勢形心鬼~ユカシタニヒソムモノ~
――もう君など、要らん。首だ――
〔1〕蘇芳彰人
私は約一年もの間、三神家の屋敷の床下に住み続けている。三年間、三神家の執事として仕えたというのに、ほんの些細な出来事がきっかけで私の人生は狂ってしまったのだ。
私――蘇芳彰人が仕えていた主人、三神照玄は威厳に満ちた人間だった。骨董品商で偉大な成功
を遂げた照玄は、見る見る内に財産を作り上げ、僅か四〇半ばで、この家城を築き上げたのだ。広大な敷地に、草花が鬱然とする中庭。中庭に聳え立つ桜や紅葉の木々達は、業者に頼んで吉野山から根こそぎ抜いてきたものだった。中庭には大きな池もあり、その中では数匹の鮮やかな錦鯉が優雅に泳ぎ回っている。まるで、源氏物語の舞台――六条院を髣髴とさせるような日本家屋だった。照玄は春になると、よく庭の桜を見ながら優雅な一時を過ごしていたものだ。
私は、富と名声に愛された照玄に憧れていた。真っ直ぐな背筋。痩身な体格に鷲のような鋭い眼光。照玄は独特なオーラを持った男だった。今なら確かに言える。私は照玄が好きだった。これは同性愛などという劣情ではない。
貫禄と力を持て余した照玄を私は心から尊敬していたのだ。出来ることなら、私もなりたいと思った。照玄のような男に……
――三年前。
私は、当時勤めていた新聞社を首になった。何もかも喪失した私は、死に場所を探しながらこの田舎町を彷徨っていた。
そして、私はこの家に出会うことになる。あぁ、なんと美しく、風雅な屋敷なのだろうか。観音開きの門。母屋へと続く長い道。敷地内に咲き誇る花々。
その時だった。私の心の中で鬼が覚醒したのは。
私は、自身の身なりを確認した。職を失った私hs勤めていた時に使っていたスーツを私服変わりとしていた。今ならいける。私に一理の確信が芽生えた。
私は三神家のチャイムを押した。この門は防犯カメラで監視されているようだった。私は温厚な面持ちで、立ち尽くした。
すると、小さなチャイムから誰かの声音がした。低く、落ち着きのある声音だった。――それは照玄の声だった。
「どなたかな?」
「あの――私、●●新聞社の蘇芳と申しますが……」
私は、あたかも新聞の勧誘を装い、三神家に侵入したのだ。照玄が骨董品商で成功したと知ったのはその時だった。新聞社の人間として照玄に近づいた私であったが、何れ照玄に嘘がばれてしまうのではないかと畏れた私は、出来るだけ早く照玄に話を持ちかけたのだ。
私は次々と嘘に嘘を重ねていった。実は、私も昔から骨董品には興味がある。是非とも貴方の傍で、勉強をしたい。などと、都合の良い話を彼に持ちかけた。
「君は、新聞社の人間ではないか」と照玄は私を訝っているらしかったが、私は偽りの熱意を彼に見せ続けた。
「貴方の傍で従えるのなら、明日にでも退職届を出してきましょう」
その言葉に照玄は驚いていたようだが、私の熱意が届いたのか、彼は首を縦に振った。
照玄はもう四〇半ばだと言うのにも関わらず結婚もしていない。訊けば、何年か前までは妻も子もいたらしいが、照玄の常人離れした金銭感覚と人使いの荒さに愛想尽かしてしまったらしく、三神家を去ったのだと言う。私は驚きを隠せなかった。
なら、照玄はこの広い屋敷にたった一人で住んでいるということになる。
私を執事として雇わないかという提案を照玄は潔く飲んだ。照玄が家にいない時は私が屋敷を守り、彼が帰ってくると、私は骨董品商のノウハウを彼に熱望した。照玄は私を跡取りのように可愛がってくれた。
「君のような人物に出会えて良かったよ」
照玄の口癖だった。
私もそう思っていた。
しかし、私の感情は照玄のそれとは明らかに異なっていた。私の真の狙い――それは三神家の家城に眠った骨董品を強奪することにあったのだ。
三神家に眠る宝の数は数千を超える。銅像。仏像。日本刀。壺。皿。花瓶。食器。その種類はもはや把握するのも困難であろう。納屋と化した一室には鍵が掛かっていたが、執事として仕えるようになった私なら開ける事は容易かった。ましては骨董品商の開業を目指している私なのだから、照玄も宝の眠っている納屋に私が何度侵入しようとも気にならない。
私は照玄の留守中を狙い、業者の人間を呼んで幾つもの骨董品を運びださせた。それらを売りに掛けた私は、今まで考えられないような額の金を手に入れることが出来た。
数千分の数十個の品の損失に、照玄が気付く気配はなかった。
そんな生活がしばらく続いたある日、私は、照玄に仕事を頼まれたのだ。
――納屋に仕舞ってある、千十観音像を掃除しておいて欲しい――
私は潔く了承した。
私は骨董品が蔓延る納屋に一日中籠り、照玄が愛して病まない金色の千手観音像の清掃に勤しんでいた。いつしか、照玄の隙をついて、この金の像も盗んでやりたいと思っていた。この像には、きっと数百、いや、数千は下らない値が付けられるに違いないのだから。
私は、不気味な微笑を浮かべながら、像を丁寧に拭いた。しかし、像を意識する余り、その事に気付けなかった。足元に転がる日本刀が鞘に納まっていないことに……
「うわぁっ……」
たった一人、納屋の中で私は鈍い声を上げた。鋼の刃が私の足の裏に刺さったのだ。素早く異変に気づいた私は弾かれたように足をあげた。その甲斐あって、深出には到らなかった。しかし、仏像の方がそうはいかなかった。
ドシン……という重い音と、何かが散らばる音が私の鼓膜に雪崩れこむ。なんということだ。背中に何本もの腕が接着された観音像を私は仰向けのまま押し倒してしまったのだ。
散乱する腕、闘剣、槍、穏やかな形相の顔が半分に割れた。照玄の千手観音像は見るも無残に破壊された。
私の額に夥しい量の汗は滲んだ。なんということだ。
いっそのこと、この仏像を業者に引き渡してしまおうか。などという安易な考えに至った私であったが、すぐにそれは不可能だと悟った。照玄は私にこの仏像の清掃を頼んだ。恐らく、今日の夜、家に戻った照玄は、私の仕事振りを伺うに違いない。何れにしろ、この仏像の破損は確実に照玄の目に知れることになる。
私は溜息を一つ吐き、腹を括った。
〔2〕
夜、照玄は愛する骨董品の変貌ぶりを嘆き悲しんだ。言いわけの一つすら浮かばない私は、ただ謝罪の言葉を並べるか、頭を下げる事しか出来なかった。
納屋の中で、静かに横たわる残骸を照玄は黙然としながら見据えていた。
「――申し訳ありませんでした」
「君は、この像の値を知っているか?」
私は悄然としながら首を横に振った。大よそ、数百万から一千万を見積もっていたが、それは大きな間違いであった。
「五千万だ……」
私は照玄の言葉を疑った。照玄は私を軽蔑しているかの如き眼で言葉を続ける。
「君を信用してこの仕事を任せたというのに、残念だ……君は、骨董品を愛していると言ったな? 将来は、私のように骨董品店を開業したいと、言っていた」
「はい……」
「――だが、君は私の宝である、像を破壊してしまった。確かに床に鞘に納まっていない日本刀が転がっている事など、誰にも予想できないだろう。しかし、君はその追い詰められた状況で、自分の足の方を庇った。そのせいで、金色の像は倒れてしまったのだ」
私ははっとしたように目を開いた。確かに、あの時、私が条件反射のように足を上げなければバランスを崩すことなどなく、像を突き飛ばすような動作は生まれなかったはずだ。追い詰められた状況で私は自分の足のほうを大事に思った。
「君では、私のようになれない。君は、己が身を案じるばかり、一つの骨董品を壊したのだ。その罪は重い。どんな罪よりも……重い。本当に哀しいよ」
その日、照玄は私を解雇した。それでも解雇で済んだだけ良かったのかもしれない。照玄は敢えて私に借金を背負わすような事はしなかった。
解雇された日の翌日から、私は行き場所を探した。幸いな事に、三神家で売り払った骨董品から得た金がまだ幾らか残存していた。貯金通帳にはまだ数百万はある。
私は町をふらふらとしながら、これからの事を考えていた。財布の厚みを見る度に私は高陽とした。なんとも気分がいい。私はつくづく照玄に感謝した。
その日から、私はありとあらゆるギャンブルに明け暮れたのだった。
ある日はパチンコ。ある日は競馬。そして宝くじ。
だが、そんな優福な日も長くは続かなかった。
見る見る内に薄くなっていく財布。
三神家を解雇されて、二週間ほど経過すれば、私はもはや無一文になっていた。なんとも愚かで浅はかな己が考えを私は嘲笑った。
誰もいない公園のベンチに背を預け、私は、絶望に明け暮れた。夕暮れ時の空は赤く染まっていて、見る者を和ませる――筈なのに、私の心は一向に和まない。
空腹が絶頂を迎える。私は夢遊病患者のような足取りで公園を去った。私の足は、無意識に三神家の方へ向かっていた。
忘れかけていた門の前に茫然と立ち尽くす。何をしに戻って来たのか? 私は自問自答したが、答えなど返ってくる筈もなかった。
私は、周囲に誰もいないことを確認すると、敷地の裏手のほうに回り、三神家に侵入したのだった。私には金が必要だった。
泥棒が悪い事などと小学生でも知っている。しかし、私にはそんな正常な判断をしている余地がない。心と脳、感情さえも鬼に掌握された私は、夜の闇に潜みながら、三神家の床下に潜り込んだのだ。
夜が耽る頃、三神家の床下から這いずり出た私は、中庭の方へ向かい、家の様子を伺った。
和室部屋――照玄が茶室として使っていた部屋の電気が点いている。障子襖に二人の人影が映っている。一人は照玄に違いない。では、もう一人は誰だろう? 私の脳裏に疑問符が浮かんだ。確かめたい。私は、中庭の茂みに躰を潜めながら、吹き抜けの廊下の下から、茶室の床へと潜り込んだ。
暗闇の中、私は、上部――茶室から聴こえる二人の話声に耳を傾けた。
どうやら、照玄と共にいるもう一人は男のようだ。
どうして、執事を首にしたのですか?
私の大事にしていた仏像を壊したんだよ。おそらく彼の骨董品への熱意、愛は偽りだったんだ。
それで、その彼は一体、今頃、どこで何をしているのでしょう?
さぁ、私にも分らん。もう関係のない人間だ。それにもう私には君がいる。居なくなった男の事など忘れるとしよう。
そうですね。
上で二人の低い笑い声が聴こえた。あれほど、私を可愛がってくれた照玄の変わりように私は驚きを隠せないでいた。なんという無情な男なのだ。
私は、光のない世界で震えた。寒さなどではなく、怒り、憎悪、哀しみ、嫉妬、あらゆる感情が私を震えさせたのだ。二週間も経てば人の心は変わってしまうものなのか。私は唇をきつく噛みしめ、瞼を閉じた。この時、私は神に誓った。
人の心など捨てよう。
その方が楽だ。
〔3〕
私は、照玄と新しい執事が留守にしている間を見計らって三神家に幾度か侵入した。防寒具や、食糧、必要な物を次々と盗み、私は再び床下の家城へと戻る。毎日がそんな事の繰り返しだった。
それでも生きる為にはゴキブリに成り下がろうと構わなかった。
本当に、照玄は新しい執事――鳥井という男を可愛がっているらしかった。時折、上から聴こえてくる会話から推測すると、随分と優秀な執事だということは明らかだった。
骨董品の清掃も素直かつ要領よくこなしてしまう鳥井を、照玄は息子のように思っていたのかもしれない。照玄は寂しいのだろう。妻や子に逃げられてしまった心の傷を癒したいのだろう。
そして、そんな生活が一年ほど続いた頃、とうとう私の心は木端微塵に崩壊してしまった。止め処なく溢れる憎悪、嫉妬の念に捉われた私は、床の下で、ずっとその機会を狙うようになっていた。
照玄を殺す機会を……
照玄さえ居なくなれば、私がこれほど苦しむ事はなかった。心の奥底で燃え盛る業炎。業火の中で雄叫ぶ悪鬼。私は狂気に支配された。
チャンスは思いの外、早く訪れた。
冬の日、粉雪が降り続く中、私は床の下で息を殺していた。
三神家には照玄の他、誰もいない。鳥居は、照玄に買い出しを頼まれて出掛けたらしい。床の上に響く跫。このゆっくりとした跫は間違いなく照玄の物に違いはない。先ほど中庭からこの茶室を見た時、夜陰に浮かぶ障子襖のシルエットは確かに照玄の物であった。
昨日の内に、三神家の納屋から盗み出した日本刀を見据え、私は口元に弧を描いた。私が三神を首になったのも、全てはこの真剣のせいだ。皮肉にも私はその日本刀で復讐を果たそうとしている。
嘲笑うほかなかろう。私は刃を鞘から出した。鋼の刃が暗がりの中で剥き出しになった。輝くことを知らない、刃は、確かに床下で獲物を狙っている。あぁ、出来ることならば照玄の首を刎ねてやりたい。しかし、ここは敢えて一想いに串刺してやろう。
跫が遠のいていく。照玄は茶室を出たようだ。私は床下から彼の跫を追った。
跫が静止した。丁度、この上には照玄の寝室がある。私は刀の切先を床に向けた。物音が聴こえない。しかし、この上に何かが横たわっているような気配は間違いなくしている。私は全身に力を込め、切先で床を貫いた。一閃。銀色の刃が床、そして畳をも貫く――
「ぐわっ……」
低い声が響いた。照玄の断末魔の叫びだ。
私は誰にも聴こえないような声で嗤う。嗤う。
忌わしい鬼をようやく駆逐できたのだ。私は刀を突き刺したまま、床下を這いずり外へ出た。復讐は終わった。私は、照玄の亡骸見たさに三神家の裏口に回る。
影に潜み、照玄の寝室へと向かった。
寝室の前。私は物音が鳴らぬよう、ゆっくりと襖を開けた。
驚愕。私はその時に見た光景に絶句した。まさか。私は虚ろな貌で、ゆっくりと敷かれた布団の前に向かう。私が貫いたのは照玄ではなかったのだ。
視先の先――刀が突き刺さった乾漆製の阿修羅像が転がっている。それは照玄が大切にしていた骨董品の一つだった。
胸元から突き出た刀を私は寡黙に見据えていた。では、あの時に聴いた叫びは誰の物であったのか?私の胸に一つの疑問が湧いた。
ガタン……
唐突に物音が鳴った。誰だ?私は見返り、影に潜む者を捉えた。絶句。驚愕。そこには夜叉の如き形相を浮かべた鳥居が居たのだ。鳥居は照玄が普段纏っている寝巻きを着ていた。
鳥居は勢いよく私の躰を突き飛ばした。私の瘦せ細った躰は宙を舞う。そして、刀が突き刺された仏像の上へと倒れ込んだ――
「ぐわっ……」
床下から突き出た刀が私の胸を貫く。真紅の血液が、布団に染み込んでいく。死に際に鳥居が放った言葉を聞いて、私は全てを悟った。
――人の邪魔をするな。照玄の財産は全て僕の物だ――
鳥居もまた私と同じように、照玄の宝を狙っていたのだ。
人の心ほど醜い物はない。地獄へと旅立ちの途中、私はずっとそのような事を考えていた。