屈辱その2
「アンタ、もしかして『きもこ』?」
田村君子はビクッと一瞬だけ体を硬直させる。
次の瞬間美奈子は巨大なハンバーガーが入るくらい大きな口を開けてバカ笑いし始めた。
「ああっはははははははははは!そっかあ、あんときお互い気付かなかったけどアンタ、きもこじゃああああん!ひっさしぶりだねえ!アタシのこともうわかるよねええ?」
どうやら『君子』が『きもこ』になっているらしい。
良太はこの二人に意外なつながりがあったらしいことに驚く。
「どうしたんだ、美奈子?このメガネの彼女は君の知り合いなのかい?」
伊集院の質問に美奈子は笑いながら応える。
「知り合いもなにも、中学の頃すっごい深い関係だったよねええ、き・も・こ」
美奈子の意地悪そうな口調が良太の血圧をどんどん上げていく。
「おい、きもこってなんだよ、この人は『田村君子』さんって言うんだよ!」
良太がぎこちなく抵抗すると、美奈子はさらに笑い、
「知ってるよおおお、三年間も同じクラスだったもん、ねえええ、き・も・こ」
田村君子は下を向いたまま震えている。
それは恐怖と怒りが入り混じったかのような震えに見えた。
すると美奈子は急に田村君子の隣に移動し、腕で肩を強引に抱くと、ささやくように言った。
「アンタのあのキモすぎるお返しはアタシ、未だにトラウマなんだけど…。未だにね。未だに夢に出てくるんだけど…」
「や、やめて…」
田村君子は小声で呟く。
傍から見ていじめっ子といじめられっ子の関係だ。
いや、傍から見なくてもそうだろう、良太はそう思っていた。
「なによこのダッサイ制服。アンタ今何の仕事しているの?」
「ヨ、ヨーグルトのえ、営業…」
「へえええ?売れないでしょ?」
「………!」
美奈子は完全に挑発していた。
「おい、美奈子、やめろ!昔何があったのかわかんねーけど、陰険な嫌がらせはやめろ!」
良太は殴ってやりたい思いをこらえるのに必死だった。
田村君子をかばっているわけではなかった。
自分の元彼女、今でも未練がある女の醜い性格から目をそらしたかった。
少なくとも思い出だけはこれ以上汚したくはなかった。
しかし、美奈子はさらに嫌がらせをエスカレートさせる。
「ねえ、アタシ、未だにアンタのそのクソ真面目そうな顔見るだけで吐き気がするのよ。そんな顔しているから営業だってどうせ売れてないんでしょ?売れるわけないよねえ?アンタみたいなキモい女の商品を誰が買うって言うのよ!アンタのことだからどうせ押し売りでもして門前払いばっかりされているんでしょ?あーきもいきもい。ああ、そうだ!どうせだからここでアンタの中学の頃のアノ事件教えてやろうか?」
「てめえ、いいかげんにしろよ!お前が昔こいつのこといじめてたのかどうか知らねえけど、たぶんそうなんだろ?不愉快だ!やめろ!彼氏さん!伊集院さんでしたっけ?あなたも美奈子になんか言ってやってくださいよ!」
美奈子にも苛立っていたが、その場で何も興味がないかのように携帯をいじっている伊集院にも苛立ち、良太はつい言ってしまった。
伊集院は携帯をいじりながら言った。
「美奈子、その辺にしておきなよ、こんな人たちいじめたってしょうがないだろう?」
こんな人たち呼ばわりにイラっとするも、良太は気持ちを抑える。
「そうなんだけどお、昔っからコイツむっかつくんだよねえ!コイツ中学校の頃こってこてのいじめられっ子だったんだよ、アタシもめちゃめちゃいじめてたけどさあ。いじめって良くないのはわかっているんだけどお、コイツの場合いじめられてもしょうがないんだよねえ、喋り方とかムカつくしさあ、自分ばっかり真面目ぶって、ちょっとなんか言われると被害者ヅラしてさあ、テストの成績がちょっとよかったからってワザとらしくその話題ばっかりだすしさあ、ああそれでね!そうそう」
美奈子は雑誌記者が超特ダネを披露する時のような大げさな仕草をして、大きな声で言い放った。
「コイツさあ!教室でうんこ漏らしたんだよおおおおお!あははははははははは!」
美奈子以外の三人が唖然とした。
街の音という音が一瞬だけ全て消え去ったかのような錯覚を覚えた。
さすがに伊集院も美奈子を止めに入る。
しかしその表情は半笑いで何とも嫌ったらしいものだった。
「おいおい、美奈子、その辺にしときなって。この人が可哀想だろう?」
すると美奈子は叫んだ。
「かわいそうなもんか!たしかにアタシはこいつのことさんざんいじめたよ!でも、あんなおぞましい仕返しするなんて!」
田村君子は鼻をグズグズ言わせている、泣いているようだ。
美奈子は田村君子の肩を腕でぎゅうっと自分に引き寄せ、鼻息がかかるほどの距離にまで顔を近づけて囁いた。
「アタシ、アンタに下駄箱の靴の中に大量のミミズを入れられた屈辱だけは絶対に忘れない!」
「ミミズ?どういうことだ?」
良太は思わず我が耳を疑う。
ミミズなど、潔癖症にすら感じるくらいの田村君子からは想像もつかないワードだ。
「そのまんまさ、朝登校して、下駄箱を開けて、靴を取ろうとしたら、靴がラップにくるまれていたのよ。持ってみると何だか重みがあってさあ、何かが蠢いているのがわかった。一瞬で寒気がして、思わず靴を落としたらラップの隙間から次々と様々な種類のミミズが出てきたのよ。ああ!思い出しただけで未だに鳥肌が立つわ!もちろんアタシはその場で奇声を上げて腰を抜かしたわ。あまりのおぞましさにその事件以来未だに焼きそばが食べられないのよ!ねえ?アンタ、忘れるわけないわよねえ?返事しなさいよ!」
美奈子は右腕で田村君子の首をグイグイと圧迫する。
田村君子は無言でただうつむいているのでそれが美奈子をさらに苛立たせているかのようだった。
「元カレ君、過去の話とはいえ、君の彼女は実に気持ち悪いことができるんだね。心から軽蔑するよ。そこまでやるなんて尋常じゃないし、人として可哀想すぎるね。ミミズ事件は積み重なったイジメへの怨念が引き起こしたこととはいえ、美奈子たちが彼女のことをいじめてた気持ちがなんとなくわかるよ、そういう異常な精神の人間、『不要な人間』はみんな社会からは消し去るべきなんだからね」
良太は眉を潜めた。
この男の今の発言はなんなのか?
「ちょっと待てよ、不要な人間ってなんだよ?」
「社会の動きを停滞させるような使い物にならない人間のことだよ。本来そういった人間は自然淘汰されるべきなんだ。でも勘違いしないで欲しい。僕がなぜ君たちのために先ほどのチンピラどもにお金を払う約束をしてやったのかわかるかい?君たちのような金も何も持っていない不要な人間を哀れんでいるからだよ、僕はこう見えて弱者には優しいんだ」
良太は思わず動きが止まってしまう。
伊集院という男は何とも気に食わないオーラを漂わせているものの、先ほどの絶体絶命のピンチを安易に救ってくれたことには変わりない。
悔しいが、ここで彼を刺激して先ほどの、お金を支払う約束を取り消されても大変困るため、良太は極力苛立ちを抑えなければいけなかった。
「ねえ、きもこ、ここで会ったのもなんかの縁だからさ、アンタの連絡先教えてよ」
そう言うと美奈子は田村君子の服のポケットを漁り始めた。
「ねえ、アンタ携帯とか免許証とかどこ?」
「………」
「車の中ね、車のキー貸して」
「………」
「貸せよ!」
美奈子は田村君子から強引に車のキーを奪うと、社用車のドアを開け、探し始めた。
「美奈子!もうやめろ!」
「何?アタシ過去の彼氏のいうこと聞くほど人間出来ていないの、それともさっきのチンピラへのお金、やっぱりりょうクンが払う?」
「………!」
お金を払えと言われると言葉に詰まる。
情けないがどうしようもなかった。
美奈子は田村君子の携帯や財布を見つけ、そこからメールアドレス、電話番号、住所を自分の携帯に記録していった。
「はい、完了。これでまたいつでもきもこと会えるわね」
田村君子は脱走して捕まった死刑囚のような表情をしている。
伊集院は高級そうな腕時計を見て言った。
「美奈子、そろそろ行こう、これ以上は時間の無駄だ。ところで、元カレ君」
「な、なんだよ」
「僕は二百万以上のお金で君たちを助けてあげたんだ、もう一度感謝の言葉を頂けないかな?」
「…た、助かったと思っている、感謝しているよ」
すると伊集院は意地悪そうな笑顔を浮かべた。
「おいおい、元カレ君、金額を考えてくれよ。正直二百万以上っていう金額はさすがの僕でも一ヶ月分の小遣いに近い程の負担なんだよ、もっと深々と頭下げてくれないかなあ?
それともやっぱり君が頑張って支払うことにするかい?」
晒し者にされている気持ちで、良太は苛立ちを隠せなかったが、とりあえず深々と頭を下げることにした。
「ありがとうございました。助かりました」
深々とお辞儀をした後再び顔を上げると、伊集院の表情はさらに意地悪そうな顔をしていた。
「そんなんじゃ足りないな、土下座して感謝してもらわないとな」
「い、いい加減に…!」
歯ぎしりをし、そう言いつつ、伊集院の顔を見る。
今度はニヤニヤした表情ではなく、冷酷な顔をしている。
「感謝しろ。土下座しろ」
良太は美奈子の顔を見る。
元彼女として少しぐらい自分のことをかばってくれてもいいのではないかと思ったものの、その期待は大いに裏切られた。
「何よお、アタシの顔に何かついてるのお?誰のおかげでチンピラどもから助けられたと思っているのよお、つー君に土下座くらいしてよお」
少なくともお前のおかげで助けられたわけじゃない、そう思いつつ、支払いようのない金額の前ではなすすべがない。
そもそもこのトラブルを引き起こしたのは紛れもなく田村君子だ。
そして良太は田村君子の彼氏でもなんでもない。
だから良太が土下座をする必要などまるでないのはわかっていた。
しかし、田村君子があまりにも営業として能力がないため、少しでも協力してやろうといった良太の上から目線があったからこそ、今この場にいるのである。
田村君子の服選びという良太の案がなければこんなところに来て、こんなトラブルに巻き込まれなかったのも事実だった。
かといい車をぶつけたのは田村君子だった。
わかっていた。それはわかっていた。
しかし、今ここで「俺はこいつの彼氏でもなんでもないから土下座はこの女にさせてくれ」とは男の変なプライドゆえか、どうしても言うことができなかったのだ。
彼氏ではないにしろ、連れの女をかばうことができない男にはなりたくなかったのだ。
すると田村君子がいきなり声を上げた。
「か、川上良太さんは関係ありません!車をぶつけたのはワタクシですし、ワタクシが土下座をします!」
俺は即反論した。
「やめろ!お前が土下座するんだったら、俺がしてやる!」
「川上さんは土下座をする理由がありません!」
「これ以上残念な存在になるなよ!俺がする、してやる!」
伊集院、美奈子はその場で爆笑しはじめた。
良太と田村君子のやりとりが面白いのであろう。
すると伊集院からさらに想定外の邪悪とも言えるような要求が出た。
「君子さんだっけ?アナタがもしするというのであれば、土下座の他にもう一つ、リクエストしていいかな?」
「え?」
「土下座した後、スカートをめくってパンツを見せてくれないかい?」
「な、な、な…」
「いやあん、つークンのえっちい!でもアタシも見てみたい。アタシと違ってババくさいパンツ履いているんでしょう?」
君子は顔を真っ赤にして動揺する。
良太は思わず叫んだ。
「伊集院とやら!てめえ、調子に乗りやがって!ふざけるのもいい加減にしろよ!金があるからって偉そうにしやがって!」
すると伊集院は挑戦的な目つきで舐めるように良太を見て言った。
「ほ~お、言うねえ。僕のことを呼び捨てにする人間にひさしぶりに会ったよ。何だか君、心から感謝していないようだねえ、君が土下座する場合は、その後に僕のブーツに口づけしてもらおうかな?」
「!」
「りょうクンさあ、自分の立場ってものをよく考えてよお」
良太はこんなに陰険で邪悪な人間を見たのは生まれて初めてだった。
下手をしたら先ほどのチンピラの方がまだ人としてマシなのではないかとさえ思った。
この伊集院という男もかつてはいじめっ子だったのではないかと良太は思った。
二百万という大金を安易に工面してくれたのは、このように弱者に屈辱を与えていたぶるためだったのではないかと良太は思った。
そう考えると見ず知らずの人間に二百万もの大金を支払う理由が少しは理解できる。
伊集院は優越感に浸って、弱者をいたぶることで楽しんでいるとしか思えなかった。
「どうする?どちらが僕からの要求を実行してくれるんだい?それとも実行に移すのはやめて先ほどの怖いお兄さんたちには自分たちで支払うのかい?」
駐車場の周囲には現在人が全くいない。
土下座をしたところでそれほど恥ずかしいことではない。
良太は意を決して跪いた。
「川上さん!やめて!」
そして深々と土下座をした。
すると頭上でカシャッという音がした。
「ネットにアップしてやろうかな」
こいつ…携帯で写真撮ってやがる…!
さらにシャッター音が二回程なる。
「この瞬間ってやっぱ最高だね」
「りょうクンには悪いけどやっぱ超ウケるうう!」
伊集院と美奈子が嘲笑う中、ひたすら震えながら頭を地面につける。
かつて経験したことのない屈辱が良太の体中を熱くする。
「おい、元彼くん、さっさとやれよ、俺の靴に口づけだ」
良太は震える体で白い高級そうなブーツにゆっくりと口をつけた。
次の瞬間、
「汚ない口で触るんじゃない!」
「ぐわっ!」
良太は一瞬何が起こったのかわからなかった。
伊集院はブーツの先で良太の首を思い切り蹴飛ばしたのであった。
「ゲホッ…ゲホッ…!」
良太が思い切りむせながら地面を這いつくばるとそこにさらに腹部目掛けて強烈な蹴りが入れられる。
「やめてええええ!」
田村君子が泣き叫ぶ。
「まあ、このくらいにしてやるか。それなりに楽しませてもらった。二百万についてはたしかに僕が払うよ」
「ごめんねえ、あはははは、りょうクン、悪いけど、超だっさああい、あははは」
そういうと二人は笑いながら立ち去ってしまった。
伊集院のブーツと美奈子のハイヒールの音が嫌味ったらしくコツコツと響いていた。
「だ、大丈夫ですか、川上さん!」
「…悪魔みたいな奴らだな…」