俺が愛した死神と来世
布団に寝転がりっぱなしの体。窓から広がる水色のような空。動かない足。呼吸する度に上下に動く胸。暇だと思う、これら全てが俺の日常。
「つまらない」
薄く開いた唇で呟く。だけど返事をする者は誰もいない。
前に手を伸ばした。力なく広げた手の平。当然それは天井には届かず、スグに布団の上に落とした。衝撃で二の腕が揺れる。この天井の色も、見飽きた。
「おやすみ」
目を閉じる。疲れてはいないが、何もできないのなら眠ろうと思った。どうせ、目が覚めても何も変わらない。
十一年前、事故で脹ら脛から下を無くした。この両足では歩行することもままならない。専用の義足を嵌めて、倒れた時用の杖を用意するとか色々と準備が面倒。それでも義務教育が終わるまでは車いすで通った。
それに加えて、人よりも骨が脆い体質だから、転けただけで簡単に骨折してしまう厄介な体。ドッジボールで当たったボールが骨を折り、肺に突き刺さったこともある。子供ながらに、あれは死ぬかと思った。
結局、こうして寝ている方が安全。誰にも迷惑をかけずに済むし。
いっそのこと、首の骨を折って死んでしまえば楽になるだろうか。…いや、そうしたら両親が悲しむな。あの人達の了承無しで勝手に命を終わらせてはいけない。俺の命は、二人のモノだ。
二十五年間、大事に育ててくれた両親。この体では恩返しはできないけど、まあ仕方ない。あの人達も望んでいないだろうし。
昔から沢山の愛情を私に向けてくれていた。それを昔から“周りとは違う”と理解していながら、それに応えようと頑張っていた。
事故の時、報告を受けた母は気絶。父は泣きながら加害者を殴りながら怒鳴り散らしていた。
『俺の子供に何してくれたんだ』
『あの子の未来をお前が奪った』
『大切に大切に育ててたのに、お前がぶち壊したんだ』
『あの子に謝れ、あの子代わりに足を寄越せ』
病院のベッドに横たわり、廊下から聞こえる父の怒声と加害者の涙声を遠くに聞いていた。
それから、両親が壊れていく様を静かに見守った。
事故以来ますます過保護になる両親。送り迎えは母の車。学校以外は殆ど外出は許されず、友達と遊ぶにも親の同伴。リハビリやマッサージも熱心に付き合ってくれ、退屈しないよう常に話しかけてくれた。父は更に仕事を頑張り家に帰る回数は減ったが、家にいる時は優しく接してくれた。
体以外は何不自由ない生活。優しい両親。ただ、俺を見る二人の目が虚ろだったことを除けば、外見は幸せな家庭。だから見て見ぬフリをし続けた。
そして、緩やかに壊れていった。両親も、俺の精神も。
―その結果がコレだ。
鳥籠のような離れに隔離され、食事は母屋から母が運ぶ。何かあれば枕元の携帯で母屋に電話。風呂やトイレは父が運んで、たまに話しに離れに現れる両親。
大学を行くのを止めさせられ、働くことも許されず、寝たきりの退屈な毎日。携帯電話も両親と家の電話番号だけ。友達のは消されてしまった。
全て決められた日、俺は何も言わなかった。今も昔も俺にとって両親が“絶対”だったから。ゆっくりと現状を受け入れるだけ。ただ両親の言葉に頷くだけで平和は保たれる。
誰にも見られないように。誰にも触らせないように。宝物のように隠して、大切に大切に育てられる。
この状況も悪くはないさ。自由はないけど。
バサ、バサバサッ
半分開けた窓から吹き抜けた風がカーテンを揺らして遊ぶ。そういえば母が開けていたな。その音に閉じていた目をそっと開けた。
視界にはオレンジ色の世界と、大きな鎌を持った黒いローブの死神。
幼い少年の容姿をした死神は顔馴染みで、両親以外の唯一の接触者。
パサ
フードを下ろし、軽く頭を振る。そして良く出来た作り笑いを俺に向けた。小さな口が丁寧な言葉遣いで喋る。
「今日は。相変わらず生気のない顔ですね」
「今日は。ああ、鏡は無いがきっとそんな顔をしているだろう。
君は何しに此処へ?」
「手配されたリストに載った人間の下見です。毎回同じこのやり取りをしてますが、後何回続ければ良いのでしょうか?」
「わからないな」
真っ直ぐ切り揃えられた前髪の下、少年の笑顔が少しだけ不機嫌そうに変化する。尖らせた唇はまるで子供のようで、けれど二階の窓から音もなく現れる人じゃない者という現実。
人は死が隣り合わせだと大抵のことは難なく受け入れられるらしい。その証拠に、この死神が現れた時も俺は冷静だった。
夕暮れの丁度この時間帯、少年は突然現れた。今日と同じ場所に、同じ格好で。
ぼんやりと橙に染まった雲を眺めていると、瞬きした一瞬で少年が現れた。
此処は二階。屋根も無ければ、登れる木もない。しかし、物音は一つもしなかった。
『…』
そのことに驚かない冷静な自分がいた。そして反対に喜んでいる自分がいることにも気づいていた。
『……』
何も言わずに見詰める黒い瞳は氷のように冷めており、眉一つ動かさない幼い顔。子供の無表情とはこんなにも寂しいモノなのか、と感じさせられた。少しだけつり上がった目は真っ直ぐ自分に向けられ、一ミリも外さない。
喋る気配がない子供は黒いローブに身を包み、背には俺の背丈以上の大きな鎌を携えていた。
多分、この少年は死神なのだろう、と悟った。そのことに怯えも恐怖も疑問もなく、まるで瞬きをするように自然に受け止めた。
ヒュウウ
冷たい風が少年の結んだ髪を揺らす。頬を撫でる風は冷たい。
暫くの間、死神との時間を過ごした。お互い何も言わなかったが、数年ぶりの来訪者に俺はまだ生きていることを自覚させられた。布団に横たわり、同じような毎日を繰り返していると生きているのか死んでいるのかもわからなくなる。命を狙う死神だとしても、俺は少年に感謝していた。
喋りかけてもよかったが、この空間を壊すのは気が引けて結局一言も話しかけれない時間だけが過ぎる。
ずっと同じ方向に向けていた目が疲れたので、少しだけ休もうと仰向けに身動ぎ、目を閉じる。少年が帰らないか心配だったが、その時はその時だと半分諦めていた。
カタ
少年がいた窓側から聞こえた物音にそっと顔を動かせば、少年が背を向けていた。帰るところなのか、フードを深く被り直している。
帰ってしまうのか。一期一会になるのなら、話しかければよかった。なら、声をかけてみよう。
少年がいなくなるのが勿体無くて、寂しくて、思い切って声を掛けてみた。独りに戻りたくなかったんだ。
『待ってくれないか?』
『……』
ピク
小さな肩が揺れ、少年の動きが止まる。俺は上半身を起こし、座った状態で少年を見上げた。
振り向いた少年の顔は相変わらず冷めていたが、少しだけ不機嫌そうに感じられた。
『一般の方には私の姿は見えないはずですが、アナタは人間ですか?』
『死が近い人間は霊が見えやすいと本に載っていた。多分そのせいではないか?』
『そうですか。
それで、私にご用件があるのでは?』
『君と話したい、というのは理由になるか?』
淡々と語る言葉は事務的で、感情なんか一切必要ないという思いが伝わってくる。こんな見た目だけど、実は俺より年上じゃないだろうか?と悩ませる少年の大人びた雰囲気。落ち着いた態度もそれを裏付ける。
パサッ
フードを下ろした少年の顔は思ったよりも白く、死んだ祖母と同じ肌の色。生気を感じられない。足はローブに隠れて見えず、言い方を変えれば“見え無い”のかもしれない。少年の体で曝されているのは顔から首、後は両手だけ。ローブの中は何も見え無い。
死神ならあり得るな。と思いつつ、何か話題がないか思案する。此処には『地震があると危ないから』と言われ、本棚も箪笥も無い。あるのは布団と一つの窓、携帯電話、扉付近に義足と杖。後は全く。此処で日々を暮らす自分も寂しい部屋だと思うくらいだ。
ま、元々雑誌とかは友人に見せてもらう程度だったから不満はない。ただ、専門書や辞典、漫画はイタかったな。辞典だけでも暇潰しにはもってこいの本になる。
『ハァ』
うーん、と悩んでいると向こうからため息が一つ。呆れた顔で空を眺めていた。
随分長い間一人にさせてしまったから暇だったのか。悪いことをしてしまった。けど、こうやって待ってくれる辺り付き合いは悪くない子のようだ。早くしないと、と焦るがとっくに浮かんでたら苦労しない。
これ以上待たせても仕方ないので、パッと浮かんだ話題を口にしてみた。そういや他人と話すのって何年ぶりだろう。
『君は俺を殺しに来たのか?』
『いえ、違います』
コレが始めての会話。何とも味気ないモノだが、多少緊張していたから大目にみてもらいたい。誰に対してかは言わないけど。
それから少し話をして、死神は帰って行った。今度また会ってもらう約束をした。それが凄く楽しみで、ピクニック前の子供のように早く寝た記憶がある。誰かと未来を約束することが嬉しかった。
そうして死神はちょくちょく顔を見せに訪れてくれた。流石に毎日は無理だが、独りでいるのが前よりもつまらなくなくなった。大きな変化だ。
少年がいない間、どのような話をしようか、今日は来てくれるだろうか、どんな話を聞かせてくれるのだろうか、と少年のことを考えるだけで時間は潰せた。両親に物を頼むことも増えた。
今では布団から離れた部屋の隅に小さな本棚を置いてもらい、中には辞書や専門書が入っている。新品じゃなく元々俺の物だった本だけど。
クッションも置いてもらった。本を読むときに腰が痛くなるから、というのは口実。本当は少年が訪問した時に座ってもらおうと思ったからだ。
骨を折らない程度にストレッチをするようになった。一階は誰もいないから遠慮なくでき、筋肉の老化を少しでも防ごうと思ったからだ。両親が他界した時は自力で生きねばならないし。ただ、持続はできないけれど。
お菓子をコッソリ隠すようになった。たまに母が運んでくれるお菓子を布団の中に隠して、死神が来た時に一緒に食べようとワクワクしている。あの子は飴が好きらしいから、飴が出ないか毎回ワクワクしていたりする。
そうやって少年を喜ばせようとしているつまらなかった日々は色を魅せる。両親は俺の変化に疑問を抱かなかったが、明るくなったことに寧ろ喜んでいた。
――でも、たまにこうやって無気力になる。枕元のクッションに腰掛けで見下ろす死神が触れる手は冷たく、でも瞳は前よりは温かくなった気がする。作り笑いしたり拗ねたりと少年の表情が増え、窓際じゃなくこうやって手が届く距離まで近づいてくれる。
こんなに近いのに、俺達は互いの名を知らない。今更っていうのもあるが、何となく聞けない雰囲気なんだ。複雑。
鎖骨をなぞる小さな手に自分の骨張った手を重ね、少年に微笑む。
「手、冷たいな」
「死神ですから。体温は無いに等しいです」
「そうか。でも、君が触れると安心するよ」
「……そうですか」
「うん」
粉雪を掬うように優しく握り、手の平にそっと唇を押し付ける。肌や指先よりも、唇や舌の方が敏感で伝わりやすいやすい、と本に載っていた。流石に舐めることはしないけど、唇で触れる行為は好きだ。誰かが本当に此処にいてくれると直に伝わる体温が教えてくれているようで、傍にいてくれていることに安堵できる。
俺が知らないところであの鎌を振るい、多くの血を染み込ませた冷たいこの手が、自分の体温に染まれば良いのに。猫のように頬を擦り寄せ、言葉にしない願いを込める。
下唇を噛み、されるがままだった少年がボソッと嫌味を零す。それさえ心地好く思える俺はそろそろ末期かもしれない。
「…タラシですね」
「君以外誰にもしたことないよ」
「確かに、その体やあの親では、慕う相手に思いを告げることさえ無理でしょうね」
「うん、そうだね」
「…何故、反論しないんですか」
「それが事実だから」
「怒ればいいじゃないですか」
「君は優しいね」
「そういうことじゃありません!」
ギュッ
黒いローブを握り締める手が震えている。今にも泣きそうな顔を更に歪めて、離さないように強く、骨が折れないよう優しく、俺の手をまるで祈るように両手で包む少年が…愛しい。
不器用な優しさが、何も言わずに受け入れてくれるこの手が、退屈しないように話してくれるこの唇が、俺のせいでグチャグチャによごれた顔が、この子の心が好きだ。
誰かに思われるという貴重なことを、窓の向こうに広がる世界を、様々なことを教えてくれるこの少年を大切にしたいと強く思う。
だから、君を傷つけることなんかできないんだ。怒る理由も無いんだ。君が気にすることは一つも無いんだよ。
俺のことを思ってくれてるのなら、どうか生きている間に、一度で良いから 笑ってくれ。
泣いている顔は苦手だからさ。ね?頼むよ。
降り注ぐ雨に近づき、少年の肩に額を当てる。逃げないようにローブを摘まみ、そっと目を閉じる。
「俺さ、最近夢ができたんだ。大きな夢」
「……」
返事はない。ズズッと鼻を啜る音が近くに聞こえる。構わずに続けた。
「生まれ変わったらさ、悪魔になる。悪魔になって自由に世界を飛び回る」
「それなら、天使でも鳥獣族でもいいじゃないですか。何でよりによって悪魔に…」
「悪魔じゃなきゃ駄目だ、駄目なんだ」
体を一旦離し、少年を見上げる形になる。手の平で目を擦る手を取り、コツンと額を当てた。少年の顔が近い。そのことに小さく笑った。
反対に不機嫌そうに頬を膨らませるが、その顔も可愛いと言ったら怒られそうなので黙っておこう。スリと額を擦り合わせ囁くように言葉を、思いを紡ぐ。
「悪魔なら、死神の隣に長くいられるだろう?今の俺よりも丈夫だし、何処へでも一緒に行ける。それって、素敵な“来世”じゃないか?」
「ら…い、せ?」
見開かれた瞳は驚きを露にしていて、小さく開いた唇が乾いている。カタカタと震え始めた体を抱き締めて、耳元でそっと囁く。
「忘れないで、俺の名前は[木葉]。覚えていてね。
今までありがとう」
離れる体温。動かない人形のような少年。長い黒髪を一撫でし、布団から這い出た。目指すは、義足と杖。
ドンッ!
カチャカチャと手慣れた手つきでそれを嵌めていると、不意に背中に衝撃が走る。骨は折れなかったけど、ヒビくらい入ったかもしれない。あー痛いかも。いや、痛い。でも離せない。
小さいそれは縋るように背中に抱き着き、服に皺がつくくらい強く強く俺にしがみつく。
「…今夜、何が起こるか知っていたのですか?」
掠れた声。今まで聞いたどの声よりも低く、悲しげな音。義足を装着し終え、ポンと回された手を優しく叩く。
「何となくね。父もあの日以来狂ったように働き過ぎて、今じゃあんなに痩せこけてしまった。一目見て何時死んでも可笑しくない状態だ。覚悟はしていたさ」
「なら!どうして私が来た時に追い返したりしなかったんですか!?見えていたアナタなら、私を足止めしたり、近づけさせないようにしたりできたはず!!なのに、なのになんで…」
「あはは、そんなことしないよ」
ズピズピ涙や鼻を啜る音が子供らしくて思わず笑ってしまった。きっと背中の服はびしょびしょだろう。笑うしかない。
タンタンタン
扉の向こうから母が階段を上る音が聞こえる。外はもう暗い。携帯電話で時間を確認すると晩御飯の時間帯。晩御飯を運んでくれたのか、それとも…別のことか。
「君、もうすぐだよ…いや、もう始まってるのかな」
「いや、イヤだ、嫌です、何で?折角知り合えたのに、どうして?何で?落ち着いてられるの?笑ってられるの?わからない、死ぬんですよ?アナタこれから死ぬんですよ?どうして、どうしてですか、どうしてですかっ!?」
「『アナタ』なんて他人行儀だなぁ。最期くらい名前で呼んでよ」
別に死ぬのが怖い訳ではない。だって手が尋常じゃないレベルで震えているし。
本当は、もう少し少年との日々を味わいたかった。笑いあいたかった。寄り添いたかった。ずっと触れていたかった。二人で、一緒に生きたかった。
この数ヶ月間、とても楽しかった。この少年といれば、壊れた自分が普通の人間になれるんじゃないかと思えるくらい。まるで最後の幸せを凝縮したような毎日だった。
しかし、人生楽しいことばかりじゃない。楽しいことにも終わりはついてくる。
コンコン
控え目なノック。後ろで少年が息を飲むのがわかった。痛いくらい握る手を包み、安心させるように笑いかけてやる。
「さっき、自分をヒールにして終わらせようとしてくれたね。俺が君を憎んで、嫌って、もう二度と会いたくないと思わせるように。憎しみで生き続けるように」
「そんな、こと…」
俯いて頭を左右に振る少年の体を優しく抱き寄せる。胸に頭を押し付けて表情は見れないけれど、これだけで充分幸せ。
コンコン
ノックの音を無視して、泣いている子供をあやすように少年の背中をポンポンと一定のリズムで叩く。天井を見上げて苦笑混じりに喋る。この見飽きた天井ともおさらばだ。だから、言いたいことは今のうちに言っておかないと。
「でも、君は馬鹿だな。俺がそんなことで君を嫌うわけないよ。父が殺されたとしても、俺は君を恨まない。運命だったんだ、仕方ない」
「何で、いま、そんな話を…」
やっと顔を上げた。不安の色を浮かべる瞳に八の字に下がった眉。結局最後まで笑顔は見れなかったけれど、来世に期待しよう。
ギイィィ
後ろの扉が開く。唯一後ろを見れる少年が目を見張らせる。わなわなと震える唇が何かを伝えようとするが、精一杯の笑顔で首を横に振った。大粒の涙を溢れさせる少年の視界を手で覆い、顔だけ近づける。
「ありがとう。最後の最後まで君は優しかった。最後に一つだけ、君にお願いがあるんだけど…きいてもらえる?」
「な、んです、か?」
「キスして、いい?」
バタン
後ろで扉が閉まる音がした。きっと俺の残り時間は後僅か。
「…はい」
小さな小さな了承の言葉。きっとわかってくれたんだ。キスする意味を、命の灯火が消える寸前だってことを。
「ありがとう、少年」
「雫、です。雫という、名前です」
「…はは、やっとお互いの自己紹介ができたね。
雫、短い間だったけど幸せだった。ありがとう」
この子が、雫が俺といた時間を忘れないように、今までの感謝を込めて唇を重ねた。初めてのキスは冷たく、柔らかかった。しょっぱい味がしたのはきっと涙のせい。
ドスッ
この感触を味わえた刹那、激痛が全身を襲う。背中には、母が握った包丁。
「また、ね」
離れる唇。崩れ落ちる体。最後に見た雫の表情。血濡れた包丁で自分の首を刺す母の横顔。
最後の力を振り絞って雫に手を伸ばしたけれど、届く前に世界は暗転した。
さようなら、雫。
━━あれから数百年後。
此処は地獄界。悪魔や死神、魔族や下僕の人間などがいる地の底に広がる世界。
弱肉強食が当たり前で、弱い奴は食われるか、隠れるか、強い奴に従うしか生きる方法はない。
その地獄界の端にある断崖。そこに腰掛けるのは、髪を短くした雫。
「フゥ」
つまらなそうに頬杖をつき、ため息ばかり漏らしている。周りには何者もおらず、一者だけのようだ。
カラン
小石が転がる音。何者かが雫に近づくが全く警戒していない。それもその筈で、死神のランクは地獄界では上位に入るほど。弱者に背後を許しても簡単に殺せるからだ。
ペタ、ペタ、
一歩一歩、ゆっくりと、地面を確かめるような足取りで雫に近づく足音。独りになりたかった雫にとっては雑音にしかならない。振り返ることなく後ろの者に忠告する。
「今は誰かの相手をする気分ではございません。お引き取りください」
ペタ
雫の言葉に足音が止まる。
「……」
「……」
しかし、幾ら時間が経っても引き返す気配すらなく、雫のイライラは急上昇。手にした鎌を握る手にも力が入る。
「雫、会いに来た」
聞き覚えのない声。遂に死神に喧嘩を売る馬鹿者まで現れたかと雫の額に青筋が浮かぶ。
いっそのこと殺してやろうか、と禍々しいオーラを放つ小さな背中に、また一歩足音が近づく。
「約束、果たすの遅くなってごめん。悪魔になれたはいいけど、生き延びたり力をつけるのに忙しかったんだ」
何だ、相手は悪魔か。自分より弱い相手に肺の奥から盛大なため息を吐き出した。小癪な手を使って倒そうとする輩も現れたものだな、と呆れている間に二者の距離はたったの一メートルに。
「俺が『来世は悪魔になる』って言ったの覚えてない?」
「一体何時の話ですか。身に覚えがありま」
最後まで言えなかった。懐かしい記憶が、温かい日々が甦る。
殺風景な部屋、粗末な布団、夕暮れの空、迎える声、嫌味を言う自分、優しく笑う…あの人。
『悪魔になったら今よりもずっと傍にいられるだろ』
ああ、確かにあの人はそう言った。傍にいたいと言ってくれた。最後に口に触れたあの感触を、まだ自分の体は覚えている。
「木葉、さん?」
確かめるように愛しき人の名を呼んだ。振り返ると、容姿は違うけれど…あの優しい眼差しは同じだ。
「お待たせ、雫」
「ホントに…何時まで待たせるつもりだったんですか」
ありがとうございました。