しばらくは舞台演奏がない。一日、事務所にいるはずだ。
そして、桜さんは一度ピアノと向かい合うと時間が経つのさえ忘れて没頭してしまう。以前、午前中レッスン室に入って、そのまま終電間近までレッスン室から出てこないことがあった。
それ以来、俺は、桜さんがレッスン室にいる時は、昼休みと終業時間には、声をかけるようにしていた。
俺は俺で、デスクワークがあるので、そのまま事務室のデスクへと戻った。
付き人の仕事とデスクワーク、仕事は多いし、多岐に渡る。今日中に終わらせてしまいたい事務仕事も多い。
「さて、俺も仕事するか」
ぐっと伸びをすると、俺は書類の山と向かい合った。
きっと、あのレッスン室で、桜さんは半ば発狂しながらアレンジを作っているのだろう。誰にも見せないけど、付き人なんかやっていると、そんな姿を垣間見ることも多い。
初めて、あの桜さんが、一人レッスン室で半狂乱になりながら練習している姿を見たときの衝撃といったら、なかった。
天才が余裕でトップに立ち続けているわけではない。並の人以上にピアノと向かい合い、苦しんだり葛藤しながら、自らも傷を負いながら立っていたのだ。
舞台の上で、余裕の表情でピアノを弾き、耳の肥えたクラシックファンを魅了する、若手のトップピアニスト。
でも、舞台に立つまで、彼女は想像もできないほどの練習と努力、そして葛藤をしていることを、俺も憲一さんも知っていた。
そんな桜の姿を見るにつけ・・・俺自身もしっかりしないとな、と思う。付き人兼マネージャーとして、桜さん以下の仕事はしたくない。あの桜さんの努力を汚したくないし、無駄にしたくない。
そのために俺ができることを精一杯、する。それが、桜の付き人兼マネージャーになって以来の、今の俺の使命だし、一番の仕事だ。
たまったデスクワークを片付けると、もうすぐ昼、といった時間になっていた。
俺は席を立って、給湯室へ行った。昼を食うにはまだ少し早いけど、さすがに疲れてきたのでコーヒーが飲みたくなったのだ。
給湯室の大きめなコーヒーメーカーには、いつでも好きなときに飲めるようにコーヒーが作って置いてある。
それを飲むべく給湯室に入ると、先客が居た。
給湯室には大西さんがいて、紙コップにコーヒーを注いでいた。
大西さんは俺の姿を見ると、
「コーヒーですか?」
と聞いてきた。俺が頷くと、大西さんはもう一つ紙コップを取り出して、サーバーからコーヒーを注いで俺に手渡した。
「どうぞ?」
「あ・・・ありがとう」
そう言って受け取ると、彼女は少し、ぎこちなく笑った。
基本的にこの事務所では、お茶くみ係が居るわけではない。スタッフは飲みたいときにここに来てセルフサービスで自分の飲み物を用意することになっている。
女子事務員がお茶の用意をするのは、客が来たときくらいだ。
そのせいか、こうやってコーヒーを差し出されたこと・・・この職場でコーヒーを淹れて貰った事など今までなかった。
少し嬉しく思いながら、それを1口飲むと、紙コップを片手に持って席に戻った。
大西さんの席は俺の隣なので、彼女は俺についてくるよう席に戻ってきた。
席に戻り、コーヒーを飲んで、さて作業を再開しようとすると・・・
「あ、大西さん!資料室からこの資料持って来てくれる?」
他の人が、大西さんの所に来て、メモを渡した。そのメモには資料の名前がぎっしりと書かれていた。
「あ、はい・・・でも資料室って何処ですか?」
今日からここで働き始めた彼女、資料室の場所なんか判らないだろう。
「・・・あ・・・じゃ、青木!教えてやってくれないか?資料の量も多いし、手伝ってあげて!」
「・・・判りました」
俺はコーヒーを飲みきると立ち上がり、資料室の鍵を持った。
「大西さん、行くよ」
「はい」
大西さんは、相変わらず、ぎこちない笑みを浮かべると、俺の後ろを付いてきて、一緒に事務室を出た。
資料室で、俺と大西さんは資料と格闘していた。
「これと・・・これと・・・あ、この映像資料はあっちの棚だから」
「はい」
メモに書かれた資料は、書類だったり、CDだったり、映像資料だったり、様々だった。
それらが分類して収納されている資料室は、普段、人がいない。
広くて、少し埃っぽい資料室に二人きりだった。
資料室は桜さんのいるレッスン室のすぐ隣で、耳を澄ませると彼女のピアノの音が聴こえる。レッスン室と言っているけれど、そんなに防音設備が整っているわけではない。確かに壁は他の部屋よりも厚いらしいけど、音を完全に遮断できるわけではない。
それでも、普段誰もいない、静まり返った資料室に女性事務員と二人きり・・・という、慣れない状況なので、このBGMは有難かった。
さほど仲良しと言ったわけでもない、初対面な相手に対して、気まずい雰囲気にならずにすんだのは、このBGMのお陰だ。
「っと・・これで全部だな?」
「はいっ、ありがとうございました。おかげで助かりました」
「資料室はよく使うと思うから、場所と配置は覚えておいた方がいいよ」
「はい」
そういうと彼女はぎこちなく笑った。まだ笑顔が固いというか、引きつっている感じがしたのは、初対面だからだろうか?
初めて会った時から柔らかく笑っていた桜さんとは対象的だった。
俺と大西さんは、頼まれた書類を手分けして手に持った。資料はずっしりと重たくて、男の俺でさえ、楽に持てる重さではなかった。
「重いけど、平気か?」
「大丈夫ですよ!こう見えても私、結構力持ちなんです!」
彼女はそう言うと、すっとシャツの袖をまくった。途端にあらわになる、彼女の細い手首と腕・・・そして・・・
「・・・・!!」
彼女にしてみれば、本当に何気無い仕草だったのだろう。荷物を運ぶのに、邪魔になりそうな袖を捲った、ただそれだけだ。
でも、俺は彼女の腕を見た途端、一瞬だけど、息を飲んだ。
彼女の、手首から肘にかけて。
刃物で切りつけたような、傷痕があったのだ。
しかもそれは、間違えて傷つけた、とか、転んで怪我した、とかそういうものではない。
見るからに酷くて、深い傷跡だった。これがもしも刃物でつけた傷だったら、・・・間違えなく、切りつけた相手は、大西さんに殺意を持っているだろう・・・
すべてを物語るように、その傷は縫合した後があった。
俺が何に息を飲んだの気づいた彼女は、慌てて袖を元に戻した。
「ごめんなさい・・・汚いですよね・・・」
傷で、俺に不快な思いをさせた、とでも思ったのか、気まずそうな表情だった。
「怪我?どうかしたのか? あ ・・・言いたくないならいいけど」
「ええ・・・ここにくる少し前、事故で。あ、もうテーピングもしないで済む位ですから、痛くないんですけどね」
俺の質問に、彼女はそう言って笑っていた。
そんな訳ないだろ!俺は心の中で呟いた。
俺の兄は、この事務所の近くにある病院で勤務医をしている。門前の小僧、ってわけではないし、俺は医療の知識があるわけではないけど、兄の影響もあって・・・何となく解ってしまった。
彼女のこの傷・・・痛くない訳が無い!確かにテーピングなしでも問題ないけど、まだ十分過ぎるほど痛む、生傷に近いものだ。
それでも無理して、ぎこちなく笑っている彼女が、痛々しかった。
引きつった笑顔は、腕が痛むからなのか?
俺は彼女の持つはずの資料を彼女の手から奪い取った。
「え・・・青木さん?」
「そんな腕に持たせられるわけないだろ!」
「でも・・・」
「いいから!こういう力仕事は男に押し付ければいいんだよ」
言い方が怖かったか? 一瞬後悔した。その後悔を物語るように、資料室には沈黙が降りた。
かすかに聞こえたのは、耳鳴りにも似た音と、レッスン室から聞こえる、桜さんのピアノの音・・・
この沈黙が怖かった。それはもしかしたら、俺も彼女も感じたかもしれない。
その沈黙を壊すように、彼女は、少しだけ、笑った。
それは今までの、ぎこちない笑みではなく、もっと柔らかい、暖かい笑みだった。
「ふふっ・・・じゃあ、お願いします」
その笑顔に、一瞬俺は見とれた。その笑顔はとても綺麗で・・・可愛かった。
「おうっ!任せとけ!」
俺は、よいしょ、っと、全部の資料を持ち上げて、資料室を出た。資料はずっしりと重たかったけど、持てない重さではなかった。
事務室に向かう間、彼女は、資料で前が見えなくなっている俺の視界から、邪魔なものを排除したり、邪魔なドアを開けたりしてくれた。
ただ頼ってついて来ればいいのに。そう思う反面、そういう気遣いができる大西さんに、初対面にも関わらず少し心がぐらっときた。
やがて、事務室の前に着いたとき、昼休みを知らせる12時の時報が耳をかすめた。
「昼・・か」
そういえば、桜さんに声をかけてあげないと。昼休みに声をかける約束だった。知らせてやらないと、あの人はお昼さえ食べずにピアノに没頭してしまう。
桜さんの事を思い出し、資料を事務所に置いたらレッスン室へ行こう・・・そう思い、大西さんが開けてくれた事務所のドアから事務所に入り、入ってすぐの所にある、多目的な机の上にその資料を置いた。
「あ、ありがとうございます!」
大西さんは笑顔で俺を見上げながらそう言った。
「いや、どういたしまして」
そう答えながら、俺は事務室を出ようとした。桜さんの所に行かなくちゃ・・・。
その時だった。
事務所の前の廊下を、うちの社員ではない人が歩いてきたのが見えた。
その瞬間、俺はその場に立ち尽くした。
(あの人は・・・)
その人は、俺もよく知っている人だった。慌てて俺は事務所から廊下に出た。
中肉中背、俺と同じくらいの身長に、 黒っぽい背広を着こなした人だった。一見会社員のように見えるけれど、黒茶色い少しだけ長めな髪と、片耳につけたピアスが、会社員とは違う仕事をしている事を物語っていた。
その人のその目は少し切れ長で鋭く、若干怖い。初対面で近づくのはかなりの勇気がいるだろう。
それでも、俺はこの人をよく知っていた。桜さんの付き人兼マネージャーになってから知り合った人だ。
「大沢さん」
俺はその人の名前を呼んだ。すると彼は、俺の方に振り向き、口元だけ歪めるように笑ってこっちにきた。
「こんにちは。青木君」
この人は大沢聡さん。桜さんと憲一さんの知り合いで・・・表向きは「MTV」というテレビ局の報道担当の人だ。桜さんがレギュラーで出演している「Music World」も、MTVの番組だ。
憲一さんや桜さんとは個人的に知り合いで、しょっちゅうこの事務所に会いにくる。その話には、俺は入れてもらえず、一体どんな用件があってここに来ているのか判らない。
けれど、事務所の人達はみな、この人に一目置いているのか、事務所に出入りする事を容認していた。社長でさえ、この人には頭が上がらないのか、すれ違うといつも笑顔で対応している。
一方俺はといえば・・・この人の事があまり好きになれない。
「こんにちは。憲一さんにご用ですか?」
「ああ・・・戻ってるか?」
この人は、今日の憲一さんの予定を知っているようだった。憲一さんは午前中、別の打ち合わせで外出しているけど、午後には戻ってくるはずだった。
「まだ戻っていないです。お待ちになりますか?」
「ああ・・叶野、いるか?」
俺がこの人を好きではない理由の一つが・・・これ。
「今、レッスン室にいます。もう昼休みなので、今呼びに行くところです」
あーあ、本当はこんな事言いたくないのに。
嘘でも、今日は留守だって言えば良かった・・・でも、たとえ俺がそう嘘を言ったとしても・・・この人にはそんな嘘、通用しないだろう。
大方この人は、桜さんがいつ事務所に居るか、しっかりと把握しているのだから!
事実、この人と桜さんを会わせたくなくて、嘘をついて居留守を使ったことがあった。
でも大沢さんは、そんなことお見通しで、結局事務所の入口に居座って、会議が終わって会議室か出てきた桜さんとの面会を果たしたのだ。
さて、どうしたものか・・・
桜さんには、昼休みになったら声をかける、と約束したけど、今呼びに行けば、この大沢さんは桜さんと会ってしまう。
正直、会わせたくない!
だって、この二人が会っちゃったら・・・
俺がそう思っていると・・・
「あ・・・・」
不意に俺の横から、大西さんが小さな声を出した。大西さんの方を見ると、彼女は、大沢さんを見つめながら、何か言いたげだった。その視線に気づいた大沢さんも、大西さんを見た。
「大西さん!」
「こ・・・こんにちは・・・・」
大西さんは、驚いた様に、大沢さんに会釈した。大沢さんも、そんな大西さんに同じように会釈した。
「そういえば、今日から、でしたっけ?」
「はい。その節は、色々お世話になりました」
「怪我は?もう平気か?」
「は、はい・・・」
「そうか、良かった・・・無理だけはするなよ?」
「はい」
・・・・そんな二人のやりとりを、俺は唖然として見つめていた。この二人・・・知り合いだったのか?
「それと・・・落ち着いたら、話を聞かせてくれないか?」
「・・・・・」
新たな事実に頭が付いていけず、ただ突っ立って二人のやりとりを聞いていると、俺の後ろの方で人の気配がした。何気なく・・・心の矛先を変えたかった俺はその気配の方に振り返った。その視線の先には・・・
「あ、桜さん・・・」
よりにもよって、今、1番ここに来て欲しくない人が、立っていた。
でも、桜さんの視線は、俺など見ていない。
「・・・大沢先輩・・・」
驚いた声で、そう呼んだ。
あーあ・・・・俺は内心ため息をついた。そして降参するように、桜さんに言った。
「大沢さんがお見えですよ」
俺の言葉には、多分、沢山の棘があっただろう。俺の声に大沢さんは苦笑いした。
「よう!久しぶり」
俺や、大西さんと話す声とは明らかに違う声で、大沢さんは笑顔を浮かべた。
「こんにちは、先輩。
なんか、今日は、来るような気がしたんですよ?」
桜さんは、いつもの、あののほほんとした笑顔を見せながら、そう言った。そして、それにつられるように、大沢さんも、今までとは違う笑顔を見せた。俺や大西さんに見せていた、口元だけの笑顔から、あの切れ長の目が優しく歪み、目尻の皺が少し深くなった。
「愛の力って奴だな。ずっと念じてたからさ」
「勝手に言っててください!」
こうなってしまうと、この場に俺が居ることなど、大沢さんはまったく意に介さない。
「憲一さんに用があってきたんだけどさ、まだ帰ってないんだ・・・メシ、まだだろ?」
よく言う。午後に憲一さんが戻ることもきっと大沢さんはお見通しの筈。それで敢えて昼休みに来たって事は・・・昼休み、桜さんと過ごすために違いない。
確信犯だ。
「・・・私、お弁当作ってきたから、外食はパス」
そう・・・舞台演奏からくるストレスのせいか、桜さんはよく拒食症になるので、外食は滅多にしない。お昼も、食べられる量だけお弁当を手作りして持ってくるほどだ。その量は、まるで幼稚園児のお弁当位で、俺からしてみれば、よくこんな量で身体が維持出来るな、と呆れるほどだ。
「心配するな。持参した」
大沢さんはそう言って、手に持っている袋を見せた。大沢さんの手には、近くの惣菜屋のロゴの入ったビニール袋と、近くのケーキショップの小さな袋がある。桜さんの好物だ。この人、本気で確信犯だ。
「人の居ないところがいいんでしょ?屋上でいい?」
「構わない」
桜さんは、俺の方を見た。
「屋上にいるね」
「あ・・・はい・・・」
俺の返事を聞きながら、桜さんは大沢さんと並んで廊下を歩いて行った。
(だから嫌だったんだ!)
俺は、大沢さんの事、好きではない。
それは・・・こうしていつも、俺の目の前から何の苦労もなく、いともあっさりと桜さんを掻っ攫ってゆく。
桜さんの中での優先順位は。
いつも側にいる付き人件マネージャーの俺より、あの大沢さんの方が高くて、いつだってあの人を最優先にする。
だから・・・あの人は嫌いだ。
あの人と桜さんが一緒にいるところを見ると、
どうしてもイライラする・・・
「あの・・・青木さん?」
そんな、やり場のない苛々を持てあましていると、横で大西さんの声がした。
「あ?え?大西さん・・・」
「どうか・・しましたか?なんか、凄い怖い顔して睨んでますよ?」
「いや、何でもないよ」
そう言っては見たけど、頭の中のもやもやは全然消えない。
「大西さんこそ、大沢さんと知り合いなのか?」
俺がそう聞くと、大西さんは、ええ・・・と頷いた。
「この怪我・・・」
彼女は、袖の下に隠れているさっきの傷痕を、手でそっと触れた。あの痛々しい生傷を・・・
「この怪我をした事故の時・・・たまたま近くを通りかかったあの方が、助けて下さったんです。あの方がいらっしゃらなかったら、大変なことになっていたと・・・思います」
彼女はぎこちなく笑ってそう話してくれた。
「大沢さんが?」
「はい」
大西さんは頷いた。
「私なんか、ほっとけば良かったのに。
助けたら、面倒な事になるでしょうし。
でも、病院に運んでくれて、警察に連絡してくださって。
あの人まで警察の事情聴取を受ける事になってしまったんです」
警察に?
大西さんのあの怪我は・・・警察が絡むような事故だったのか?
「恩人、なんです・・・」
あの人が・・・
俺は、二人が消えていった廊下に目をやった。
「・・・・・」
なんか、複雑な気分だった。
ここに来ると、いつも桜さんを俺の目の前から掻っ攫ってくあの人が・・・
俺にとっては、はっきり言っちまえば「目障りな存在」
「なんか、美味しいところばっかり持ってく人だなぁ・・あの人」
もしも俺が、大西さんの事故現場に居合わせたら・・・
もしも俺が、大沢さん位、桜さんに近い存在だったら・・・
こんなもやもやした、複雑な気持ちにはならないんだろうか?
そのもやもやの答えは・・・・何処にも見当たらなかった。
大沢さんと桜さんを見送った後事務所に戻ると、昼休み中で事務所には誰も居なかった。資料室に行き、廊下で大沢さんと対応している間に、すっかり取り残されてしまったらしい。
事務所には俺と大西さんの二人だけ。
普段からそんなに煩いと思った事はないけれど、こうして二人きりだと、いつも以上に静かで、不自然な感じだ。
「メシ、どうする?」
席に戻って、俺と一緒に取り残された大西さんに聞いた。
「・・・みんなはどうしているんですか?」
「殆ど、裏の定食屋とか、近所の洋食屋で食ってる」
この辺はオフィス街で、そういった会社員やOLをターゲットにした飯屋が多い。
「この辺の事・・・知らないのか?」
俺がそう聞くと、大西さんは頷いた。それもそうか、彼女は今日からこの職場に勤め始めたんだから。
「嫌じゃなきゃ・・・一緒に行くか?安いところとか美味しいところ、教えてやるよ?」
俺がそう聞くと、彼女は嬉しそうに笑って頷いた。
会社を出て歩いてすぐの所にあるカフェは、この辺の会社員やOL御用達で、この時間は少し混むけれど、美味しいコーヒーと日替わりランチは定評がある。
「前の職場では?昼、こういう所には来なかったのか?」
少し混み合った店内だったけど、こういう混雑をちゃんと判っている上で接客し、席に案内してくれる店員さんのお陰で、割とすぐに席を確保できた。
そんな様子に戸惑っている彼女に、俺はそう聞いてみると、大きく何度も頷いた。
「前の職場・・・社食があったから」
「それじゃ、結構大きな職場だったんじゃないの?」
「ううん、それほどでもないよ」
大西さんはぎこちなく笑っている。
「・・・いつも似たようなメニューしか出てこなかったから、飽きちゃうんです。でも会社の外、お昼ご飯食べられるところ、少なくてね。お昼に外に気分転換することも出来なかったの」
少し懐かしそうに目を細めて笑った。その笑顔に、俺はまた惹かれた。
ただの笑顔なのに、初めてあった女なのに。その笑顔が、表情が、とても心地よかった。
それからは、出てきたランチを食いながら、色々な話をした。
彼女の前の仕事の事や、俺の付き人業の事、そして桜さんの事・・・
「桜さんの事は、以前から知ってるんです・・・あ、一方的に、なんですけどね」
「え?じゃ、大西さんもピアノか何か、やってたの?」
大体、桜さんを知っている、と言う人は、ファンかその人自身もピアノをやっているか、クラシックファンか、どれかだ。でも、一介の桜さんのファン、といった人種を、社長が簡単に採用するとは思えない。ファンだから、といってこなせる仕事ではないからだ。
「・・・私じゃないんです。私の父がジャズピアニストなんです。そのつながりで、父は、橘先生とも桜さんとも知り合いなんです。
桜さんの事は、父からよく聞いています。
あんなすごいピアニスト、二人といないって・・・」
「へぇ・・・」
「今は、テレビに良く出ているようだけど、あの人の演奏は、あんな風にテレビで、はやりのミュージシャンと抱き合わせで聞かせるような安っぽいものじゃない。
もっとちゃんとしたコンサートホールで、耳の肥えたクラシックファンに対して、力の限りの演奏をするべきだって・・・いつも言っています」
橘先生、とは、橘尚子。憲一さんのお母さんで、ピアニストだ。桜さんはその橘尚子の弟子だ。
「それじゃ、ここに就職したのも・・・」
「社長とうちの父が、橘先生つながりで、知り合いなんです」
「なるほどね」
社長の知り合い、っていうのは、本当だったんだな・・・疑っていたわけではないけど、素直にそう思った。
「どうしてここに来たんだ?」
彼女の話だと、こことは違う所に勤めていたみたいだし。
仕事している様子を思い浮かべると、事務経験もあるみたいなのに。
こういったら悪いけど、どうして、うちみたいな、そう大きくもない職場に転職したんだろう?
何気なく、そう思っただけだった。そしてそのまま聞いてみた。
けど彼女はそう聞いた途端、少しだけ顔色が変わった。
「・・・・・・・」
そして少し、痛そうに笑った。
その表情は、これ以上聞かないで、と無言で叫んでいるようで、俺は何も言わなかった。
「ああ・・・言いたくなかったらいいんだ・・・ごめんな」
「いいえっ・・・・」
一瞬の沈黙が、怖かった。でもその後、彼女はまた・・・ぎこちなくだけど、笑ってくれた。
その沈黙と気まずさを払拭するように。
その表情を見ながら・・・
彼女の事をもっと知りたい、と思った。
そして、そのぎこちない笑顔を、さっき資料室で見たような、明るい綺麗な笑顔に変えてみたい・・・そう思った・・・
それ以来、大西さんと俺は、席も隣のせいか、よく話をするようになった。
それは、仕事の話だったり雑談だったり、いろいろだった。
少しずつ、打ち解けていった。
「なんか、雰囲気いいな」
打ち合わせで俺の席に来た憲一さんは、俺と大西さんを交互に見て、意味深に笑っている。
「いや、雰囲気いいって・・・」
ちらり、と隣を見ると、大西さんは聞いていないのか、仕事に没頭している。
「いや、何となくな」
憲一さんはそれ以上何も言わず、仕事の話を持ちかけた。
「明日、桜の収録の後、“ERIS”との打ち合わせだ。資料、忘れずにな」
「判りました」
明日、テレビ局で収録だ。そしてその後、“ERIS”と桜のコラボ企画の打ち合わせが行われる。
今まで桜は、番組の企画で様々なアーティストとコラボをしてきたけれど、それがCD化されるのは初めてだ。事務所内でも、その話で持ちきりで、この企画に力を注いでいるのが判る。
何せ、あの“ERIS”とのコラボだ。“ERIS”の名前と一緒に桜の名前も世に出るのだ。しかも、クラシックピアニストとしてではなく、“ERIS”との“コラボ”一曲限りのユニットとして。
今までとは勝手の違う仕事だけれど、桜の名前が今まで以上に世に出て、桜のピアノが今までとは違う形で世に広まるのは良いことだと思っている。これを機に、今までとは違うファン層を獲得できたら、というのが、事務所の、そしてスタッフの願いだった。
俺個人としても、“ERIS”とのコラボは良いと思う。きっと上手くいくだろうし、事務所やスタッフの考えも重々、理解できる。
“ERIS”のファンでもある俺。打ち合わせで、また、生“ERIS”を見られるのは嬉しい。公私混同だ、と言われても仕方ないけど、それは紛れもない本音だった。
でも、今ひとつ、気が進まなかった。
それは、桜さんの事だ。
桜さんと“ERIS”は、以前“Music World”の番組企画でコラボしたことがある。それ以来、“ERIS”のメインヴォーカル、マナトと桜が、やたらと親しいのだ。
それ以前からの飲み友達・・・とは聞いていたけれど、その仲の良さは、他の“ERIS”メンバーとのやりとりと比べたら明らかに違った。
しかもそれは、桜さんから親しくしている、という風ではなく、明らかに、マナトの方が桜さんに近づいてきているのだ。そして桜さんも、それを拒まないのだ。
それが気に入らないのだ。
それに、マナトだけじゃない。
収録でテレビ局にいくと、桜さんはやたらと男に話しかけられる。マナトもそうだし、あの大沢さんもテレビ局に勤めている。(とはいえ、桜さんの収録スタジオと大沢さんが普段勤務している場所はフロアーが違うらしく、今までテレビ局で接触したことはないが)
あと、マナトと連ドラで共演してる俳優とか、以前桜と番組でコラボしたことがあるミュージシャンとか・・・
純粋に、桜さんの事を慕ってるひともいれば、下心たっぷりで近づいてくる人もいる。
桜さんはそう言ったことに鈍いらしく、男が近づいてきても、相変わらず、のほほんとしている。(単に、迫られても近づかれても気づいてないのかもしれないが)
もっと危機感というか、周りの男に近づかれている、言い寄られている、ということに自覚を持って欲しい・・・
「なんだ、青木、嫉妬か?」
俺の思いに気づいているのであろう、憲一さんは、俺のその思いを一蹴で済ませた。
「そ、そんなわけないですよ!」
慌てて俺は否定したけど、憲一さんは面白そうに笑うだけだ。その笑いに俺も負けて、つい、本音を漏らしてしまった。
「だって・・・嫌じゃないですか。この企画がきっかけで、万一桜とマナトが、周りから変な風に言われたりしたら!
それに以前から、テレビ局行くと、桜さん、芸能人に言い寄られてますよ!それってピアニストとしてどうなんですか?
今に変な噂、立ちますよ!」
「変な、ってのは、熱愛報道的なことを言ってるのか?」
俺の不安を、憲一さんは的確に言葉にしてくれた。そして、図星を突かれて、俺は素直に頷いた。
でも、それだけじゃない・・・このもやもやした気持ちは・・・
そう、あの時と同じだ。
大沢さんと桜さんが一緒にいるところを見た時と。
ああ、俺は・・・また、桜さんと一緒にいる男に、嫉妬してるんだ・・・
だって、桜さんは本当に可愛くて、天然ボケで。笑顔なんか可愛らしくて。
でもピアノと向かい合うと近づけないくらい崇高なオーラを醸し出す。
そのギャップが・・・更に周囲を引きつける。
俺もその一人だ。
付き人兼マネージャーをしていて、桜さんの1番近くにいるはずなのに。
いつだって、桜さんの側に近づける他人に、醜く嫉妬してる・・・
「青木・・・この際だから聞いておくけどさ・・・・」
憲一さんはそう前置きしてから、俺の顔をじっと見た。
「・・・何ですか?」
「お前、桜に惚れてんのか?」
「えっ!」
聞かれた俺は、今までにないほど驚いて、思わず立ち上がった。
ガタン、と椅子の音が周囲に響いて、他の社員の視線が少し気になった。
「そ、そ、そんなことないです!
俺が桜さんのこと好きとかだったら・・・“Team 桜”の皆さんなんか、全員桜さんにベタ惚れですよっ!」
“Team桜”とは、桜さんのコンサートスタッフの事だ。全員ここの社員で、桜さんと憲一さんが人選した人達ばかりだ。みんな、桜さんが全幅の信頼を寄せている人達だ。
あの叶野桜に信頼されて、コンサートの裏方を任されている人達・・・“Team桜”のみんなは、桜さんの事が大好きだ。それは、自分を信じてくれている人に対する、当然な想いだ。
そして桜さんも、その「teams桜」やスタッフに対する感謝や気遣いを、決して忘れない。
舞台のあとの打ち上げの時だって、一人一人にありがとう、と言っている。時として、ハグされているスタッフもいる・・・
そういえば俺も以前、コンサートのあと、ありがとうのハグされたことがあったっけな・・・
「お、俺も同じです。桜さんの事、尊敬してますけどっ・・・別に好きだとか、そういうんじゃ・・・」
慌てて、しどろもどろそう言う俺の反応を、憲一さんは面白そうに見ていた。そして・・・
「・・・・ぶっ・・・・・あっはっはっは・・・・」
ついに笑いが堪えられなくなったのか、憲一さんは大笑いした。
「そんな向きになって否定するな!冗談だ冗談!」
「・・・憲一さんの冗談は笑えません!」
思わずそう負け惜しみをいったけど、所詮負け惜しみ以上の物にはならなかった。
その時。
「ふふっ・・ふふふっ」
不意に、隣で、必死で堪えるような笑い声が聞こえた。隣の席では、俺と憲一さんのやりとりに我慢できなくなったのか、大西さんが手で口を抑えながら、必死で笑いを堪えているようだったが・・・それは明らかに失敗していた。
「大西さん、笑いすぎです!」
「ご、ごめんなさいっ・・・」
けど、その笑う顔は、凄く可愛くて、俺は憲一さんにからかわれてることさえ忘れた。
(けっこうかわいいんだな・・・)
「まあ、それはいいとして」
憲一さんはやっとの思い出笑いを収め、俺の思いさえも遮断して、現実の世界に引き戻した。
「近づく輩のことは、あんまり神経質になるな。あれでも桜はわきまえてる。
それと、資料、頼むな。あと、明日、俺と桜はテレビ局に直行するから、お前も直行してくれ」
収録の日は、憲一さんが桜さんを車で迎えに行ってから、現場に直行する。憲一さんの自宅と桜さんの自宅は近所なのだ。
「判りました」
俺も、笑いを封印して、そう返事をすると、憲一さんは去っていった。
「大西さん・・・今日のランチ、奢りな!」
「えーー!!」
「あーんなに笑った罰!
“メソード”の日替わりランチ、今日確かラザニアだったっけ?あれ奢って!」
俺と大西さんは、あの日以来、毎日ランチを一緒に食べている。今日はあっちの飯屋、昨日はこっちのカフェ、と、食べるところを変えている。この辺りの地理にあんまり詳しくない大西さんに、美味しいところとかを教えるついでだった。
それに、大西さんと話すのはいつも楽しかった。
話はいつも、些細な話だったり世間話だったり、他愛もない事ばかりだった。でも、その言葉のやりとりが、何よりも楽しかった。
大西さんとは、あの入社の日以来、打ち解けて話すようになった。
そして、それに従って、彼女の気になることもあった。
それは・・・
例えば彼女のデスクの電話が鳴ったとき・・・
一瞬彼女は、電話に出るのを躊躇する。
そして躊躇の後、受話器を取ろうとするのだが、その手が、腕が、酷く震えているのだ。
それも一度や二度ではない。彼女の電話のベルが鳴る度、彼女の腕が震えた。
最初は、単なる偶然か、彼女の腕の傷が痛むのか、とかそう思っていた。
でも、こう頻繁にそんなことがあると・・・妙だった。
そして、妙なことがもう一つ。
それは、先日、就業時間内に仕事が終わらなくて、残業になった時・・・・
俺と大西さん、二人だけ残った、夜の事務所。
大西さんは、俺よりも早く仕事が終わって、帰れるようになったけど、俺は、なかなか終わらなかった。
「青木さんは・・・まだ、時間、かかりそうですか?」
「ああ・・・」
「あの・・・」
彼女は、何か言いたげに口ごもっていた。その様子に、尋常でない何かを感じた俺は、ディスプレーから彼女へと視線を移した。
「どうかしたのか?」
そう聞くと、おずおずと、言いにくそうに、口を開いた。
「あの・・・お仕事、お手伝いしますので・・・一緒に帰ってくれませんか?」
「はぁ?」
思わず聞き返してしまった。
一瞬、俺に好意でもあるのか?と妙な誤解をしそうになった。でも、それが誤解だと気づいたのはすぐで、彼女の顔は真剣そのもので、色恋沙汰とは無縁の表情だった。・・・何かに怯えているような・・・
「・・・・夜の町が・・・怖いんです・・・」
お願いします、と、切羽詰まったように俺に頭を下げてきた。
「い、いつもは・・・残業にならないように、時間内に仕事終わらせるんですけど・・・今日はどうしても終わらなくて、残業になっちゃって・・・でも・・・暗い道とか・・・凄く怖いんです」
この事務所は、そんなに治安の悪いところにあるわけではない。事務所の前は、結構人通りの多いオフィス街だし、駅からもそんなに遠くはない。
平気だよ・・そう言って宥めてあげようかと思った。でも、彼女の顔は真剣そのもので、俺の言葉なんか、気休め以上の物にはならなさそうだった。
「・・・わかった。じゃ、手伝って」
「は、はいっ!ありがとうございます」
「お礼を言うのは俺の方だ。さて、片付けよう」
「はい!」
そう言って大西さんは笑った・・その笑顔の目は少し涙目で、よっぽど今まで、怖くて泣き出しそうだったのだろう・・・
結局その日は、彼女に残業を手伝って貰い、それから程なく、二人で事務所を後にした。
二人で並んで夜の町を歩きながら、彼女の腕は相変わらず、恐怖からか震えているようだった。
俺は、彼女の腕をそっと掴んで、何も言わずに二人で駅に向かった。
掴んだ彼女の腕からは、駅に着くまで、震えが止まらなかった。
(何か・・・あったのか・・・・・)
彼女に聞いてみたい衝動に駆られたけど、何故か、聞いちゃいけない事のように思って、俺はそれ以上聞かなかった。
それ以来、俺は、彼女が残業になりそうな日は、俺も仕事のペースを調節して、わざと残業になるようにした。
経理の人には嫌そうな顔をされたけど、気にしなかった。
そんなことより、怯えて震える大西さんの方が、ずっと気になった・・・
そんなことが積み重なり、俺と大西さんとの距離は、少しずつ縮まってきた。
でも、その距離感は、恋人同士のようなそれではなく、仲の良い同じ職場の人、という距離感は変わらないままだった。
そして俺自身も、この時は、この仲良しな距離感を壊したくなかった。
そう、あの時までは・・・