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パニックラプソディ  作者: 葉月迷迷
1/13

失恋男と押し売り女

不器用な人だって夢がみたい

不器用な人だって恋がしたい

不器用な人だって楽しみたい

そんな不器用なあなたにおくります。

海で語り合う男女といえば聞こえはいいだろう。

 しかし海というものはある時にはとてつもなくロマンチックに、そしてまたある時にはとてつもなく残酷に人生を彩るものだ。

 川上良太は深刻な事態にも関わらず、そんなことを思っていた。

 与えられた試練を他人事のように思わないと精神的に耐えられなかったのかもしれない。

 やがて目の前の派手な女は良太に告げた。


「じゃあねっ、りょうクンも頑張って!」


 そう言ってハグして去っていった茶髪のド派手女に対し、生まれて初めての殺意を感じつつも、何もできなかった自分、良太はそんな自分への苛立ちをどこにぶつけていいのか分からずに、ただ砂浜の波の音を聴いているだけだった。

 そして、

 酒、

 酒、

 酒………。

 そこから殆ど記憶がない。


 あの衝撃から一週間近く経とうとしていた。

九月初旬、悶々とした暑い日々が少しはマシになったものの、クーラー無しの生活はまだまだ厳しかった。

 携帯の目覚ましは午前八時にセットされていたものの、延々と鳴り続けた末、いつの間にか止まってしまっている。

 ふと目を覚まし、そのことに気づいた良太は今日も二日酔いでガンガンするコメカミを抑えつつ、恐らくそろそろ鳴るであろう二番目の目覚ましのスイッチを止める。

 時刻は午前九時半、大学の講義はとっくに始まっている。

 ワガママな子供が、買ったばかりのおもちゃを一日で飽きるようにあっさりと捨てられたという現実、その残酷な現実が耐えられず、良太は今日も二度寝、いや、三度寝を試みようとしていた。

 しかし眠りにはもう入れなかった。

堀川美奈子と出会ってから、あっさりと別れるまでの映像が頼んでもいないのにダイジェスト版で脳裏を駆け巡る。

 飲み会でたまたま隣の席に座った派手な女、美奈子は良太にビールを注いでから殆ど一方的にしゃべり始めた。

 女の子と付き合ったこともなく、異性にも慣れていない良太は急激に侵食してくる異性という未知の存在に圧倒され、一時間もしないうちにすっかり彼女のペースにはめられてしまっていた。

 美奈子はいわゆる肉食女子であり、良太の隣に座ったのも偶然ではなく意図的なものだったと良太は後から気づいたのだが、気づいた時には二人はかなり深い関係になっていた。

 美奈子は良太のことを「りょうクン」または「りょうたん」と呼び、良太は美奈子のことを「ミナ」とか「みなみん」とか呼び合い、誰もが羨むラブラブカップルになっていた。

 しかしその関係は2ヶ月であっさりと終わってしまった。

 八月の初め頃から急に美奈子の様子がよそよそしくなってきたのである。

 以前よりも携帯に出ない。

 メールの返信が遅い、もしくは返ってこない。

 美奈子から話しかけてくることも少なくなった。

 美奈子の携帯に今まで聴いたことのない着信音が流れるようになった。

 そして以前とは違い、携帯を肌身離さず持ち歩くようになった。

 そして、ショッキングな噂を友人の阿部光助から聞いたのである。

「ここだけの話だけどさあ、美奈子ちゃんがさあ、イケメンと手をつないですっごい高級車に乗っていったのをさあ、オイラ見ちゃったんだよねえ」

 東北訛りの阿部が相変わらずのでかい声で大学のラウンジで喋り始める。

 とても「ここだけの話」には感じられない。

「うそだろ?」

 缶コーヒーを開けようとした手を止めて良太はつぶやく。

「オメエに言おうかどうか迷ったんだけどな、やっぱり傷は浅いうちがいいと思ってな」

 良太は阿部の話を聞いてショックは受けたものの、最近の美奈子の様子からしてそれは充分にありえるとも思った。

 美奈子は一途な女かと言われれば正直そこまでは思えなかった。

 男女問わず簡単に抱きつく程人懐っこいし、毎日のように誰かと遊びに行く。

 でも阿部のいう、男と手をつないで…というのはいくらなんでも許せなかった。

 美奈子の中では異性として手をつないだわけではないと言ってくるかもしれない。

でも普通だったらそれは十分に浮気の内に入るのではないかと思う。

良太はその場で美奈子にメールを打った。

『今日、バイトないんだろ?夕方ドライブにいかないか?話したいことがある』

 一時間後、

『いいけど』

 なんかスッキリしない返信が返ってきた。

 そして夕方美奈子を乗せてドライブした。

 車内ではたわいのない会話が繰り返されたが、付き合った当初に比べ、明らかに盛り上がらない。

 以前のように彼女から積極的に話しかけてこないのである。

 良太の方も、いつ例の話を言おうかと思うとなかなか会話が弾まなくなる。

 三十分後、結局大学付近にある海岸まで戻ってきて車を止めた。

 波打ち際で、ようやく良太は本題に入った。

「なんかさ、ある人が見たって言ってるんだけどさあ」

「……」

 美奈子の目が不自然な動きをした。

「男と手をつないで、高級車に乗っていったって言うんだけどさあ」

 美奈子はしばらく目をそらしていたが急に「ぷっ!」と吹き出し始めた。

 そして挑発するようにケタケタと笑いだした。

 イラッとする良太だったが、咳払いをして聞いた。

「な、なあ、正直に言ってくれないか?大概のことなら怒らないからさ」

 ようやく笑いが止まった美奈子は「あーあ」とため息をつきながら開き直るように言った。

「もうバレちゃったんだね」

 良太は唖然とする。

「りょうクンってさあ、それなりにかわいんだけどさあ、なーんか物足りないんだよねえ、別にお金があるわけでもないし、将来のことだってあやふやだしねえ」

「は?」

 美奈子は両手を後ろに回しながら、今まで見せたことのない軽蔑したような眼差しで良太を見つめる。

「最初はよかったんだけどさあ、だんだんそのーなんてえの?サプライズ的なモノがなくなってきたっていうかあ」

 良太は半笑いになり、

「ちょ、ちょっと待てよ、それって要は…」

 美奈子は無邪気に砂浜でぴょんっと跳ねて残酷な一言を発した。


「飽きちゃった!的な?」


 それからの美奈子はもう容赦がなかった。

「りょうクンと比べてさあ、つークンって違うわけ」

「誰だよツークンって」

「合コンで知り合った大学院生。お父さんは東京エンペラーホテルの支配人、いずれ後を継ぐんだって。ありがちなこと言うけどこれってもう将来が約束されているようなもんじゃん?二十四歳でトシはちょっとオッサンなんだけどお、彼っていつでもサプライズしてくれるわけえ、こないだなんかね、超眺めいいレストランに連れて行ってもらってえ、ビドンのバッグとネックレスをいきなりプレゼントしてくれたわけえ。なんかねえ、女ゴコロがわかるっていうの?」

 良太は人間に対して本気の殺意を初めて感じただけでなく、自分がどんなに努力をしたところでその男以上に財力を持つということは不可能だという力の差を知り自己嫌悪に陥り、さらに好きな女に汚物を見るような目で見られた悲しみを感じ、そしてこんな馬鹿な女に今までうつつをぬかしていて、そして恐らく当分の間はこの心の傷を背負い続けるだろうという悔しさで、錯乱状態になりそうになった。

 涙すらも浮かんでいるが、この馬鹿女の前でだけは絶対に泣きたくないという男の意地がそれを何とか堪えさせていた。

 良太はそういったあらゆる感情を必死で抑えながら訊いた。

「で、結局結論は?」

「そうねえ、もう彼とは一緒のベッドで何度も寝ちゃったしい」

 良太は血液の沸騰を必死でこらえて結論に耳を傾ける。

「りょうクン、うちら別れよっ!」

 満面の笑みで別れ話を告げられた。

「じゃあねっ、りょうクンも頑張って!」


 ふざけんな…。

 フローリングに直に敷いてある万年床の脇に転がっている潰れた安ビールの缶、それを手に取ると派手に玄関の扉にぶん投げる。

 ガツンという音と共に中に入っていたわずかなビールが壁に飛び散る。

 俺が何をしたっていうんだよ!

 飽きたってなんだよ!

 つークン?

 金持ち?

 バカ女の典型的パターンみたいなこと言いやがって!

 そう思いつつ、殺風景な部屋を見る。

 何度ここにあの女を泊めたことだろう。

 何度同じ朝を迎えたことだろう。

 でももうその女は霧のように消えてしまった。

 今ではもう匂いすらも残っていない。

 呼び鈴が鳴るとそこには間違いなく彼女がいつでもいた。

 でもその呼び鈴すらもう鳴らない。

 尋ねてくるのはむさくるしい男友達と営業マンのみになったそのドアを見てうんざりするほど重たい気持ちになる。

 正直言って大学に入ってからこんなに早く彼女ができるなんて思っていなかったため、最初からあまりにも幸せすぎるとその反動のようなものがいつか来るのではないかと良太は常々恐れてはいた。

 大学に入ると同時にできたような彼女と4年間ずっと付き合った状態を維持するというのはよほどの運命的な出会いでないとできないのではないかと思っていた。

 恐れていた事がついに現実になったんだな…。

 良太はこれも青春の一ページに過ぎないと納得させようとしていた。

 しかし、良太にとってはあの別れ方は精神的にあまりにもキツかった。

 美奈子には殆ど罪悪感がなく、ブランド品のバッグが古くなったのでリサイクルショップかなんかに売るのと同じような感覚で良太を捨てたような気がしてならなかった。

 生まれて初めて彼女ができたときは『なんだ、俺って結構やるじゃん。何にもしていないのにも関わらず女の子の方から話しかけてくるなんて、俺ってもしかしてリア充なのかも』と思っていた。

そのためゴミのように捨てられた時はその反動で自分の存在理由もわからなくなり、こんな自分など世の中に存在しても意味がないのではないか?これから先何かいいことがあるとまた今回みたいな最悪のどんでん返しに遭ってしまうのではないかといった一種のトラウマみないなものが出来上がってしまったのである。

 もちろん大学時代はまだ始まったばかりなのでこれからいいことがあるに決まっていると何度も自分に言い聞かせるものの、プラス思考というものはそうそう簡単に起こりやしない。

 こういうときは下手にプラス思考になるのではなく、とことんマイナス思考になったほうがいいのだろうなと思ってはいた。

 しかしマイナスがマイナスを呼び、良太は情緒不安定にもなっていた。

 涙が溢れてくる。

 しかしあんなくだらない女のために泣く自分が許せない。

 でも涙はとめどなく溢れてくる。

 シーンと静まり返ったその部屋はなんだかとてつもなく惨めで孤独で陰鬱で吐き気すらも感じ、良太は思わずCDデッキのリモコンを押し、中に入っているハードロックを大音量で流し始めた。

 孤独で悲しい気分を紛らわすにはハードロックを大音量で聴きながら酒を飲むのが一番だった。

 しかし朝から酒を飲む気もしない。

 それに二日酔いのせいでハードロックで気を紛れるどころか、世界中に責められているような気がして、それすらもストップさせてしまった。

 自分自身という存在を消し去りたかった。

 天気が良いのに、外にも出たくなかった。

 人と会いたくなかった。

 でも同時にこの陰鬱な部屋にいると気がどうにかなりそうだった。

 マイナス思考が延々と脳裏を駆け巡る。

 失恋で自殺する奴の気持ちがなんとなくわかったような気がした。

 テレビの上にある写真立てからは目をそらしていた。

 二人で写っているその写真を伏せようともしたが、それすらもなんだか億劫だった。

 その時、急激に吐き気を催した。

 夕べの焼酎とビールとスナック菓子たちが津波のように逆流してくる。

 思わずゴミ箱に吐いた。

 紫色の嘔吐物は嗅いだことがないが屍体のような臭いに感じて、すぐトイレに投げ捨てた。

 窓を開けて換気扇をつけた。

居室内の悪臭はだいぶなくなった。

台所でうがいをした。

「最悪だな…」

 美奈子との恋愛、良太にとって初めての男女交際が始まった頃は、今までの人生で一番最高の日々だなと思っていた。

 しかし良太は今の状態の自分を鏡で見て、改めて今までの人生で一番最悪な日々だと思った。

 肩で息をしていると、ピンポーンと呼び鈴が鳴った。

「誰だよ…」

 トランクスにランニングシャツというだらしない格好だったので出て行く気にすらならず、居留守をすることにした。

 しかし呼び鈴はその後も一向に鳴り止まなかった。

 十秒ごとに一回のペースで押され、少なくとも十五回は押されている。

 ここまで押されるとさすがに無視し続けることもできなくなり、良太はドアをそっと開け、思わず眉をひそめた。

 目の前には深緑色のリクルートスーツっぽい地味な制服を着た若い小柄な女性が引きつった笑顔を作り、震えながら立っていた。

 髪は真っ黒で肩までの長さ、黒縁で度の強そうなメガネの奥には怯えた瞳、両手でスポーツバッグほどの大きさのカバンを持っていて、そこには「やすらぎヨーグルト」と書かれていた。

(営業かよ…)

「あ、あ、あの…ワタクシ…」

 瞳も唇も凛々しいというのか濃いというのかわからない表情の彼女は明らかに緊張している。

 新人なのかなって良太は思った。

 しかし新人だろうとなんだろうと今の良太には話を聞くエネルギーなどなかった。

 だからはっきり断ることにした。

「ヨーグルトなら取りませんので」

 一瞬にして青ざめたような顔になった彼女は、急に焦りだしたように両手を震えさせながら、オロオロと話し始めた。

「ちょ、ちょっと待ってください。ワタクシ『やすらぎヨーグルト』の田村君子と申します!ほ、本日はお忙しい中、と、突然訪問させていただき、誠に恐縮ではございますが、こ、この度うちから発売された『激レアヨーグルト』のサンプルをお持ちした次第であります!この商品の特徴としましては、通常のヨーグルトと違い、まず使われている素材が…」

 たどたどしく、緊張しながら下手な営業トークをしている女を鬱陶しく思い、良太は深い溜息をついて言う。

「ですからあ、申し訳ないですが、ヨーグルトを取る気がしな…」

「おっしゃりたいことは十分にわかります!今、貴方がワタクシのことを非常に鬱陶しく思っている気持ちもわかります。そ、それをわかっていてあえて言わせてもらいます。と、とにかく今回の当社の『激レアヨーグルト』はすごいんです!その凄さを知っていだだき、せめて無料サンプルだけでももらっていただくことなしにはワタクシはここから去るわけにはいかないのです!」

 額から汗を流しながら興奮して話し続ける目の前の謎の女を良太はだんだん不気味に感じてきた。

 それにしても営業トークが下手だな、こんな奴のヨーグルトなんて誰も買わないんじゃないのか?

 だいたい『ここから去るわけには』って、押し売りじゃないか。

 この会社、社員教育がなってないんじゃないのか?

「あのさあ、こういうのって何ていうかわかりますか?」

「お、押し売りって言うんですよね、わ、わかりますよ!でもワタクシのやっていることは決して押し売りなんかじゃないんです!な、なんて言いましょうか。簡単にいうと一種の救済活動なんです」

「……宗教?」

「宗教じゃありません!押し売りでもありません!ワタクシは株式会社天然フーズ・やすらぎヨーグルト部門、第四営業部、営業準社員、田村君子二十歳です!」

「そんなことまで聞いてねえ!あんた頭おかしいのか?」

 そういうと田村君子は「あっ」と言い、慌てた様子でポケットから小さなケースを取り出し、その中の名刺を良太に渡す。

「というわけでワタクシはこういうモノです」

 良太は突っ込む気にもならず口を半開きにして呆れていた。

「ここで会ったのも何かの縁です、どうか今回の無料サンプルを…」

「だからいりません!帰ってください!」

 すると田村君子は急に良太を睨みつけて震えながら呟いた。

 急に声のトーンが低くなり、先ほどの低姿勢は何処へやら、商品を買ってくれないことに対する不服申し立て及びここに至るまでの背景を語り始めたのである。

「あーあ、そーですか…そーですか。せっかくの人の労働をそうやってないがしろにするんですか…悲しいですね。どうせワタクシの営業は下手ですよ…小さい頃からいじめられて、中学に入ったら君子じゃなくて『きも子』と呼ばれ、高校に入って生徒会に入ったら『ウザ子』と呼ばれ、中退してひきこもりになったら…」

「ちょっとちょっと、なんで逆ギレされた上、あんたの身の上話を聞かされなきゃならねえんだよ!知ったこっちゃねえよ!」

 良太は目の前の女がさらに不気味に感じてきてどのタイミングで扉を締めようかと考え始めた。

 しかしこういったタイプの人間は一度恨みを抱かれるとストーカーみたいに後が怖いのではないかとも思えて、できるだけ円満に終了したいと思っていた。

「ひきこもりになってからは教育熱心な両親やお兄ちゃんからも邪魔者扱いされ、愛想をつかされ…」

 田村君子は話の途中で急に泣きじゃくり始めた。

 ありえない展開に良太は思わずこめかみに手を当てる。

「おいおい…勘弁してくれよお…悪いけどあなたたぶん営業に向かないんですよ、赤の他人の俺が言うのもなんだけど、まだ若いんだし、この仕事辞めて一から就職活動したらどうですか?」

するといきなり泣き止んで大きな目を良太の顔に近づけてきた。

 あと十センチも近づいたら顔と顔がくっつく程の距離になったため、思わず良太は一瞬焦る。

 よく見ると田村君子は肌が色白でニキビ一つなく、わりと「美人」の部類に入る。

 強引な営業があまりにもうざったかったため彼女の美貌に気づくまで時間がかかったのであった。

 それにしても美貌とは裏腹に言動があまりにも痛々しいし、少なくともお友達には絶対になりたくないタイプだ。

 田村君子は良太の発言に興奮して唾を飛ばしながら反論した。

「営業に向かないのはわかってます!っていうかそもそもワタクシは人間としての能力がないのです!」

「い、いや別にそこまで…」

「でもでもでも!それでも!ワタクシは今の仕事を簡単に辞めるわけにはいかないのです!引きこもり生活を一年間した後、勇気をもってコンビニ、ラーメン屋、レストランの厨房などのアルバイトをしましたが、全て三ヶ月もしないでクビ。完全に自信をなくして再度一ヶ月位引きこもり、親の勧めで自動車学校に入り、さんざん危険な目に合いながら奇跡的に免許は一年で取得できたもののやはり過去のクビの経験から、なかなか仕事に就く勇気がないワタクシを見るに見かねた両親が親戚から仕事を紹介してもらって就けた大事な仕事なんです。つまり親戚のコネである以上、両親や親戚を裏切るわけにはいかないのです!」

 なんで自分は見ず知らずの営業女の身の上話を延々と聞かされてないといけないんだ。

 これはちょっとやそっとじゃ終わるレベルじゃないな。

 良太はこれ以上この女に付き合わされるくらいならいっそ無料サンプルくらいもらってやろうかとも一瞬思ったが、ここで自分が折れてしまうと負けたみたいで悔しいし、強引に押し売りをすれば売れるといった間違った経験をこの女にさせるのはかえってよくないのではないかと思ったため、やはりはっきりと断ることにした。

「あなたがいろいろと大変なのはわかりましたよ。でもそれはあなたの事情だし、残念ながら僕には全く関係のないことです。それに生きるのに苦しんでいるのはあなただけではありません。僕には僕の苦労があります。そして僕には今現在そのヨーグルトは必要ありませんので申し訳ありませんがお引取りください」

「ですから、そこをなんとか」

「しっつこいな!あんた一度カウンセリングでも受けたほうがいいんじゃないですか?これ以上しつこくしたら警察呼びますよ!」

「け、警察ですって?一度も犯罪を犯したことのないワタクシがなんで警察に連行されなきゃいけないんですか!」

「勘弁してくれよお!客は俺だけじゃないだろ!なんで俺にこだわるんだよお?俺はもう諦めて他をあたってくれよお!頼むよ!お願いしますから!」

「ここに来る前にも全く同じことを言われました!どうしてなのおおおお?」

 そう言うと田村君子はいきなり泣き崩れた。

 下着姿で不真面目そうな男と、おおおおおおお…と号泣している女という組み合わせを傍から見ると、警察に事情徴収されるのはむしろ良太の方だった。

実際、数少ない通行人もその様子をチラ見しているのがわかった。

だがもういい加減これ以上赤の他人に付き合っている暇はなかった。

暇はなかったというと嘘になるが、もう充分だった。

「泣き止んでくれよお!泣きたいのはこっちだよ!マジで困るんだって!あんただってこれ以上時間を無駄にするよりも他を当たったほうがいいだろ!じゃあすみませんが扉をしめさせてもらいますよ!」

 そう言い、良太が強引に締めようとしたら、田村君子がいきなり左腕で扉を抑えようとしたため、そのまま思いっきり彼女の左腕は挟まれてしまった。

「いたあああああああい!」


「す、すみませんねえ、ワタクシの非常識な営業のために…でも、左腕がとてつもなく痛いのでとりあえず怪我の治療をしていただきたいのですが…」

 良太は『怪我の治療』という理由で強引にセールスを継続するだろう押し売り女をやむを得ず部屋に入れたのだが、そもそもこれが間違いの元だった。

「じゃあ、とりあえず、左腕、見せてもらえますか?」

「は、はい」

 そう言うと田村君子はためらいながら、暑苦しそうなリクルートスーツを脱ぎだした。

 心なしか頬が朱い。

「あ、あんまり見ないでくださいね…」

「はあ?何言ってんだお前は!」

 その瞬間、扉が開き、「ういーっす、良太、いるかあ?」という能天気な声が入ってきた。

 阿部であった。

 阿部はリクルートスーツを脱ごうとしている女と、トランクスにランニングシャツの良太を見るなり、

「バカッ!こんな時ぐらい鍵しめろよおおおお!」

 と言ってバタンとドアを閉めた。

「お、おい!バカ!違うんだって!」

「ご、ごめんなさい、誤解を与えるようなシーンを見せてしまって。さっきの彼もしかしたら傷ついたかしら?」

「別に傷ついてなんかないよ。って、アホか!俺らホモじゃないわ!」

「そう、よかった」

 この女もしかしたらわざとボケているのかと思いつつも、ワイシャツの左袖をめくって患部を確認する。

 肘の付近が赤紫っぽくなっていてやや腫れていた。

「う~ん、俺こういう場合よくわからないんだけど、とりあえず冷やしておくか」

 そう言って良太はタオルを水で濡らして絞り、彼女の腕に巻いてやった。

「あ、ありがとう…」

「いや、まあ、確かにこっちもすいませんでした。まさかこんな目に合わせてしまうとは」

 田村君子は上目遣いに良太を見る。

 喋らなければそれなりに美人な彼女のその仕草に良太は少し照れて目を逸らす。

「じゃあ、改めまして…当社の…ヨーグルトの無料サンプルについて」

「ストーップ!その話は頼むから一旦やめてくれ!」

 すると田村君子はため息をついて少し微笑み呟いた。

「…ですよね。ワタクシ、昔から強引すぎるとか真面目すぎるとか、融通がきかないとか、空気が読めないとか、柔軟性がないとか、臨機応変に動けないとか、そんなことばっかり言われているんです」

「確かに、あなたちょっと強引すぎるというか真面目すぎるというか、いっちゃ悪いけど最初から重たい雰囲気が漂っていたな」

「この度はしつこくしてすみませんでした」

 ようやく営業を諦めてくれたかなと良太はホッと胸をなでおろす。

「ワタクシとにかく営業が下手で、会社の中でも飛び抜けて成績が悪いんです。サンプルすら全く置いてこれなかった日ほど会社に帰りづらい時はありません。上司は怒ったりはしませんが深い溜息をつきます。たぶんあきらめているんだと思います。三回もバイトをクビになればわかるんです。怒らなくて溜息だけの時はもうあきらめているんだって。そこでワタクシは開き直ったんです。もう成績は考えないようにしようって。そのかわりこのヨーグルトを絶対に食べて欲しい人には意地でも売ってやろうって。ワタクシが貴方にここまでしつこくヨーグルトを勧めたのは、貴方にどうしても食べて欲しかったからなんです」

「俺に?なんで?」

「扉を開けた時、まず顔色が青白くて、人生に何一つ楽しみがないようなオーラが漂っていました。部屋から感じる空気も陰鬱でどろどろしていて酒臭く、ヤニ臭く、イカ臭く、男臭く、女っ気一つないニオイが漂ってました」

「臭く臭くってうるせえな!それに女っ気は関係ねえだろ!ほっとけ!」

「この人にはしつこく営業してどうしても買っていただこう、この人に激レアヨーグルトを食べてもらって幸せになってもらおう。そう思ったのです」

 良太は何十回目かの溜息を付き、この女が出来るだけ納得した形で後腐れなく円満にこの部屋を去ってもらうにはどうしたらいいかを考えた。

 まず絶対にやめようと思ったのはここで諦めて例のヨーグルトの無料サンプルをもらってしまうことだ。

 恐らくもらった場合、また後日やってきて「激レアヨーグルトはいかかでしたか?ぜひこの機会に取ってください、半年でかまいません、いや三ヶ月でかまいません、一ヶ月でかまいません。貴方の為を思ってこんなに頑張っているのにどうしてですか!」ってなることは目に見えているし、考えただけでもおぞましい。

 とにかくヨーグルトから話題を逸らそう、そう思っていると田村君子の方から別の話題をふってきた。

「ギターやるんですか?」

 田村君子はテレビの脇にあるエレキギターを見ながら言った。

「ああ、以前はね、でも今はやってないよ」

「もったいない、続けたらどうですか?」

 良太の脳裏に軽音楽部の部室の光景が浮かび、それを無理やり追い払って言った。

「イイ年してもうやってられねえよ」

「イイ年って、失礼ですが今おいくつなんですか?」

「いくつに見える?」

「女性みたいな返し方ですね」

「ほっとけ!…一浪したから二十歳だよ」

「ワタクシと同い年じゃないですか!青春真っ盛りじゃないですか!一体何がいい歳なんです?」

「まあ、そうなんだけど…なんてえの、大学に入るまでは本気でバンドマンで飯を食って行きたかったんだよ」

「すてきな夢じゃないですか!」

「世の中甘くないのはあんたが一番わかるだろ?」

「そうですね、貴方は見た感じ親のすねを囓って生きているだけのすごく甘ったれた人に見えますから夢を実現させるのは簡単ではないでしょうね」

「お前、結構キツイ事言うな」

「す、すいません、ワタクシつい本音を言っちゃうんです。では訂正させていただきます、ええと、」

「もう遅えよ!」

 田村君子は肩をすぼめて頭をかいた。

 良太はテーブルの上のタバコを取り、火をつけた。

 煙を吐き出すと田村君子はあからさまに嫌な顔をした。

「すみませんが、ワタクシタバコ嫌いなんです。やめてくれませんか?」

「はあ?ここは俺の部屋だぞ!」

「す、すいません、つい…タバコを見ると昔『根性焼き』をされた経験が…」

「はいはい!すぐやめる!」

 良太は面倒くさい女だなと思いつつ、一応ヨーグルトの話題からだいぶ離れてきたことをチャンスにとりあえずギターをやめた理由を話してやることにした。

「高校までは本気の本気でバンドで飯を食っていきたいと思っていたんだよ。でも大学に入り、軽音部に入ったときなんだけどさ、四年生に超ギターの上手い先輩がいたんだよ。外国のギタリストに匹敵するんじゃないかっていうくらいの天才的なレベルでさ。心から憧れていたんだけど、ある日その先輩が言ったわけ。『良太、こんなことできるのは今しかないぜ、お前も今を楽しめよ。俺はもう四年だし近々ギターを売ってくるよ。そろそろ本格的に就職活動しないとだしな。えっ?音楽?もうやめるよ。プロ?ならないならない。仮になれたとしてもプロなんて一生安泰じゃないし、それにプロになったとして、その後バンドがうまくいかずにやめたとして、その二十年後に昔を懐かしむ中年オジさんバンドみたいに未練がましく中途半端に続けたくないし。希望の就職先?どこでもいいよ、安定していればね。ガス会社とかがいいかもね』。俺その話を聞いたとたん、上手い奴なんていっぱいいるし、しょせんギターなんて若い時の就職までの猶予期間の趣味に過ぎないんだな、考えてみたらプロなんてよほどの人じゃないとなれるわけないしな…って思ってしまってさ、そうしたら急にいままで燃えていた音楽への熱が消えちゃったわけ。しょせん自己満足、しょせん猶予期間、おまけにいうとしょせんモテたいだけ。バカバカしい、俺は全然プロレベルじゃない。これ以上練習してもいずれはやめてしまうんだって考えたらもういいやって思ってね。そんでギターは弾かなくなった。毎日が虚しくなったよでも、それでいいんだ…」

 良太は気づけば延々と日々の愚痴を田村君子に話していた。

 彼女は思いのほか聞き上手だったのである。

「なんとなくお気持ちはわかります、でもそれだけでせっかくのギターをやめるんですか?」

「いや、まあ他にもいろいろあってな」

「他にもってなんですか?」

 良太はこれ以上この話題には触れて欲しくなくなり、急に目を逸らす。

 目を逸した箇所はテレビ台の上の伏せられている写真立てであった。

 田村君子はそれを見逃さなかったのか、すぐさま伏せられている写真立てに忍び寄った。

「この写真なんですか?」

「わあああ、見るな!関係ねえだろ!」

 四つん這いで這いよる田村君子を思わず押しのけ、慌てて写真立てを奪う。

「これはダメだ!だいたいお前なんで人のプライバシーにここまで侵入しているんだよ!」

「そ、それは貴方がワタクシの体を傷物にしたから…」

「誤解を生む言い方はやめろ!まあ、確かに俺が悪いのだが…もうそろそろいいだろ?あんたも仕事に戻ったらどうだ?」

「そ、そうですね、ではそろそろワタクシも仕事に戻るといたします」

「おう、あんたも頑張りな」

「ありがとうございます。それではさっそく…えー改めまして今回当社から発売された新商品、激レアヨーグルトについてですが…」

「そういう意味で言ったんじゃねえ!帰れっつってんだよおおおお!」

「まあまあ、せめてもう一度だけ…」

 さすがに良太は精神的に限界を迎えた。

 今までもいろんな営業が呼び鈴を鳴らしたが、こんなにしつこい押し売りは当然初めてだった。

「うるせえ!帰れ!押し売り女!いい加減に帰らねえと…ちょっと待ってろ」

 そう言い良太は台所まで行き、洗面器に水を入れ始めた。

 相手は一応女性なので暴力を振るうわけにはいかない。

水をかけるぞと脅せはさすがに帰るだろうと思ったのである。

しかし、満タンになった洗面器を手に持った時、田村君子を見ると先ほどの写真立てを手に持って思いっきり凝視していた。

「ラブラブじゃないですかあ…うらやましいです!女っ気ありましたね、すみません」

「てめええええええええ!」

 思わず洗面器を床にぶちまげてしまい、大慌てで田村君子に駆け寄る。

駆け寄ってくる良太のその勢いに、田村君子は思わず絶叫する。

「きゃああああああ!」

「返せ!この病的押し売り女!」

「ちょ、もうちょっとだけ見せてくださいいいい!」

「意味がわかんねえよおおお、てめえの仕事と何の関係もないだろおおお!」

「ありますううう!」

「何があるんだあああ?」

「クライエントの精神状態を知りたいのですううう!」

「てめえのクライエントになった覚えはねええええ!返せえええ!」

「いやああああああああ!」

 写真立ての取り合いで万年床の上でもみくちゃになっている時、いきなり呼び鈴もなしにドアが開いた。

「りょうクーン!アタシのノートパソコンここに…」

 ドアを開けた元カノ堀川美奈子が見たのは元彼がどこかの地味なOLを万年床の上に押し倒し、レイプしているような姿だった。

 良太は目の前にいきなり現れた元カノに思わず言葉を失う。

 田村君子は布団に仰向けになりながら、

「や、やめてください…」と呟いた。

 未だトランクスとランニングシャツの良太は、青白い顔でフラフラしながら美奈子に近づく。

 たとえ元カノとは言え、今の状況に対して妙な誤解を受けられるのは良太の美学に反するものだったのだ。

「ま、待て、これは違う…話せばわかる…話せば」

 半笑いの状態で不気味に近づく元彼の姿に対し、美奈子は恐怖におののいた。

「きゃああああああああああああああ!」

 美奈子は近所にも聞こえるくらいの絶叫とともにスマホのボタンを急いで押し、通話し始める。

「も、もしもし…警察ですか…あ、あの」

「バ、バカ!どこに電話しているんだあああああ!」

「ひいいい!」

 玄関の外で美奈子は良太とスマホの取り合いになった。

 そのうちスマホはコンクリートの床に派手に落とされた。

「あああああ、何するのよお!ゲッ!画面割れてんじゃん!弁償してよ!」

「はあ?お前が落としたんだろう?だいたいお前何しにきたんだよお!」

「アタシのノートパソコンあったでしょう?」

「あれ、『新しいの買ったからりょうクンにあげる』ってお前から言ったんじゃないか!」

「それは付き合っている時の話でしょ!もう別れたんだから返してよ!」

「返さない!」

「返して!」

「返さない!」

「ドロボー!強姦魔!変態!」

「うるせえ!とっとと去れ!」

「アタシにまだ未練あるくせによくそんな偉そうな口叩けるわね!」

「だ、誰がお前のことなんか…!」

 お互い猫の喧嘩のようにふーふーと鼻息荒くやり合っている最中、

「あ、あの…」

 ヨーグルト女が話しかけてきた。

 二人はこわばった顔をした若き営業マンを見た。


「もしよかったら彼女さんも『激レアヨーグルト』いかがですか?」

 


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