運転中は電話をしてはいけない。
前触れは無かった。
破砕音。ボンネットから紙細工のようにひしげてゆく自動車を、湾曲したガードレールが包む様に受け止めている。なぜかコマ送りの様に見える、それらの非日常と大パノラマを俯瞰し、漸く自身が崖下へ落下していると悟った。
無重力、斜方投射の最高点を過ぎた。
「という夢をみたんだ」
遅刻の理由を問われたので、誤魔化してみた。携帯電話は沈黙して語らない。渾身のシナリオに感動して息を飲んだようだな。
「君は実に馬鹿だな」
なじられた、何故だ。完璧な言い訳だっただろうに。
「素直に寝坊したといえばいいものを」
まあいい、早く来てくれよ。それっきり、ビープ音しか聞こえなくなった。マイクからため息のような雑音が聞こえたが気のせいだろう。
仕方なしに携帯を助手席にほうる。皮肉屋な友人は電話をかけ直したところで取り合ってくれないだろう。いいから運転に集中しなよ、そして早く来い。そう言うに違いない。後で謝ろう。
ステアリングを指で叩く。そろそろ峠道を抜ける頃か。目的地まで十分もかからないだろう。
「………遅刻だ」
最悪だ、ベタなことにベッドから落ちて目が覚め、ベタなことに目覚し時計の電池が切れているなんて。しかも自動車の時計をみて漸く遅刻に気がつくという間抜け振り。
新車の自慢を兼ねたドライブに誘った癖に遅刻とは、いい身分だね。奴のニヒルな厭味が脳内でリフレインする。最悪だ、今日一日の平和を棒に振った。
信号機のない坂道をベタ踏みで走る。エンジンの唸りとは別の振動を感じ、胸ポケットから携帯を取り出す。さて、なんて弁明したものか。なんと言っても雷は免れないだろう。心の準備と深呼吸。よし、あの落石注意の看板を過ぎる前までに鳴りやまねば観念して出るとしよう。
「という夢を見たんだ」
言い訳の常套句でしめれば電話相手がため息をつく。流石に言い訳を夢オチにするのは不味かっただろうか。
「前も遅刻したというのに、よくもまあ」
まあいい、早く来てくれよ、と友人は電話の向こうでため息をつく。
聞き捨てならんな、私は今月は一度も遅刻してはいないぞ。そう言いかけたが携帯は電子音しか鳴らさない。うーむ、逃げられたか。まあいい、あとで弁明するとしよう。
アクセルを奥まで踏む。そろそろ峠道を抜ける頃か。目的地まであと少しで着くだろう。
それにしても、息を切らして何を急いでいたんだ?
時間がない。
邪魔な靴を脱ぎ捨てる、最短距離だ、急げ、応答しろ、早く出ろ。
何度電話を掛けただろうか。そして何度“繰り返した”ことか。
彼は二度も電話に出ない、今までそうであったように。
私はいつも間に合わない、今までそうであったように。
私は麓の駐車場で待ち惚けを食わされ続けている。
この悪循環の中で私に出来ることは電話と走ることのみ。
この後に起こる事を電話で伝えたことがある。
救急車に頼ったことがある。
今のように記憶にある現場予定地に走ったこともある。
だが全てが無意味だった。
遠鳴り、続く狼煙を仰ぐ。
ああ、また駄目だった。