屈辱その1
一時間後、錯乱状態だった田村君子もようやく少し落ち着いてきた。
しかし問題は何一つ解決していない。
さらに三十分が経過したが、高級車の持ち主は一向に姿を現さない。
このまま昼まで姿を現さないかもしれないし、ヘタをしたら今日中にすら姿を現さないかもしれない。
田村君子は社用車をようやく高級車の隣に駐車することはできたものの、自分のしでかした失敗に対し、涙がなかなか止まらない。
「なんで…どうしてワタクシってこんなに馬鹿なんでしょう…どうして何をやってもダメなんでしょう…」
「まあ、気にするなって、しょおがねえだろお、気にしたって時間がもどるわけじゃねえんだしさあ」
阿部が東方訛りで慰めるものの、他人事のような口調のためかえって田村君子を苛立たせてしまうのではと良太は思っていた。
「も、もう…ワタクシなんて社会の何の役にもたたないくずなのよ…こんな人間必要とされてないんだわ…ワタクシなんかより犬の餌の方がまだ価値あるわ…」
メガネを外してハンカチで涙を拭く田村君子に対し、良太が呆れた顔で言う。
「お前なあ…いくらなんでも落ち込みすぎるよ。自分を責めてどうするんだよ」
「それにしてもよお、高級車の持ち主がどんなヤツかが気になるなあ、まさかと思うが、ヤクザとかじゃねえだろうな…そんで『どーしてくれるんだー、体で稼いで返してもらおうか』とか言われて風俗とかに…」
「やめてええええええ!怖いこと言わないでください!」
田村君子は全身から汗を飛ばしそうな勢いで阿部の発言に敏感に反応する。
「阿部!いくらなんでも冗談きついぞ!」
良太は半分本気で怒っていた。
これ以上この女をパニックにさせると火に油を注ぐように更なる不幸を呼び起こしそうな気がして怖かったのである。
「お、おい」
石本が真面目な顔で駐車場の脇のエレベーターを見る。
エレベーターから男二人が出てきた。
一人は茶髪の長髪でサングラスをかけていて白いスーツを着ている。
もう一人はリーゼントとパンチパーマの中間のような髪型をして、全身龍の模様が描かれている黒のジャージに下駄を履いている。
怖そうなお兄さんがまっすぐとこちらに向かって歩いてくる。
「ど、どうしよう…」
顔面蒼白の田村君子に対し、良太は何もしてやれない。
すると石本と阿部が、
「ご、ごめん。僕急にトイレに…」
「オ、オイラも…ごめん」
良太が普段最も親しく接している二人の友人は突然、家主に見つかったネズミの如く逃げ出したのである。
「お、おおおおおい!お前らあああああ!…あんの野郎共…あんな奴らを友人だと思っていた俺が馬鹿だった…」
良太と田村君子は社用車の前に立っていてそこから全く身動きが取れなかった。
ここで逃げたら事態は尚更やばくなる。
怖いお兄さんたち二人はどんどんと例の高級車の近くにやって来る。
この車が怖いお兄さんたちの車じゃないようにと良太も田村君子もひたすら祈った。
しかし祈りは届かなかった。
長髪が運転席に乗り込もうとするとすぐにその凹みに気づいた。
「なんだコレ!おい見ろよ!」
ああ?と言いながらだるそうにパンチパーマがやってくる。
「…んだ?コレ!ふざけやがって!ぶっ殺してやる!」
良太も田村君子も顔面蒼白で冷や汗が全身から吹き出ている。
かつて経験したことがないくらい体がガクガク震えていて、どう声をかけていいのかわからない。
するといきなり、
「ごめんなさいっ!」
田村君子が怖いお兄さんたちの前に走っていった。
「はあ?なんだ姉ちゃん?」
「そ、そ、その…その…く、く、く、車にぶつけたの…わ、わ、わた、わた…ワタクシなんです…!」
良太は口を半開きにしたままあっけに取られていた。
「姉ちゃん、それ本当だな…?」
パンチパーマが田村君子の顔に自分の顔をじわじわと近づけながらドスの効いた声で訊いてくる。
「は、は、はい…すみません…」
長髪がポケットに手を突っ込みながら言う。
「んで?どうやって落とし前つけてくれるんだ?弁償できるのか?」
田村君子はただ震えていた。
「弁償できねえなら…」
「いやあああああああああ!イメクラとかソープとかピンサロだけはやめてくださああああああああああい!」
田村君子がいきなり大声で叫んだ。
「バカ野郎!声がでけえええんだよ!」
パンチパーマは田村君子の大きな声に一瞬驚いたもののすぐにドスの効いた声で威嚇してきた。
「お姉さんがダメならそちらの頼りがいのありそうな彼氏になんとかしてもらおうかな?」
長髪はそう言いながら良太の方を見た。
良太は逃げたかった、死ぬほど逃げたかった。
『自分はコイツの彼氏なんかじゃない』
そう言ってしまえば自分はここから逃げ出すことができる。
それは間違いなかった。
しかし、それは同時に田村君子を置き去りにするのと同じことだった。
そしてそれは男としてものすごく格好悪い行為だという現実にもぶつかっていた。
田村君子の服を選んでやるなどと偉そうに、頼れる人間のように接しておきながら、いざとなると結局は逃げ出してしまう。
いざとなると所詮自分は赤の他人に過ぎず、服選びなど田村君子への思いやりなどではなく、良太の自己満足に過ぎないというこの受け入れがたい屈辱的現実…。
良太はこのまま自分だけ逃げるのも嫌だったし、かといい妙なことに巻き込まれるのも嫌だった。
良太はあくまでも常識的な行動に出ようと思った。
「ま、まずは、お、お、お互いの免許証を見せ合いませんか?そ、そして、け、警察を呼んで、ほ、ほ、保険会社を…」
「ふうううん、まあいいだろう。でもな、俺たちがそれだけで満足行くと思っているのか?」
「え……?」
「これから俺たちは取引先と大事な会合があるってえのに、それに遅れることになるわけだ。それはすなわち取引先の『信用』を失うことになる。その経営的な損失は保険などというマニュアル的な弁償では賄いきれない。そしてそのことに対して俺たちがカシラ、つまり上の人間から受ける制裁は精神的苦痛を俺たちに与えることだろう。そのことに対する慰謝料はまた別途でもらわないと納得がいかねえな」
よくしゃべるチンピラだった。
恐らく一番質の悪いタイプだろう。
人情の欠片もなさそうな奴らだ。
ああ言えばこう言うといった屁理屈タイプのチンピラに違いない。
良太は絶体絶命の危機を感じた。
自分は田村君子のために何もしてやれない。
いやそもそも何かしてやる必要など全くないのだが。
「さて、どうする兄ちゃん?そうだなあ、君たちはまだ若いし、大金払えったって無駄だろうから車の修理代は保険でまかなうとして、他に慰謝料分として二百万で勘弁してやろうかな」
「に、二百万…!」
「なんだよ、ビックリするくらい安いだろ!ありがたいと思え!てめえら二人で稼げばなんとかなるだろ!いっとくが警察に通報したらタダじゃおかねえからな」
田村君子も俺も全く生きた心地がしないまま、石になったように固まっていた。
その時、
「りょうクンじゃなああい?」
真後ろから間抜けそうな女の声が聞こえた。
良太を振った女、堀川美奈子だった。
相変わらずバブルの生き残りみたいなボディコン系のワンピースにブランド品のバックを身にまとっていた。
そして美奈子は白くて高級そうなスーツを着たホスト系の男子を連れていた。
「み、美奈子!」
良太は思わず声を上げる。
「ねえ、なになにコレ~?もしかしてタイマン?うわ~カッコイイ!頑張れ~!」
ガッツポーズをしながら言うその女のあまりの馬鹿さ加減に良太は改めてかつての彼女に幻滅する。
「なんだてめえら、部外者は引っ込んでろ!」
するとホスト系男子が言った。
「美奈子、この何やら怯えているような男の子は?」
「コレえ~?元カレ!いい人だったんだけどねえ」
そのキザそうなホスト系男子はニヤニヤと嫌ったらしい笑みを浮かべて、
「へーえ、このお方がねえ…。初めまして元カレさん、ぼかあ美奈子の今カレの伊集院翼と言います」
そう言い、名刺を差し出した。
名刺には『東京エンペラーホテル支配人補佐・東京帝国大学大学院経営学科二年・伊集院 翼』と書かれていた。
「おい、部外者、俺たちは今、愛車に傷を付けられたことで、このニイチャン、ネエチャンと話し合いをしているんだ、怪我したくねえならどっかいっちまいな」
パンチパーマがドスの効いた声でそう言うと、伊集院は挑戦的な目つきをし、言った。
「で?いくらだ?」
「はあ?てめえには関係…」
「二百万だったら今すぐに用意できるよ、あと、保険屋とか警察とか呼ぶといちいち面倒だから、今すぐにでもその傷を実費で知人の整備士に修理させるよ、それでいいだろ?」
「…てめえ何者だ?」
伊集院はチンピラ二人にも名刺を差し出した。
名刺を見た二人は目を丸くしてお互いの顔を見合った。
「マジか…?」
チンピラたちは伊集院の説明にあっさりと納得して、車でその場を去ってしまった。
「いやあ、元カレクン、ぼくがいたおかげで命拾いしたね」
「そうよ~りょうクン、感謝しないとね!すごいでしょ、アタシのカレ!」
良太は腑に落ちないものの、結果としては大助かりしたのは確かだったのでとりあえずお礼を言うことにした。
「あ、ありがとうございます…で、でもいいんですか?あんな大金を…」
「大丈夫だよ、自慢するわけじゃないけれど、あのくらいのお金ならいつでも用意できるからね。それに君は美奈子の元彼氏だ。美奈子に貴重な人生経験を与え、成長させてくれた重要な人だ。これも何かの縁、助けてあげて当然さ」
助かったものの良太は屈辱的なものを感じずにはいられなかった。
元カノの今カレに人生最大のピンチを救われる、しかも財力という絶対に手の届かない分野で…さらに言えば元カノの前で…これは男にとっては屈辱と自己嫌悪以外の何物でもなかった。
そこに追い打ちをかけるように、
「りょうクン、伊集院クンってホストかヴィジュアル系バンドのメンバーみたいにかっこいいでしょ?しかもお金もたくさん持っているし、さっきみたいに怖いお兄さんに絡まれても財力で守ってくれるしい、こういう言い方って嫌な女に感じるかもしれないけどお、やっぱりお金持ちってすっごく素敵!りょうクンも頑張りな~…っていうかあ、りょうクン、もう彼女いるんじゃん、地味でダサいけどね」
美奈子は田村君子を見ながら言った。
明らかに見下した態度で見ている。
それに対し、田村君子は歯を食いしばりながら震えている。
良太は美奈子のセリフと態度に無性に腹が立ったが、怒りを抑えて言った。
「美奈子、この人は俺の彼女じゃない、でも初対面の人に地味でダサいなんて言うのはあまりにも失礼じゃないのか?」
「なによお、アタシたちに感謝しなさいよ、アタシたちがここを通らなければ貴方たちは今頃地獄行きだったかもしれないでしょ?」
田村君子はただ俯いて美奈子と目を合わそうとしない。
「まあまあ美奈子、やめときな。僕たちは社会的弱者を救ったんだ。もうそれでいいじゃないか」
伊集院のヤケに落ち着いた口調がとてつもなく腹立たしい。
「そうね、ちょっとこの人たち感謝の気持ち足りなすぎるけど、まあいいわ…あれ?アナタ…?以前りょうクンの部屋にいた?………って、えええ?うそうそうそおお?」
美奈子が急に田村君子の顔をジロジロと見始めた。
田村君子はその目から逃れようとでもするかのようにさらに俯いて、顔を隠し、震えていた。
「アンタ、もしかして『きもこ』?」