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縁の下に咲く花達  作者: 光希 佳乃子
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プロローグ


プロローグ




朝8時半・・・


ピアニスト、叶野桜のコンサート東京公演。


規定の出社時間、俺は事務所ではなく、公演会場となる都内のホールに来ていた。ちなみに正門ではなく、裏の通用門。


今日は1日、このホールが俺の仕事場になる。


あの人の事だから、遅刻してくることは絶対にあり得ない。ましてやあの人を連れてくるのはマネージャーの憲一さん。時間にうるさいあの人が遅刻するなんて、絶対にない。


それまでに俺は、やるべき事をやる。


通用門の警備員に身分証を見せて、ドアを開けて貰う。そして利用出来る部屋とピアノの鍵を借りて、今日使用することになっている彼女の控え室の鍵を開けて、窓も開けて、換気。エアコンをかけて、室温を調節しておく。


それからスタッフ連中の使う控え室も鍵を開けて、同じように換気と室温調整も。


あと、桜さんの好きな銘柄のミルクティーとミネラルウォーターのペットボトル、それからスタッフ用の飲み物も用意しておく。これは、あらかじめ近くのコンビニで多めに注文して、さっき受け取ってきたので、スタッフの控え室と桜さんの控え室の冷蔵庫に入れておこう。ここのホールは、控え室に、簡易型とはいえ冷蔵庫があるから、こういうとき重宝だ。


どうせあとでまた買い出しに行くことになるけど、最低でも桜さんのだけは、いつでもちゃんと飲めるようにしておく、これも、彼女の付き人兼コンサートスタッフの役目だ。


それから舞台袖に向かった。


電源のパネルを操作して、舞台袖と舞台の明かりをつけた。




グランドピアノは、舞台袖の端に置いてあって、一人で動かすのは無理な状態だったので、スタッフがあつまったら手伝って貰おう。


舞台の細かいセッティングとか証明とかの打ち合わせは、コンサートスタッフが集合してから打ち合わせがある。それまで無用に機械は触らない・・・そういえば以前、間違えて触ってしまって、他のスタッフに大目玉を食らったっけな。





コンサートスタッフ・・・通称、「team 桜」の集合時間が9時。もうそろそろだ。


今日のタイムテーブルと予定表のプリントを舞台袖の簡易机の上に用意した時、通用門の方で声がした。俺は準備を中断して、通用門へと走った。


スタッフの連中が続々と会場にやってきた。コンサートスタッフのバイトもいるけれど、ちゃんとした事務所の社員もいる。その社員のスタッフが集まるのもこの時間帯だ。


「おはようございます」


「おはようございます!」


「おはよう、青木!」


「今日も早いな。一番乗りか?」


「新人ですから」


「偉い偉い」


スタッフはみんな、事務所でも気心が知れている人達だ。「Team 桜」のメンバーはみんな、桜さんとマネージャーの憲一さんが人選している。人数はそう多くないが、桜のコンサートの裏方を担う精鋭部隊だ。


「来た早々で悪いんですが、ピアノ、舞台に出すの手伝って下さい!あ、これ鍵です!」


「おうっ!荷物置いたらすぐそっちに行く!・・・お前の細腕じゃ無理だろう?」


「青木君は桜さんについていて。ピアノは私たちでやるから。桜さん、もう来るから」


「はい!じゃ、ピアノお願いします!」


俺がそういうと、いつも舞台セッティングをやってくれているスタッフが片手を上げて返事をして、スタッフ用の控え室へと入っていった。


そのスタッフに混じって、小柄な女性と、荷物を持った背の高い男性が入ってきた。


「おはよう、青木君!」


「おはようございます!桜さん」


さわやかな笑顔、それを見ただけで、今までの準備が全て報われるような気分になった。


「いつも早くからありがとう」


「どういたしまして。


控え室は101の部屋を使って下さい。準備できています。


もうすぐピアノの用意も出来ますから、荷物置いたら舞台の方に行って貰えますか?」


「うん、わかった」


通用口から楽屋に向かって歩いて行く小柄な女性と荷物を持った男性・・・桜さんと、マネージャーの憲一さんについて行くように、歩いた。


憲一さんの肩には、彼女の舞台衣装と大きめなカバンが二つ、ある。ピアノのコンサート本番直前に彼女に重たい荷物を持たせてはいけない、というのは暗黙の了解で、手ぶらな桜とは対照的で、憲一さんの両手は荷物で一杯だ。


俺はすかさず憲一さんの荷物を奪うようにして持った。


「サンキュ!朝からお疲れ、青木」


「いいえ。近くですから」


このホールから俺の住んでるマンションまでは、歩いて5分とかからない。さっき飲み物を買った近くのコンビニも、実はよく行く店だったりする。


控え室に付くと、桜さんは早速上着を脱ぎ、手袋を外し、軽く指を解すように動かした。


「じゃ、先に舞台に行ってます」


と、数分もしないうちに控え室を出て行った。


「判った。後はやっておく。俺と隆哉で、客席で音聴くから」


憲一さんの言葉に、桜さんは判った、と頷き、俺が憲一さんの手から奪うようにして持って来た荷物のファスナーを開け、中からミルクティーのペットボトルを引っ張り出した。量は半分程減ってしまっている。きっと車の中で飲んでいたのだろう。


そのボトルを一気に煽って空にした。


俺はすかさず、冷蔵庫の中からミネラルウォーターのボトルを出して、彼女に渡した。ピアノを触っているとき、彼女は水しか飲まない。それは練習中でも本番前でも同じだ。コンサート前の練習が佳境に入るとご飯も食べない程だ。


「ありがとう。じゃ、行ってくるね」


彼女は靴を履いて舞台袖へと向かっていった。


「いってらっしゃーい」


俺の声が耳に入っているかは判らないけど、俺は舞台へと向かって行く桜さんの背中を見送った。


まるで俺、忙しい旦那様を見送る奥さんみたいだな、と馬鹿みたいな事を考えて、赤面した。


「随分、この仕事慣れてきたみたいだな」


俺の後ろ、控え室の中では、憲一さんが桜の衣装を衣装置き場に丁寧に掛けている。今日の衣装はドレスが2着。男の俺から見ても、とても華やかに見える。二着とも、今日のプログラムに合わせてセレクトした、桜さんの舞台衣装だ。


そんな憲一さんを横目に見ながら、荷物の整理をした。舞台衣装関連と、メイク道具、楽譜、それから身体のケアに使う物・・・何が何処にあるのか、覚えておかないと、何かあったときに動けなくなる。


まだ俺は、不測の事態が起きたときに的確には動けない。一人前以下のスタッフだし、まだまだ半人前以下の付き人だ。


「まだまだですよ。もっと見渡せるようにならないとなって思うこと、多くて、足掻いてるだけです」


「でも、桜が信頼している。それは大きいと思うぜ」


「そうですかねぇ」


この「Team 桜」・・・桜のコンサートスタッフになれるには、条件がある。


それはたった一つ・・・桜に信頼されること。そして、桜の信頼を絶対に裏切らないこと。


桜さんに言わせれば、“私が信頼できない人に、身の回りのこととか、大切なコンサートの事を任せたくない”ということだ。もっとリアルに言ってしまえば、『自分に悪意や殺意を持っているかも知れない人に、自分の無防備な身体や身の回りの物を触らせたくない』ということだ。


だからこのコンサートスタッフのメンバーは、男性女性問わず、桜と憲一さんが厳選した人達だし、逆に、この「Team 桜」に入る、という事は、桜が全幅の信頼を寄せている、という事だ。



「さて、そろそろ俺達も舞台に行くか?」


耳を澄ませると、舞台の方からピアノの音が聞こえ始めた。桜さんが舞台で指慣らしを始めたらしい。あの指慣らしが終わると、今日のコンサートプログラムを一通り演奏し始めるだろう。


俺と憲一さんは、それを客席で聴く。そして、音響や響きのチェックをして、おかしければスタッフや桜さんに伝えて、様々なセッティングを変えなければいけない。ければ行けない。


忙しい1日は、まだまだ続く・・





憲一さんと、誰も居ない客席の一角に座った。2階席まである大きなコンサートホールは、まだ照明が落とされていて真っ暗だけど、舞台だけは照明・・・スポットライトではなくて、単なる照明・・・が付いていて、自然に明るい。ステージの中央にはスタンウェイのグランドピアノがセッティングされている。


桜さんはその椅子に座り、今日のプログラムの曲を一曲ずつ、丁寧に演奏している。


練習している、という感じではなく、まるで音を一つずつ確認するように弾いている。あれは、本番前の彼女の癖だ。


会場ごとにピアノの様子も調整具合も全然違う。いつも桜さんが練習に使っているピアノとは条件も出る音も違う。それを確かめているのだ。



その音を聴きながら、俺は隣に座る憲一さんの顔を見た。


就職が決まらず、進むべき夢も未来も見失いかけていた俺を、この世界に引っ張り込んだのは、他でもないこの人だった・・・







今から3年前。


大学四年だった俺は、就職活動に全勢力を注いでいた。


でも、就職氷河期を引きずっていたご時世、歳を重ねる度に減って行く求人率。いくつ面接を受けても、内定を貰うことが出来なかった。


日増しに増えて行く不採用通知、比例して、内定を貰って安堵している仲間達・・・精神的にも肉体的にも疲弊していた。


焦り、不安に支配されて、将来の希望も、抱えていた夢さえも見失っていた。


そんな矢先だった。


大学入学の頃からバイトしていたTMO音楽事務所の社員の橘さん・・・橘憲一さんから連絡を貰った。


TMOは、クラシックイベントの企画や運営をするイベント事務所だ。元々は、「橘尚子」というピアニスト・・・クラシック界の重鎮、と言われているピアニスト・・・のスケジュール管理とか、そのピアニストのコンサート企画・運営をする個人事務所だった。それが今、橘尚子の他に、数人のピアニストや演奏家を抱えて、クラシックイベント企画の他にも、そういった演奏家達のマネージメントもやっている、そんな事務所だ。


さしずめ、芸能プロダクションの演奏家バージョン、と言ったところだろう。


俺がバイトしていた頃もそうだった。俺はその『橘尚子』のコンサートスタッフのバイトをしていた。その事務所の社員が、この橘さんだった。


実はこの橘憲一さん、その『橘尚子』の息子さんだ・・・と知ったのは、彼と知り合って随分経ってからだった。


その憲一さんに呼び出されて、事務所の側のカフェで待ち合わせた。


憲一さんは、モデル並みに背の高い、大人びた・・・まあ、実際俺よりもずっと年上なんだけど・・・落ち着いた人だった。俗に言うイケメン、といった感じではないが、整った顔立ちは、近寄りがたいそれではなく、もっとずっと身近な、たとえば兄のような存在だった。


「どうだ?就職、決まったか?」


いくつかの雑談の後、橘さんはそう切り出してきた。


「全然駄目ですね。就職浪人しそうです」


それは、俺にとって敗北宣言だった。


他の誰にも言いたくなかったし、今まで口に出したこともなかった。それは、口に出したら負けを認めるみたいで嫌だった。


でも、この橘さんには、素直に弱音を吐けた。バイト時代からずっとそうだった。それは、この人の為人故かも知れない。


「そんな弱気、青木らしくないな」


自分でもそう思った。絶対負けたくなかった。夢を叶えるつもりだった。そのために頑張ってきたはずだった。でも今は、その追いかけ続けていた夢さえも、あやふやな幻みたいだった。


「もう、進路指導部にある求人、全部見て、応募したんですけどね、駄目でした」


就職活動が始まった頃は、希望の職種しか受けていなかった。でも、今はそんな事言ってられない。就職浪人だけはするな、と親にも厳命されていた。


生活が決して楽ではない俺の家。そんな中でやっとの思いで大学の学費を捻出してくれた両親に、これ以上迷惑はかけられない。大学卒業してフリーター、なんて事になったら、両親が絶望しそうだ。


「・・今、不景気だからなぁ・・・」


憲一さんはそう言いながら、手元のコーヒーに口をつけた。


「もしも・・・さ、就職先見つからなかったら、うちの事務所に入らないか?」


「え?」


突然の橘さんの言葉に、俺は返す言葉を失った。


「実はさ、うちの事務所、スタッフが何人か、結婚やら出産やら一身上の都合で辞めちまって、人数不足なんだ」


「・・一気にですか?・・・」


「そ。一気に。参ったよ。みんな急でさ。ま、現場の仕事は結構ハードだから、続かない。特に女性は、さ。


まあ・・・男女平等に仕事を・・なんて言われてるこのご時世にこんな事言ったら怒られそうだけど、さ。


きついとすぐ辞めちまうんだよな。もうちょっと仕事に自覚と誇りもってくれないとな」


内部事情を知っているだけに、事務所内がどんな状況か想像付いてしまう。コンサートスタッフとして動ける人が辞めたとなっては、コンサートシーズン、乗り越えられるんだろうか?


それにしても、辞めた人達も・・・何を考えてるんだろう?気が知れない。


就職浪人確定しそうな俺からしてみれば、せっかく就職した職場を、仕事内容がきついくらいで辞めてしまうなんて勿体ない。


俺だったら・・・どんだけ苦しくても絶対に辞めないのにな・・・


もっとも、そう思えるのは、今、就職が決まらなくて苦しんでいるからで、仕事が苦しくて辞めてしまう人の気持ちまで、今の俺には考えられなかった。


俺がそんなことを考えているのに気づいたのか、橘さんは軽く息をついた。


「・・・それでさ、青木、もしよかったら、うちの事務所、入らないか?


バイトじゃなくて、正式採用で、さ」


「TMOに・・・ですか?」


俺は手元のコーヒーを飲むことさえ忘れて、橘さんの顔をぽかん、と見つめた。


「バイトやってたときも、青木君は現場でちゃんと動いてたし、コンサートの現場の事も見ていたわけだし、ある程度は判るだろ?」


確かに、大学時代、バイトでコンサートスタッフをやっていたし、TMOの事務のバイトもやっていた。内部事情もある程度理解できる。


でも、音楽事務所とはいえクラシック業界。俺にとっては未知の世界だった。


第1、俺はクラシック音楽もピアノも、全く判らない。音楽なんて、お気に入りなJ-POPダンスミュージック以外全く聴いたこともないのだ。


そんな俺が、クラシック業界の仕事をしたところで・・・どうなんだろうか?


「ああ・・・確かに、最初は勉強して貰うことになると思う。この業界の事とか、クラシックのこととか、舞台の事とか、な。


今まで、大学で青木君が勉強していたことが、役に立つかどうかも判らないし、君の夢を叶える場所かどうかも判らない。


それに・・・うちの事務所、そんなに大きいところじゃないし、成長産業でもない。将来を約束できるような大企業でもない。


はっきり言って仕事は裏方で地味だしきつい。・・・まあ、現場のきつさは君も知ってるとおりだし・・・脚光を浴びることもない。


でも・・・妥協して、どこでもいいから就職したい、って、投げやりな気持ちで就職活動続ける位なら、うちの事務所で、ゼロからスキルを積む覚悟で、やってみないか?」


橘さんのその言葉は、投げやりになっていた俺の心に突き刺さった。


“もうどこでもいいから内定が欲しい!”


そう思っていたのも確かだった。そして、内定ほしさに、好きでもない職種に対して好きなフリをしたり、企業や会社が気にいるように媚びへつらっていた所もあった。


それをやるくらいなら、自分に嘘付くくらいなら・・・嫌いでもいいから、この事務所で正面からぶつかって仕事してみろ。彼の言葉はそう言っているように聞こえた。


「・・・橘さん、一つ、教えて下さい」


「何だ?」


「橘さんは、この仕事、好きですか?」


「嫌なことは目一杯ある。でも・・・それ以上にやりがいを感じている」


橘さんはそう言って笑っていた。その笑顔は、今まで見てきたどんな憲一さんの表情よりも、格好良かった。




そして、俺は決心した・・・





「TMO」は、橘さんの叔父さんが代表取締役を務める事務所だ。


入社したその時から、俺は、橘さんの事を「憲一さん」と名前で呼ぶように言われた。


「俺の親戚がやってる職場だから、とにかく“橘”って名字の従業員が多いんだ。だから俺の事は下の名前で呼んでくれ。その方が混乱しないだろ?」


実際、事務所で、“橘さん”と声をかけると、憲一さんと社長を含めた数人が返事をするような事務所だった。ピアニストの橘尚子が事務所に居るときは、橘尚子も返事をするのだ。


確かに紛らわしい。


「判りました。・・・憲一さん」





TMOに就職してからは、まるで駆け抜けるようだった。


文字通り、ゼロからの出発だった。


事務仕事はバイトで経験はあった。でもそれは所詮バイトであって、社員になってからはもっと違う視点で物を見ることを要求された。


それはコンサートの現場でもそうだった。バイトではなく、社員としてコンサートの舞台裏を走り回り、舞台に立つ演奏家さんが気持ちよく舞台に立てるように、心を砕いた。


仕事はハードだし、コンサートは土日が多いので、土日の出勤は当たり前。大学でのんびり過ごしていた俺にとっては心身共にしんどかった。


それでも、俺は、死にものぐるいで、この仕事にかじりついた。踏ん張れたのは、あの、就職が決まらなかった時に、憲一さんに言われた言葉があったからだろう。


“投げやりな気持ちで就職活動続ける位なら、うちの事務所で、ゼロからスキルを積む覚悟で、やってみないか?”


その言葉は、俺にとっては道しるべだった。そうすることでしか、前に進む手立てが見当たらなかった。


ゼロから、全てを吸収して、自分の物にする覚悟で、仕事にぶつかっていった。やがて、所属する演奏家さん達にも、他のスタッフにも、少しずつだけど認められるようになっていった。




そして去年、あの桜さんのマネージャー兼付き人を務めることになった。


マネージャー、といっても、桜さんのマネージャーは今、憲一さんが担当している。俺はその補佐と付き人、という位置づけだ。マネージャー業を覚えるためだろう。




「桜さん」・・・叶野桜さんは、この事務所に所属する演奏家の一人だ。


そして、俺が知っている限り、今、日本で1番有名な若手ピアニストだ。


ピアニスト業界の重鎮、橘尚子の弟子で、数年前までドイツで演奏活動をしていた。世界的にも名前が知られているピアニストで、「東洋の至宝」と言われている。クラシックやピアノに全く興味のない人でも、この人の名前くらいは知っているだろうし、一度くらい演奏を聴いたことがあるだろう。それくらい、超が付くほどの有名人だ。


クラシックに疎い俺でさえ、この業界に入る以前から、名前を知っていたほどだ。


それは、コンサートでピアノを弾く姿を見たからではなく、テレビに良く出演しているからだ。


ドラマで女優の代わりにピアノを演奏する「演奏ピアニスト」をやったときにも、その主演女優以上に素晴らしい演奏が話題になったりもした。


CMで、ピアノを演奏している姿が、曲と一緒に流れていることもあった。


また、音楽番組で日本のJ-POPミュージシャンとセッションする事もあったからだ。


それでも彼女は「私は芸能人じゃない。本職はクラシックピアニスト」と断言して、クラシックのコンサート活動を最優先にしている。テレビでの仕事は、その片手間、そう言いたげに。


そんな人の付き人をする・・考えただけで足が竦んだ。


そして、桜さんの「付き人」として初めて桜さんと向かい合った時・・・


「これからよろしくね、青木君」


桜さんは、俺よりも4歳年上の人だった。けれど、俺よりもずっと小柄で、まるで高校生みたいな体格だった。握手をするためか、差し出された手だって、俺が想像したものよりもずっと小さかった。このひとが本当に、あの「東洋の至宝」なのか?


一瞬疑った。


少なくとも、俺の周りには居ないタイプの女だった。童顔で小柄で、少し頼りなげにさえ見える。俺と並んだら、俺の方が絶対年上に見えるだろう。


でも、かといってその表情は子供ではない。年齢以上の経験を積んでいる。


まだ幼さの残る、美人、と可愛い要素の両方がバランス良く混ざっている顔は、一度見たら忘れないだろう。でもそれは、生まれ持った物ではなく、年齢以上の人生経験を積んだ結果のように見えた。


差し出された、小さな白い手に俺も触れて、ぎゅっと握手を交わした。


その手は温かく、血が通った物だった。そして触れた瞬間、気のせいか、俺の腕に、身体に、電流が走った。


その腕は、細かったが、演奏で鍛えられた、締まったしなやかな腕だった。


それらの全てが、俺を捉えていった。


「面倒くさいかも知れないけど、よろしくお願いします」


「こ、こちらこそっ・・・か・・叶野さんっ・・・」


「桜でいいよ。スタッフにはそう呼んでもらってるの」


「ス・・・スタッフ?」


「そうだよ。同じものを作り上げてく仲間だし、大切なスタッフだよ。それは付き人もマネージャーもコンサートスタッフも同じ。


貴方も私の大切なスタッフよ。これから、よろしくお願いします」


スタッフ。仲間・・・俺のことをそう言ってくれた。


その言葉が、不思議と俺の心に、不思議な雫を落としていった。それは、今までにない感覚を呼び覚ましていった。


そして、その瞬間、俺は決めた。


この人を、全力で支えてみせる。と・・・



就職前、あんなに頼りなかった俺が、この仕事に就いて、最初に手に入れた“使命”。。。


俺は、この人を守るために、この職に就いたのかも知れない・・・大袈裟だけど、桜さんとの出会いは運命のような物を感じた。


桜さんとの出会いで、俺は、見失っていた自分自身を変えられるような気がした。




「青木!ミーティング始まるぞ!」


桜さんのリハーサルを聴きながら、過去に思いを馳せていると、憲一さんにそう声をかけられた。


「あ、はい!」


俺は立ち上がり、気持ちを過去から今に戻した。


俺の目の前には舞台があり、そこには桜さんが立っていた。その手には、俺がさっき渡したミネラルウォーターのペットボトルがあり、そしてスタッフと何やら話をしている。


俺は、俺自身の居場所へと向かって、歩きはじめた・・・



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